第3話
翌日の朝、俺は目を覚ました。どこでもない自分の部屋で、いつものように起きた。しばらくベッドの上で呆けながら、徐々に意識を取り戻す。そして俺は枕元に置いていたスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開く。そこには間違いなく「伊藤」の連絡先があり、あれは夢では無かったという事を再確認する。
時間を見るとそろそろ八時といった頃合いで、遅くに寝たのに案外目は覚めるものだなと感心していた。この前高良が言っていた「飲み過ぎると逆に寝れない」というのは事実かもしれない。今日は土曜日。けれど講義はある。とりあえず二限の講義まではいくらか時間があった。
軽くもう一眠りしようと枕元にスマートフォンを置き、ベッドに倒れ込んで微睡み始めたその瞬間、メッセージの着信を知らせる音が鳴った。タイミングの悪いときにこういうものは来るのだなと思いながら、俺は画面を見る。
差出人は「伊藤」。まさかのサキさんからだった。俺は慌ててメッセージを開く。
『おはよう。昨日は遅くまで付き合ってくれてありがとね。またそのうち遊ぼ。大学サボるなよ~!』
そして付け加えるように、あのアイコンにしていたよく分からない絵のスタンプ。何だか朝から満たされた気分になった。充足感というか何というか。俺はそのメッセージに返信する文章を考え始めた。
「おはよう、昨日はどーも……」
眠気は興奮によって、どこか彼方に吹っ飛んでいった。
返信を終えた後、いつも通り適当な服に袖を通す。そして具合の悪そうな天気の下、いつ降るかもしれない雨に怯えながら学校へと向かう。幸い今日は大丈夫だったみたいだ。
のらりくらりと二限の講義をこなす。相変わらず眠い話が続いた。果たして興味が持てる講義なんていうのは存在するものなのだろうか? でも、映像学概論は良かった。映画を見て感想を書くだけだったし。
そして講義を終えると昼飯を買いに大学生協へと向かう。吟味する間もなく奪い取られていく二四〇円ののり弁を確保し、ついでにペットボトルのお茶を買うと、四限までの時間つぶしのためにサークルの部室へと向かった。
学生棟とつながる連絡通路は昨日とはうってかわり、人で溢れていた。こんなところで立ち話しなくても部室に行けばいいのにと思うのだが、そこまで溢れる話をこらえる事が出来ないのだろう。常に喋りたいこととネタを持て余している大学生ではありがちなことだ。俺もその一人な訳だが。
学生棟にたどり着くと四階まで登る。そして四階に辿り着いたら、右方向に歩いて二部屋目。そこにステッカーだらけのGMCの入り口がある。
「ういっす」
「……」
ドアを開けて中に入ると、山根が一人窓際の席に座っていた。良くもない天気の空を見つめながら、何やらボンヤリとしているようだった。
「どうしたよ、何か考え事でもしてんのか」
俺は山根の真向かいの席に座ると、テーブルの上に弁当を広げ始めた。その様子を眺める山根は、まだ上の空と言った感じでどこか遠くを見ているようにも見えた。
「おーい……」
「又木、俺はな、春になった」
「は?」
その言葉を聞いて、思わず俺は弁当を広げる手を止めた。何を言ってるんだこいつはと不安になる。
「人々を笑顔にして、木々に花を咲かせる、そういう人間になったんだ」
「お前、ついに脳みそやられちまったか?」
いよいよもって彼に限界が来てしまったらしい。前々から若干の兆候はあったが、ついに来てしまったかという感じだ。
「俺はな、彼女にそう言われたんだ」
「彼女……?」
その瞬間、ピコーンと山根のスマートフォンから着信音が鳴った。この変に間延びした音は聞き覚えがある。メッセージの着信音だ。
「お前、またやってんのか、あのアプリ」
そう、結局昨日山根は消さなかった『the one』。彼は懲りもせずまた『マッチする』のボタンを押したらしい。
「やっぱあのアプリは良いもんだよ。俺の事を否定せずに認めてくれるんだ、彼女は」
俺の脳内には、色々な怪しい単語が浮かんでは消えている。けれども山根の顔は輝いていた。それを見ただけで俺は何も言えなくなってしまった。
「そうか、それは良かったな。いい人に巡り会えたんだな」
俺は素直に彼を称えることにした。もしかしたら本当にいい人を見つけているのかもしれない。そうだろうきっと。そうであってほしい。そうであってくれ。
「今度会う事にしたんだ、いいだろ? 又木もいい人見つけられたらいいな」
山根はそう言って席から立ち上がると、ゆっくりと出口へと向かっていく。
「おう、なんだ、上手くいくといいな」
「ありがとよ、とりあえず俺も飯買ってくらぁ」
そして出ていった彼の背中を見送ると、入れ違いで内藤がやってきた。内藤はしばらく入口のドアの方を見つめていた。多分、出ていった山根が気になったのだろう。
「なあ、なんかあいつキラキラしてなかった?」
こちらを振り返り、俺に問いかける内藤に向かって、大きく頷いてやった。
「奴はな、春になったんだとよ」
「は?」
「冬を耐えて花咲かす春を迎えたんだとさ。褒めてやろうや」
「意味分かんねー……」
そう言って先ほどまで山根が座っていた席に腰かける内藤。テーブルの上に大学生協で買ってきたのであろう菓子を広げる。俺の弁当と彼の菓子で、テーブルは埋め尽くされた。
「ところで又木、昨日見たよ」
「何が?」
「とぼけなくてもいいって」
いつものニヤケ面よりさらにニヤつきながら喋る内藤。俺は嫌な予感がしてたまらなかった。
「あのな、そういう時はハッキリ話せ」
「昨日、女の人と手を繋いで歩いてるのを見た」
その言葉を聞いた瞬間、俺は動揺を抑えきれなかった。あの帰り道での出来事を見ていたやつがいたなんて、思いもしなかった。
「えっ、なんで、どうして」
「なんか慌ててるなあ?」
手元に置かれていた菓子の袋を開ける内藤。そして菓子を一掴みして口に運ぶと、更にニヤニヤとしながら話し始めた。
「昨日、僕は例の彼女と遊んでたんだ、中心街で。そんで終電が近いからって慌てて駅に向かおうとしたら、何か仲良さげに手を繋いでブラブラさせてる二人が……」
「違う、違うんだ、あれはサキさんが勝手に」
「サキさんって誰?」
それを聞いてさらに口角が上がる内藤。俺はさらなる弁解を求められることになった。
「サキさんは……親戚、そう、親戚のお姉さんでさ」
「とぼけなくたっていいよ、僕だって見てればどんな関係かくらい分かるって」
ああ、ダメだ。俺は延々と墓穴を掘り続けるだけだ。よろしくない。これは非常によろしくない。
「『出会った』ね? あのアプリで」
「なんでそんなことまで分かるんだよ」
「ふふふ、でも否定しなかったって事はその通りなんだ?」
「まぁ……そうなんだけど……」
何だこいつは。俺の心の中を見通してきたのは、正直恐怖を覚える。それとも、俺がそんな雰囲気をかもし出していたのか。ただ、どちらにせよバレた。これだけは間違えようがない事実だった。
「僕は嬉しいよ、そして仲間ができたことに安心してる」
「おいおい、俺はまだ付き合っちゃいねえぞ」
両手を挙げて大げさに驚いてみせる内藤。何か今日のこいつはいちいち動作が大げさすぎて腹が立つ。
「お前と違って手が早くないんだよ」
「手を繋ぐのは早かったのに?」
「うるせえ、上手い事言ったつもりか」
内藤はそんな俺を見て笑みをこぼした。それは何だか、生ぬるさを感じるような、緩やかな笑いだった。
「まあとにかく、僕らは仲間だ」
そう言って内藤は右手を俺の方へ向かって伸ばしてきた。最初それの意図するところが分からなかったが、理解した俺はその手を握り返した。
「まぁ、あのアプリを使って知り合ったって点では仲間だな」
「そこで提案なんだけど、僕たち一緒にデートしない?」
「……は?」
何を言ってるんだこいつは。というのが最初に頭に浮かんだ言葉だった。
「俗にいうダブルデートってやつ」
「バカお前、俺はまだ付き合ってねえっていっただろ」
「友達とその彼女と一緒に遊びませんかって言えばいいだけじゃん。それに、どうせ次の誘い文句に悩んでるんだろ?」
何故それを理解しているのか。確かに今朝メッセージを返した時も次はどうやって誘おうかと悩んだ。それを分かっているのは、やはりこのアプリの経験者だからなのだろうか。
「まぁ……そうなんだけど……」
「知らない人でも、誰かが一緒にいるってだけで誘うのは一気に楽になるし」
「本当かよそれ。逆に誘いづらくなると思うんだが?」
「まあまあ、ものは試しで一度それで誘ってみてほしいな」
またテーブルの上に置かれた菓子を一掴みして食べる内藤。その顔に俺をからかっているような様子は無く、相変わらずのニヤケ面でこちらを見つめている。
「じゃあ……分かったよ、誘ってみてやるよ」
ひとまず俺は内藤を信じてみることにした。少し怖いことは間違いないが、とりあえず言う事を聞いてみようと思った。それはある種、俺と同じ状況下での成功者である、内藤の言葉だからこそ聞き入れられたのかもしれない。
「日付は?」
「確認しなきゃ分からないけど、来週の日曜、一二時くらいからかな」
「分かった、とりあえずそれで聞いてみる。結果は分からんが、とりあえず報告だけはするようにする」
「楽しみにしてるわ」
内藤は立ち上がるとまた右手を俺の方に差し出す。俺も立ち上がりその手を握る。ここに連帯感を持った、奇妙な繋がりが生まれた。何てことは無い繋がりだが、ただちょっとだけ頼もしく思えたのも事実だった。
「忘れないうちに送っちまうか」
「じゃあ僕も連絡しておくかな」
お互いスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを立ち上げ文面を考え始める。そして、こんな感じで送ってみようと思いついたままにメッセージを紡いでいく。これはこれで中々楽しいな。なんて思う自分がそこに居た。
『来週の日曜、全然いいよ。友達も一緒なんて緊張するなぁ~』
晩飯の冷凍パスタを食べている時に、サキさんから返信が来た。本当にあっさりOKが出たものだから、俺は面食らってしまう。
『あの、本当に大丈夫ですか』
思わず俺は問い直す文面を送ってしまった。だってしょうがない、本当にいいよと言ってくるとは思わなかったのだから。
『何が?』
そりゃそうだろう、一度OKと言っているのに改めて聞き直されたらこうも言いたくなるだろう。俺は改めて現状を説明する。
『見知らぬ友達、ついでに彼女も連れてくるんですよ。しかも僕らは会うのが次で二回目、拒否するのが普通だと思うんですけど』
『私が普通の人に思える?』
確かにそれもそうであった。初対面からグイグイと距離を詰め、挙句誘惑までしてくるような女性なのだ。この人は。普通かどうかと言われたら、間違いなく普通では無いだろう。
『忘れておりました』
『分かればよろしい』
画面越しに、彼女が笑っているのが見えた気がした。そして満足げに、ふんぞり返っているのが手に取るように分かる。
『じゃあ、また詳しいこと決まったら連絡しますね』
『了解! 楽しみにしてるからね』
そして送られてくる、いつものこの白饅頭みたいな頭部にごまみたいな目と口がついたキャラクターの「了解!」スタンプ。今度サキさんに会った時にでも、このキャラクターの名前を聞いてみることにしよう。いつまでも謎のキャラクターのままでは、なんとなく嫌だ。
サキさんとの会話が一段落着いたことを確認すると、内藤へとメッセージを送る。
『おい、オッケーだってよ』
『だから言っただろ? 上手くいくって』
奴の得意満面の顔が目に浮かぶようだった。ほらみろ、俺に女の事は任せとけくらいに思ってるかもしれない。最近までろくに免疫も無かったくせに、突然イキり始めるのは、やはり彼女が出来たことによる余裕の表れなのだろうか。
『何だかムカついてきたな』
『何でだよ? せっかく二回目のデートの約束をこぎつけられたんじゃん』
『お前の言うとおりになりすぎてるのが何かムカつく』
『いくら僕が【分かってる】からって嫉妬は良くない』
ああ、やはりこいつは完全に調子に乗っている。イラッとしながら俺はメッセージを返す。
『あーあー、分かったよ。【分かってない】俺は黙って従いますよ』
『はっはっは、この点では有利に立ってるっていうのが凄くいいね』
もうイライラが頂点になっているので、逆に頭の中がまっさらの状態で話を聞くことができる。今のところ【分かっている】のは間違いなく向こうだ。反論すればするほど惨めになるのは間違いないので、とりあえずは大人しく彼の言う事を聞くことにした。
『とりあえずこちらもオッケー貰ったから、日曜はよろしく頼むね』
『分かったよ』
『メッセージ、欠かしたらダメだよ? ちゃんと当日まで送るんだよ?』
『分かったよ!』
口うるさい親の如く、分かりきっている事をわざわざ言ってくるコイツは本当にうっとうしい。俺はスマートフォンを充電器に差し、ベッドの端に置いて放置した。しばらくの間、一定間隔でバイブが鳴り続けていたが、そのうちそれも止んだ。俺はそれを確認すると、小さくため息を吐いてからシャワーを浴びるための準備を始めたのだった。
それから日曜まではあっという間だった。いつものように大学に行っては講義を受け、サークルの部室に行っては高良や山根、時々内藤と適当に喋り倒した。高良は新しく街コンや合コンという舞台を見つけたようで、いろんな種類のものに行ってみようとしているようだった。
「おい、又木! 週末の街コン行ってみようぜ」
「いいよ、俺は」
俺はあのアプリを消した日以来無気力になっているという設定らしい。高良がやけにハイテンションで俺のことを誘ってくるので、上手いこと誤魔化しながらその誘いを断っていた。
「おいおい、気持ちが後ろ向きだと出来るもんも出来ないぞ!」
「別に後ろは向いてねえよ、ただ行く気が起きねえってだけだ」
「積極性の欠如ですなあ! ダメダメそんなんじゃ!」
「うるせえ、勝手に行っとけ」
「ま、気が向いたら一緒に行こうや。俺は今から帰って街コンの準備してくるぜ」
そう言い残し、部室を後にする高良。本人に悪気は無いのだろうが、何と言うか恋愛講師とでも呼べばいいのだろうか。そんなノリの熱意と勢いで最近やってこられて、正直しんどい。このテンションに付き合うので精一杯なのに、もし一緒に行ったらどんな事になるのだろうか。ちょっと想像したくない。
「最近テンション高いよな高良」
「なんか異常だよな、ちょっと」
山根は先日から変わらずで、例の怪しげな彼女とは上手く続いているようだった。連絡先も交換していて、一見すると順風満帆に見える。
「そういや今度さ、彼女と会うことになったんだ」
「そいつは良かったな。いつ会うんだ?」
「今週の日曜」
思わず一緒だと言おうとしてしまったが、俺は口をつぐんだ。言ってしまったら情報が流れ出し、絶対に面倒くさい未来が見える。もう既に内藤にはバレてしまっているから、これ以上漏らしてはいけない。
「俺さ、ダメだわ、今から緊張しちゃって」
「ほう?」
「なんつーか、今から想像しちゃうんだよな、いろいろ」
そう言って彼はゴソゴソとタバコを取り出そうとしていたので、俺は「禁煙」と言葉を投げた。それを聞いた彼は慌ててタバコをしまい込む。ここ最近、と言っても四月の話だが、学生棟は敷地内全面禁煙となった。
「困ったらタバコに逃げるクセ良くないな」
「無意識なんだよこれ……」
「少なくとも、今度会う人の前では止めとけよ」
「会話に困ったらやっちゃいそうで怖いな」
山根は自分で買ったのであろう、テーブルの上に置かれていたコーヒーの缶に手を伸ばして取ると、プルタブを起こしてグイッとあおるように飲んだ。
「で、想像しちゃうって何を想像するのさ」
「話せなくて気まずい空気が流れるとか、何か変なことしちゃって相手がドン引きしちゃったりとか」
「よくある話だな」
これは誰でも起こるし、誰でも思う。特に初対面の相手と会うときは特にだ。俺だってそうだ。サキさんと話す前なんかは、ずっと同じようなことを考えていた。
「大丈夫だよ、安心しろって。世の中意外に上手く回るもんだぜ」
「そうか?」
「ああ、普通に喋れるよ、案外な」
「本当にそれならいいんだけどな」
山根は手に持ちっぱなしだった、飲みかけの缶コーヒーを全て飲み干す。そして空き缶を勢いよくテーブルの上に置いた。軽い金属音が部室の中に響く。
「いつも俺達と喋ってるんだから大丈夫だって」
「お前らと同じノリで喋ったら流石にヤバいわ」
「それが分かってんなら平気だろ」
「流石にそれが分からんほどではないからな」
そう言うと互いに顔を見合わせ笑う俺達。何はともあれ、頑張ってほしいという意を込めて、俺は正面に座っている山根の肩をポンポンと軽く叩く。
「まぁなんだ、頑張れよ」
「ありがとよ」
「陰ながら応援させてもらうよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいな」
そしてまたゴソゴソとし始めた山根。また俺は慌てて「禁煙」と言った。彼は取り出しかけたタバコを慌ててしまうと、複雑な表情を浮かべたのだった。
いよいよ日曜を迎えた。俺は駅構内のトイレに入り、鏡の前で軽く髪型を整えていた。家を出てくる前も直していたし、別にそこまで崩れるような強風が吹いた訳でも無い。ただ少し、心を落ち着かせたかった。サキさんと出会うのは二回目にも関わらず、今日の方が何故か緊張している。それは相手のことを分かってからの初めてのデートだというのもあると思うし、何より特殊な形で行うからというのもある。
スマートフォンを取り出し時間を確認すると、既に約束の時間の一〇分前だった。
「ちょっと」
そろそろ行くかと歩き出そうとした瞬間、後ろから声をかけられた。何かと思い振り返ると、そこには背が高く、眉が特徴的な男が立っていて、俺のハンカチを手に持っていた。
「これ、忘れてっぞ」
そうだった。さっき手を洗って拭いた後、洗面台の脇に置きっぱなしだった。俺は軽く頭を下げて、「すいません」と言ってそれを受け取った。
「ありがとうございます」
「これからデートか?」
「は?」
「髪の毛神経質に直してっからよ。そうなんだろ?」
何だこいつは。忘れ物を教えてくれるくらいだからいい人なのは間違いないのだろうが、それは見ず知らずの人間に聞く事だろうか? しかしハンカチを拾われた恩がある俺は、愛想笑いを浮かべながらそれに答えるしか無かった。
「ええ、まあ、そうなんですよ」
「いいねえ、頑張ってこいよ」
「ありがとうございます」
俺はまた頭を下げ、「では」と言ってそそくさとその場を立ち去る。ポロシャツ姿のその男は「おう」と言って手まで振って見送ってくれた。あいつは一体何だったんだと思いながら、俺は待ち合わせ場所のステンドグラス前へと向かった。
日曜の昼一二時の駅前は、人だらけだった。別に今に始まった事じゃないし、いつも通りなのだが、自分がその中にいると改めて実感する。特に待ち合わせ場所になっているステンドグラス前は、スポット化している事もあって、人が群がっている。ざっとステンドグラス前にいる人達の顔を眺めたが、まだここには誰も来ていないようだった。俺は空いてるスペースを見つけると、そこにスルリと身体を入れ、そしてまず内藤にメッセージを送る。
『着いた。待ってる』
次にサキさんにも送ろうとしたその瞬間、俺の目の前に誰かが立った。それに気が付いてスマートフォンに落としていた視線を上げようとしたその瞬間、俺の両目はふさがれた。
「だ~れだ」
「サキさんでしょ、もう」
俺の目に当てられた手をゆっくりと剥がす。そして俺の正面に立っているその手の主を見た。やはりというか、間違いなくサキさんだった。淡いピンクのリブニットにベージュのフレアスカートが良く似合っている。
「おはようございます」
「おはよう! って言ってももう一二時だけどね」
ケラケラと笑うサキさん。この人は本当に良く笑う人だなと、会って二回目だが思う。
「そろそろあいつらも来ると思うんで、もう少し待ってもらえると」
「ねえ、敬語止めない?」
「なんですか、いきなり」
「だって絶対変じゃん、向こうの二人は普通に喋ってるのに私達だけ敬語って」
「そんな事言っても、まだ会ったの二回目ですし」
「もう二回目だよ? しかも手まで繋いだんだよ?」
そう言って俺の隣に並ぶと、無理やり俺と手を繋いだ。俺はまた心臓が跳ね上がりそうになる。二回目なのに。
「手を繋いだのは無理やりじゃないですか」
「でも一緒に歩いてくれたじゃん」
「それは……まあそうですけど……」
「だから敬語、止めよう? ね?」
弱った。手を繋がれたまま、ジッと顔を見つめられて言われたら、そんなの断れるわけが無い。この人は知っているのだ。分かっているのだ。そうしたら俺は言う事を聞くと、そう思っているのだ。
「……分かったよ」
その通りだ。俺は言う事を聞く事しか出来なかった。彼女の思惑通りにタメ口を話さざるを得なくなった。悲しい限りだ。
「これでいいか? なあ?」
「わ、わ、わ、意外と口悪いのね」
「俺は普段からこの調子なの。あんたの前では猫かぶってただけ」
「可愛い! 可愛いよケケ君!」
更にギュッと手を握り、俺の方をさらに迫真の表情で見つめてくるサキさん。何が気に入ったのか分からないが、ツボに入ったらしく、何だかキラキラした表情で見つめてくる。
「俺とか言っちゃってるし」
「僕とか言うのは何か気持ち悪くてね」
「そういうとこが可愛いんだよぉ」
サキさんが俺の頭に手を伸ばし髪をワシャワシャとしようとしたのが見えたので、俺はその手をひょいと避ける。朝からしっかりセットした髪をこんな段階で崩してたまるかと、必死だった。
「ほほう、避けるか」
彼女は一回避けられた手を下げることなく、二度、三度と俺の頭へ伸ばす。俺はそれを右に左にかわし続ける。さながらボクシング、というよりはじゃれついている猫の手を避け続けているようだった。
「おりゃ! おりゃ!」
「猫じゃらしでも使ってる気分だな」
「ちくしょー!」
「何やってんだよ……」
しばらくこのしょうもない攻防を繰り広げているうちに、内藤がやってきていた。俺たちのやり取りをしばらく見ていたようで、少しにやけた表情をしていた。まあ、にやけ面はいつもの事なのだが。
「仲がよろしいね」
「つっかけられたんだよ」
「仲がいいことは素敵な事よ」
そう言って内藤の後ろから現れた女性。モノトーンの花柄ワンピースが、その色白い肌と金色の髪を引き立たせている。これが噂の内藤の彼女かと、俺は思わずジロジロと眺めてしまった。
「高瀬です、よろしく」
そう言って軽く頭を下げる彼女。俺も思わずつられるように会釈をする。隣にいたサキさんも同じようにしていた。
「又木です、どうも」
「伊藤です、よろしくね」
「内藤と言います」
流れで四人とも挨拶を終えると、一瞬の間の後、内藤が「とりあえず行こうか」と言って歩き始め、それに俺たちはついていく。いつもの事だが、ダラリと進んでいくのは俺達らしくて実にいい。キチキチやられるより、これくらい緩いほうが何事もいいと思う。
駅を出て、西口に広がるペデストリアンデッキと呼ばれる高架歩道を歩き、アーケード街へと繋がる階段を降りた。アーケード街はこの中心街のど真ん中に位置している、この街の象徴的な存在だ。一つだけではなく、複数のアーケードが連なり商店街が形成されている。買い物の要所としてだけではなく、歩行者の通行にも使われていて、繁華街に向かう際もこの道を通る。先日もそうだった。そんなアーケード街を四人並んでしばらく歩くと、先導していた内藤は牛丼屋の前で止まった。そしてニッコリと笑ってこちらの方を振り向いた。
「ここだよ」
「おい、まさかここでメシとか言わないよな?」
「まさか。流石にデートでしょぼいもん食いには来ないって」
そう言って壁を指差す内藤。その指の先にある看板を見ると「cafe harvest」と書かれた白い看板がかかっていた。しかし、目の前はどう見ても牛丼屋で、二階にはハンバーガー屋というファストフードの塊みたいな場所なのに、一体どこにあるというのか。
「こっち」
彼は牛丼屋の入口の左手側にあった木製の引き戸を開け、中へ入っていく。パッと見、従業員の出入り口にしか見えないが、カフェの立て看板があったので、この先にあるのだろう。中に置かれているカフェの案内板の矢印通りに細長い通路を通り、階段を上り、そしてドアから一旦外に出た後、また階段を上る。するとそこに「cafe harvest」の入口があった。そしてどうだと言わんばかりに、内藤はこちらの方を見つめてきた。
「どうだよ、いいだろ、ここ」
「いや、凄いとこ知ってんなお前」
俺は思わず軽い拍手をして内藤を称えた。こんなカフェを探して、しっかりと案内出来るのだから大したものだ。俺からすればかなりの偉業だった。
「何か隠れ家って感じでいいわね、ここ」
「うん、凄くいい感じ」
女性陣からも概ね好評を貰えているようで、更に内藤は鼻高々といった感じだ。
「だろ!? だろ!? 苦労して探したんだ」
「うんうん、偉い偉い」
内藤の自慢げな言葉もそこそこに聞き流し、俺たちはカフェへと入っていった。中は統一感のある椅子とテーブルのセットが並んでいて、思ったより広々としている。雑多なインテリアが並ぶということもなく、レコードなどが壁にきっちり並べられていて、整然とした印象の店内だった。
案内されて、四人がけのテーブル席に座ると、各々メニューを眺め始める。昼時ということもあって客もそこそこの入りで、にぎやかだ。数分すると、「決めた」という声が四人全員から上がったので、店員を呼んで注文をした。俺と内藤がランチのパスタセットで、サキさんと高瀬さんがパンケーキのセットを注文していた。見事に二対二である。
「いい感じでバラバラだ」
「後で少し味見させて」
「オッケー」
そのやり取りを見ていたサキさんが、こちらを見つめながら「ねえ」と言ってきた。
「あたしも味見したいな」
「分かったよ、分かったからそんな顔で見つめるな」
「へへっ、サンキュー」
そして注文した商品が来るまでは、わりかし適当な会話をしていた。詳しい自己紹介に近いような感じの内容が多かった。もっと形式ばった会話になると思ったが、案外皆普通に話していた。
「へえ、そうなんだ。あのアプリで出会って付き合うとかイマドキだねえ。出会ったのは私らもそうなんだけどさ」
「出会いって、いろんな形があっていいと思うんです。それが今回はたまたまアプリだっただけで……」
手を必死に動かしながら語る内藤。ろくろを回しながら会話しているその姿は、普段彼が語りたい時にやる仕草そのものだった。
「そんないい事言ってるふうにしても、結局はアプリだけどね」
高瀬さんは熱く語る内藤を、ツンと軽く突き放した。
「あはは、でも内藤君の言ってる事も分かるよ。いろんな人といろんな出会い、それが楽しいんだもんこういうのって」
感心したように話を聞くサキさん。相槌を打つように頷いたあと、水を一口飲んだ。
「そういえば伊藤さんの下の名前って何て言うんですか?」
先ほどからすこし所在なさげにしていた高瀬さんがサキさんに問いかけた。
「えっ、私?」
「いつまでも伊藤さんじゃ堅苦しいかなって」
「私はね、美咲(みさき)っていうの」
「美咲さんか。よろしくお願いします」
「うん、よろしく。高瀬さんは何ていうの?」
微笑みながら高瀬さんの方を見るサキさん。普段はケラケラと笑ってる印象の強い人だけど、こういうしっとりとした笑みも似合うななんて思った。
「私の名前は愛(あい)、高瀬愛って言います。皆からはアイって呼ばれてる」
「じゃあじゃあ、私の事もサキって呼んでいいよ。昔からのあだ名なの」
「それあだ名だったんだ。ほとんど本名じゃん」
「やかましいわ! 昔から私だってそう思ってたわ!」
そう言ってサキさんは俺の肩を軽く小突いた。俺は肩をすくめて軽く舌を出した。
「そういえば又木の下の名前ってなんだったっけ?」
思い出したように内藤が呟いた。
「は? 謙佑(けんすけ)だけど。お前こそ下の名前何だったか思い出せねえよ。ホライズンだっけ?」
「大地(だいち)だよ。誰が地平線だ」
そんな事を話していると、テーブルに続々と料理が運ばれてきた。互いの席にはトマトソースの香り漂うパスタと、古き良きメープルシロップをかけていただくタイプのパンケーキが並ぶ。飲み物は皆セットメニューのホットコーヒーやカフェラテだ。
そして食事と飲み物が揃うと、「いただきます」と言って食事を始めた。食事中は静かになるかと思いきや、結構話に花を咲かせていた。主に女性陣が。
「サキさん、まだ又木君と会うの二回目なんだ」
「うん、そうなのよ」
俺たち男二人は今更話すこともあまり無いし、時折相槌を打ちながらとりあえずパスタを食っていた。
「それなのによく今日OKしてくれたね」
「だって何だか楽しそうじゃない? 知らない人達でご飯とか食べたりするの」
「それに私、又木君の事気に入ってるんだ」
「だって。気に入られてるよ又木君」
そう言ってこちらを見てくる高瀬さん、もとい愛さん。俺は視線を伏せながら手に持ったコップの水に口をつける。そうやって面と向かって言われると恥ずかしい。
「ひゅーひゅー」
「やめろ内藤、煽るな」
「そう言われて嬉しいくせに。照れ隠しはやめろって」
「うるせえな……」
実際、本当は嬉しかった。今日会ってくれた時点で、俺に対して悪い感情は持っていないというのは分かっていたが、改めて言われると認められた気分になる。
「内藤君と愛ちゃんは会ってどれくらいなの?」
「うーん、どれくらいだったかな?」
「そうね……初めて会ったのは二ヶ月前くらい」
サキさんに問われると、パンケーキを切る手とパスタを巻く手を止めて、少し考えこむ二人。最初に口を開いたのは愛さんだった。
「そこから一週間くらいデートしたりして、で、付き合おうかって話になって、そして現在に至るって感じで……」
「わあ凄い、付き合うまでめちゃくちゃ早くない?」
「そうかもしれないですね、けど何か感じちゃったんですよね。あ、この人いいなって」
「へえ、なんかいいね、そういうの」
身を乗り出さんばかりに聞き出すサキさん。隣に座っている俺は落ち着けの意を込めて彼女の背中をポンポンと叩いた。
「そうなんですよ、最初から運命づけられていたんじゃないかって思うくらいに相性良くて」
「カッコいい事言うねえ」
パスタを食べながら、俺は内藤の言葉に感心する。何を食ったらこんな事を言えるようになるのだろう。少なくとも俺が知っている内藤はこんな事を言えるような奴じゃなかった。
「サキさんは又木くんのどこが気に入ってるの?」
「うーんとね、犬っぽいところ」
「犬?」
「うん、気に入った相手にはいっぱい尻尾振って、かまってかまってってなるところ。この口の悪さと相まって凄くいいと思う」
それを聞いて笑う内藤と愛さん。俺は恥ずかしいやらなんやらで、頭がうまく働かなかったので、とりあえずへへへと笑っておいた。
「じゃあ逆に又木はサキさんのどこが好きなの?」
「うーん、大人っぽいところが好きだな、色々と余裕を見せてくるんだよ、まるで俺みたいなガキをもてあそぶように……」
「ほう、又木はもてあそばれるのが好きと」
「おいこら、誰がそう言った」
それを聞いたサキさんがニヤリと笑ったのが見えた。ヤバイ、これは何か仕掛けてくるぞと直感で分かった。しかしその瞬間にはもう遅く、隣に座っていたサキさんは俺にもたれかかってきた。
「じゃあ、年上らしくもっと遊んであげなきゃね」
「人がいるのによく出来るな、おい」
「いいじゃない、これくらい。別にキスしてるわけでもないし」
「今ここでそんな事したら単純にヤベー奴だよ」
ふと、脇でもたれているサキさんから、正面の内藤と愛さんに視線を移す。二人とも、生暖かい目でこちらを見つめていた。その段階はもう乗り越えてきましたと言わんばかりの余裕だ。
「ラブラブだ」
「仲が本当にいいのね」
「えへへ、そうなんです」
「おい、抱きつくなって、マジで」
その後、俺たちはこの後どこへ向かうかを話した。ブラブラと街歩きでもするかという話になりかけたが、愛さんがせっかくならデートっぽい所へ行きたいと言い始めたので、どこへ行くか考えた結果、動物園でも行ってみるかという話になった。動物園に行くのは何年ぶりだろう? もう覚えていないくらい昔に一度行った記憶があるくらいだ。そしてその後、運ばれてきたコーヒーをゆっくりと飲みながら、俺たちは引き続き適当な話に花を咲かせた。
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