第5話

 翌日、俺は講義を終えてサークルの部室にいた。結局昨日はサキさんとメッセージのやりとりを終えたあとも、悶々としたままベッドの上で丸くなっていた。

 気にしないようにしても、やはりあの一言が心のどこかに突き刺さっていて、傷を作ってしまったのだろう。その傷が気になってたまらなくなってしまった俺は、少し考えては止め、また考えては止めを繰り返して、まともに眠れず朝を迎えた。しかし眠気もそれほど無く、むしろ冴えている感じだったので、いつもどおり準備をして大学へとやってきていたのだった。

「おっす」

 窓際の席でぼーっと外を眺めていると、部室に内藤がやってきた。なんだか昨日から引き続き元気そうだ。俺の隣に座るといつものニコニコなのかニヤニヤなのか分からない笑顔で俺の顔を見つめてきた。

「昨日はどーも」

「こちらこそどーも」

 内藤は背負っていたバックパックを隣の空いた席に置く。そして一息ついてから話し始めた。

「いやいや、何と言うか、思ったより楽しかったよ」

「思ったよりって、お前なあ」

「だってダブルデートなんてそうそう出来るもんじゃないし、正直未知数だった。けど上手くいって何よりだね」

 俺は思わずため息を吐いてしまう。よく分からないけど、とりあえずやってみようでやっていたのかと、少し呆れる。

「まあな……とりあえずは上手くいったな」

「へへっ、『終わり良ければ総て良し』だね」

 そう言って笑う内藤。それもそうかと俺もつられて笑った。

「サキさんも楽しかったってよ」

「愛も楽しんだってさ」

 愛さん。その名前に俺は嫌でも反応してしまう。昨日のあの一言が、未だに俺に突き刺さっている。何か伝えていないだろうか。俺はそれとなく、内藤に問いかけてみる。

「愛さん、何か言ってた?」

「ん、ああ、帰りで又木と結構話せて楽しかったって言ってたよ」

「……そっか」

「何か変なこと吹きこまなかったよね?」

「お前は変わっちまったってことを話したよ」

 俺はテーブルの上に置きっぱなしにしていたお茶のペットボトルの蓋を開けると、ゆっくりと飲む。やはりと言ってはなんだが、昨日のあの言葉の意味するところは内藤には言っていないようだ。

「今日は何か持ってきてないのか、レコード」

「ん? そういえばこの前愛から貸してもらったCDが入ったままだな」

「愛さんってCDも聴くのか?」

「おいおい、彼女をなんだと思ってるんだよ……」

 結構意外な一言だった。レコード好きと言う事だから、てっきりアナログで揃えているのかとばかり思っていた

「一般的な音楽好きな人と変わらん位には持ってるよ、CD」

「へえ、そうなんだな」

 サブスクリプションが流行りのこのご時世、フィジカルメディアで揃えているだけでも結構なマニアだと思うが。そんな彼女が彼にどんなCDを紹介したのか気になってしまう。

「で、何借りたんだよ?」

「スコットランドのバンドらしい」

「へえ、スコットランドねえ」

「愛も最近知ったらしくて、ドが付くくらいマイナーなバンドらしい」

「マジでどっから見つけてくるんだろうな……すげえや」

 内藤はカバンから白地に水色の線が縦に引かれ、「apb」とロゴが書かれたジャケットのCDを取り出した。ケース越しに見えるジャケットのへたれ具合を見るに、結構年季が入っているようだ。

 曲をかけると、何ともファンクなベースが響くポストパンクといった感じで、結構個人的には好みのバンドだった。特に一曲目。このベースはかなりいい。ただ、当の内藤はあまりピンとこなかったらしく、眉間にシワを寄せながら聴いていた。

「なあ、これ聴くならGANG OF FOUR聴けば良くないか?」

「いやいや、このベースが特徴的でまたいいじゃん。GANG OF FOURとはまた違うと思うけどなぁ、あっちはギター、こっちはベースよ」

「ふーん、なるほどねえ」

 そうして曲を聴いていると、部室のドアが開く音がした。

 思わず俺たちがそちらの方を見ると高良がいた。彼は頭から水でも被ったのかというくらい、ビショビショに濡れている。

「うはっ、めっちゃ濡れたわ」

 そう言いながら手で身体に付いた水滴を払う高良。その行為が意味をなさないくらいにはずぶ濡れだったが、気分的な問題だろう。こちらには放り投げてやるタオルもないので、ただ眺めることしか出来なかった。

「雨降ってるの?」

 内藤が座りながら高良に問いかける。

「おう、そりゃもう、バッチリ降ってるぜ」

 身体を拭く手を止め、身振り手振りでいかに雨が大降りだったかを伝えてくる高良。その動きがコメディチックで何だか面白く、俺と内藤は二人で笑った。

「マジで結構降ってるんだって!」

「いや、分かったけどさ、その動きは面白すぎる」

「ネタでやってんのかと思ったよ」

 そしてまた笑う俺たちを見て、高良は眉間にシワを寄せ、不満げな表情を浮かべた。

「あーあー、いいよ、じゃあもう教えてやらねえからな、お前ら」

「悪かったって、そんな怒るなよ」

 そう言って俺はカバンの中から取り出したチョコレートを高良に投げ渡す。緩い弧を描いて飛んでいったチョコレートは、上手いことキャッチされた。

「夏の雨って本当に嫌いだよ」

 チョコレートの包み紙を開けながら高良は話し続ける。

「気まぐれで、いきなり沢山降ってくるし、ジメジメするし……」

「何より俺が嫌いなのは、これが風情だなんて持て囃される事だよ」

 チョコレートをポイッと口に放り込み、包み紙を丸める高良。そしてゴミ箱へと丸めたそれを投げ捨てた。

「大嫌いだ夏なんて!」

「まあ落ち着けよ、またチョコやるからさ」

 こちらへと寄ってきた高良に俺は追加でチョコレートを手渡した。それを見て彼は少しキョトンとした顔でこちらを見つめてきた。

「お前なんか今日は準備いいな」

「なんか知らねえけどカバンにチョコがあったんだよ、黙って食っとけ」

「……おい待て、得体の知れないチョコを俺に食わせてたのか?」

「……まぁ、そうだな?」

 それを聞くとゲーっという表情を浮かべ、わざとらしく吐き出す真似をしてみせる高良。俺と内藤はまた笑った。高良は「笑うな笑うな」と言って俺たちを手で振り払う。

「あーあ、もう最悪だよ、雨に濡れるわ得体の知れないチョコレートを食わされるわ……」

「災難だな、お前も」

 俺は高良の肩に軽く手を置く。それに同調するように彼は肩を落とした。

「全くだよ! あーあ!」

「まあまあ、最近はどうなの? 調子いかが?」

 そう言って割って入ってくる内藤。高良は肩を落としたまま、力なく首を振った。

「もうダメだね、全然ダメ。全滅って言っていいわ」

「そんなにか」

「おうよ、もう全くだね。だから俺免許取ってる」

 これまた突拍子も無い事を言い始めた。というよりまだ持ってなかったのかという驚きが勝った。

「あれ、まだ持ってなかったんだ? 免許」

「えっ、むしろ持ってるのお前ら?」

「地元じゃ持っていないと人間扱いされないからな」

「同じく」

 俺たちが財布の中から免許を取り出して見せると、高良は深いため息をついた。

「なんだよお前ら、取ったなら言ってくれよ……」

「いや、誰でも取るもんだと思ってたから特別言う気も無かったけどな……」

「お前、そう言って女が出来ても『当たり前だと思って……』とか言って俺に言わねえんだろ、分かるぞ」

 その言葉を聞いてギクリとした俺だった。でもまだ付き合ってないしセーフだ。なんて言い訳を心の中でする。そんな内心を知ってか知らずか、高良は饒舌に話し続ける。

「まあいいや、車はもうあるから。あとは取るだけなんだよな、俺が」

「車買ってもらったの?」

「親が現物あった方が目標になっていいだろって……」

「流石金持ちだね」

 いつの間にか取り出していたスナック菓子を食べながら、内藤は心底羨ましそうな目で高良を見ていた。

「いやでも中古だし」

「新車乗られてたらマジで嫉妬するし、それでいいよ」

 俺は内藤の菓子をひょいと掴み、口へ運ぶ。それを見て「おい」と内藤は言うが、止めようとはしないのでつまみ食いは容認しているみたいだ。

「それにしても車は羨ましい」

「俺が免許取ったらみんなでドライブでも行こうや」

「死なない程度に運転してな」

「任せておけよ……安全運転の高良に全てな……」

「死ぬほどカッコ悪い二つ名だな」

 そう言ってゲラゲラと笑う俺達。高良は自分のカバンを椅子の上に放り投げ、俺たちの近くの椅子に勢いよく座る。近くで見ると髪も服も結構ずぶ濡れだった。

「そういえばGMCの飲み会やるらしいぞ」

「は? 今の時期に? どうしてまた」

「知らね。何となくなんじゃね?」

 濡れて張り付いている前髪を上げる高良。短髪のくせにいつも前髪を神経質そうに弄っているが、こいつは何も気にせず前髪を上げている時の方が似合っているように見える。

「いつやんの?」

「まだ決まってねーけどそのうちだってさ」

「今年の新入生とあんま話せてないから楽しみだね」

 そう言ってスナック菓子を口へひょいっと放り込む内藤。俺はちらりと少し開いた窓の外を見る。まだ外では雨が降り続き、じっとりと夏の空気を湿気らせていく。その湿気た空気が開いた窓から流れ込み、身体にまとわりつく。まるで遊んでとせがむ子供のように。雨の止む気配は未だになかった。


 あの動物園でのダブルデート以降、俺とサキさんは、結構頻繁に出会うようになった。週末には大体会おうというメッセージが飛んでくるし、時には金曜の夜とかに来るときもあった。もちろん俺もメッセージは送っていた。

 行く先は様々で、例えばディナーやランチだったりする時もあるし、少し遠出する時もあった。遠出する時、俺はサキさんの車に乗せてもらっている。結構年季の入った中古のラパンに揺られ、郊外のアウトレットやカフェなどでゆっくりと過ごす事が多かった。

「君と一緒にいると楽しいよ」

 彼女が口癖のように呟くこの言葉を聞く度、俺は嬉しくてたまらなかった。もう後は、いつ彼女に気持ちを伝えようかと、そればかり考えていた。

 日曜の今日もサキさんとランチの予定が控えていた俺は、早目に中心街に出てくると、例のごとく駅のトイレの鏡で髪の毛を弄っていた。今朝はちゃんと早く起きてしっかりセットしたし、服装も最近買ったばかりのピシッとしたものを着てきた。何だか出会う回数を重ねるたび、身だしなみが整ってきているような気がする。別に最初出会ったときもキチンとしてきたつもりだが、心構えというか、そういった意識の面が全然変わってきた。意識するからこそ、そういった部分、特に細部が気になって仕方なくなるのだ。

「よしっと」

 鏡の前で確認を終えて一言呟くと、俺はトイレから出て、駅前の男性の彫刻へと向かう。その場所は、最初にサキさんと出会った場所。どこで待ち合わせするか問うと、とりあえずここでと言われる事が続き、今では『いつものところ』で通じるようになっていた。

 俺はその『いつものところ』でしばらく待つ。待ち合わせ一四分前だからまだ来ないだろう。彫刻の前に立ち、一息ついたところでスマートフォンのバイブが鳴った。誰からかと画面を確認すると、GMCのグループメッセージだった。

『☆緊急開催☆GMC飲み会 今週土曜一九時から「さくらや」にて、緊急飲み会を開催!出欠の確認はいつも通りアプリからよろしくお願いします。急ですが予約の都合もあるので明日まで連絡ください』

 本当に急な連絡で面食らったが、今週の土曜は特に予定も無く暇なはずだ。俺はそのままアプリで『参加』の方にチェックを入れて、またスマートフォンをしまい込む。そして顔を上げると、目の前に見知った人が立っていた。

「よっ、又木君」

 相変わらずのミディアムヘアに、ネイビーのフリルカットソー、白のハイウエストパンツ姿のサキさんがそこにいた。

「どーも」

 あの動物園デート以降、俺の事は『又木君』呼びになった。最初こそあだ名の『ケケ』呼びだったが、俺がやめてほしいと懇願して、渋々やめてもらった。

 どうせなら下の名前の『謙佑』で呼んでほしいとそれとなく言ってみた事があるのだが、どうもしっくりこないらしく、そのまま『又木君』呼びが定着してしまった。俺も『美咲さん』と呼ぶことにしっくりこない。『伊藤さん』だと距離を感じてしまうし、ちゃん付けは流石に無い。結局『美咲さん』が一番良かった。けれど未だに『サキさん』呼びが一番落ち着くというか、安定感があるような気がしている。本人はどちらで呼ばれても気にしないようだが、自分の中でそのうち決めなきゃいけないなと思っていた。

「じゃあ行きますか」

 そう言って歩きはじめるサキさん。俺はその後にゆっくりとついていく。デートの行先は、俺とサキさん半々で決めていた。別にそうしようと決めたわけでは無く、自然の成り行きでこうなった。

「今日は何食べんの?」

「んー、冷製パスタでも食べようかなって」

「いいね、暑いし」

 最近では日差しが強烈になってきている。そろそろ梅雨が明けて本格的な夏が到来するのだろう。いや、もう既に夏は始まっているのに、気が付いていないだけかもしれない

「今日はこっち?」

「うん、最近見つけたんだ」

 中心街の駅から一〇分ちょっと歩いた先、上蔵寺通りにやってくると、サキさんは迷うことなくスルスルと目的の店へと向かっていく。

相変わらずだが目的が定まっている時のサキさんは歩く速度が早い。移動している時は着いていくので精一杯になる。ゆっくりお話しながら歩いた記憶は、サキさん主導のときはほとんど無い。本人も気にしているようで、「早かったら言ってね」とは言っているのだが、中々改善しない所を見ると、最早その速度が染み付いてしまっていて抜けないのだろう。それはしょうがない事だし、最早一つの癖として捉えるべきなのだろうと思っている。

「着いた!」

 そんなサキさんが案内してくれた場所は、入り口に看板が掛かっているだけのシンプルな外装のお店だった。中に入ると北欧風といえばいいのだろうか、白を基調とした内装に、天然木をふんだんに使っているであろう椅子やテーブルが整然と並んでいる、そんな店内だった。

 席に案内されて、メニューをざっと眺める。この時期ということもあって、冷製パスタや冷たいドリンクが別紙で推されていた。しばらく考えた後、俺は『完熟トマトの冷製アラビアータ』と『アイスコーヒー』を、サキさんは『スモークサーモンとアボカドの冷製パスタ』と『アイスカフェラテ』を注文した。そして店員が注文を聞いて下がっていくと同時に、サキさんが口を開く。

「涼しいねえ」

 店内はよく冷房が効いていた。人によっては寒いのではないかと思える程度には冷えていた。

「今日みたいな暑い日にはいいよね」

「家でもこれくらいエアコンで冷やしてみたいわ……」

 そう言いながら、足元の荷物入れのかごに入っていたブランケットを膝にかけるサキさん。やはり少し寒すぎるようだ。

「大丈夫? 少し冷房緩めてもらおうか?」

「平気平気、ブランケットあれば十分よ」

「ならいいけど」

 俺はコップの水を一口飲む。するとレモンの香りが口の中いっぱいに広がった。「なるほどこれがカフェにありがちだというレモン水か」と一人納得して飲む。爽やかなレモンの香りが鼻孔から抜けていき、夏の湿気った空気の中を通り過ぎていく。そして鮮やかなレモンの色彩が目に浮かぶ。

「ねえ、レモンって素敵よね」

 今の俺の思考を読み取ったかのような問いかけを、サキさんがしてきた。

「色も綺麗だし、香りもいいし、爆弾にもなるし……」

「おい、最後のはおかしいだろ」

 一瞬きょとんとした顔を浮かべたサキさん。しかしすぐに表情を戻すと、ニヤリと笑った。

「さては君、現代文は寝てたタイプだな?」

「え? 現代文?」

「『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた』……知らない?」

「うーん……全く」

 サキさんは俺の言葉を聞くとそれは愉快そうに笑った。あまりに笑われるものだから、俺の顔は軽く赤くなっていたと思う。

「そんな笑うこと無いだろ」

「ごめんごめん、皆教科書で通ってきてるもんだと思ってたからさ」

 サキさんはコップに入ったレモン水に口を付ける。そして一息ついてからまた話し始めた。

「さっきのは梶井基次郎の『檸檬』っていう小説の冒頭の一節ね」

「その話でレモンが爆弾になるの?」

「正確に言えば、爆弾に見立てたレモンを書店に置いてきただけだけどね」

「はあ、それで?」

「うん? レモンを置いて、その場から立ち去って終わりよ」

 それを聞いて俺は少しガクッとした。爆弾に見立てたレモンを書店に置いて終わりなんて、そんな終わりが許されていいのだろうか。せめて爆発して終えるべきじゃないのか。そうすれば色んな意味で綺麗な爆発オチだ。

「もっとなんか……こう……終わりっぽい終わりじゃないんだな」

「鬱屈とした心を、檸檬と言う美しさの象徴で解放する話なんじゃないかって私は思っているんだけどね。ま、短いながらも難しくて綺麗なお話なのよ『檸檬』は……」

 そんな事を話しているうちに、俺たちのテーブルにはパスタが運ばれてきた。二つ揃うと、いただきますと言って食事を始める。しばし俺たちの間には沈黙が流れた。時折カチャカチャと、皿にフォークが当たる音が聞こえた。

「あのさ」

 パスタを食べ始めて少し経った頃、沈黙を破ったのはサキさんだった。皿の上でフォークを使い、麺をクルクルと巻きながら話を続ける。

「次は私の家来ない?」

 俺はその言葉を聞いた瞬間、一瞬理解に時間がかかった。唐突過ぎて、いまいちピンとこなかったからだ。

「えっと……」

「家で何か食べながらお酒飲もう? 気楽でいいでしょ……」

 そうか、つまり家デートに誘われているのだと理解した瞬間、俺の心は踊った。

「そいつはいいね」

 俺は食い気味にオッケーを出す。それを見てサキさんはクスリと軽い笑みを浮かべた。

「又木君、随分ノリ気じゃないか」

「えっ、いや」

「女性の家に行けるのがそんなに嬉しいのかね?」

「そんな事ないけど」

 俺は精一杯とぼける。本当は嬉しくて堪らないくせに、こういうところでは強がるのが俺の悪い所であると、自覚はしている。

「じゃあやめよっか?」

「それは……嫌かな」

「素直に最初から行きたいって言いなさいよ」

「だってここでめっちゃ行きたい! なんて言ったらがっついてるみたいで嫌じゃん」

「男の子はがっつくくらいが丁度いいのよ」

 そう言ってサキさんは笑顔を浮かべながらパスタを一口食べた。そして「おいしい」と溢すように言った。

 その後俺達は適当な会話を続けながらパスタを食べた。そして食後のコーヒーを飲み終え、俺達は食後の会話もそこそこにすると、会計を済ませ、店の外に出る。

よく晴れた青空から強い日差しが俺達に降り注ぐ。アスファルトから昇る熱気と、湿度の高い空気が身体を包む。先程までの店内の涼しく、カラッとした空気が恋しくなる程度に、夏の空気が俺達へと襲いかかってきた。

「暑いね」

 呟くようにサキさんが言った。

「夏だからね」

 同じように俺も呟いた。

「ちょっと散歩しない?」

 返事を聞く前に、サキさんが俺の腕を引き歩き始める。俺は彼女にされるがまま、そのまま腕を引っ張られて歩くのだった。

 上蔵寺通りはケヤキ並木が特徴的な通りで、中央分離帯には二列のケヤキ並木の間に遊歩道が整備されている。俺達はそこをブラブラと歩く。しばらく歩き続けると、ベンチがあったのでそこに腰掛けた。ケヤキの葉によって日陰が生まれているこの場所では、体感として先程よりも気温が下がっているように思えた。

「日が当たらないだけでこんなに快適なのね」

「吹いてくる風も涼しい気がする」

 二人揃ってベンチでこの涼しさを感じていると、自分たちが座っている場所から少し離れた場所で、男性達が何やら準備をし始めた。よく見るとカメラを持った人と機材を準備する人、そしておそらくモデルであろう人の三人で打ち合わせの話し合いをしているようだった。

 ここ、上蔵寺通りはこの中心街の象徴的な場所で、よくこういった撮影などのスポットになっている。だからこういった景色は特別珍しい光景ではない。ベンチに座りながらボンヤリとその撮影の様子を眺めていると、モデルの人がこちらの方を見ているのが目に入った。

 あっ、と思った。特徴的な眉、そして高い背丈。いつぞやトイレでハンカチを拾ってくれた男だ。その事を話そうとサキさんの方を見ると、ギョッとした顔でその男の顔を見ていた。そして慌てた様子で立ち上がると、俺の腕を引っ張り、「行こう」と言い始める。

「どうしたんだよ、いきなり」

「いいから! 早く行こう!」

 いきなりの出来事に何事かと聞こうとしたその瞬間、「サキちゃん!」と呼ぶ声がした。誰かと思ってその声の方へ顔を向けると、モデルの人がこちらの方へ駆け寄ってきていた。サキさんは苦々しい表情を浮かべながら、そのやってくる男の事を見ていたが、近くまで来た瞬間、その場から立ち去ろうとした。逃げようとしたという表現の方が正しいかもしれない。

 しかしモデルの男はそれを逃がさなかった。慌てて走っていくとサキさんの右腕を掴み、「ちょっと待ってよ」と言って逃走を阻んだのだ。俺はその一連の流れを第三者として見つめている事しか出来ないでいた。

「やめて、離してよ」

「ダメだ、離さない」

「離して」と「離さない」、このやり取りがしばらく続いたが、最初に折れたのはサキさんだった。離してと言うのを止めると、わざとらしく大きなため息をついて、男の方をにらみつける。

「何なの? 私、今デートの真っ最中なんだけど」

 そう言ってサキさんが俺の方を見てきたので、俺は思わず反射的に頷いた。モデルの男は俺の方を見ると、怒るわけでもなく、ただなんとも悲しげな表情を浮かべ、憐れなものを見るような目でこちらを見てきた。

「良くない、こういうことはダメだ」

 サキさんの方へ向き直った男はそう言った。それは怒りや呆れの言葉と言うよりは、切々と説くような、そういった感じの口調だった。

「俺が悪かった、心からそう思ってる。けど人を巻き込むのは良くないだろ」

 そう言うと、モデルの男は優しくサキさんの肩に手を置いた。

「巻き込まれた方の気持ちになってみろよ、どうしようもない気持ちで一杯になるんだぞ」

「うるさいなぁ!」

 サキさんは声を荒げ、肩に置かれた手を払いのける。

「譲司、あんたのどの口がそんな事言うわけ? それに私は本気よ!」

 譲司と呼ばれたモデルの男は、それを聞くと怒るわけでもいらつきを見せるわけでもなく、何とも悲しげな表情を浮かべながら、サキさんの顔を見つめていた。

「もういいでしょ、離してよ。あんたと話すことなんか無いの」

 男は何かを言おうとして口を開きかけたが、俺の方を見るとすぐにつぐんだ。

「……分かった、そこの彼の手前もあるから、今は何も言わないでおくわ。けど、帰ったら連絡をくれ、話し合おう」

 男がそう言ってサキさんを掴んでいた手を離すと、彼女は脇目もふらずにツカツカと歩いて行ってしまった。一連の流れを見ている事しか出来なかった俺は、慌ててサキさんの後を追う。男とすれ違おうとした瞬間、俺は腕を掴まれる。一瞬、何かされるのかと思い身構えた。

「すまん、面倒見てやってくれ」

 それだけ言うと男は手を離し、俺の背中を優しく押した。俺は男の方を見ずに軽く頷くと、サキさんの元へと急いだ。サキさんとはまだそこまで距離は離れておらず、目視で後姿を捉えることが出来る位置だった。

 ただ、歩くのが早い。人がどこにいて、どう歩いてくるのかが読めてるのじゃないかと思うくらいに、スルスルと人混みの中を歩いていく。

 俺は何とかそれについていくように歩くが、彼女と中々距離を縮める事が出来ない。しかし、そんな彼女も信号では止まる。俺はそのチャンスを逃さないように、一気に距離を詰めた。そしてようやくサキさんに追いついた俺は、彼女の肩を掴む。しかしその瞬間、その手は振り払われた。

「しつこいな! 止めてって言ってるでしょ!」

 そう言って振り返り、俺の顔を見た瞬間、目を見開きハッとした表情を浮かべる。そして彼女は俺の払いのけた手を掴み、「ごめん」とすぐに謝った。

「あいつが追ってきたのかと思って……つい……」

「いや……大丈夫」

 俺は何を聞いていいのか分からなかった。サキさんも何を言っていいのか分からないのだろう。何を言うわけでも無く、少しうつむき加減で俺の手を握りしめたまま、その場に立っている。

「あのさ、とりあえず歩こうか?」

 そう言って俺は彼女の手を引き歩き始めた。彼女は、なされるがまま俺の後をついてくる。カフェから出た後とは逆の状況だ。

「なんかごめんね、こんな事になっちゃって」

 歩き始めてからしばらくすると、サキさんが口を開いた。その顔は見るからに元気が無く、明らかにいつもの彼女の様子では無かった。

「あの人は誰?」

 回りくどい事は一切抜きで、直接俺は問いかける。別に俺は怒っている訳でも、焦っているわけでも無かった。あのサキさんが、あそこまで感情をあらわにして怒り、否定した相手が誰なのかを、ただ単に聞きたい、それだけだった。

「友達だよ」

「本当にただの友達?」

「……うん」

「嘘つくなよ、あんな事を言う相手が普通の関係な訳ないだろ」

 俺が少しキツい口調でそう言った瞬間、一緒のペースで歩いていたサキさんの足が止まった。何事かと思い、俺は思わず彼女の顔を見る。すると彼女は涙を流していた。頬を伝うそれを拭う事もせず、静かにその場で立ち尽くしていた。

「……友達なのよ……」

「ごめん、そんな問い詰めるつもりじゃ……」

 俺はそれを見て、反射的に謝る。

「あれ? 何で泣いてんだろ私? おかしいね、アハハ……」

 そう言って笑みを浮かべるサキさん。けれども涙は止まらず、延々と流れ続けていた。俺はただ、その姿を見てはオロオロとしているだけの情けない存在だった。

「ごめん、今日帰るわ、私」

 彼女は踵を返し、駅の方へと歩き出した。当然俺も着いて行こうとする。が、しかし彼女は「ごめん、一人にして」と言って、俺を残し足早に立ち去っていく。そして一人残された俺は途方に暮れた。

 どうすればいいかなんて、全く、これっぽっちも分からなかった。

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