Summer Rain

結城倫

第1話

 雨がまた降りしきっている。俺は窓から降り具合を眺めつつ、軽いあくびをした。

 春はいつの間にか終わりをむかえ、気がつけば梅雨の季節がやってきて、こうして世界を濡らしていく。

 こういった気候が続いていると、俺の心もじっとりと湿気っていくような気がする。そして何だかアンニュイな気分になってしまう。しばらく俺は雨音を聞きながら、ベッドの上に座ってぼんやりとしていた。

 何気なく壁にかかった時計を見る。午前七時三〇分。昨日眠りについたのは午前〇時を少し過ぎたくらいだったから、約七時間半は寝た事になる。

 大学二年生にしては実に健康的な生活リズムでは無いだろうか、とは言っても普段はもっと酷いのだが。雨音に包まれながら、さてもう一眠りするかとベッドの中に潜り込もうとした瞬間、スマートフォンの通話着信のバイブが鳴った。

 こんな時間に誰からだろうと思って画面を見ると、そこには見知った名前が表示されていた。俺は見ないふりをすることに決めた。寝ていたことにしてごまかすのだ

「俺は出ない、俺はいない、俺は寝てる……」

 しかし、いくら無視をしても延々とスマートフォンは鳴り続ける。ウンザリした俺は、しょうがなく通話に出ることにした。

「もしもし」

「おはよう又木君! 良い朝だねえ!」

「こんな雨の朝が? 冗談だろ」

「いつだって新しい朝はいいもんだよ!」

「……高良、お前酔ってるな?」

 いつもと比べてやけに陽気で、声がワントーン高い。彼と何度も飲んだ経験から言わせてもらうが、間違いない、こいつは酔っ払いだ。電話口からも酒のにおいが漂ってきそうだ。

「そんな事無いぜ! ちょっとお酒は残ってるかもしれないけど」

「何時まで飲んでたんだ」

 俺は着ていた部屋着のTシャツを脱ぐと、ベッドの上に放り投げる。そしてもう一度あくびをした。ハンガーから適当に服を取り、袖を通す。

「三時、いや嘘だ。五時かな? ああ、さっき缶ビール飲んだから七時か」

「馬鹿じゃねえの、お前。帰れねえとか言うなよ」

 そう言いながら半袖のシャツを着終えると、耳と肩の間にスマートフォンを挟んだままベッドから立ち上がる。俺は冷蔵庫の中から麦茶のペットボトルを取り出し、昨日から使いっぱなしのコップに注ぐ。何故かパンツ一丁で繁華街のゴミ捨て場に寝転ぶ高良の姿が見えた気がした。

「いやいや、家にも帰れない馬鹿と一緒にされちゃ困るな。俺は既に帰宅済みだ」

「じゃあ何のために電話してきたんだ」

「そりゃあお前、代返のお願いよ」

「そんな事だと思ったよ」

 グイッと注いだ麦茶を飲み干した。そしてコップを置くと、部屋の隅に投げ捨てられていた黒のチノパンを拾い上げて穿きはじめる。

「当たり前だろ、だって七時まで飲んでた人間が出れるかよ」

 当然である。出たとしても講義から放り出される可能性も無きにしもあらずだが。はき終えてベルトを締めると、耳と肩に挟んでいたスマートフォンをまた手に持ち替え、またベッドに座った。

「高くつくぞ、必修講義もあるしな」

「まあまあ、いつもの奴で手打ちにしてくださいよ」

「分かったよ、分かったからさっさと寝ろ」

「ありがとう、ありがとう、これで安心して寝れるよ。おやすみ……」

 そうして通話はぷつっと切れる。清々しいとは到底言えない朝の通話だった。俺はベッドの上にスマートフォンを放り投げるとベッドから立ち上がって一つ伸びをした。バキバキと関節が鳴り、またあくびがこぼれる。

「おはよう」

 ただ一人の部屋の中、呟くようにこう言った。特に何の意味も無く、ただ吐き出される空気のように、自分の中から勝手に漏れた言葉だった。

 また窓を覗き込んだ。相変わらず降り続く雨は止む気配を見せず、窓を濡らし続けている。この中、大学へ向かうのかと思うと相当に面倒くさい。二度寝を決め込んでやろうかとも思う。しかし通話しながら無意識のうちに着替えてしまった俺は、心の中ではもう行く気満々なのだ。自分の真面目さ加減に、思わず笑ってしまった。

「どうしたもんかね、全く」

 ベッドから立ち上がると、部屋の隅に立てかけられた姿見鏡で自分の姿を見る。パリッとしてるとは言えない、少しオーバーサイズの半袖の白シャツに、細身の黒のチノパン姿。量産型だ。髪もパーマをかけて、緩い今どきな感じなんだろう。気にしてなかったが。

「笑っちゃうよ」

 時計を見ると、そろそろ八時になろうかというところだった。俺はリュックを背負い、玄関で適当に立てかけられた傘を手に取る。朝食は食べる気にならなかった。そういう気すら起こらなかった。ドアを開けると雨は相変わらず勢いよく降り続けていて、心をしけらせる。

 俺はその中にえいやと一歩、二歩と踏み出す。そして傘を開き、その歩みを速めていく。じっとりとした湿気が身体を包んだ。やはり、酷く不快だった。


 小学校、中学校、高校。俺はずっと平凡だった。虐められるわけでも無ければ、気持ち悪がられる事も無い。人並みに学校生活を過ごし、人並みに友人を作り、人並みに青春を送った。そして県外の大学に入学し、現在進行形でモラトリアムを味わっている大学二年生がこの俺だ。

「ではレジュメの二ページを見てください、このように発展した文化が成立した背景には……」

 年老いた教授は無表情でノートパソコンをいじりながらスライドを操作している。一限、二限の講義に続けて出席し、共に窓際の席に座った俺は相変わらず外を眺めていた。雨に煙った大学のキャンパスは色彩を失っているように見える。雨は時折窓を叩くほどの強さを見せているので、きっと生徒の出足は鈍るだろう。

「この後ですね、私用事がありまして。ですから今日はこれで出席取って終わります」

 そう言って回される出席カードの束。二枚ほど引き抜き、俺の名前と高良の名前をそれぞれ書いた。そして隣の席に置いていたリュックを背負い、出席カードを教授の前の机に持っていく。二枚同時出しなんて不自然極まりない事この上ないのだが、教授は出す人には興味が無いようで、ずっと片付けをしていた。

 俺は出口へ向かうと、そのまま部屋を出る。廊下にはまだ人は少ない。ホールから階段を下ろうかとした所で腹が鳴った。朝飯を抜くなんて日常茶飯事なのに、何故か今日は空腹感を覚えている。小腹を満たそうと決めた俺は、食堂へと向かって足を進めた。少し早く講義が終わってくれたおかげで、食堂は人気が無く快適だった。いつもこれくらいならいいのにと思いながら、俺は食券を買い、注文受け取りの列へと並ぶ。誰もいないのですぐに注文できた。受付のおばちゃんは食券を確認すると、手慣れた動作で注文の料理をすぐに作り上げる。まさに洗練された動きだ。カウンターで受け取ったラーメンと割り箸をトレーに載せ、それを持ち席を探す。そして見つけた適当な席にラーメンを置くと、席に腰かけ、隣へ荷物を置いた。

「いただきます」

 食事を始めると、俺は特にスマートフォンなどをいじる事も無く、食事に集中した。腹が減っては何とやらで、まずは自分の活力を確保したかったのかもしれない。ある程度食べた所で、ふと顔を上げた俺は、テーブルの前に立っている人影に気が付いた。

「よっ、ケケ」

 枯れ木のように生気のない顔と、細長い体躯をした男がそこに立っていた。

普通のTシャツがダボダボに見えるくらいには細い身体をしている。

「おい山根、その呼び方やめろつってるだろ」

「いいじゃん、又木もケケも変わんねえよ」

「じゃあ俺もアンガールズって呼ぶぞ」

「どうぞどうぞ。ジャンガジャンガでも踊ってやろうか?」

 そう言ってボサボサの髪を弄りながら俺の正面の席に座る。俺はラーメンの乗ったトレーを気持ち手前に引いた。

「で? 何しに来たの?」

「お前さ、食堂来るのに理由なんか一つしかねえだろ。メシだよメシ」

 俺と同じように荷物を隣の席に置くと、手に持っていたレジ袋からパンを取り出して食べ始める山根。やさぐれたような見た目と違って、上品にちぎりながら食べているのが何だかおかしかった。

「ケケ、ここ一週間サークル来てないじゃん」

「ああ、何となく行く気起きなくてさ」

 俺はGLOW MUSIC CLUB、略してGMCと言う音楽系サークルに所属している。

音楽、特にロックが好きな奴が集まったサークルで、楽器を弾ける弾けないに関わらず誰でもウェルカムなサークルだ。その方針のおかげで最近はただの飲みサーと化しつつある。

「最近内藤も来ねえから寂しくてよぉ」

「内藤が? あれだけ熱心だったのに?」

「コレが出来たらしいんだよ、コレが」

 山根は右手の小指を立てて俺の方へと突き出す。その顔は般若の面とはいかないが、それに近しいものを感じる。恨みなのか妬みなのか、とにかく色々な感情が渦巻いているように見えた。

「いい事じゃん、めでたい話だ」

「良くない! ぜんっぜん良くない!!」

 食いかけのパンを乱雑にテーブルの上に置き、うっとおしそうに長い前髪をかきあげる山根。そしてもう一度同じように右手の小指を突き立てる。それはさながらファックサインのようだった。

「あいつと俺は『桃園の誓い』ならぬ『さくらやの誓い』を交わした義兄弟だったと言うのに」

「何の契り交わしてんだよ。しかも『さくらや』って」

「我ら生まれた日は違えども、童貞を捨てる時は同じ日同じ時を願わん」

「バカじゃね?」

 俺は残っていたラーメンに手を付ける。このまま付き合っていたら完全に麺が伸びてしまう。ズルズルと麺をすすりながら、止まらない山根の話に耳を傾ける。

「そもそもだな、俺と一緒で男子高出身のあいつがどうやって彼女なんて作ったんだ? 無理だろ、不可能だろ、絶対ありえないだろ、女子に耐性があるわけない」

 俺は残っていた最後の麺をズルズルと食べて、持っていた割り箸をトレーの上に置く。その後、テーブルの上に常設されているティッシュを一枚取り、口の周りを拭いた。山根は相変わらず険しい表情をしながらパンを食べ続けている。

「あのさ、俺たち入学してもう一年よ? そりゃあ成長もするだろうし慣れも出てくるでしょ」

 パンを食べ続けている山根を見ながら、俺はそう言った。

「成長、それもあるかもしれん。そうだとしても相手はどこから持ってきたんだ?」

「それは分からんよ。GMCで人知れず愛を育んだのかもしれんし、バイト先かもしれんし、意外と突然の出会いだったのかもしれん」

「ありえん、ありえん、あいつが……あいつが……」

「まあそこら辺は本人に直接聞くこったな」

 山根は髪の毛をグシャグシャとしながら「あー」と声を出す。しばらくそうしていたかと思うと、突然パンの最後の一かけを口の中に放り込み、勢いよく立ち上がった。

「どうしたよいきなり立って」

「むしゃくしゃするからタバコ吸ってくるわ」

 山根はそう言うと、荷物を持って喫煙所へ向かって行ってしまった。後姿になんだか哀愁が漂っているような気がしたが、間違いでは無いだろう。彼が中庭に続く扉から外に出たのを見送ると、もうここにいる意味もないので、俺も席を立った。食器を返却口へ返すと、いつの間にか人でごった返していた食堂内を、上手くすり抜けながら正面出入口へと向かう。その間、どこへ行こうかと考えてみた俺は「サークル、久々に顔を出してみるか」と思い立ち、食堂を抜けると学生棟へと歩き始めた。道中、廊下の窓から外を覗く。相変わらず雨は強く降っていて、止む気配は一切無かった。

「よう」

 その道中、また見知った顔と出会った。今朝、俺にクソみたいなモーニングコールをかけてきた高良が学生棟の連絡通路にいたのだ。柄シャツにハーフパンツ姿が相変わらずよく似合っている。髪の毛もセットされていて、元気そうだ。

「起きたのか」

「なんか人って酔い過ぎると眠れないのな。三時間くらいしか寝れなかったわ」

「その割には元気そうだけど」

「へへっ、今日も色々約束があるからな、へばってられんのよ」

「あっそ」

「部室行くんだろ? 早く行こうぜ」

 同じGMCのメンバーである俺と高良は学生棟にある部室へと向かって歩き始める。俺は高良に歩調を合わせ、横に並ぶようにして歩いていた。

「内藤、彼女出来たんだってな」

 しばらくあった無言の時間から、最初に口を開いたのは高良だった。

「なんだ、高良も知ってたんだ」

「しかも最近流行りのワンマッチアプリがきっかけだとよ。本当現代って感じだ」

「ワンマッチアプリ?」

 思わず俺は聞き返す。静かな廊下で、高良の声がやけによく聞こえた。彼は気持ち歩調を速めながら話を続ける。

「そうそう、知らん?『the one』ってアプリなんだけど」

「全く知らねえ、何それ」

「又木、ダメだな~。ちゃんと流行りに乗っからなきゃ」

「はあ」

 高良は、ポケットから取り出したスマートフォンの画面を指先で弄り始めた。最近買い替えたらしいそのスマートフォンには、半透明のカバーが付けられていて、本体のシルバーのカラーが透けて見えている。二、三度ほどシュッシュッとスワイプとタッチを繰り返すと、赤い四角形に「ONE」と書かれたアイコンのアプリが映った画面を俺に見せつけてきた。

「これよこれ」

「そんなに楽しいもんなのか」

「おっ、気になる?」

「気になるもクソも、見せたいんだろ、それ」

「又木君に流行に乗る楽しさというものを教えてあげたくてね」

 高良は画面を弄ると、またこちらの方へスマートフォンを向け、ニヤリと笑う。映し出されていたのは、黒いぱっつんのロングヘアーが特徴的な女性の自撮りだった。

「へー、美人じゃん、どうしたのこの人」

「だろー? 俺この人とマッチしてさー、今度遊ぶ予定になってんだ」

「マッチ?」

「アプリにな、ワンマッチ機能ってのがあるんだよ」

 高良は目を輝かせながら、生き生きとアプリの説明を始めた。俺は高良の普段見せないような勢いに少し面食らったが。

「一日に一回、『貴方の運命の人はこの人』ってランダムに一人とマッチングするんだ。そしてマッチングから二四時間以内はメッセージ送り放題で、互いに許可すれば通話も出来ちゃう。でも二四時間を過ぎるか、自分か相手がブロックしたらその時点で終了。さよならだよ」

 そう言って高良は腕組みをした。こいつが何かを語る時はいつもこのスタイルだ。

「もう会えないのか」

「うん、もうマッチはしない。二回目マッチしたって話も聞くけど、まれだな」

「そのアプリは何がいいの? あんま面白いとこ分かんないけど」

「『確実にマッチングする事』と『一日限定』ってところが面白いところだな」

 そう言ってチラリと自分のスマートフォンの画面を見る高良。やり取りしてる相手でもいるのだろうか。先ほどからやけに見る頻度が高い。

「他のアプリだとマッチしなかったり、ずっと関係を続けようと思えばそのアプリ内で完結できたりするんだ」

 高良の口調に熱が入る。そしてわちゃわちゃと手を動かしながら説明を続ける。

「けどこれは違う。確実に誰かとは繋がれる。けど、一日しか猶予が無いから、連絡先の確保や約束の確保に必死になる。その駆け引きが熱いんだ、これまた」

「ほーん」

 高良が説明を終えるとほぼ同時に部室へとたどり着いた。様々なシールがベタベタと貼られ、『GLOW MUSIC CLUB』という看板までシールに侵食されている扉を開けて中に入る。

「スミスじゃん」

 部室の中では誰かがザ・スミスの「There Is a Light That Never Goes Out」をかけていた。普段は邦楽が流れている事が多いだけに、洋楽、しかもスミスなんていうのは珍しい。

よく見ると部室の片隅に置いていたレコードプレイヤーが動いている。最近導入されたのはいいけれど、誰も使っていなかったプレイヤーが、ようやく日の目を見たようだ。

「おっす」

 そして先ほどから話題の男、内藤がそこにいた。身長はさほどでもないが体格がいいこの男。着ているTシャツは相変わらずピチピチだ。部室の真ん中に備え付けられたテーブルの上にコンビニ弁当とスナック菓子を広げているのを見るに、食事中だったようだ。俺が突っ立っている間に、高良はつかつかと内藤に近づき、隣のパイプ椅子に腰かける。

「やったなお前」

「何が?」

「何がじゃねーよ!」

 高良は右手で内藤の左肩を思いっきり叩く。内藤は心底痛そうに顔をしかめる。そして同時に「何故僕はこんな事をされなければいけないのだろう」という困惑の表情を浮かべていた。そりゃあそうだろう。俺も出会い頭いきなり肩をぶっ叩かれたらそう思う。

「本当お前……スミスなんて聴きながら弁当を優雅に食いやがって……」

「えっ、何? この人何にそんな怒ってるの?」

 訳が分からないといった感じの内藤が俺に救いを求めてきたので、「彼女」と、一言返してやった。その瞬間内藤は「ああ、なるほど」とでも言いそうな表情を浮かべた後、少し焦ったように見えた。俺は一つため息を吐くと、内藤の向かいの席に座った。そして頬杖を突きながら袋の口が開いていたスナック菓子を一口いただく。

「あの、何で知ってるんですかね」

「何でもクソも、もうサークル内ではその噂で持ちきりだぞ」

「嘘でしょ、ついこの間の話だよ」

 内藤は愕然とした表情を浮かべていた。

「しかも『the one』を使って彼女を手に入れたとあれば話題性は抜群よ」

「そんな事まで」

「はぁ~羨ましい! どうやったんですかね! 俺なんてさ、出会ってはブロックされ、会話は続かずで、ようやく最近遊ぶ約束を……」

 高良はだらっと背もたれに寄りかかると天井を見上げる。呪詛のような言葉たちが煙のように口から立ち昇っていくのが見えるようだった。

「あのさ、内藤、お相手はどんな人なの?」

 俺は興味本位で聞いてみた。色々と面白い話が聞けるかもなと、それだけの軽い気持ちだった。

「この人だよ」

 スマートフォンの画面に映し出されていたのは、それは美しい女性と内藤のツーショットだった。カールしたセミロングの綺麗な金髪に、透き通るような青い瞳、通った鼻筋。整い過ぎているとも感じるその顔立ちは、見ていると眩しいくらいだった。

「おぉー……ハーフの方?」

「そうらしい、母親がアメリカ人で父親が日本人だって」

「いいね、可愛いじゃん」

「でしょ? 素敵でいい子なんだよ~」

「自慢の次は惚気かよ! へっ、犬も食わねえぜ」

 身体を起こしてこちらを見た高良は、そう吐き捨てる。そして内藤のスナック菓子を一掴みして食べた。

「あーやってらんねぇ」

「そう言いながら僕のお菓子食べるの止めてほしいんだけど」

「うるせえ! 菓子くらい食わせろ!」

「えー……」

 高良の虫の居所が大分悪くなってきたらしい。先ほどから触るもの皆傷つける勢いのトガり具合だ。気持ちは分かる。自分が丸っきり上手くいっていないにも関わらず、大当たりを引いたのを見せつけられたのだから。

 しかし、しかしだ。こいつは内藤を素直に祝ってやるほどの度量を持っていないのだろうか。せっかく友人が幸せを掴んだというのだから、一言おめでとうと言ってやるのが筋と言うものだろう。

「まあ、よかったね、内藤。ここからいつまで続くかは知らんけど」

 少なくとも、俺は言ってやろうと思った。もちろん、一言余計に。

「ありがとう、出来るだけ長く続いたら、いいなあ……」

 いつの間にか曲は止まっていた。レコードをしまうのだろう。アラン・ドロンが横たわる写真が載ったジャケットを持って、内藤はプレイヤーの方へと向かっていた。

「そういえばさ、珍しいね」

「何が?」

「邦楽ばっかり聴いてるイメージだったからさ、内藤。しかもレコード趣味あるなんて思わなくて」

「ああ……彼女の趣味なんだよね」

 彼はプレイヤーに辿り着くと、ダストカバーを外しリフターのレバーを上げ、トーンアームを持ち上げる。そしてレコードを持ち上げながら俺の質問に答えた。

「ジョイ・ディビジョンとかピクシーズとかそこらへんが好きでさ。そんで中古屋で買ったレコードを聴くのがいいんだって」

「いい趣味してるよ」

 俺は心の底からそう思った。昨今のレコードの流行りはあれど、わざわざ中古で買い集めて聴くなんて酔狂な事をするのは、相当な音楽好きか、サブカルをこじらせているか、どちらかだ。どちらにせよ、俺の好きな方面な趣味をしている人間だと思う。

「だけど、多分相当面倒くさいぞその女」

 ただ、この趣味を持っている奴は面倒くさい。それだけは間違いようが無かった。

「ただのちょっとこじらせた音楽趣味の女の子だよ、そこまで変な感じもしないし」

「いーや、お前は分かってないね、絶対ヤベエよ。色んなフェスとかライブに行きまくる女の方がまだマシだね」

 カバンの中から取り出したペットボトルの緑茶に口を付けながら俺は断言する。駅前の中古CDショップで熱心に棚を漁るおっさんたちを思い出しながら。

「いいぞいいぞ! もっと言ってやれ!」

 俺の言葉に気を良くした高良が野次を飛ばす。

「邦楽のウェイ系より洋楽の陰キャ系の方がヤバいって、義務教育で習うよな」

「ははん、どうやら通ってきた道が違うようだね」

 内藤はトートバッグへ大事そうにスミスのレコードをしまう。代わりに同じバッグの中からCDを取り出した。ジャケットには、よく日に焼けたオールバックのダンディな男性が目をつぶっているイラストが描かれていた。

「周りに何と言われようと、僕の心は晴れやかなんだ。たとえそれが梅雨の中の恋だとしても」

 そう言って今度はレコードプレイヤーの隣に置いてある、年季の入ったCDプレイヤーにディスクを挿入した。そして再生ボタンを押すと、内藤は満足そうにこちらを向いて微笑んだ。

 俺と高良は思わず顔を見合わせた。そして笑った。幸せに包まれているこいつには、今何を言っても無駄なのかもしれない。むしろそういう負の言葉を吐かれる方が、優越感があって楽しいとさえ思えるのだろう。

「何かどうぞお幸せにって感じだ」

「俺ももう言う事はねえや」

 そしてまた笑う俺達。それを見て内藤もニコニコと笑っていた。

「ありがとう。高良もデートが上手くいく事を祈ってるよ」

「おう、ありがとよ」

 部室の中が、先ほどまでのピリピリしたムードとは打って変わって、ほんわかふんわりした雰囲気に変わった。スピーカーからは曽我部恵一の歌声が響き渡り、心地の良いメロディが流れる。少し気味が悪いくらいの、何とも言えない生暖かい空気感に包まれたその瞬間。部室のドアが勢いよく開けられた。

「うーっす」

 山根だった。その瞬間、流れていた浮ついた空気感はかき消された。中に入ってきた梅雨の空気のせいか、はたまた山根の陰気な雰囲気のせいか。俺は思わず彼の方を見てしまう。他の二人も同じように感じたようで、嫌なものを見るような目で彼に視線を浴びせていた。

「な、なんだお前ら、汚物でも見るような目でこっちを見やがって」

「いやね、丁度よすぎるね、タイミングが」

 俺は独り言のようにつぶやく。

「マジでスゲーよ、山根は」

「うん、中々」

 高良も内藤も同感といった感じで頷く。

「なんだよなんだよ、俺が何したってんだよ、ええ?」

 いきなりそんな事をいわれた山根は困惑した表情を浮かべていた。そりゃあそうだろう、本人からすればただ部室に入ってきただけなのだから。救いを求めるように俺の顔を見てきたので、俺は素直に答えてやる事にした。

「いや、別に何も? ただ、何もしてないのが逆に罪って言うか……」

「まるで俺の存在が罪みたいに言うのやめてくれるか?」

「まあいい、とにかくだな、内藤にはしっかり話してもらうからな、色々と聞きたいことが……」

「今話してたんだよなぁ」

 そう言って内藤は頭をポリポリと掻きながら近くの椅子に腰かけ、テーブルの上のスナックに手を伸ばした。もうほとんど袋の中には残っていないようだった。


 俺たちは部室に来た後輩達や先輩達と中身の無い会話を繰り返し、時折内藤をいじり倒す。そして日はあっと言う間に暮れた。帰路に着こうとした俺だったが、まだ喋り足りないという山根が学生街の「さくらや」で飲もうと言った。いいねと高良、内藤の二人が乗ったので、思わずうんと返す。よしじゃあ決まりだと三人は意気揚々と繰り出していく。俺はその後ろに慌ててついていった。

 学生街の路地裏に「さくらや」はある。ボロい見た目の店で料理が美味い。そしてなおかつ安さが売りで、学生の懐に優しい。何よりそれなりに騒がしいのがいい。それは人が多いという意味の騒がしさでもあるが、耳の遠い親父がロックを大きめの音量で流しているというのもある。馬鹿話をするには丁度いい音を鳴らしつつ、程よくロックを楽しむことが出来る素敵な場所だ。今日も店内ではピンクフロイドが流れている。

「だからさ、不純なんだよ、不純」

 ビールジョッキを叩きつけるようにテーブルに置く山根。バン、と大きめの音が鳴り、ジョッキの中のビールが揺れた。

「アプリで出会ってその日限りの付き合いなんてなぁ、どう聞いても健全じゃねーだろ」

「そうは言っても、実際流行ってるから」

「それ自体がおかしいんだよ、狂ってんだよ」

 またグイッとビールをあおる山根。口の周りに白い泡が付く。内藤は店員を呼び止め、モツ煮と揚げ出し豆腐を注文していた。

「まだ食うのかよお前」

 俺は呆れ交じりで言った。

「さくらや来たらこれ食わないと気が済まないんだよね」

 内藤は片手でお腹をポンポンと叩きながら、テーブルの上の皿に残っていた唐揚げをつまむ。まだまだ食べる気満々のようだ。

「もっとだな、健全な出会いをしてな、健全な別れをするべきなんだよ」

「お前にそんな経験ねーだろ」

「女慣れもしてないくせに」

「うるせー!」

 俺達の言葉を振り払うかのように手をぶんぶんと振り回す山根。手元のジョッキに当たってぶちまけるんじゃないかと見ていて不安になる。そしてジョッキに残ったビールを一気に飲み干す。グラスには薄い白い泡の層だけが残った。あまり酒に強くない山根の顔は真っ赤に染まっていた。

「まあでも素晴らしいよ、今時そんなに硬派なのは」

「高校の時からずっとこうだよ」

 注文してすぐに運ばれてきた料理を食べながら、内藤と高良はしみじみと語った。俺も揚げ出し豆腐を一切れ頂戴した。

「まあ不純かもしれねえけどさ、四の五の言わずに、とりあえずやってみたらいいんだよ」

 高良がそう言ってスマートフォンを弄り始めた。

「そしたらさ、何か分かってくるかもしれないし」

 内藤はモツ煮を食べながら喋る。山根はそう言った二人を訝しげに見つめる。

「そんなもんか?」

「まず山根は慣れるところから始めなきゃいけないんだから、経験値を積む意味でもいいと思うな」

 高良が山根に目線を合わせずに語りかける。

「うーん……」

 そう言って腕組みしながら俯いた山根。何か思うところがあるようだ。うんうんとしばらく唸ったのち、顔を上げた。何か決意に満ちた表情だった。

「この狂った時代、自分も踊ってみるのが得策か」

「おっ、やってみる気になりました?」

「使い方ならレクチャー出来るよ」

 決意を決めた山根の元に二人がワッと寄っていく。取り出したスマートフォンを巻き上げ、アプリをすぐさまインストールしたようだ。そしてプロフィール用の写真を適当にパシャリと撮り、その他の雑多な設定をこなしていく。その一つ一つを手取り足取り教えている姿を見ながら、俺は飲みかけのレモンハイを飲んだ。既に氷が溶けて、味は薄くなっている。

「これでよし、あとはボタンを押せば開始だ」

「さあ、扉は開かれた。一目見たならあとは飛ぶだけ!」

「よぉーし、やるぞ……」

 この後、俺たちは山根とアプリで存分に遊び倒した。結局一人目はおおよそ一時間でブロックされるという悲しい結果で終わったが、それでも山根は俺達には分からない手応えを掴んだようで、またやるわと意気揚々と語っていた。

 そのあとも散々飲んで、山根の終電の時間が近づいてきたので俺たちは解散した。「さくらや」から自分の部屋まで歩いて帰ってくると、もう既に一二時を回っていた。着ている服を脱いで洗濯機に放り込み、部屋着にサッサと着替えてベッドへと倒れ込む。そして見上げた白い天井は、いつもと何だか違って見えていた。

 出会い系だなんだ、彼女がなんだと話していた今日一日。散々茶化しまわっていたが、俺も女性に関してはろくな経験をしていない。今まで平々凡々な学生生活を送っていたことは間違いないが、そこに女性という要素は一切と言っていいほど入ってこなかった。山根のように免疫が一切ないというわけでは無いのだが、とにかく俺には縁が無かった。

 俺の見てくれは良くない。そこまで体格もいい方じゃない。顔に至っては若干の斜視が入っている。それを補うくらい顔の造りがいいかと言われればそんな事は無いし、むしろ崩れている方かもしれない。兄貴の顔はあれだけ整っているのに、どうして似なかったのかねえなんて言われた事もあった。

「はあ」

 このまま俺も、女性と縁遠い生活を送って一人寂しく生きていくのだろうか。いや、何なら今も十分寂しい。田舎から都会の街に出てきて一年。友人はいるけれど、一緒に居るだけで心から安らげるような相手はいない。この物寂しさを満たしたいと思う時もあったが、どうすればいいのか分からないまま生きてきた。考えれば考えるほど、死にそうなくらい寂しくなってくる。俺も山根と一緒で、そろそろ一歩踏み出す必要があるのかもしれない。

「やってみるか、俺も?」

 そう言って自分の隣に投げ捨てられているスマートフォンを手に取り、アプリストアを開く。

そして「the one」で検索をかける。すると先ほど見た、赤いアイコンのアプリのページが出てきた。一瞬の躊躇の後、インストールのアイコンをタップした。これでめでたく俺も流行りに乗っかった大学生だ。

「ははっ」

 そして一人笑う。先ほどまであんなに馬鹿にしていたのに、結局俺も人恋しくなって夢を見ようとしている。結局一介の大学生、そして人間であり男なのだ。俺も。

 インストールが完了したのを見届けて、満足した俺はタオルケットに包まると、風呂にも入らずそのまま眠りについた。夢は見なかった。

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