第2話

 あれから二週間ほどが通り過ぎていった。相変わらず空模様はぐずつきがちで、気を抜けば空から雨粒が降ってくる、まさしく梅雨と言った感じだ。

 俺はあのアプリを苦戦しながらも使っていた。毎日使って二週間。合計一四人とマッチした訳だが、まるで手ごたえは無かった。全員気合が入った写真をプロフィール画像にした、大体同い年くらいの女性達だったが、あまり俺との会話は乗り気では無いようだった。俺はふわふわとしたチャットを延々と繰り返し、返信が来なくなるかブロックされて終わりというパターンを繰り返していた。そうそう簡単にいくものでは無いと分かってはいたが、コレが続くとへこむ。

「結局よ、あいつらはタダ飯食えればいいと思ってるんだわ」

 それはこの高良も一緒だ。先日連絡先を交換した女性とご飯を食べに行ったはいいが、じゃあねと別れた直後にブロックされたらしい。部室にやってきた直後、それに関して延々と文句と愚痴を垂れ流し続けている。

「もう『マッチする』のアイコン押すの面倒くさいな」

 このアプリは自分から能動的にボタンを押さないと出会う事は出来ない。けれども押せば確実にマッチする。それが素晴らしい所でもあり、悩ましい所でもある。

「散々な思いするだけだもんな、このアプリ」

 山根はあの日からずっとアプリを使っていた。結構な頻度でブロックされていて、最短四分でやられた事があるらしい。

 今日内藤はいない。多分きっと例の彼女とよろしく遊んでいるのだろう。そう考えるとイラつきよりも悲しさが勝った。

「いい思いしてんの内藤くらいしかいねえな」

 そう言って頭を抱える俺達。

「何で流行ってんのか分かんねえな、マジで」

「そりゃあよ、どっかの甘い蜜だけ吸ってるイケメンが声を大きくして騒いでるんだろうよ」

「皆に流行れば自分の餌が増えるだろ? だからそれだけ得なんだよ」

 互いにため息をつきながら話し続ける高良と山根。俺もそれに連鎖するように小さくため息を吐いた。

「なあ、これで皆最後にしねえか」

「何が」

「『the one』のアプリを使うのをさ」

 皆アプリを始めたばかりなのに敗戦間近の雰囲気が漂っていたが、もう白旗を上げるようだ。それくらい、皆疲弊していた。初めて二週間の俺も山根もすでにウンザリしているのだから。前から始めていた高良はもっと疲れ果てているのだろう。彼は話し続ける。

「今ここで皆揃って『マッチする』を押す。それで最後にするんだ。ブロックされたり二四時間過ぎたらその時点で終わりだ。皆アカウントを消して、アプリをアンインストールする。どうだい」

 聞いていた俺達は皆静かに頷いた。皆バカがつくくらい真剣な表情だった。俺たちは一斉にスマートフォンを取り出し、『the one』を起動する。

「それでは、皆最後のワンタップだ」

「ああ、これで俺たちは呪縛から逃れられる」

「皆の結果に幸あらんことを」

 俺達は画面を揃ってタップした。いつも通り数秒間「マッチします……」の文言が表示された後、相手のアイコンが現れる。今回のマッチ相手は、よく分からない謎のイラストをアイコン画像にしていた。

「これが最後の相手か」

謎の感慨に包まれながら俺は、いつも通り最初の挨拶の文章を送った。


 メッセージを送ってから一時間ほど経過しただろうか。未だに返信はこない。

「お前らメッセージもう来た?」

 俺が呼びかけると、椅子に座りながらずっとスマートフォンの画面を見ていた二人が顔を上げた。

「来たよ。けどいつもの感じだ」

「俺も来た。なんか変な人」

 どうやら二人とも既にやり取りを開始しているようだ。羨ましくも思えるが、これが最後だと考えると、何だか見ているだけで物悲しい気分になる。

「そっか、俺はまだ来ないよ」

「来ないのは幸せかもしれない。余計な苦労をすることも無いし、安楽死みたいなもんだよな」

 高良の安楽死という言葉に何となく納得がいった。やり取りで苦しんだり悲しんだりすることなく、最初から二四時間経つまで緩やかにゆっくりと過ごし、そしてアプリを消してすべては終わるのだ。ただそれだけ。俺はそれでもいいかなという気分になり始めていた。

 いくらか時間が経ってから、高良が「このまま顔つき合わせてやり続けるってのも嫌だな」と言った。それには俺も山根も同感だった。必死になって食いつく姿を互いに見合うというのは悪趣味な何かである。とりあえずこの場では解散をして、翌日結果を互いに報告しようという話になり、講義も無かった俺は帰路に就く事にした。外へ出るともう街はオレンジ色に包まれていた。部室で話している間に、結構な時間が経っていたようだ。

 歩いて一〇分ほどの道のりを経て家に着いた瞬間、通知が鳴った。それは例のアプリから、メッセージが届いたという知らせである。もうブロックされたり無視されたりという事をされたくないという思いと、もしかしたらワンチャンスあるかもしれないという思いが、ごちゃ混ぜになってしまっている俺は、複雑な気分でそれを開く。

『返信遅れてゴメンね、休憩終わりにマッチのボタンだけ押して、仕事戻っちゃったから』

 思ったより砕けたメッセージがやってきた。大抵こういう時は『はじめまして! こちらこそよろしくお願いします!』とか、硬めの文章が送られてくるパターンが多い。自分にとっては少なくとも初めての経験なので、少し面食らった。

『いや、全然大丈夫。仕事お疲れ様。どんな仕事してんの』

 年齢はこのアプリでは分からない。大雑把な区分は分かるが、細かいところまでは表示してくれない。だが仕事をしていると言うことは俺よりも年上だろう。けれど俺は文面を見てラフ目に返すことにした。文章を一回小声で読み上げ、変なところが無いか確認した上で送信する。すると即返信が帰ってきた。

『事務してる』

 それに俺もレスポンスよく返信をしていく。

『事務、一日パソコン仕事でしょ? めっちゃ大変そうだけど』

『全然! 給料そこそこで仕事も忙しくないし』

『そうなんだ、俺のバイト先も結構楽でさ……』

 そのまま会話はほどほどに弾んだ。いつもよりはよっぽどマシに思えるやり取りを繰り返し、案外続くなと自分でも感心している。手ごたえもそこそこではないかと思っていて、このやり取りをしているうちに、連絡先を交換するか遊ぶ約束を取り付けてしまいたいと思った。しかし焦るわけにもいかない。相手が引いてしまうかもしれないからだ。だが、言わなければこのまま二四時間が過ぎて行ってしまう。それだけは避けなければいけない。

 会話の途中で、何度かそういう会話を挟もうとしてみたが、中々会話は途切れずに夜を迎えた。ここまで会話が弾んだ事は無いから嬉しい。嬉しいのだが、このままだとこれで終わってしまう。これはどうするべきか。今盛り上がっているコンビニ飯についての返答を考えながら、いつ会話に入れ込むかを考えていた、その時だった。

『ところでさ、このマッチ? って二四時間経つと終わっちゃうんだよね?』

 渡りに船。願ったり叶ったり。こんな事があっていいのだろうか。こんな自然な導入が出来るきっかけを与えてくれるなんて。

『そうそう、だからその場合は連絡先交換しないとサヨウナラだね』

『連絡先かぁ。私会った事無い人と交換するの嫌なんだよね』

 ああ、終わった。そんな事を言われてしまったら、最早どうしようもない。会わないでも交流を持てるのが売りなのに、それを求められたら終わりだ。やはり運命の出会いなんぞは存在しないのだ。

『そっか、それならしょうがない』

『だからさ、会おうよ、せっかくだし』

 前言撤回。これは終わりなんぞでは無かった。むしろ始まりだった。神は存在した。間違いなくそこに居た。

 話はとんとん拍子で進み、明日の夜に中心街で飲むことになった。待ち合わせ場所は駅前の彫刻前。駅から出て少し歩いた先にある、小さい広場に置かれている男性の彫像だ。大体の人が駅の構内にある待ち合わせスポットのステンドグラス前で待ち合わせをするから、そこにしたら色々分かり辛かろうという事で少し外した場所にしている。

 全てが順調だった。これまでの苦労がまるで嘘みたいだった。俺はベッドの上でタオルケットに包まりながら、そのやり取りの一部始終が表示されているスマートフォンの画面を眺め、ニヤニヤとしていた。明日あいつらになんて言ってやろう。俺だけ悪いななんて言いながら、勝ち誇るのも悪くない。

 しかし、少しだけ気になることがあった。彼女の顔が分からないのだ。アプリの画像は謎のイラストだ。ここまで聞き出すタイミングも無かったし、そもそも送ってもらえるような会話の流れにならなかった。まぁ、それはそれでいいのでは無いだろうか。これで色々失敗してもネタに出来る。その時はあいつらと笑い飛ばそう。俺は静かに、そしてゆっくりとベッドの上でまどろみの中へと落ちていった。

 今日は夢を見た。幻みたいな景色の中で、ふわふわと浮かんでいた。ずっとそこに居たかった気がする。


 次の日、俺は講義を終えて意気揚々と部室へと向かった。他の奴らの動向が気になっていたし、何より俺の勝ちを報告したかった。まあ、勝ちと言っていいのかは分からないが、とりあえず精神的には勝利している。いつもの部室のドアを勢いよく開けると、中には数人の後輩がいて、その中にあいつらの姿があった。

「おっ、来たな」

 そう言うと山根と高良は大勢で話していた中央のテーブルから隅の席へと移動してきた。丁度席の置かれている位置的に円座になって話し合う形になった。

「さてと、どうでしたか皆さん」

 高良が微笑を浮かべながら話し始める。

「ええ、じゃあ一人ずつ発表していきましょうか」

 同じように山根もやけに爽やかな表情をしていた。

「何だよお前ら」

 俺は思わず言ってしまう。何かを懐に携えているのだろうか。気味の悪さを覚えながら、スマートフォンを取り出す。それを見た山根と高良も同じように取り出した。

「ではね、まず私から言わせていただきますね」

 そして高良は携帯の画面を二、三度スライドしたと思うと、画面をこちらに向ける。

「なんと、無事ブロックされました!!」

 この二週間でよく見た光景だった。『あなたはまだマッチしていません。今すぐ【マッチする】を押して出会いましょう』と、書かれた、誰もいないいつもの画面がそこには映っていた。

「ちくしょー! もう終わりだぁ! うおおおおおおおお!」

 立ち上がり、叫びながら勢いよく画面をタッチする高良。おそらくもうそこにはアカウントもアプリも残ってはいないだろう。その姿を眺めながら山根が話し始める。

「えー、では続きまして私ですが」

 そう前置きをして山根もスマートフォンの画面を見せる。

「謎の会話を続けておりましたが、制限時間経過により無事マッチ解除になりました。高良ほど怒るに怒れず、何とも言えない気持ちでいっぱいです」

 そう言ってゆっくりと画面をいじりだす山根。けれどまだ未練が残っているようで、どうにも指が進まないようだった。

「どうした山根、消せよ、消せって」

「……俺さあ、あれだけ喋ったの初めてだったんだよ。この先もしかしたら、またああいう人に出会えるんじゃないかと思ったら……」

「おいおい今更止めてくれよ!! 男と男の約束だろ!! 消すって!!」

 ガシッと両肩を掴んで山根を揺らす高良。山根は特に抵抗することは無く、むしろ脱力していた。

「うっ……うう……」

「山根め、今更魅力に取りつかれやがったな」

 力無くうなだれる山根を小突くと、俺の方へと向き直る高良。

「なあ又木、お前はどうだった?」

「俺か? 俺は……」

 高らかに勝利宣言をしようとしたその時。俺の肩をポンっと高良が叩いた。そして俺に向けたその顔は笑顔だった。まるでお前も一緒だよなと言わんばかりのいい笑顔だった。

「いい! 皆まで言うな!」

「はあ?」

「言わなくても分かる。お前もダメだったんだろう! そっかそっか! 結局お前も俺達と一緒だったか!」

 笑う高良。そして俺と肩を組み背中をバシバシと叩く。なるほど、俺が何と言おうと、もうこいつの中ではそういう事になっているのだ。しかし勝ち誇る気満々だった俺からしたら、若干消化不良である。

「いや俺は……」

「頑張った! 頑張ったよ! お前は! だから消そうな、アプリ」

裏切り者をこれ以上作りたくないのだろう。どうしても消させたいという思いが組んだ肩からひしひしと伝わってくる。しょうがなく俺は画面を見せつけるようにして、アカウントを消してアプリをアンインストールした。高良はそれを見て満足気で、山根は力なく椅子にもたれていた。

 そしていかにこのアプリが馬鹿馬鹿しく、無意味なものかを大いに語った高良。それを延々と聞かされた俺と山根とその場に居た後輩たち。俺達はともかく、巻き込まれた後輩たちは可哀そうだった。

「よっしゃ、それじゃあ行くか!」

 散々喋って高良は満足したのか、今度は後輩を引き連れて「さくらや」へ向かうと言い始めた。お前も来いよと誘われたが、今晩の約束があるので当然断る。高良は大分不満そうだったが、どうしても外せないんだと言うと、渋々引き下がってくれた。

「次は来いよな」

 そう言って後輩数人を引き連れて出ていく後姿を見送り、部室には俺と山根だけが残った。

「あいつ狂っちまったな」

 俺はボソリとつぶやいた。それを聞いた山根も同意と言った感じで頷いていた。

「まぁ……気持ちは分かるよ」

 そう言って立ち上がる山根。そしてそのままグーッと伸びをする。ボキボキと身体からいい音を鳴らしていた。

「あいつは喋れてたし会えてはいたんだ」

「それなのに何も起こらないって言うのは……少し悲しいよな」

 山根は少し遠い目をしながら語っているが、言ってる事は何てことは無い。ただ出会い系アプリで失敗したというだけの話なのだ。俺は山根に吐き捨てる。

「ようするにアプリに期待しすぎなんだよ。そういう事も織り込み済みで、色々踏んだり蹴ったりを繰り返して、楽しむのがこういうアプリじゃねーの」

 俺は床に置いていたリュックを持ち上げて背負う。そろそろ帰り支度をして待ち合わせ場所に向かわないといけない。山根は遠い目をしたまま、ぼそりと呟く。

「それでも! ……それでも期待したくなる何かがあるよ、このアプリ。今回だって一瞬夢を見れた、また見れるって信じてる」

「そうかい、それもありじゃないか」

俺はそう言うと椅子から立ち上がり、部室を出た。「俺は夢を見てくるよ」と、心の中で山根に言いながら。


 中心街までは電車で二駅ほどの距離だ。車内は退勤時間という事もあって混み始めていた。俺は吊革に掴まり音楽を聴きながら、スマートフォンで待ち合わせ場所をもう一度確認する。何回も行っているからそんなに難しい場所じゃないし、相手の服装も分かっている。

ただ普通の待ち合わせと違うのは、連絡先が一切分からないという事だ。まるで携帯の無い時代に戻ったような気分である。加えて相手の顔も分からないとくれば、さながら文通で知り合った相手と初デートといった具合か。

「(ま、そんな純粋な出会いでも無いんだけどね……)」

 俺はそう心の中でつぶやきながら窓の外の流れる景色を見ていた。しばらくたって目的の駅に到着した俺は、電車を降りると真っ直ぐ待ち合わせの場所へと向かった。改札を抜け、ステンドグラス脇の出口から出て、本当に少し歩いた先にある広場に彫刻はある。そこに辿り着き時計を見ると、きっかり一九時四分前だった。完璧だ。俺は耳とスマートフォンからイヤフォンを外し、ポケットに適当にしまうと辺りを見回した。

 今日、彼女は間違いが無ければ水色のフレアスカートに白いブラウスの服装で来るらしい。それらしい人がいないか、俺は目を皿のようにして探した。

 だが、待ち人は中々来ない。俺は探して、探し続けた。それしか出来なかったからだ。人の往来が先ほどよりも増えてきている。彫刻の周辺はその往来から外れていて人がいないから、俺は一人取り残された気分になった。

 そしてまたしばらく立っていると、ぽつりぽつりと降ってきた雫が頬に当たった。雨が降ってきたらしい。人の流れに傘が咲き始める。俺も背負っていたリュックから折り畳み傘を取り出し、周りと同じく傘を差した。雨の中、来ない彼女を待つ俺は、ただひたすらに立っていた。脇目もふらず目の前をサラリーマンやOLが足早に通り過ぎていく。俺はその姿を眺めながら、待ち人を探し続けていた。

 雨の勢いは思ったよりも強く、小さい俺の傘ではどうにもならなくなってきた。腕は濡れ、裾は濡れ、もう差している意味が無いのではとも思えるくらいだ。こうして濡れ鼠になっているのは、ものすごく惨めだった。散々濡れた俺は着ているTシャツで腕を拭い、ポケットからスマートフォンを出し時間を確認する。何とすでに二〇時を過ぎていた。まあ、何と言うか騙されたのかなと、呑気に考えていた。それでもここまでやってきて、一時間待ってしまった以上、もう少しだけ信じて待ってみようと思った。あと四分、四分を過ぎたら諦める。そしてさっさと帰る。俺はそう決めた。

 そして、雨に打たれ続けながら色々な事を考えた。あそこまで言っておいて嘘だったのだとか、アプリの約束なんてしょせんそんなもんだとか。そして根本的なところでは俺も山根と変わらないのだと思った。ありもしない夢を、さも現実かのように夢見ているだけの虚しい存在。そう思ったら、なんだか腹が立つやら悲しいやら、複雑な気持ちでいっぱいになったので、時計も見ずに帰ることにした。

 そして駅の方へ向かって歩き始めたその瞬間。俺は後ろから肩を掴まれた。何事かと思って振り返ると、そこには紺色の傘を差した、水色のフレアスカートに白いブラウス姿の女性が居た。その女性は肩で息をしながらこちらの方を見つめ、こう言った。

「あの! ケケさんですよね!」

 女性は片手で乱れた髪を直しながら、俺のアプリでの登録名を呼んだ。ケケ、俺のアプリでの名前。ニックネームが何も思いつかず、呼ばれるのが嫌だったこのあだ名で登録してしまった、この名前。間違いない、この人が待ち人だ。

「そうです、サキさんですか?」

 俺は平然を装いながら答えた。内心ウキウキとドキドキが止まらなかったが、それを悟られないように努力した。

「ごめんね、仕事で遅れちゃって……」

「全然平気ですよ、大丈夫です」

「大丈夫なわけ無いじゃん! 一時間も遅れたのに!」

 そう言うと俺の手を引き、駅の軒下へと移動する彼女。傘をたたみカバンからハンカチを取り出すと、濡れた俺の腕を拭き始めたので、慌てて止めた。

「大丈夫です、大丈夫ですから」

「こんなびしょ濡れになるまで待たせちゃって……」

「待つって決めたの自分なんで、全然平気です」

 そしてしばらくその場で「ごめんなさい」と「いえいえ」の応酬を繰り返し、そのうち「それじゃあそろそろ」と、どちらからともなく移動を開始した。

 何故か自然と俺はサキさんの後ろに続いて歩く形になっている。駅前の通りから繁華街へと歩を進め、街行く人たちが賑やかに練り歩いている中を俺達も歩く。学生街なら目をつぶってでも歩けるようになった俺だが、中心街は全く分からない。なので俺は彼女の後ろについていく事しか出来なかった。

「ここら辺、よく来るんですか?」

 一応俺も店は調べてきているのだが、彼女の歩むペースがあまりに早い。先ほどからあまりに迷いの無い歩きをする彼女に思わず俺は聞いてしまった。

「職場近いから。それに私よくお酒飲むし、店知ってるんだ」

 彼女は振り返ることなく、歩き続けながら答える。俺はなるほど納得といった感じで頷いた。しばらく歩くと、白塗りの壁でシンプルな外装の店が見えてきた。サキさんは真っ直ぐその店に向かい、ドアを開けて入った。そしてすぐさま俺たちの元へやってきた店員に「予約してないけど二人大丈夫ですか?」と確認を取る。店員は「もちろん大丈夫ですよ」と元気よく返してくれた。そして「こちらへどうぞ」と席へと案内を始めた。

 案内する店員に着いて歩きながら俺は軽く店の中を見渡す。内装は飲み屋というよりはまるっきりカフェといった具合で、多分昼はカフェ、夜はバー形態の店なのだろう。そうしていると「こちらのお席になります」と言って俺たちは席に通された。案内されたのは窓際の二人掛けのソファー席。いわゆるカップルシートだった。

 流石に初対面でこれはマズいだろうと、席に座るのを躊躇した俺。しかしサキさんは全く気にする様子はなく、脇に置かれていた荷物入れのカゴに自分の荷物を置いてすぐさま座った。

「どうしたの? 座りなよ」

 ポンポンとソファーの空いたスペースを叩くサキさん。俺は荷物を置くと、おずおずと隣へ座った。肩が触れ合うほどの距離に、先ほど出会ったばかりの人がいる。これはいったいどういう状況なのだろう。

「飲み物どうする?」

 テーブルの上に置かれたメニュー表を広げながら俺に問いかける。俺はそれを流し読みして、「ビールで」と答えた。

「じゃあ私もビール!」

 そして振り返り、「すいませーん」と店員を呼び寄せると、すぐにビールを二つ注文していた。俺は店員を先に呼ばれてしまい、何もすることなく大人しく座っているだけになってしまった。

「あの、よく来るんですか? この店は」

 俺は緊張のあまり、とりあえず質問を投げた。

「ん? この店は初めてだよ」

 そう言って両手で頬杖をつくサキさん。薄暗い店内の間接照明が顔に反射して、少しオレンジ色に光っていた。

「普段はもっと飲み屋っぽいところ行くんだけどね、今日は特別にしとこうと思って」

 そんな事を話しているうちにビールが運ばれてくる。

「はいじゃあ乾杯」

「乾杯」

 俺たちはとりあえずジョッキを持つと、軽く乾杯をした。とりあえず俺はビールを一口飲む。苦味と炭酸が口の中ではじけ、喉を潤す。そうしているうちにサキさんは料理を注文していた。またもや先を越されてしまった。

「さっきからすいません」

「いいのよ、こういうのは気づいた人がやればいいの」

 そしてようやくビールに口をつける彼女。「おいしい」と呟いたのが聞こえた。

「ケケ君は大学生だよね。何歳?」

「今二〇歳です」

「私の四つ下かぁ、若いなぁ」

 俺はまたビールを一口飲む。何を話そうかと少し考えていた。なんせ初対面、しかも歳も少し離れている。話すネタに少し困った。

「今日は本当ゴメンね、雨の中待たせちゃって」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ」

 さっきあれほど謝り合いをしたのにも関わらず、また謝られてしまう。俺は大丈夫ですとしか言えないのだが。それに待っていたのは俺の下心があったから。ようするに勝手にずっと待っていただけ。なので謝られる必要もないというのが本当のところだ。

「こういうアプリの人って見切りが早いから、すぐ帰っちゃうって聞いてたからさ。私、もう絶対いないだろうなと思ったの。けど走って向かって良かった」

 ニコリと嬉しそうに笑うサキさん。たれ目の、人懐っこそうな瞳が俺の顔を見つめていた。目と目が合う。薄暗い中でも、彼女の顔立ちの良さが分かる。

「来てくれて嬉しかったです、本当」

 俺は思わず目をそらしてしまう。女性に見つめられることに、未だ慣れていない。

「こういうの、初めて?」

 覗き込むように俺の顔を見つめるサキさん。俺は少しうつむき加減で喋る事しか出来なかった。

「女の子と飲むのはたまに……」

「じゃなくて、アプリ使って会った事」

「それは初めてです、初めて」

 アプリをダウンロードして一回目のマッチであなたに会ったんです。と素直に言うと、サキさんはアハハと声を出して笑った。笑われたことがなんだか恥ずかしくて、俺は少し赤面していたと思う。

「大丈夫、会ったのは私も初めてだから」

 ビールを飲みながら、ピースサインをこちらへと向けてきた彼女。俺もとりあえずピースサインを返しておくことにした。それを見て彼女はまた笑った。俺も曖昧な笑みを浮かべておいた。

「可愛いねぇ! ケケ君可愛いよ!」

 そう言って俺の背中をバンバンと叩く彼女。少し痛かったけれど、なんだか距離が縮まったみたいで少し嬉しい。そうこうしているうちに注文した料理が次々と運ばれてきた。俺たちはそれに手をつけながら、ゆっくりと互いの事を掘り下げ始めた。

「ケケ君は大学どこ通ってるの?」

「拝成大っす」

サキさんの食事を取り分けようとした手が止まる。そして目を丸くしてこちらを見つめた。今更だけど、結構表情豊かな人だ。

「拝成? マジ? すごいじゃん」

「そんなでも無いですよ、推薦だし」

「推薦とか尚更すごいよ!」

 そのあと彼女は興味津々で俺の大学の事を聞いてくる。講義の事、サークルの事、キャンパスの事、エトセトラ。俺はまともに話せることが嬉しくてペラペラと喋った。よくよく考えれば素性も分からぬ相手に個人情報を漏らしまくっている訳だが、俺はそこまで考えが至らなかった。

「凄いねえ、私誰でも入れるFラン大学だったし、別世界のお話だ」

「どこの大学も変わんないですって」

 ごくごくとビールを飲むサキさん。またグラスが空になっていた。それを見て俺が店員を呼ぼうと振り返るより早く、サキさんが店員を呼んだ。そしてまた同じくビールを注文していた。店員さんはかしこまりましたと言うと、グラスをもって下がっていった。

「ビール、好きなんですか」

 俺はカマンベールフライをおいしそうにつまんでいたサキさんに思わず聞いてしまう。

「そりゃあもう大好き」

 注文してすぐに運ばれてきたビールを受け取り、それを掲げながら彼女はそう言った。そしてそれを眺めながら心底嬉しそうにうっとりとしている。

「この黄金色の液体を見るだけで心が躍るわ」

「そんなにですか」

「逆に聞くけどこれよりおいしいお酒ってどれ?」

 メニューを俺の前に突き出しながら、これ? それともこれ? と適当に指さしながら聞いてくる。俺もそれに乗っかり、「これとか」と言って適当に指さす。指さした先を見てサキさんは笑った。

「モヒートは無いかな」

 それを聞いて俺も笑った。確かにモヒートは無いかな。サキさんは俺の笑っている姿を見ながらビールを一口飲んだ。それはそれは、とても美味しそうに飲んでいた。

「そうだ、会った事だし連絡先交換しよ?」

 俺の目の前に、スマートフォンの画面を差し出す。そこには登録に必要なコードが表示されていた。

「いいんですか?」

「だって会ったじゃん。それだけで条件達成だよ」

 俺はポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動する。そして読み取りの画面を開いてサキさんのコードをスキャンした。すると一瞬で登録が完了する。そこには「伊藤」と書かれたアカウントが出てきた。

「伊藤さんなんですね、サキさん」

「そういう君は又木君なのね」

 互いに本名を確認してしまった後、改めてよろしくとメッセージがわりにスタンプを送り合う。サキさんはよく分からないキャラクターのスタンプを送ってきた。よく見るとそれは、あのアプリのアイコンのキャラクターだった。なるほどなと、一人納得していた。

 それからしばらくは適当な話が続いた。今までのアプリで会話していたような、適当で、のんびりとした話だ。そのゆっくりした雰囲気とは反対に、サキさんはビールを勢いよくあおり続けていた。そんなペースで飲んだら酔っぱらうんじゃないかと心配だったが、案の定顔が赤くなり始め、呂律も怪しくなっていた。

「えへへ、そうなのよ、あれがおいしくて……」

「大丈夫ですか? 飲みすぎてません?」

 先程から繰り返し喋っていたコンビニのカップケーキの話を遮り、俺は彼女に声をかけた。

「大丈夫じゃないよぉ!」

「久しぶりにたのしー飲みだからつい飲んじゃった」

 えへえへと笑いながら頭を下げるサキさん。グラスは下げられてしまっているので正確な数は分からないが、恐らくこの短時間で四〜六杯は飲んでいる。そしてまだ手元に一杯。そりゃあ酔っぱらいもするだろう。

「ダメですよ、そんな飲んじゃ」

「なんでよー、いいじゃない」

「友達とかならともかく、初めて会った相手の前でそこまで酔いどれるのはよろしくないです」

 俺は心配半分、怒り半分でサキさんに注意した。年下の俺が言うのも変な話だが、こんな事をしていたら明らかに危ない。相手がどんなやつかも分からない状態で酩酊するなんてもってのほかだ。女性なら尚更。

「えへへ、優しいなあケケ君は」

「心配なんですよ、そんな飲み方してるのが」

 俺は通りかかった店員を呼び止め水を注文した。それを見た彼女は持っていたビールをグイッと飲む。そしてグラスを一気に空にすると、それを勢いよくテーブルの上に置いた。

「モテるでしょ!」

「モテてたらアプリなんか使いませんって」

 すぐに運ばれてきた水をグイッと押し付けるように彼女に渡す。受け取った彼女は渋々といった感じでそれを飲んだ。俺はそれを見て少し安心する。とりあえず水は飲ませた。

「じゃあケケ君はさぁ、何でアプリやってたの」

 コップを軽く回し、カラカラと氷を回すサキさん。右手で頬杖を突いて、俺の顔をまた見つめてきた。顔立ちの良い彼女に見つめられるというだけでも結構ドキドキするのに、酒で赤くなった顔がやけに色っぽく見えたものだから、俺はもうどうしていいか分からなかった。とりあえず問いに答えようと、軽くパニックになった頭で考える。

「そりゃあ、流行ってたから……」

「流行ってるだけじゃ、理由にならないでしょ」

「……彼女が欲しいから」

「そうじゃないだろ~?」

 そう言ってニヤニヤと笑いながら左手で軽く俺の肩を小突くサキさん。彼女はもっと違う答えを求めているようだ。

「これ以外無いでしょ、他に何あります?」

「アプリなんて使ってるんだから、皆考える事は一つじゃないの?」

「えっと……」

 すると彼女はいきなり、先ほど小突いた左手で俺の右の頬を撫でた。触られた俺は思わず「えひっ」みたいな変な声を出してしまった。そして彼女は俺に顔を近づけ、耳元でささやく。

「シたいって、思ってるんでしょ」

 サキさんの甘美なささやき声が、耳の中で反響して、脳天まで届いた。脳みそが震え、そこから背筋に伝わり、ぞくぞくとした感覚に襲われる。興奮と驚きが混ざり合い、俺の思考は一瞬停止した。

「少なくとも君はそう思って、やってるんでしょ」

 そのまま耳元でささやき続ける彼女。吐息がかかるほど近くで、俺に向かって話し続ける。さっきから腕に当たっている柔らかい感触はなんだ。

「いや、そんな……」

 俺は停止した思考を再起動させて、その言葉に反論しようと声を発した。本能と理性の狭間で俺は揺れている。そして脳みそは混濁している。

「そんな爛れた事を求めてるわけじゃ……」

「じゃあ、この後飲み終わったらどうしたい?」

 相変わらずの近さで俺にささやきかけてくるサキさん。俺にいったいどうしろと言うのだ?酒でほろ酔いになった勢いと、頬にかかる彼女の吐息の熱にうなされて、俺は妄言を吐きそうになった。だがそれはダメだ。言ったらダメなんだ。俺は断じて、断じてこんな不純な事に……。

「……ずるい」

「ん?」

「ずるいっすよ……こんなの……」

 俺はもう切羽詰まっていた。感情が暴走してしまって、情緒はもう狂っている。酔いも回っている。興奮が高まりすぎて吐き出す言葉は、詰まってしまっていた。

「何がずるいのかな? ん?」

 彼女はほとんど密着していた状態から少し離れると、俺の腕をギュッと両手で握った。そして俺の顔を笑いながらじっと見つめてくる。

「こんなんされたら誰でも、そう言いたくなっちゃいますって……」

「じゃあ、言ってごらんよ、ほら」

 そう言って促すサキさん。腕を握りしめる手が、ますます力強さを増した。この人はいったい、何を求めているのだろう。俺にはよく分からなかった。

「……俺は」

「うんうん」

「……シたいです……」

 もうどうにでもなれ。俺は先程から喉の手前まで出かかっていた言葉を吐き出した。プライドだとか格好つけだとか、そういうのはもう投げ捨ててしまった。

「誰と? ねえ誰と?」

「……サキさんと……」

 その言葉を聞いた瞬間、サキさんは吹き出した。そして破顔一笑。先程までのしっとりとした雰囲気なんて無かったかのように、思いっきり笑っていた。

「よく言ったねえ! 凄いねえ!」

 掴んでいた手を離し、俺の頭をワシャワシャと撫でるサキさん。セットしていた髪の毛はぐしゃぐしゃになった。今の俺はヘアスタイルと同じくらい頭の中がかき乱されているし、恥ずかしさでもう破裂しそうだ。

「もう、何なんですか本当」

 多分真っ赤になっているであろう顔を手で覆うと、軽く俯く俺。

「だってさぁ、いちいち仕草とか話とか可愛いんだもん。からかいたくなっちゃうよ、そんなの」

 そして彼女はふふっとまた軽く吹き出した。笑いのツボに入ったのか、はたまたあまりにも惨めな姿に笑いをこらえきれないのか。

「何かさ、犬みたいだよね、ケケ君」

「それはどういう意味ですか」

 俺はまだ顔を覆っていた。まともにサキさんの顔が見れなかった。なぜあんなことを言ってしまったのかという後悔と恥ずかしさで一杯だった。

「可愛げがあって忠実で、とても素直でいい子だなあって」

「褒めてくれるんですね、あんな醜態を晒した後でも」

「えへへ、そんな怒んないでよ」

 そう言って俺の肩を軽く叩く彼女。俺は顔を上げて、手元のビールを一気に飲み干した。彼女は無邪気なのか、はたまた性悪なのか。酔っぱらいの思考回路も行動もよく分からないが、とにかく楽しそうだった。

「ね、飲もうよ、もうちょっと」

「もう散々飲んでるでしょ」

「まだ足りないから、もうちょっとだけ」

 その後、俺たちは小一時間ほど飲み続け、喋り続けた。最終的に「ラストオーダーなので……」と店員に追い出されるまで、俺たちのしょうもない会話は続いた。


 店を出てから、俺とサキさんはどこに行くわけでも無く、ただブラブラと繁華街を歩き続けた。時折やってくるキャッチの人らを振り払いながら、行く宛無く、さまよい続けた。

しばらく歩くと、小さい公園があった。遊具などは何もなく、空間とベンチだけがある場所だったが。そのベンチに腰掛けると、俺たちは何を言うわけでも、何をするわけでも無く、ただ座って行き交う人々を眺めていた。俺達は先ほどのカップルシートの距離間そのままで座った。看板のギラギラとした光や、店先を照らす照明、スマートフォンの光。眩しすぎるとも思えるそれらは、人々を誘う誘蛾灯のようにも思える。

「ねえ」

 最初に口を開いたのは、サキさんだった。

「楽しかった? 今日」

 何だか彼女は真面目だった。顔も少し強張らせていた。先ほどまでの陽気さとは打って変わって、真剣な口調だった。ただ感想を聞いてるだけなのに。

「楽しかったですよ、そりゃあもう」

 俺は彼女の方を見ながら、素直に今日の実感を述べた。無理やり凄いことを言わされたりもしたが、あれも含めて楽しい思い出だ。

「本当に?」

「こんな事で嘘ついてどうするんですか」

「そっか、それなら良かった」

 それを聞いてサキさんは心底安心したように、ほっと息を吐いた。先ほどから少し硬くなっていた表情も少し和らいだように見える。

「何でそんな気にするんです」

「だってつまんないとか言われたらしんどいじゃん」

「しんどい?」

「そうだよ、辛くて寂しいもんだよ、つまんないって言われるのは」

 足元の小石を蹴飛ばし、何だか遠くを眺めるサキさん。その視線は人でも店でもない、どこかを見つめているようだった。

「必死に考えて、喜ばせようと頑張って、それでも否定された時の悲しみは酷いもんだよ」

「……何かあったんですか?」

 一瞬、彼女は何かを言おうと口を開いた。しかしすぐにつぐむと、代わりにニコリと笑顔を作った。

「また今度、それについてはゆっくり話そっか」

「今でも全然構いませんよ」

「でもさ、電車の時間ヤバいよ」

「あ」

 そうだった。電車という存在を完全に失念していた。普段徒歩圏内の学生街でばかり飲んでいるから、そういった制限時間に関して疎くなっていた。

「別に私はお泊りしてもいいよ? 明日休みだし」

 そう言うとニヤニヤしながらこちらを覗き込んでくるサキさん。この人は一体何なんだ。ここまで言われて黙ってられるか。いっそ襲ってやろうか。

「……からかわないでくださいよ」

 そう、それは頭の中で思っただけ。度胸も勇気も一切ないし、何より俺には経験が全くと言っていいほど不足している。それを彼女に見透かされているようで情けなく思えてきた。

「えへへ、怒らないでよ」

「ほら、早く行きましょう」

 勢いよくベンチから立ち上がり、歩き出す俺。慌てて彼女が後を追ってくる。

「待ってよ」

「待ちません」

 俺は早足で繁華街を歩く。隙間を縫うように、するすると進む。時折後ろを見ると、サキさんは人の波にさらわれそうになりながらも、何とか後ろについてきていた。

「ちょっと、ねえってば」

 俺はつかつかと歩き続ける。ガキっぽいが、歩みを止める気にはなれなかった。そんな俺をけなげに追う彼女。何でこんなに俺を追うんだ。

「待ってって言ってるでしょ!」

 グイグイと無理やり人をかき分け、駆けよってきた彼女は俺の手を握る。俺の右手を彼女の左手が包む。柔らかく、小さく、それでいて温かい手だった。

「これでよし」

「もう、何なんですか、本当に」

「何なんですかはこっちのセリフだよもう! いきなり早足で行っちゃうんだもん」

「離してくださいよ、もうゆっくり歩きますから」

「嫌。そう言って行っちゃうんでしょ」

 意地でも彼女は手を離そうとはしない。まるでおもちゃを取られたくない子供のように、ギュッと俺の手を握りしめていた。そして当然のように、俺はドキドキしている。

「分かりました、分かりましたから、歩きましょう」

「置いていかないでよ?」

「もうしませんってば」

 手を取り足並みを揃え、駅へと向かう俺とサキさん。はたから見たら、どんな関係に見えるだろうか。そして、出会ったばかりでこんな事になっている俺たちは、いったいなんなのだろう。緊張で手汗が酷い。間違いなく俺の手はびしょびしょになっているはずだ。握っている彼女の手も酷いことになっていそうだが、彼女は気にする様子もなかった。

「なんだかんだでケケ君、優しいね」

「そんな事無いです。現にサキさんを置いていこうとしたじゃないですか」

「でも今私と手を繋いで歩いてくれてるじゃない」

 そう言って繋いでいる手を大きく振る彼女。俺はされるがままだ。

「それはサキさんが無理やり繋いだから」

「振り払っても良かったのに?」

「そんな事出来ないですよ」

「ほら優しい」

 そう言ってサキさんは笑った。それはとても静かで、しっとりとした笑みだった。そんなやり取りをしながら歩いているうちに、俺たちは駅までたどり着いていた。改札の前までやってくると、サキさんはパッと繋いでいた手を離す。そしてこちらの方へ身体を向けると、俺の顔を見ながら右方向を指差した。

「じゃあ、私こっちの電車だから」

「あ、はい」

「また遊んでくれる?」

「そりゃ、まあ、全然大丈夫ですよ」

「そう言ってくれると信じてたよ」

 彼女は俺の頭をポンポンと叩いた。俺は少し気恥ずかしくなり、彼女の顔から目線を逸らし髪の毛をイジる。

「また連絡するね」

「もちろん。待ってます」

「じゃあ、またね」

 彼女はそう言って改札の向こう側へと消えていった。しばらくは後姿を追えたが、すぐに人ごみの中に溶けていってしまった。俺はその後姿を見送った後、しばらくボーっと立ち尽くしていた。自分の乗る電車の終電一本手前まで、既にいない彼女の姿を追っていた。何だか長い夢でも見ていたような、そんな気分だった。

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