第5話


 翌日、同僚の真仁から文を受け取った良春は、すぐに着替えをすませると、朝餉を食べる暇もなく家を出る。いつも賑わっている市は、閑散としていた。立ち話をしている人たちがヒソヒソと小声で話しているのを横目で見ながら、良春は足を急がす。

「こっちだ、こっち!」

 木の下で手招きしている真仁に気づいて、すぐにそばに行く。

「どういうことなんだ?」

 真仁からの文には、詳細は会って話すと書かれていた。だから、詳しいことはほとんど知らない。ただ、昨晩、不可解な事件があったのは確かなようだ。

 市に人が集まっていないのも、そのせいだろう。よっぽどの事だ。

「俺もまだ詳しくは知らん。ただ、怪異の仕業だと噂になっている。昨晩、子どもが死んだ……」

 それは、真仁の文にも書かれていたから知っている。問題は、なぜ亡くなったかだ。

「まさか、例の河童の呪いが原因だと言うんじゃないだろうな?」

 確かに気味の悪い事件ではあるが、それで亡くなった者はまだいなかったはずだ。

「原因かどうかは、俺にはわからん。だが、無関係でもなさそうだ……しかもだ。亡くなったその子どもだがな」

 ここでいつも団子を売っていた母親の子だと、真仁は心痛な面持ちで言う。

 一瞬、良春の思考が止まった。

「そんな馬鹿な……っ」

 大きく目を見開いたまま、良春は声を詰まらせるように言う。

「あいにくと、確かなことだ」

 真仁も信じたくはないとばかりに、小さく首を横に振っていた。

「待てよ。その子は……例の河童の呪いにかかっていたのか?」

 数日前会った時には、母親はそんなことは一言も話していなかった。

 良春は「何かの勘違いか……違う理由なんじゃないのか?」と、眉をひそめる。無意識に二人とも声が小さくなっていた。

「娘は夜中、知らぬ間に家を抜け出していたらしい。朝方、道の途中で倒れているのが見つかった。その時にはもう、助からなかったようだ」

「水辺ではなく、道で倒れていたのか?」

「ああ……ただ、見つかった時、衣も髪もすっかり濡れていた。しかも、昨晩は川辺で陰陽師が寺の僧が加持や祈祷を行っていたが、誰も子どもの姿など見かけていない」

 夜中にフラフラと子どもが歩いていたら、不審に思い、声をかけるか、すぐに保護をするはずだ。

 昨夜は一滴の雨も降っていない。それなのに、ずぶ濡れのまま道で倒れていたというのは、確かにただ事ではなく不可解だ。

 団子売りの母親にしがみ付いていた、幼い女の子はまだ三つになるか、ならないかくらいの歳だった。

 どういう事情や理由にしろ、あの子が亡くなったのかと思うと、胸が痛む――。

「やりきれんな……」

 帽子を手で押さえながら、重いため息を吐く。

 真仁も、「まったくだ」と深刻な顔で眉間に皺を寄せる。それから、「どうする?」と良春にきいてきた。

「犠牲者まで出たのだ。放っておくわけにいくか」

 河童だかなんだか知らないか、意地でもとっ捕まえてやると、良春は険しい表情になる。でなければ、無情にも命を奪われたあの子が報われないだろう。

 真仁はニッと笑い、「お前なら、そういうこと思った」と軽く良春の肩を叩いた。


***


 良春はその日の夜、真仁と共に藤原清忠の屋敷を訪れていた。昨晩の事件はすでに都中に広まっているらしく、清忠の耳にも入っているようだった。

 検非違使庁でも事件を調べているため、一晩自分たちに屋敷を警備させてほしいと頼むと、清忠は『それは、願ってもないこと。是非とも、お願いしたい』と、承知してくれた。清孝にとっても、良春と真仁の申し出は心強いものだったのだろう。

 娘の清子は昨晩の話を聞くとひどく不安がり、我が子とともに部屋に籠もっていて、夜も家の者に見張りをさせているようだった。

 日が落ちると、庭には明るすぎるほどに灯りが灯される。それも、警備のためだろう。見張りの男たちが、刀や弓を携えて庭に立っている姿があちこちで見られた。

 清子と娘がいる離れの付近はとくに警備が厳重で、侍女たちも部屋の前や廊下で静かに待機している。池のそばでは、山伏が護摩壇で護摩を焚く念の入れようだ。

「これでは、河童が忍び込む隙間もなさそうだな」

 庭の植え込みの陰にかがみながら、真仁が小声で言う。

「仕方ないさ。それだけ不安になっているんだろう……」

 だが、たしかにこれほど人がいては、妖怪も近付いてこないかもしれない。

 とっ捕まえようとしている側としては、現れてもらわなければいささか困るのだ。

 良春は、「まあ、気長に待つさ」とその場に腰を下ろす。

 灯りに照らされた池の水面が、豪華な屋敷の姿を映し出していた。そこに、赤く色づいた葉がヒラリと落ちる。


 待っているうちに、居眠りがつきそうになる。それをなんとか堪えて、瞬きしながらあくびを漏らす。肩に重みを感じて隣を見れば、真仁は腕を組んでイビキをかきながらすっかり眠っており、こちらにもたれかかってきていた。

 まったく、見張りの意味がないじゃないかと呆れたものの、勤めを終えた後にこうして警備に付き合ってくれているのだ。仕方ないとため息を吐いて、大人しく肩を貸してやることにした。

 空を見れば、月が雲に隠れている。今夜はちょうど満月なのだろう。

 星空が明るい。すっかり体も冷えて、腕をさする。

 篝火があちこちでパチパチと火花を散らしているが、暖を取れるほど温かくはなかった。袖に腕を入れてあぐらをかいていると、不意に女性の騒ぐ声が聞こえた。

 パッとその方を見れば、部屋の前で見張りをしていた侍女たちが騒然としている。

「姫様っ!」

 慌てふためいて侍女たちが駆け寄っていくのは、階をフラフラと歩いて行く幼い姫君のもとだ。良春は驚いて、「おい、起きろ。眠ってる場合じゃないぞ」と、真仁の肩を揺すって起こす。眠そうな声を漏らした後、真仁は目を開けると寝ぼけたように「なんだ?」と、辺りを見回していた。

「いったい、どこから抜け出したんだ……?」

 姫君が寝ていた部屋の前には、侍女たちが待機していた。

 姫君が部屋から出ようとすればすぐに気づいたはずだ。だからこそ、彼女たちも渡り廊下を歩いている姫君を見て仰天したのだろう。

 追いかけて、姫君を抱えて連れ戻そうとした時だった。

 侍女たちの腕をすり抜けるようにして、姫君の体がふわりと浮き上がる。

 まるで宙を泳ぐように、フワフワと庭の方へとその体が移動するのを、侍女たちも、駆けつけた見張りの男たちも驚愕の表情で見守っていた。

 それはそうだ。ありえるはずがないものを見ているのだ。

 若い侍女が亡霊でも見たように、青くなって短く悲鳴を上げる。その声で、呆気にとられていた良春も急に我に返った。

「何をボサッと見ているのです。早く、姫様をっ!!」

 そう大きな声を上げたのは、白髪の高齢な侍女だ。さすがに、肝が据わっているのだろう。侍女や見張りの者たちは自分たちの使命を思い出したのか、ざわつきながらも宙に浮かんでいる姫君を捕まえようと追いかける。

「おい、行くぞ!」

 良春は顎が外れそうなほど大きな口を開いている真仁の腕をつかんで一緒に立ち上がった。

 駆けつけようとした良春の耳に、ふと紛れてこんできたのは微かな笛の音だ。

(笛……)

 侍女や清子が話していたのは、この笛の音だろう。

 ゾワッと鳥肌が立ちそうな不快な音色だった。騒ぎに気づいて部屋を飛び出してきた清子が、宙に浮かんでいる娘と、手を伸ばして必死にその足をつかもうとしている侍女や見張りの者たちを見て、仰天したように悲鳴を上げた。

「誰かっ、誰か……助けてっ!! 娘を連れていかないでっ!!」

 そう、彼女が泣き崩れるようにして叫ぶ。

 母屋の方からも人が駆けつけてきた。大騒ぎとなっている間も、笛の音は途切れずに聞こえてくる。

(どこからだ……??)

 姿を確かめてやろうと、目を懲らして広い庭中を見回す。

 その視界の隅を過ったのは、ふわりと浮かんだ衣だ。

 屋敷の母屋の屋根に現れた影が、塀に飛び移る。

 それに気づいた見張りの男が、「鬼だーっ、鬼が出たーっ!!」と腰を抜かしそうな叫び声を上げた。

 衣をかぶったその人影が、一瞬だけ振り返る。見えたのは、夜叉の面だった。

(あの日の鬼……っ!!)

 良春は息を呑む。けれど、すぐにグッと歯を食いしばって、刀を抜いた。

 ぼんやりとしている場合ではない。追いかけようとしたが、横にいた真仁が急にドサッと倒れてしまった。見れば、すっかり気を失ってしまっている。

「おいっ、こんな時に寝るやつがあるか!」

 そういえば、この同僚はめっぽう勇敢で腕も立つが、亡霊だの物の怪だのには弱いことを思い出す。夜番の時に、誰かが始めた宮中の怪談を聞いて、同じように気を失うように寝てしまっていた。

 まったく、しょうがない。こうしている間にも、鬼は塀をポンッと蹴って飛び上がる。人の跳躍力ではないのは明白だった。

 高く浮かんだその姿が、隣の屋敷の塀に飛び移るのをみな、唖然としたように見ている。

 姫君は引っ張り下ろされ、侍女の腕に抱きかかえられていた。後は大丈夫だろう。寝ている真仁も、放っておくしかない。そう判断してすぐに駆け出し、塀のそばの松の木をよじ登る。

 塀の上に移って鬼の姿を確かめると、振り返りながら塀の上を走って逃げていく。

「逃がすかっ!」

 良春は地面に飛び降り、鬼の姿をしっかり目で追いながら走り出した。

 とはいえ、相手の方がずっと速く、すぐにも見失ってしまいそうだった。

 こんな時に馬でもあればよかったが、今は夜中でどこかから調達する暇もない。

 今夜、あの鬼が姿を見せるとは思わなかったのだ。

(どういうことだ……あの鬼の仕業だったのか?)

 だとすれば、河童の呪いとは見当違いも甚だしい。

 まったく、陰陽師の占いも当てにならないものだ。濡れ衣を着せられた河童が気の毒というものだろう。

 鬼はポンポンと塀や木に飛び移り、軽々と逃げていく。

「くそっ、卑怯だぞ。降りてきて勝負しろ!!」

 やけっぱちになって走りながら、良春は大きな声を上げる。

 一際高く飛んだ鬼が、チラッとこちらを見る。

 面をつけているから表情はわからないのに、なぜか笑っているように思えた。


 鬼を追い駆け回し、すっかり息の上がった良春は、ふらつきそうになって木の幹に手をつく。鬼はそんな良春を小馬鹿にしたように木の上で見下ろしていたが、もう追いかけっこは終わりだとばかりに五重塔に飛び移る。

 良春は太い枝に手をかけて木をよじ登り、五重塔の屋根瓦の上で悠然と月夜を見上げている鬼を睨み付ける。

「いいかげん、諦めろ。人では無理だぞ」

 微かな笑いを含んだ声が耳に届いた。

 良春は、「確かにそうだろうな」と呟いて枝の上に立つ。

 ミシッと枝が音を立てた。ここから落ちれば、かなり痛いだろう。痛いところが、運が悪ければ『お陀仏』だ。

 だからといって、素直に諦めるのは腹が立つのだ。

 ニッと笑うと、良春は思い切って足場となっている枝を蹴る。「えっ」と、驚くように声を漏らしたのは鬼の方だった。

「うおおおっ!!」

 良春が上げた声が、辺りに響く。

 驚いたように、眠っていたカラスが木の上から、バサバサと羽ばたいて逃げ出した。

「馬鹿かっ!!」

 焦ったように言いながら、鬼も五重塔の瓦屋根から飛び上がる。

「うわああっ」

 落ちかけた良春の衣の襟がグッと引っ張られた。片手で良春をつかみながら、鬼は反対の手を伸ばして木の枝をつかむ。

 宙吊りになった二人の体が大きく揺れた。間一髪だっただろう。

 鬼が「重いっ!」と、声を上げる。良春の重みに引っ張られて、襟から手を放しそうになっていた。

 反対に良春の方は首がしまって、「うぐっ!」と声を漏らす。

 苦しくてジタバタ暴れたせいで、ついには枝がベキッと折れ、二人一緒になって落下した。

 ドスンッと墜落した場所は、幸いにして苔の上だ。落ち葉が舞い上がって、またヒラヒラと折り重なって倒れている二人の上に落ちてくる。

 フワッと香ったのは、やはり甘い金木犀の香りだった。

 良春は上に乗っかっている鬼をしっかり抱えて、「そら、捕まえたぞ」と笑う。 

 これではさすがに、すぐには逃げられまい。

「…………お前は…………とんでもない阿呆だ」

 鬼は息を吐き出しながら、呆れきったように言う。

 その声は少しだけホッとしているように聞こえた。

(まったく、その通りだな……)

 けれど、自分の予感がもし当たっているのなら、きっとこの鬼は、落ちる良春のことを助けようとするのではないか。そんな気がしたのだ。

 そして、その予感は多分、間違いではないのだろう。

 フッと笑うと、良春は彼の面に手を伸ばす。逃げられるとは思わなかった。

 紐をスルッと解いて面を外す。あの日と同じ鮮やかな黄金色の瞳が、不機嫌そうに見下ろしていた。

 それは、自分の知っている瞳だ――。


「やっぱり、栗丸か」

 冗談めかして言うと、「その名前で呼んだら、栗のイガを突き刺してやるって言っただろう!」と言い換えされた。

「さっさと、放せ。馬鹿!」

 暴れる彼の体を解放してやると、すぐに起き上がって上から退ける。

 良春は小さく笑ってから、手をついて体を起こした。鬼の姿であっても、やはり彼は彼のようだ。そう思うと、怖さも疑念もすっかり消える。

 いつものように、着古した衣ではなく、絹の上等な衣姿だ。その袖に手を伸ばして持ち上げてみる。

「……これは、母君が折った反物で仕立てた衣か?」

 ついそう尋ねると、「そうだよ。触るな!」と栗丸――ならぬ、深凪は袖を引っ張る。その頬が少し膨らんでいた。

「なるほど、馬子にも衣装だな」

「うるさい。お前なんか助けてやるんじゃなかった」

 ふてくされたように言って、深凪は立ち上がる。そして、衣の裾についた葉っぱを手で払っていた。「お前のせいで、汚れたじゃないか」とぼやいている姿を眺めながら、良春は表情を和らげる。

(鬼か……)

 それから、ふと首を傾げる。

「お前の母君や兄弟たちも、鬼……なのか?」

 少しもそんな風には見えなかった。けれど、それを言うなら深凪もだ。

 今も、こうして見ていると、とくに違いはわからない。ただ、その黄昏時の空のような黄金色の瞳が、人ではないものなのだと物語っていた。

 それに、人では到底、及ばぬような跳躍力もたしかにこの目で見た。

「……母ちゃんやみんなは違う……ただの人だ」

 深凪は肩にかかる髪を軽く払って、そっぽを向いたまま答えた。

「みんなはお前のその姿のことを……知ってるのか? その、鬼……だって」

「母ちゃん以外は知らない……」

「そうか……」

(母君は知っているのか)

 機織りをしていた深凪の母親を思い出す。どういう事情で鬼の子を産んだのかはわからないが、愛されていることだけは確かなのだろう。

 この丁寧に仕立てられた衣を見ればそれはわかる。

「だけど、そうなると……なんで、お前が今夜あの屋敷に現れたんだ?」

「そうだっ! お前が追いかけてくるから……もう少しで捕まえられそうだったヤツを取り逃がしたじゃないか!」

 深凪は思い出したように言って、グッとこちらを睨んでくる。

 良春は目を丸くして、瞬きする。

「……誰を追いかけていたんだ?」

「河童の呪いの真犯人だ」

 腕を組みながら、深凪は憮然として言う。

「お前が犯人じゃないのか……?」

「違うっ! だいたい、俺は……っ」

 深凪が言葉を詰まらせる。フイッと横を向いた彼に、「なんだ?」と尋ねる。

 眉間の皺が余計に深くなっている。

「俺は……笛なんか吹けない……」

 ボソッとした声で恥ずかしそうに言う深凪をポカンとして見た後で、良春は思わず声を上げて笑ってしまった。

「あははははっ、そうか……そいつは疑って悪かった!」

「何がおかしいんだっ。習ったことがないんだから仕方がないだろう!」

 お前たちようなお貴族様と違うんだと、深凪は唇をへの字に曲げる。

「心配するな。俺も笛は下手くそだ」

 貴族の子弟のたしなみだと、幼い頃から習わされたものの、一つも上手くならず、さじを投げられた。同僚の間でもすっかり有名で、『お前の笛は物の怪も逃げ出すひどさだな』と笑い者にされた。

 家で練習していれば、離れた部屋にいる姉が『頭が痛くなります。今すぐやめなさい。さもなくば、どこか人のいない山奥に籠もって一人で練習していなさい』と苦情を言ってくる始末だ。

「貴族のくせに、笛も吹けないのか」

「なんなら聞かせてやってもいいぞ?」 

「お断りだっ!」

 突っぱねるように言う深凪の頭を、「そうか、そうか」と笑って叩く。

 その手がパシッとはね除けられた。

「すぐにお前はそうやって、童子扱いしようとする」

「俺から見れば十分童子だ。そんなことよりも……」

 軽口を叩き合っている場合でもない。

 良春は真剣な表情になり、闇と静けさに包まれている周りに目をやる。

「笛を吹いていたその真犯人を見たのか?」

「はっきりとじゃない……でも……」

 思案するように言葉を切った深凪の顔を、「でも?」と聞き返しながら見る。

 彼はスッと視線を上げると、その黄金色の瞳で真っ直ぐ良春を見る。

「あれは、異界の妖魔ではない。人だった。それも……」

 陰陽師だ――。

 断言するように言った深凪の顔を、驚いて言葉なく見つめる。


***


 昨晩、怪異に遭遇したことで、またしても物忌みが長引く羽目になった良春は、真仁といつもの市のそばで落ち合うと、河原を歩いていた。

 おかげで、検非違使庁の上司からは『しばらく出てくるな。ずっと滝にでも打たれていろ!』と実に気遣いに溢れた心温まる文が届けられた。

 昨晩、鬼が出たという噂はすっかり街中に広まっているようだ。例の河童の呪いは、鬼の仕業だという話になっている。それは実にマズい。

 深凪が犯人に仕立てられてしまう。もっとも、その素性を知っているのは、おそらくこの都中で自分と、深凪の母親だけだろう。真仁にも深凪のことは話していない。余計に話がややこしくなるだけだ。

 笛を吹いていた者を追いかけてみた結果、陰陽師の術を使う人だったと、かいつまんで事情を話した。 

 真仁は足を止めると、「陰陽師?」とひどく驚いたように聞き返す。にわかには信じられないという顔だ。

「ああ……多分、間違いない……それに、陰陽師の術を使う妖魔なんて聞いたことがないだろう?」

「確かに、それはそうだな……だが、なんだって陰陽師が子どもを惑わすような術を使うんだ?」

「わからん……妖魔に操られているのかもな」

 腕を組みながら、良春は答える。それ以外にも理由はあるのかもしれないが、その陰陽師の術を使う者が誰なのかを特定してとっ捕まえてみなければわからない。

 考え込むように顎をさすっていた真仁が、「そういえば」と口を開く。

「一月ほど前のことだが……妙な話を聞いた」

「……鬼のことか?」

「いや……陰陽寮の陰陽師が、病にかかりずっと休んでいるそうだ。しかも、心配した同僚が屋敷に様子を見に行っても姿を見せないらしい」

「流行病じゃないのか……?」

「わからん。だが、それでも文くらい届けるだろう……」

「それもないのか」

 真仁は「そのようだ」と、頷く。

 確かに怪しいといえば怪しいが、病が長引くこともあるだろう。

 文を書く気力もないほど寝込んでいるのかもしれない。

「どうにもそれだけではないのだ。その少し前に、宮中で献上品が盗まれる事件が起きたことを覚えているか?」

 再び二人で歩きながら、真仁が尋ねる。その件なら、衛門府が調べていたはずだ。

「宋から運ばれてきた珍しい鯉だろう? あれなら、世話をしていた侍女がうっかり水路に流してしまったという話だったはずだ」

 侍女はバレて罪に問われるのが怖く、黙っていたという話だ。鯉は水路から川に逃げたらしく、結局見つかってはいない。

(そういえば、あの鯉を献上したのは南條殿だったな……)

 かなり珍しい色合いで、高値の鯉だったようだが、逃げてしまったものは仕方がない。

 直接、事件には関わっていないが、話を聞く限りでは特別、不審な点はない。だが、「それがな」と真仁は神妙な顔をする。

「あの鯉が消えた日の晩、警護に当たっていた者が数人、不審な笛の音を聞いたという。しかもだ。その陰陽師は笛の名手として知られていたようだ。宴の席に呼ばれて、帝の御前で演奏したこともあるとか」

 声を潜める真仁につられて、「確かにな」と答える良春の声も低くなる。

「だけど、昨晩聞いた笛の音はひどかったぞ。とても笛の名手が吹いているとは思えなかったけどな……」

「まったくだ。お前といい勝負だったな」

 肩を竦める真仁の肩を、「言うな」と軽く叩く。

「とはいえ、気になるな……」

 良春は視線を下げ、呟いた。

「お前なら、そう言うと思ったよ」

 ニッと笑って、真仁は折りたたんだ小さな紙を良春に渡す。

「その陰陽師の屋敷の場所だ」

「お前は行かないつもりなのか?」

「…………鬼が出たら怖いだろう」

「……臆病者め。この貸しは高くつくぞ」

 呆れて言いながら、良春は真仁の手からその紙を抜き取った。


***


「しかもだ。真仁の話じゃ、その陰陽師が出てこなくなったのも、その鯉が消えた事件の後だというじゃないか。妙だろう?」

 井戸で水汲みをしている深凪の後をついて歩きながら、良春はさっきからずっと事件のことを話し続けていた。日がもうじき落ちそうで、空が暗くなり始めている。

 石段を上がって帰ってきた子どもたちが、「あっ、団子のおっちゃん」と良春を指さした。

「おっちゃんじゃない。お兄さんだぞ!」

 すかさず訂正すると、子どもたちがケラケラと笑う。

「今日は団子ないのー?」

 無邪気に尋ねる子どもたちに、良春は思わず深凪と顔を見合わせた。

 団子売りの母親は、このところ姿を見かけなかった。噂では、家で塞ぎ込んでいるという話だ。

「今日は団子はないんだ……そうだ。そのかわり……これをやろう」

 良春は懐から紙に包んだ菓子を、集まってきた子どもに渡す。子どもたちは紙を開くと、砂糖菓子を物珍しそうに口に運んで、「甘いっ!」と顔をほころばせた。

 気に入ったのか、他の子たちも次々に手を伸ばす。

「兄ちゃん、うまーいっ!」

 笑顔で報告する弟に、「そうか、よかったな」と深凪は少しばかりぎこちなく微笑んでいた。子どもたちは包みを手に、キャッキャと笑いながら走り去る。

 機織りの音が聞こえてくる納屋のほうに行くようだ。

 その姿を眺めていると、深凪が桶を担いで歩き出す。土間に入っていく彼を、良春はすぐに追いかけた。

「というわけで、俺はその陰陽師の屋敷に一度行ってみようと思う」

 深凪は水瓶に、ザバッと桶の水を移す。それから、怪しむように良春のほうを見た。

「勝手に行けばいいじゃないか。なんで、わざわざ家に押しかけてきて、そんな話を聞かせるんだ?」

「それはもちろん、興味がある話じゃないかと思ったからさ」

「興味なんてないっ」

 突っぱねるように言うと、深凪は袖をまくり、良春を無視してさっさと夕餉の支度に取りかかる。粥を炊き、野菜を手際よく料理していく。

 毎日やっていることなのか、随分と手慣れていた。母親が忙しいため、かわりにやっているのだろう。

「煮物にするのか? うまそうだな」

 後ろからヒョイッと覗くと、「お前のぶんなんてないぞ!」と軽く睨まれる。

「そいつは残念だ」

 肩を竦めてから、「なぁ」と話を続ける。

「お前はなんだって、あの笛のやつを追いかけていたんだ?」

 深凪には関係のない事件だ。たしかに弟や妹たちはまだ幼い。

 子どもを惑わす事件は放っておけないと思ったのかもしれないが――。

 鍋で湯が沸くのを待ちながら、深凪はしばらく黙っていた。その口がためらうように動く。

「団子売りの子が犠牲になったと聞いた……」

「聞いたのか……」

「南條のお屋敷に行った時に……人が話していた。お前は嫌いだけど、お前の持ってくる団子はうまいからな。あの団子が食えなくなるのは、困るんだ……」

 深凪は「弟たちも、楽しみにしてる」と、呟くように言う。

(ああ、そうか……それでか……)

 良春は少しばかり目を細めた。

「だったら、なおさら解決してやらなきゃいけないだろう?」

 ニッと笑って言うと、深凪は嫌そうに顔をしかめる。

「だからって、なんで俺がお前に付き合わなきゃいけないんだ」

「一緒に行ってくれないのか?」

 わざとらしく驚いてきくと、「知るか」とそっぽを向かれる。

「亡霊や妖怪が出たら、怖いだろう?」

 真仁の真似をして言ってみると、ひどくさめた目を向けられた。

「大人のくせに……だいたい、お前のお役目じゃないか」

「それなら、報酬は団子一月分でだろうだろう?」

「その手に乗るか」

 深凪はプンッと横を向いた。


***


「団子は三ヶ月分だからな」

 翌日、陰陽師の屋敷に向かう間、深凪は不機嫌な顔をしてずっとそう言い続けていた。そのたびに、「わかった、わかった」と返事をする。

 昨日は絶対に行かないと宣言していたくせに、今日はちゃんと待ち合わせの場所で待っていた。まったく素直じゃないやつだと、良春は笑って深凪の頭に手を伸ばす。

 撫でてやろうとすると、その気配を察したのかさっと避けられた。

「……団子、三ヶ月分だからな。それと、触るなっ!」

「わかった、わかった」

 笑顔で頷いて、嫌われたその手を仕方なく片方の袖の中に戻す。

「しかし……なんとも、不気味な場所だな」

 辺りを見回しながら、良春はわずかに眉根を寄せた。

 まだ日が落ちる前で、空もそれほど陰っているわけではないのに辺りは薄暗い。

 風が吹くたびに、枯れ草がそよいでいた。荒れ寺がその中に建っていて、墓が並んでいる。

 いかにも亡霊かなにかが出そうで、ゾクッと寒くなった。

 そんな良春を一瞥した深凪は、「何が怖いんだ」と平然としている。

 確かに、人ならざる鬼の身である深凪には、亡霊や妖怪など取るに足らぬものだろう。

「お前は怖いものはないのか?」

「……人のほうがよっぽど怖ろしい」

 ふと漏らした深凪の顔を、良春はジッと見つめる。

「……俺のことも、怖いと思ったりするのか?」

「お前なんか怖いものか。臆病者だからな!」

 深凪はククッと笑ってから、ふとその視線を下げて沈黙した。

「……良春は、鬼が怖くないのか」

「お前以外の鬼は知らん。だが、深凪のことは怖ろしいとは思わんな」

 良春は「角や牙も生えていないからな」と、からかうように笑う。

「どうしてわかるんだ? 確かめてもいないくせに」

「じゃあ、確かめてやろう」

 深凪の柔らかい両頬をつまんで、横に引っ張る。「どれどれ」と、白い歯の覗く口の中を覗き込もうとした。

「やめろっ、馬鹿っ! アホっ!」

 罵りながら、深凪が良春の顎を手でグイッと押した。

「なんだ、生えてないじゃないか。やっぱり、童子だからか?」

 パッと手を放して首を傾げながらきくと、「知らん!」と怒った声が返ってくる。膨れた頬が、赤くなっていた。

 さっさと足を進める深凪の隣に並んで、笑いを堪える。

 竹林の中の細い道を進んでいくと、垣根が見えてきた。簡素な門があり、その奥に藁葺きの家が建っている。

「どうやら、ここのようだ」

 その門の前で良春は足を止めた。

「随分と質素な屋敷だな……」

「こんなものだろ。お前たちの屋敷のほうが広すぎるんだ」

「そうか……そうかもしれないな」

 納得して、門の中に入る。けれど、深凪は門の外に立ったままだ。

「どうした? 入らないのか?」

 そう尋ねた後で、「ああ、そうか」とすぐに気づいた。ここは、陰陽師の屋敷だ。鬼である深凪は入りにくいだろう。それとも、術や結界で入れないのかもしれない。

「そうじゃない……一緒に入っていって、俺のことをなんと説明するつもりだ?」

「従者ということにすればいいじゃないか」

「従者なら、なおさら主人と一緒に人の家に上がったりしないだろう」

 そう、深凪が呆れた顔をする。言われてみればその通りだ。

「じゃあ、俺が様子を見てくる。お前はここにいろ」



 この屋敷の主、卜部景秋は二十歳過ぎの青年だった。

 寝間着のままの姿で、髪も流したままだ。寝床から起き上がってきた彼は、ひどく顔色が悪く、痩せていた。

「このようなお見苦しい格好のままで、申し訳ありません。体調があまりよくなく……このままで、お許しください」

 そう言って頭を下げようとする景秋を、「いや、おかまいなく」と良春は遮った。

「文も出さず、このように突然訪れた私のほうが悪いのです。大変、失礼いたしました。卜部殿が病に伏せっておられるとは、存じ上げなかったのです」

「文をいただいても、お返しできなかったでしょう。ごらんの通りの有様で……この家には、今、私しかおりません」

 たしかに、呼びかけてみても出てくる者はいなかった。あまりにも返事がないものだから、一瞬、家の中ですでに亡くなっているのではないかと案じていたところ、奥の部屋からか細い声で返事があったので、家に上がらせてもらったのだ。

「世話をする者もなく、いままでお一人で?」

「以前はいたのですが、私が病になってから、ひどく不安がりまして……里に帰ってしまいました」

「そうでしたか……医師には診せたのですか?」

「ええ……薬のおかげで、だいぶ良くなったところです。ようやく起き上がれるようになりました。長く勤めも休んでおりますので、皆に心配をかけているのではないかと案じていたところでございます」

「私のほうからも、陰陽寮の方に卜部殿の様子は伝えておきましょう」

 確かに、この様子ではもうしばらく休んだ方がいいだろう。病で出てこられないという話も、嘘のようには思えない。

「そうしていただけると、助かります。それより、私を訪ねてこられたのはどのような理由で?」

 不思議そうな顔をしてきかれ、「ああ、いや……」と良春はごまかすように帽子に手をやった。さて、困ったなと一瞬考えてから、手を膝に戻す。

「実は、笛を……」

「笛……?」

 一瞬だけ、友彦の顔が強ばったように見えた。

「実は私は笛が苦手でして、自分で練習していても少しも上達しないのです。よい師はいないものかと探していたところ、卜部殿が笛の名手であるとお聞きいたしまして……それならば、一度教えていただけないものかと、こうして不躾にもお願いに参ったのですが……」

「私のような者を頼っていただけるのは嬉しいことなのですが……ごらんの通りで……ここしばらく、笛を吹いていないのです」

 そう言いながら、友彦は棚に置かれている自分の笛が入った箱に目をやった。

 本当に使っていないのか、薄らと埃をかぶっている。

「まったく、残念なことです。ですが、今は体を労ることのほうが大事なのです。ゆっくり療養してください」

「ええ、ありがとうございます」

 友彦はどこかぎこちない微笑を浮かべたまま、頭を下げた。


(しかし……本当に病だったとはな……)

 庭を通りながら、小さな池に目をやる。

 すっかり水が涸れてしまって落ち葉が溜まっていた。これでは、河童も潜んでいないだろう。

 真仁の話を聞いた時には、確かに怪しいなと思ったものの、こうして実際に会って見れば不審に思うようなところはなかった。

(そもそも、卜部殿が鯉を盗んでどうするんだ?)

 門に向かって歩きながら、無駄足かとため息を吐く。

 深凪がすっかり待ちくたびれているだろうと思ったものの、どこにも姿が見当たらない。竹が風にそよいでカサカサと音を立てていた。その細い葉が舞い落ちてくる。

「あれ……どこに行ったんだ……」

 呟いて竹林の中の道を歩き出す。「おい、深凪?」と、呼びながら気づくと駆け足になっていた。

 落ち葉に足を取られ、ズルッと滑る。「うわっ!」と、咄嗟に竹に手を伸ばしたが間に合わなかった。そのまま斜面を滑り落ちる。その下は、小川になっていてせせらぎが聞こえてきた。

 幸いに下まで落ちることなく、竹に引っかかったものの、すぐに起き上がれない。落ち葉に埋もれるようにして呻いていると、笑う声が聞こえた。

「なにやってるんだ? 筍掘りの時季じゃないぞ」

「急にいなくなるやつがあるか……っ。手を貸してくれ」

 もぞもぞと体を起こし、手を伸ばす。仕方ないなとばかりにため息を吐いた深凪が、「ん」と手を差し出してきた。

 その手をつかむと、グイッと引っ張り上げられる。なんとか上がると、ホッとして息を吐いた。

「どこに行っていたんだ?」

「あっちのほうに、芋が生えていた」

 そう言うと、深凪はしっかり膨れている懐から芋を取り出す。

 それを見て、良春は腰に手をやりながらもう一度深く息を吐いた。

「芋掘りに来たんじゃないんだぞ」

「お前が話し込んでいてなかなか出てこないからだ」

 プイッと横を向いた深凪は、どこからか拾ってきた手頃な木の棒を振りながら歩き出す。

「まったく……やっぱり童子だな」

「聞こえてるぞ」

 ムッとしたように、深凪が睨んでくる。

「あの屋敷の主だが、怪しいところはなさそうだったぞ。起き上がるのが精一杯だったようだし、あれでは笛も吹けんだろう。きっと別の者だな……」

「……本当にそう思っているのなら、おめでたいやつだ」

「どういう意味だ?」

「……あの家から、女の笑う声がした」

 深凪の言葉に、良春は思わず足を止める。

 風が強く吹き、周りの竹が一斉に揺れる。二人とも向き合ったまま、少しのあいだ無言だった。

「……そいつはおかしいな。あの家には卜部殿以外にいなかったぞ」

 そう広い屋敷ではない。人がいれば、物音や話し声は聞こえてくるはずだ。

 少なくとも、門の外にいた深凪の耳に笑い声が聞こえたのならば、良春にも聞こえていたはずだ。だが、笑い声など良春は聞いていない。

「聞き間違えじゃないのか……? イノシシの鳴き声とか」

「女の笑う声で鳴くイノシシがいるなら、それこそ妖怪だろ」

 深凪に言い換えされて、「確かに……」と呟く。

 同じように立ち止まっていた深凪がさっさと歩き出したので、良春も急いで足を進める。

「本当に……聞いたのか?」

「聞いた」

「屋敷の外に、近くの村の娘でもいたんじゃないのか?」

「見に行ったが、人などいなかった」

 良春は「なるほど」と、顎に手をやる。

 かわりに見つけてきたのが芋だったようだ。

「それなら、その笑い声の正体を突き止めてやるしかなさそうだ」

「俺は付き合わないぞ」

「うまい団子が食えなくなってもいいのか?」

「人の足もとを見るやつは嫌いだ」

 深凪は眉間に皺を寄せて、プイッとそっぽを向く。「そう言うな。頼りにしてるんだ」と笑って、良春はその頭にポンッと手を乗せた。


***


 付き合わないと言ったくせになと、良春はフッと笑う。そんな良春を、深凪が横目で軽く睨んできた。

「言っておくが、お前を手伝うためじゃないぞ!」

「わかった、わかった。団子のためだろう」

 深凪は「そうだ」と、大きく頷く。二人とも、ヒソヒソ声だ。

 昨日に続いて訪れた景秋の屋敷は灯りが消えており、物音一つ聞こえてこない。もう、人が寝静まる時刻だ。

 しばらく垣根のそばで見張っているが、とくに異変もなかった。

 良春は「よっこらしょ」と、その場に腰を下ろす。懐から取り出したのは笹の葉に包んだ握り飯だ。その紐を解いて開くと、「食うか?」と深凪に差し出す。

 深凪はパッと目を輝かせ、おにぎりに手を伸ばしてきた。それを一つとると、さっそく大きな口で頬張っている。

(食べる時だけは、やけに素直だな……育ち盛りだからか?)

 目を丸くして見ていると、「なんだ?」と警戒するようにきいてくる。

「もっと食っていいぞ。俺はそれほど腹が減ってないからな」

 笹の葉の包みごと、握り飯が手から消える。

 横を見れば、深凪がその包みを抱え込み、ご満悦な顔で二つ目の握り飯を口に押し込んでいた。

 鬼とは怖ろしげな形相をしていて、角や牙が生えていて、人を襲って食べるものだと思っていた。

「聞いていた話と随分、違うものだな」

 独り言のようにもらして、深凪の顔に手を伸ばす。口もとについている米粒をつまんで取ってやると、それをパクッと自分の口に運ぶ。

 その間も、深凪はモグモグと握り飯を咀嚼していた。それをゴクッと呑み込んで、良春のほうを見る。

「なんの話だ?」

「なんでもない。ほら、喉に詰めるなよ」

 水の入っている竹筒を渡してやると、深凪は水を喉に流し込む。

 こぼれそうになった滴を手で拭うと、すっかり空になっている竹筒を返してきた。全部飲んだらしい。少しくらい残しておいてくれればよいものをと、良春は頬杖をついてため息を吐いた。

 その時、不意に聞こえてきた笛の音に、二人とも顔を見合わせる。

 屋敷の中から聞こえてくる音だった。確かにそれは、藤原忠清の屋敷で聞いたあのどこか不気味な音律の笛の音だ。


『ふふふふっ……ふふっ…………』


(女の笑い声……っ!)

 良春は息を呑んで、音を立てないように急いで立ち上がる。

 深凪はすでに駆け出していた。トンッと地面を蹴って飛び上がると、良春の背丈ほどもある垣根を余裕で跳び越えていく。

(あっ、待てっ!)

 深凪と違って、こちらはそう簡単に垣根を跳び越えられないのだ。

 なんとか隙間から入ろうとしたが、とても体が通りそうにない。仕方なく、這いつくばると垣根の下の隙間に体をねじ込んだ。衣がどこかに引っかかり、引っ張った拍子にビリッと破れる。

(まったく無様なことだな)

 ため息がついこぼれた。なんとか垣根の下から抜け出すと、絡みつく蔓を払いながら、立ち上がった。土や葉っぱ塗れの服を軽くはらっ打てから庭を見回す。

 「こっちだ」と深凪の小声がした。グイッと引っ張られて、庭の大きな石の陰に隠れる。

(池に水……っ!)

 良春は驚いて目を見張る。昼間に訪れた時には、小さな池は水が涸れて落ち葉が溜まっていた。それなのに、今はいっぱいまで澄んだ水が溜まり、夜空で輝く月の姿をその水面に映していた。

 その水の中で戯れるように鯉が数匹、泳いでいる。

 笑う声も、笛の音も、屋敷の中から聞こえてくる。いつの間にか、暗かったはずのその部屋から灯りが漏れていた。

 簾が半分ほど下ろされている。その隙間から艶やかな色合いの衣と、長い艶やかな女性の髪が覗いていた。

(女を囲っていたのか……?)

 友彦の吹く笛の音を聞きながら、女は楽しそうに笑っている。

 仲睦まじいただの恋人同士の戯れのようにも見える。それをこんな庭の石の影からのぞき見するなど、いささか気が咎める。

 隣で身をかがめている深凪は、ジッと屋敷の様子を見ていた。

 その瞳は、あの日と同じ黄金色に変わっていた。

「この池の鯉……宮中に献上された鯉か?」

 小声で漏らす。だが、池を泳いでいる鯉は数匹いる。

 侍女が逃がしてしまった鯉は、一匹だったはずだ。それも世にも珍しい五色の模様だったと聞いている。

「違う……あれは子どもの魂だ。それが鯉に変えられているんだ」

 横にいた深凪の言葉に、仰天して思わずその顔を見た。

「子どっ!!」

 思わず大きな声を上げそうになった良春の口を、深凪がパッと両手で塞いだ。

 小石が転がっていき、ポチャンと水面に落ちる。その瞬間、笛の音と笑う声がピタリと止まった。シンッと辺りが静まり返る中、口を塞がれたまま良春は息を止める。深凪もそのたままの体勢で、ジッとしていた。

(しまった……っ!)

 気づかれた。焦って、口の中が急に干上がっていく。

 庭に面した縁に出てきたのは、笛を握り締めた景秋だった。

「誰だっ、誰がいる! 出てこい!」

 庭を見回した景秋が、声を荒らげる。

 その瞳は妙にギラついていて、血走っているように見えた。

 すぐに、笛を口に運ぶと、彼は一際高く吹き始める。その音に操られたように池の水がヌルッと浮かび上がってきた。

 それは人の形を取ると、良春が隠れている石の方へと、腕を伸ばしてくる。

 咄嗟に逃げようとしたが、その水の腕は良春の首に巻き付いて強い力で宙に引っ張り上げる。

「うわああああーっ!!」

 悲鳴を上げた良春の体は、そのまま水の中に引きずり込まれそうになった。

 だが、その前に良春の腰から刀を引き抜いた深凪が、その水の腕を横一線に切り裂いていた。その瞬間、人の形をしたその水はパッと散り、最後には二つに切られた人型の紙がゆっくりと水面に落ちていった。

 水に落ちる前に良春の襟をつかんだ深凪は、一度水を軽く蹴ってから宙を舞って石の上にトンッと着地した。

 ようやくまともに息が出来て、良春は胸を押さえながら何度も深呼吸する。

「式神……!?」

 友彦は笛でその式神を操っていたのだろう。なるほど、深凪があれは『陰陽師の使う術』と言った意味がようやくわかった。

 深凪が助けてくれなければ、そのまま池の中に引きずり込まれていたところだろう。

 笛を口から離した景秋は「良春殿……」と、驚いたように呟く。

「何をしているのです……私の屋敷で」

「夜分遅く、勝手に屋敷に入ったことはお詫びいたします。ですが、あなたは俺に嘘を吐いた」

 良春は石の上に立ち上がる。

「それは……お互い様でしょう。あなたも私に嘘をおっしゃった。笛を習いたいと言ったが本当は、私を調べにきたのでしょう?」

 そう答えた景秋は、唇を歪めるように笑う。

「確かに……ええ、そうです。ここ最近、都で起こっている夜な夜な子どもを惑わせる怪異について、あなたはご存じではないかと思ったものですから」

「さあ、存じ上げませんね……私は長く、この家から出ていないのです。それよりも、良春殿。あなたのほうが驚きです。そのような人ではない者と、よく平気で一緒にいられるものだ……」

 景秋の視線が、良春の隣にいる深凪に向く。その目には嫌悪と怖れの色が滲んでいた。

「あなたの隣にいる者がなんなのか、まさかご存じないのですか?」

 深凪は良春の刀を手にしたまま、無表情のまま冷ややかな眼差しを景秋に向けている。その横顔をチラッと見てから、「さあ」と良春は軽く笑った。

「この者は私の友だ」

 景秋は「友?」と、嘲笑めいた笑みを浮かべる。

「身の毛もよだつ怖ろしい鬼ですよ! その正体も知らずに、友だなどと……正気で言っているのですか?」

「…………深凪。俺の刀をくれ」

 良春が横に手を出すと、深凪はチラッとこちらを一瞥して密かなため息を吐く。そして、持っていた刀を良春の手に返した。

 その柄を強く握り、良春は石の上から飛び降りる。池を迂回すと、景秋のいる縁に向かった。

「く、来るな……近寄るなっ!!」

 慌てふためいたように叫びながら、景秋は怯えたように家の奥に逃げ込む。

 縁に土足のまま上がると、良春は邪魔な簾を刀で切り裂いた。

 バサッと簾が落ち、「うわああっ」と悲鳴が上がる。

 景秋は懐から人の形をした紙を取り出し、印を結んで何やら必死に唱えようとしているが、その前に良春の手が彼の胸ぐらを乱暴につかんでいた。

「ひ、ひぃ…………っ!」

 景秋の喉から悲鳴がほとばしる。その手が握り締めている紙切れを奪い取ると、良春はクシャッと握りつぶす。おそらく、鬼も顔負けの形相になっていただろう。それくらに、心底腹が立っていた。

「人の友人を口汚く侮辱して、無事ですむと思わないことだ。それに、あんたに聞きたいことがある。夜な夜な、子どもたちを操っているのはあんたか?」

「し、知ら……っ!」

 良春は震える声で返事をしようとした景秋の体を柱にドンッと押しつけ、その頭の上に刀を突き刺した。仰天したように目を見開いた彼は、今にも膝から崩れ落ちそうになっている。白かった顔が真っ青だ。

「次は、この刀の先があんたの喉にぶっささると思ったほうがいい。子ども一人亡くなってるんだ……それがあんたの仕業なら、俺は容赦しない」

 胸ぐらをつかんだまま、良春は脅すように声を低くして言う。

 実際、頭に血が上っているため、この男に少しでも手加減するつもりはなかった。

 言い逃れなどさせない。嘘で誤魔化そうものなら、このまま縄で縛って連行するだけだ。その役目が自分にはある。

「な、亡くなった……?」

 目を見開いた景秋が、呆然としたように呟く。

「ああ、そうだ。知らなかったとは……」

「し、知らないっ! 亡くなるはずなどないっ!」

 景秋は甲高い声を張り上げて首を横に振る。

「嘘を吐くなっ!」

「嘘じゃないっ! 知らない……本当だ。私の術にそんな力はない! 私は…………ただ、ここに子どもたちを……連れてきただけなんだ!」

「連れてきた……?」

「そう、そうだ……ちゃんと、日が昇る前までにはみんな、家に帰している。亡くなる子どもなどいない!」

「だとしても、なんのためにそんなことをしている!?」

 強い口調で問うと、景秋は苦悶の表情を浮かべる。その口から漏れるのは、呻くような声だけだ。

 さらに問い詰めようと口を開いた時だった。


『だって……あれは、私たちの子どもですもの……』


 ささやくような声が耳をかすめる。

 ゾクッとして振り返れば、すぐ間近で女が艶やかに笑っていた。



 陰陽師寮で勤めを終えた帰り道のことだった。すっかり日が落ちて、夜風に長く垂れ下がった柳の葉が揺れていた。

 川沿いの道を歩いていた時、ふと誰かに呼ばれたような気がした。足を止めて振り返ってみたが誰もいない。少しばかり薄寒く感じ、早く家に帰ろうと歩き出した時、そばの川でピシャンと水の跳ねる音がする。

 灯りを翳しながら川を覗いて見れば、一匹の珍しい鯉が水草に絡まって動けなくなっていた。

「ああ、かわいそうに……さっき、私を呼んだのは、お前か?」

 独り言を呟きながら、手を伸ばす。鯉は人の言葉がわかっているかのようにジッとして丸い瞳でこちらを見ていた。

 体や尾鰭に絡まっている水草をそっと丁寧に解いてやると、ようやく身動きできるようになったのか、鯉が大きく尾鰭を動かした。

 その美しい五色の体は、両手をすり抜けて水の中を泳ぎ出す。

 これでもう大丈夫だろう。小さく笑うと、濡れている手を袖で拭ってから腰を上げた。

 さあ、帰ろうとその場を立ち去ろうとした時、ふと後ろから袖を引かれる。

 驚いて振り返ると、冷たい白い手が頬に触れた。

 五色の衣をまとったその〝人〟は、黒い髪をふんわりと風に靡かせて、丸い瞳で顔を覗き込んでくる。驚いて目を見開いたまま硬直していると、彼女のその赤い唇に笑みがこぼれた。


『あなたは、優しい人ね……』

 


 ――ああ、これは彼の記憶だと、良春はぼんやりと思った。

 なぜ、それを見ているのかわからない。体も動かず、目に浮かんでくるその景色だけを、夢の中にいるように追い続けていた。

 実際、そうこれは夢なのだろう。彼が見ていた夢だ。



 縁に腰をかけ、蛍の舞う屋敷の庭を眺めながら笛を吹く。

 それを隣に座った彼女は、うっとりしたように聴き入っていた。

『景秋は、笛が上手ね』

「私にはこれしか得意なことがないからね」

『私は、あなたの笛の音が大好きよ。美しいもの』

 笛を口から離すと、苦笑して答える。

 陰陽寮でも末席の身で、いつも雑用仕事ばかり。同僚にも使えないやつだと馬鹿にされることも多かった。

 早くに流行病で亡くなった父が陰陽師だったから、その後を継いで自分もなったものの、特別な力など一つもない。

 唯一の特技は幼い頃から吹いていたこの笛だけだ。それだけは周りも認めてくれて、一度は帝の前で演奏を披露したこともある。

 それも、ただ一度だけ。それ以来、宴の席に呼ばれることもなかった。たいしたことはないと思われたのだろう。笛の上手い者など、他にいくらでもいる。

 けっきょく、自分は何一つ世の中の役には立てない。

 誰かに必要とされることもなく、一人孤独にこの荒ら屋のような家とともに朽ちていくのだろう。そう思うと、生きていることにむなしさを覚えた。

 けれど、彼女はそんな自分の笛を、上手いと言ってくれる。また吹いてほしいと言ってくれる。

 そう、彼女は〝人〟ではない。それくらい、陰陽師の端くれなのだからわかる。けれど、それでもかまわないと思った。同僚に知られればなんと蔑まされるかわからないだろう。人の噂になれば、彼女を悪しき妖怪と、自分から引き離そうとする者が現れるかもしれない。

 だから、絶対に口外しないと胸に誓った。彼女は、ここしか行き場がないと言う。彼女を守れるのは、自分ただ一人だ。

 彼女には自分が必要なのだ――。

 守らなければならない。このささやかな幸福を。この身に変えてでも。


『ねえ……私たちの子どもたちがほしいわ』

 しとねに横たわり、片手を繋いだまま彼女が少し寂しそうに呟いた。

 思いがけない言葉に驚いて、「子ども?」と問い返す。それは、許されることなのだろうかという罪悪感に似た思いが頭を掠めた。

『二人きりでは寂しいわ。子どもがいれば、賑やかになるでしょう? きっと楽しいわ』

 そう言って、彼女は無邪気に笑う。

「そうだな……」

 艶のある髪に手を伸ばして梳きながら、笑みを返す。

 彼女が望むのだ。だとしたら、それを叶えてやらなければならないだろう。

 彼女のためならば、どんなことでもする。

 たとえ、それが罪であったとしてもなんだというのだろう。

 この幸せを失うことに比べたら、業火でこの身が焼かれることなど何一つ怖ろしくはない。そう思えた。



 子どもたちが、庭で鞠をついて笑っていた。その子どもたちは、『お母様、お父様』と、縁で眺めている二人を見て手を振る。

 本当の父や母ではない。それなのに、その記憶は子どもたちにはない。

 これは、自分たちが見ている夢だ。

 幻のごとき、儚いつかの間の夢。

 けれど、彼女は楽しそうに目を細めて笑ってくれる。幸せねと、言ってくれる。


 横になって、彼女の膝に頭を預けたまま、その淡い幸福の中で眠り着く。


 この夢が永久にさめることがなければいいと願いながら――。


***


 深凪は柱に突き刺さった良春の刀を引き抜くと、その切っ先を正面に向ける。怒りの形相でこちらを睨み付けているその女の腕の中で、良春はすっかり気を失っているようだった。

 腰を抜かしたように座り込んでいた景秋が、「綾っ!」と彼女の名前を呼ぶ。

「それから、手を放せ」

 深凪は真っ直ぐ彼女を見据えたまま、静かに言った。

『嫌です……』

 そう言い返す彼女の全身から、青い妖気が立ち上っていた。

「それは、お前のものではない。〝私〟のものだ」

 気安く触るなと、不快感を込めて眉間に皺を寄せる。

『放せば、私たちを見逃してくださるのですか?』

「私が見逃したところで、その罪から逃れられるわけではない。現世と異界には明確な境がある。それを超えて世の理を乱すことは許されてはいない。お前だけではない。お前の愛するその者も、〝人〟ではいられなくなるぞ」

 諭すように淡々と告げる深凪を、彼女はジッと見据えたまま唇を噛んでいた。

 それを庇うように彼女の前に飛び出したのは景秋だ。

「それでも、私はかまいません! 子どもたちは家に帰します。もう二度とそのようなことはしないと、神にも誓いましょう。どのような罰が下ろうとも、私は受けるつもりです。ですから、今だけは……見逃していただきたいのです!」

 景秋はその場に膝をつくと、「どうか、お願いです!」と床に頭をつけながら何度も繰り返す。それを見下ろした彼女の瞳から、滴が静かにこぼれ落ちた。

 深凪はため息をこぼし、刀を持つ手を下げる。

 そして「分かっているのか?」と、問い返した。

「その女を妖魔に変えたのは、お前だ……お前が願ったことだ」

「私…………が?」

 戸惑うように、景秋はゆっくりと顔を上げる。

 振り返り、彼女を見上げるその瞳に動揺の色が浮かんでいた。

「そうなのか?」と、自問自答するようにその口が動く。

 女は口を一文字に結んだまま目を伏せた。その瞳から、溢れた涙がぽろぽろと頬を伝って落ちる。

 すべて、彼の願い。その願いを叶えるために、姿を変えた。

「もういいじゃないか……夢ならもうじゅうぶんに見たはずだ。解放してやれ……それとも、この世にずっと縛り付けておくつもりか?」

 人の身である景秋がこの世を去った後も、その願いとともにこの世に留まりつづける彼女は、いずれは人に災いをなすものになる。

「……それが、お前の望む幸せか? ならば、好きにすればいい……だが、良春は返してもらう。それは、お前たちには関係のないただの人だ」

 深凪が言うと、女がゆっくりと目を開く。

 覚悟を決めたような表情をして、スーッと進み出てくる。そしてその腕に抱えていた良春を、深凪の腕に渡した。

「私は……いいのです……それが、この人の望みなら……それで」

 彼女は微笑むと、目を見開いている景秋のそばに戻ってその手を取る。

「いつまでも、そばにいたいと願ったのは私ですもの……」

「そうか……」

 とだけ言うと、深凪は良春の腰の鞘を抜いて刀を収める。

 だったら、もはやなにも言うことはない。

 景秋は彼女の手を強く握り返し、唇を強く噛んでいた。

 しばらく苦しそうな表情で彼女を見つめた後、彼は口を開く。

「…………そう……そうだ……私が願ったんだ……あなたのような人に、そばにいてほしいと……幸せな夢だった……」

 喉から絞り出すような声だった。その瞳から溢れた涙が、頬を流れ落ちる。

「人でなくともいいと思った……」

 彼は「綾」と、愛おしいそうに彼女の名前を呼んで、弱く微笑んだ。

「……もう、十分だ。私は大丈夫だから……もう、心配することなどないから……」

 景秋は「もう、お戻り……」と、彼女の頬に両手を添える。

 女の手が、その手にそっと重なる。

『人としてお会いしたかった……』

 そう言って、彼女は涙を浮かべたまま微笑んだ。

 景秋は「私もだ」とその髪をそっと撫でる。

 彼女の体が次第に透けていき、最後には滴となってこぼれ落ちる。

 景秋の両手には、くったりして動かなくなった五色の鯉だけが残っていた。その上に、嗚咽を堪える景秋の涙がポタポタと落ちる。そのまま彼は、その場に両膝をついていた。


***


『このまま、ずっと一緒にいられたら……』


 ふと、目を覚ました良春は、「ん?」と視線を上に向ける。「早く起きろ」と、呆れた顔で見下ろしているのは深凪だ。

 どうやらその膝を枕代わりにして寝ていたらしい。

 良春はようやく思い出してガバッと起き上がる。咄嗟に刀をつかもうとしたが手元にない。「ん」と、深凪が鞘に収まった刀を差し出してきた。

「ど、どうなったんだ? 誰もいないぞ?」

 刀を受け取りながら、困惑して尋ねる。

 部屋の中にいるのは、自分と深凪の二人だけだ。景秋の姿も、女の姿もない。

「あいつなら、鯉を埋めに行ったぞ」

「こ、鯉を……?」

 事情がわからずポカンとして聞き返すと、深凪がため息を吐いて一通りのことを説明してくれる。それを腕を組んでききながら、「なるほど」と良春は神妙な顔をして頷いた。

「鯉に……恋してしまったというわけか」

 思わず呟くと、深凪がひどく冷たい目を向けてきた。「冗談だ」と、ごまかすように笑ってから、膝に手をついて立ち上がる。そして縁に降りた。

「解決したならいいさ……」

 そう言ってから、庭の池で泳いでいる鯉に目をやる。

「解決してないぞ。子どもらを家に帰さなきゃならない」

 深凪が横にやってきて、そう行った。

「それは、景秋殿の術なのだから、俺たちの出番はないだろう?」

「そうでもないぞ」

 深凪はニヤーッと笑って、どこからか持ってきたボロい木の桶を押しつけてくる。

 嫌な予感を覚えながら、「これをどうするんだ?」と尋ねた。

 深凪は目を少し大きく見開いて、池を指さす。

 その池では、ゆったりと数匹の鯉が月明かりの中で泳いでいた。



 衣をたくし上げた良春は、池の中に膝までつかって逃げていく鯉を追いかける。けれど、もう少しというところで、スルリと逃げられてしまった。

 それをもう、何度も繰り返している。げんなりして、思わず夜空を見上げてため息を吐いた。

「少しはお前も手伝え」

 池の縁の石に腰掛けて足だけ浸している深凪を振り返り、唇をへの字に曲げて言った。

「手伝っているだろう」

「俺には座って見物しているだけのように見えるが、違うか?」

 呆れて言ってやったが、「それは良春の役目だ」と彼は頬杖をついて笑っている。

 仕方ないと、目の前を過っていった鯉を急いで桶で捕まえる。なんとか一匹捉えると、水をかき分けて深凪のもとに向かう。

「ほら」と桶を差し出すと、深凪が両手を桶に浸した。

 チャプンと、水音がする。桶を見れば、そこにいた鯉の姿が消えていた。

 かわりに水から浮かび上がった青い光がフワフワと浮かびあがる。それも溶けるように消えてしまった。

 先ほどから何度も見ているが、不思議な光景だ。

「これも鬼の力なのか?」

「術が解けただけだ」

 深凪は濡れた手を軽く払うと、なぜか良春の袖で拭こうとする。 

 文句を言う気も失せて、良春は池に目をやった。

 あと残るは一匹だけだ。「よし、やるか」と、水をかき分けていく。

 けれど、最後の一匹は他の鯉とは違って逃げようとしない。池の隅でジッとしながら、捕まえようとする良春を丸い瞳で見ていた。

 他の鯉より一回りは体が小さい。それを脅かさないようにそっとすくって、桶の中に入れる。

「お前は大人しいな。どうした? 弱ってるのか?」

 鯉に話しかけながら、深凪のもとに戻る。

「…………それは無理だ」

 深凪が桶の鯉を見て、静かに言った。

「無理? 何が無理なんだ?」

 よくわからず、良春は怪訝な顔をして問い返す。

「戻る人の体が、もうないんだ……」

 彼の言葉にハッとして、桶の中でもジッとしている鯉を見る。

「そうか……」

(あの団子売りの子か……)

 魂だけ、ここに残されたということなのだろう。胸が痛む。

 良春はそれから、困ったように深凪を見た。

「だが、それならこれはどうするんだ? ずっと……このままか?」

 戸惑ってきくと、深凪は小さくため息を吐いて腰を上げる。

 そして、良春の手から桶を取った。

「これは、俺が連れて行く」

「連れて行くって、どこにだ? ま、まさか……っ」

「地獄じゃないぞ」

 考えていることなどお見通しだとばかりに、深凪が呆れたようにジト目を向けてくる。

「心配しなくても、寂しくない場所だ……また、いつかこの世に戻って来れる日も来るだろう」

 深凪は伏し目がちに呟いて、桶を手に歩き出す。

 ふと、桶の中が青く光ったかと思うと、あの日見た団子売りの子どもの姿に変わっていた。

 その子は小さな手を伸ばして、深凪の手をつかむと、安心したように笑っていた。

 

 驚いて目をこすると、いつの間にか二人の姿が消えている。

 先ほどまで水が張っていたはずの池も水が消え、落ち葉だけが溜まっていた。

 その中で、良春は狐につままれたような気分で突っ立っていた。

「お、おい……深凪?」

 急に不安になって呼びかけてみたが返事はない。

 池から上がり、急ぎ足で庭を通り抜けて門の外に出る。

 竹林の中の道にも、その姿はなかった。

「お前は、戻ってくる……よな?」

 ザッと風に竹が揺れていた。

 その葉の隙間から、頼りない月明かりがこぼれ落ちてくる。

「良春殿……」

 そう声がして振り返ると、桶を手にした景秋が歩いてくる。

 彼のひどく憔悴した顔を見て、良春は苦笑しながら帽子に手をやった。

 

 人ではないものに、心惑わされた。

 それを、責められはしない――。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る