第4話


「笛を吹く、河童……か?」

 なんとも、雅やかな妖怪もいたものだ。

 沼のほとりの石に腰掛けた良春は、垂らした釣り糸をぼんやりと眺めていた。

 淀んだ水面が、金色に輝いている。夕暮れ時の沼地に聞こえてくるのは、虫と鳥の鳴き声くらいだ。荒れ野で薄気味悪いと言われる蓮台野だが、慣れてしまえば怖ろしさも特には感じない。むしろ、静かでいい場所ではないかと思えるくらいだ。

 こうして、蓮台野にまた足を運んだのは、昨日に続いて鬼が現れるのを待っているからだ。

 昨日は一晩中、待ち構えていたにもかかわらず鬼の姿を見ることはなかった。現れたのは、狸の親子くらいだ。無駄足だと思いながらも、河童捜しのついでにもう一晩くらいは待ってみようと思い、こうして足を運んだというわけだ。

「…………また、性懲りもなくやってきて河童を釣ろうとしてるのか」

 呆れ果てたような声がして振り向くと、昨日の童子がカゴを背負って茂みの中からこちらを見ていた。『アホじゃないのか?』と、心底思っているのが、顔に表れている。

「そう言うな。大人には、無駄だと思っていてもやらなきゃならないことがあるんだ」

 良春は軽く肩を竦めて、少しも動く気配のない釣り糸をたぐり寄せる。

 その先に括り付けているのは、胡瓜の切れっ端だ。

「……おかしい。河童の好物は胡瓜じゃないのか?」

 なんで食いつかないんだと、良春は首を捻る。新鮮な胡瓜が手に入らなかったため、漬物にしたのが悪かったのかもしれない。

 童子は小さく首を横に振って、勝手にしていろとばかりに立ち去ろうとする。「ああ、待て、待て!」と、良春は立ち上がって後を追いかけた。

「ついてくるな、変態野郎」

「また、栗拾いか? 偉いぞ。団子をやろう」

 良春はニコニコしながら、市で買った団子の包みを懐から取り出す。

 途端に童子の足がピタッと止まった。振り向いた彼の瞳が、わかりやすくキラキラと輝いている。けれど、すぐにパッと顔を逸らし、「いらん!」と突っぱねるように言った。強がっているのはそのギュッと目を瞑っている顔を見れば分かる。

「いらんのか? じゃあ、俺が食ってしまうぞ? いいのか?」

 良春は包みを縛る紐を解き、団子を一つ取ろうとする。けれど、横から伸びた手に包みごとさっと奪われた。

「いらんのだろう?」

 赤くなった頬を団子のように膨らませている童子に、ニヤッと笑いながら少々意地悪く尋ねた。

「お前なんぞに食われたら、団子が気の毒だからだ!」

 団子の包みを腕にしっかり抱え込みながら、童子はキッと睨んでくる。その頭を、「そうか、そうか」と笑いながら撫でてやった。

 童子は憮然とした表情で、「触るなっ!」と頭を避ける。

「団子をくれたからって、馴れ馴れしくするなよっ」

「わかった、わかった」

「お前と口をきいてやるつもりはないからな!」

「はいはい」

 適当な相づちを打ちながら、童子の隣に並んで歩く。「ついてくるな!」と、童子が脚を蹴っ飛ばしてきた。

「それより、まだ名前を聞いてないぞ。俺は、源良春だ。お前はなんと言うんだ?」

「……知らんっ!」

「自分の名前を知らんのか?」

「お前なんぞに教えてやる名前はないって意味だ」

「では、俺が名付けてやろう。そうだな……栗……栗……栗丸」

「その名前で一回でも呼んでみろ。栗のイガを突き刺してやる」

 童子はとげとげのイガに包まれた栗を手に、声を一段低くする。

「仕方がないだろう? 俺はお前の名前を知らん。名前がわからなければ、不便じゃないか」

「俺には深凪というちゃんとした名前がある!」

 童子はしまったと、自分の口をパッと押さえる。

 目を丸くした良春は、「そうか、そうか」と笑った。

「お前の名は、深凪か。いい名じゃないか」

「~~~~~~~っ!! とっとと、どっか行け!」

 腹立たしげに、深凪はイガを投げつけてくる。足もとに転がったそれを拾ってから、さっさと行こうとする深凪のカゴにひょいっと投げてやった。

「なんでそうカリカリするんだ?」

「お前はどうせ、都の貴族だろう。だから気に入らないんだ」

「そいつは偏見というものだ」

 歩いているうちに石段が見えてくる。かなり勾配のあるその石段の先に今にも崩れそうになっている屋敷の門が見えてくる。

「もしかして、あそこがお前の家か?」

「ついてくるなっ。さっさと自分の屋敷にでも帰ってろ!」

 ベーッと舌を出し、深凪は石段を駆け上がっていく。

 その姿を、良春はホッとして眺めていた。

(なんだ……やっぱり、人の子か)

 ほんの少しだけ、疑う気持ちがあった。

 出会った場所が、幽鬼や妖怪が出ると噂の荒れ野だったからだろうか。

(妖怪が栗拾いをしているわけもない……)

 自分の臆病さに苦笑いをした。


***


 翌朝、寝床から起き上がった良春は、ぼんやりしたまま、隙間風の入り込んでくる庭のほうに目をやった。

「そうか……物忌みは終わりか……」

 呟いてから、ポリポリと肩をかく。


 朝餉を食べてから、出かける支度をして市に向かう。勤め先である検非違使庁には、『鬼が出る不吉な夢を見たため、念のためあと十日ばかり物忌みをいたします』と文を出しておいた。

 人で賑わう市の中をプラプラと歩いていた良春は、香ばしく焼ける団子の匂いにつられて足を止める。焼いているのは、赤子を背負ったふくよかな体型の女性だ。

「若君。今日も見回りですか?」

「ああ、まあ、そんなところだ……団子、あるだけ全部包んでくれ」

 財布を取り出しながら言うと、女性は「まあ、気前がいい」と笑顔になる。

 団子売りの女性は香ばしく炙られている団子を、笹の葉に包んでくれる。

「そういえば、このところ……おかしな話を聞いてないか?」

「都は毎日、おかしな話だらけですよ!」

「いやまあ、そうなんだが……例えば、川に河童が浮かんでいた、とか?」

「ああ、子どもが次々に倒れる事件でございましょう? 先日も、陰陽師の方々が川のそばで祈祷を行っておりましたよ。本当に怖ろしい……うちにも小さな子がいるもんで、水辺には近付かないよう言い聞かせているんですよ!」

 団子を包んで紐でしばると、もう一枚笹の葉を取り出し、残りの団子も包んでいく。その女性の脚に、三つか四つくらいの小さな女の子が指をしゃぶりながらギュッと抱きついていた。クリッとした瞳で、興味深そうに良春を見上げている。

(巷でも噂になっているのか……)

「そのことについて、なにか聞いてないか? 噂でもいいんだ」

「ええ、そうですねぇ……前にどこかの貴族の娘さんが、川に身投げしたことがあったので、恨みで悪霊になったんじゃないかと言う者もいましたけど、あたしらにはわかりませんよ」

 身投げや心中なら、それほど珍しいことでもない。身分違いの恋に溺れたり、許されない相手に恋慕したあげく、思いあまって身投げをする者も世には多い。

(けど、それなら子どもばかり狙われる理由がない……)

 むしろ、そうだとしたら、恨まれる相手は不実な相手の男か、恋敵の女だろう。

「鬼神様がなんとかしてくださればいいんですけどねぇ……」

 ため息とともに団子売りの女性が、ポツリと漏らす。

 顎に手をやって考え込んでいた良春は「鬼神?」と、思わず聞き返した。

「ああっ、いいえ……貧しい者や、困窮する者を救ってくれると、もっぱらの評判なんですよ。最近、その鬼神様に縋る者も多いようで、祠を建てるものもいるとか。御利益があればいいんですけどねぇ」

 ごまかすように笑うと、女性は団子の包みを二つ良春に渡す。

「それなら、俺も美人の結婚相手でも見つかるように、その鬼神様に祈らないとな」

 冗談めかして答えると、「あはははっ、それなら祈るまでもなくすぐに見つかりますとも!」と女性は調子よく答える。良春は銭を払うと、包みを受け取った。

「若君、これはもらいすぎですよ」

「ああ、いいんだ。子どもに飴でも買ってやってくれ」

 ヒラヒラと手を振って歩きながら、「鬼神様か」と良春は多少鼻白んで呟いた。

 その手の噂も信心も、よくあることだろう。そう思いながらも、いつぞや見た鬼の姿が頭に浮かんでくる。

「夢か誠か……」

 フッと笑ってから、団子を懐にしまって賑やかで活気のある市を通り抜けた。



 ここ最近、毎日のように通っているため、雑木林の中の道にもすっかり慣れた。周りを見れば、いたるところで金木犀が小さな花を咲かせていた。風が吹くたびに、その香りが辺りにフワッと広がる。

「なるほど……この香りか」

 先に進んでいくと、昨日の石段が見えてきた。上がっていくと、今にも崩れそうなたたずまいの門がある。

 庇には草や苔が生えていて、傾いた扉は木が腐れて黒くなっていた。

「ふむ、なかなか趣があるじゃないか?」

 そう言いながら、扉を押して中に入ろうとした時、後ろから「余計なお世話だ」とひどく不愉快そうな声がした。

 振り返ると、カゴを背負った深凪が眉間に目一杯皺を寄せて立っている。

 そのカゴに入っているのは、土にまみれている芋だ。刃こぼれしている鍬を、深凪は肩に担いでいる。

「何しにきた……河童はこんなところにいないぞ」

「今日は畑仕事か? 偉いぞ」

 ニカッと笑うと、良春はよしよしと深凪の頭を撫でてやろうとしたが、すかさず避けられる。

 煩わしそうに人睨みした後で、深凪は良春を避けて門の中に入っていった。

 その後に続いて中に入ると、庭を駆け回って遊んでいた幼い子どもたちが、「わっ、兄ちゃんが、帰ってきた!」と嬉しそうに駆け寄ってくる。

 十人はいるだろうか。みんな深凪よりも年下の子たちだ。

「誰、誰? お客さん!?」

 子どもたちは良春を好奇心いっぱいの瞳で見上げてくる。

「お前の弟や妹か? これは大家族だ」

 その面倒を、彼が見ているのだろうか。

「だから、なんで勝手に入ってくるんだっ!」

「なぜって、扉は開いていたぞ?」

「うちの門の扉は、最初から壊れているんだ。帰れ!」

「そう邪険にするな。ほら、団子をやろう」

 良春が懐から団子の包みを取り出した途端、子どもたちが「団子!?」と一斉に目を輝かせる。

「お前は団子売りか! 言っておくがうちは見ての通りの貧乏だから、銭なんてないぞ!!」

 一瞬嬉しそうな顔をしそうになった深凪は、グッと堪えるように拳を握り、突っぱねるように言う。その頬がわずかに赤くなっているのは、喜びそうになった自分を恥じているからのようだ。

「団子ーっ! 団子ーっ!」

 子どもたちは早くくれと急かすように、飛び跳ねながら良春の持っている包みに手を伸ばそうとする。

「団子じゃぁ…………団子じゃぁ……」

 納屋のそばの丸木に腰掛けていた白髪の老人まで、杖をついて震える足腰で立ち上がってきた。

「ほら、落とすなよ。ちゃんとわけるんだぞ」

 良春は身をかがめ、一番年長の子どもの手に包みを渡す。

「団子のおじちゃん、ありがとーっ!!」

 子どもたちは隙間だらけの歯を見せて、ニカーッと笑う。「うっ……」と、良春の笑顔が強ばった。

「俺はおじちゃんじゃなくて、お兄さんだからな」

 こう見えて、まだ二十歳にはなっていない。

「爺ちゃん、団子もらったーっ!」

 子供たちはキャッキャとはしゃぎながら、団子の包みを掲げるようにして老人に駆け寄っていく。

「あっ、爺ちゃんは団子はダメだぞ。喉に詰めたら大変なんだ!」

 深凪がすぐにそう注意した。ニコニコしながらその様子を見ていると、彼は不愉快そうにフンッとそっぽを向いた。

 庭の隅にある井戸のところに行くと、桶で水を汲む。

 中庭を囲むように、母屋と、納屋、それに離れがあった。以前は誰かの屋敷か別宅だったのだろうか。古くて痛みも酷いが、造りはしっかりしているようだ。

 井戸のそばにも金木犀が生えていて、風がそよぐと花がパラパラと散っていた。

 それが甘い香りを漂わせている。

「このあたりには金木犀が多く生えているのか?」

 木を眺めながら、手と顔を洗っている深凪にきく。

「見ればわかるだろう。それとも、都では珍しいのか?」

 手を振るって水滴を切ってから、深凪は手ぬぐいで顔を拭っていた。

「いや……」

 市のそばにも金木犀が生えていた。

「確かに、そう珍しくもないな」

 良春が笑みを作ると、深凪は怪訝そうな目を向けてくる。

 その時、納屋の戸が開いて女性が出てきた。

「深凪、戻ったところ悪いんだけど、反物を……」

 女性は良春を見ると、「あっ」と口もとを押さえる。

「あらまあ、いやだ。お客さんがいらっしゃってたの!」

「母ちゃん、こいつはお客さんじゃない」

 深凪は不貞不貞しく言うと、女性の方に歩いて行く。

(母ちゃん……)

 なるほど、あの人が深凪の母親のようだ。二十歳過ぎだろうか。とびきり美人というわけではないが、愛嬌のある顔をした人だ。

「戻ったところ悪いんだけど、反物が仕上がったから持って行ってくれるかい?」

 母親と一緒に、深凪は納屋の中に入っていく。

 良春も興味津々後に続くと、納屋の中には機織り機が置かれていた。隅の台の上に、折り上がった反物が積み重ねられている。

「なんで、ズカズカ入ってくるんだ……」

 深凪に睨まれたが、「手伝おうと思ったんだ」と悪びれもせずに答える。

「ごめんなさいねー。おもてなしもろくしなくて。うちはこの通り、あちこちボロなもんで」

 深凪の母親はあっけらかんと笑っている。

「いやいや、おかまいなく。それにしても美しい反物だ」

 絹の光沢を見れば、上等の反物だとわかる。

「うちの母ちゃんの折る反物は、都一番なんだ」

 深凪が誇らしげに胸を張る。それを見て、良春は思わず笑った。

(なんだ、かわいいところもあるじゃないか……)


***


「だからって、なんだって俺が反物を運ばされるんだ?」

 反物を積んだ荷車を引きながら、良春はぼやくように言った。古くて今にも壊れそうな荷車の車輪が、ガラガラと音を立てる。

 隣を身軽なかっこうで歩いている深凪は、「手伝うと言ったじゃないか」と意地の悪い笑みをニンマリと浮かべていた。

「まったく、こんなところを同僚にでも見られたらどうする」

 一応はまだ物忌みが終わっておらず、家に引きこもっていることになっているのだ。お役目をサボって、荷車を引かされているところなど見られたら、何を言われるか知れない。

「お前の事情など知らん」

 深凪は頭の後ろで手を組み、フンッとそっぽを向く。荷車を押して手伝ってくれる気はさらさらないらしい。

 良春はため息を吐いて、「それで、この反物はどこに持って行くんだ?」と尋ねる。

「もうすぐそこだ」

 深凪が入っていくのは、一際立派な商人の屋敷だ。

 人が途切れることなく屋敷を出入りしている。

「ここは……南條殿の屋敷か……」

 良春も知っている都でも指折りの豪商だ。自前の船を持ち、宋とも交易を行っていて両国の間を行き来していると聞く。

 深凪は「こっちだ」と屋敷の裏口を開いた。その後に続いて中に入ると、多くの男の人が米袋や荷袋、木箱などを運んでいる。その中には、大きな石の観音像まであるが、寺にでも納めるのだろうか。指図する声があちこちで飛び交っている。

「へぇ、随分と繁盛しているんだな」

 荷車から降ろした反物を抱え、深凪と共に人の列の後ろに並びながら呟いていると、「おかげさまで」とにこやかな声がした。

 帳面を手にしたほっそりした男性が、笑顔でやってくる。

 他の者たちとは違う、上等の身なりだ。なかなかの美青年と言っていい顔立ちだろう。

「失礼しました。私、南條雅明と申します。源良春殿でございましょう?」

 そうきかれて、良春は驚いて相手の顔をまじまじと見る。

「どこかでお会いしたことが?」

「源様の邸宅にお伺いした時に、一度、遠くから拝見いたしました」

「ああ……姉が何か注文したのかな?」

「ええ。宋から取り寄せた珍しい香炉とお香を。それと、それは美しい碁石と盤が手に入りましたので、お届けいたしました。たいそう気に入ってくださったようです」

「ああ、そういえば……」

 いつも姉と勝負している碁石と盤のことを思い出す。最近、新調したと嬉しそうに話をしていた。囲碁にはとんと興味のない自分にはみな同じに見えるが、確かに少し、いつもよりもツルツルとした手触りだった。よい石を使っているのだろう。

「姉の道楽にも困ったものです」

 良春はそう言って苦笑した。

「ところで……今日は随分と、珍しい方とご一緒なのですね」

 そういうと、雅明はそばで聞いている深凪に視線を移す。

「こいつが勝手についてきたんだ」

「そうですか……お知り合いだったとは存じ上げませんでした」

「知り合いじゃない」

 深凪は眉間にわずかに皺を寄せて、素っ気なく答える。

「深凪殿のお母上の折る反物は、いつもうちに卸してもらっているのです。これほど上等のものは、そうありませんから」

 雅明は良春のほうを見て説明するように言うと、近くにいた使用人の男性をすぐに手招きして呼び寄せる。

「この反物を蔵に運んでおくれ。汚さないように、丁寧に扱うように」

 雅明が指示を出すと、男性はすぐに返事をして良春から反物を預かる。

 荷車に積んであったすべての反物を運び終えると、使用人の男性はかわりに大きな米袋を抱えてきて荷車に積んだ。

 深凪はそれを慣れた様子で、しっかりと縄で括り付けている。

「では、いつものように……」

 雅明は深凪に向かって言うと、良春のほうを向く。

「良春様。姉君によろしくお伝えください。また、よい品が入りましたらお屋敷にお伺いいたします。良春様も、何か入り用なものがあればいつでもお申し付けください。うちで手に入らないものなど、そうありませんから」

 にこやかに言う雅明に、「今は特にないが、なにかあればお願いするかもしれません」と差し障りのない受け答えをした。

 会釈をして立ち去る雅明を、良春は作り笑いをしながら見送る。

 どうも、顔に張り付いている笑顔が胡散臭くて、いけ好かない相手だ。口もとは笑っていても、目が冷たい。

(まあ、あまり信用しないほうが良さそうな相手だな……)

「ほら、行くぞ。ぼんやりとするな」

 深凪がそう言って、さっさと歩き出す。相変わらず、荷車を押してくれる気はないらしい。

「俺は馬か……」

 納得がいかないと顔をしかめながらも、諦めてよっこらしょと荷車の柄を持ち上げる。良春は反物のかわりに米袋を乗せた荷車を、ガラガラと引きながら歩き出した。

「南條殿の屋敷にはよく行くのか?」

「うちの反物を一番高く買ってくれるからな……他では、もっと安く買いたたかれる」

「そうか……辛いなぁ」

 きっと童子だと、足下を見られるのだろう。

 良春がポンポンと頭を叩くと、「童子扱いするなっ!」と不愉快そうに横に逃げる。

「俺はもう立派な大人だっ!」

 舐めるなとばかりにふくれっ面で腕を組んでいる姿が、まさしくへそを曲げている時の童子と同じで良春は思わず笑う。

「笑うなっ! それより、寄るところが多いんだ。グズグズしてると帰るのが日暮れになるぞ」

「どこに寄るんだ?」

 良春が尋ねても、深凪は『ついてくればわかる』とばかりに黙っていた。



「いつも、ありがとうございます」

 古い寺の門前で、出てきた白髪の僧侶が手を合わせる。深凪も同じように両手を合わせて、ペコッと頭を下げた。

 僧侶が寺に入っていくのを見届けると、「次に行くぞ」と良春を急かす。

 深凪は寺に立ち寄っては、せっかく反物と交換した米を次々と配っていく。

 二袋あったのに、そのうちの一袋はもうすっかり空だ。

「……いつも、こうやって施しをしてまわっているのか?」  

 荷車を引きながら、良春は感心して尋ねた。深凪の家も、けっして裕福とは言えないだろう。

「母ちゃんの言いつけだからな……どこの寺も、身よりのない子や、行き場のない人たちの面倒を見てる……困ってるのはお互い様だ」

「そうか……」

 荘園を持つ都の裕福な貴族たちですら、困窮している市井の者たちに目を向けようとはしない。むしろ関わり合いたくないとばかりに、無関心を装い、遠ざけようとする。

「偉いぞ」

 頭に手を伸ばそうとすると、先回りするようにサッと避けられた。

「気安くするなっ。俺はお前たちみたいなお気楽極楽なお貴族様が嫌いなんだ。お前たちが情けなくて頼りにならないから、俺たちみたいな庶民が苦労するんだ!」

 憮然とした顔で言われて、伸ばした手を引っ込める。

「その通りだな……」

(なかなか、痛いところを突いてくる)

 けれど、それを責められない。自分も今まで世の人々の困窮には無関心だったからだ。自分から率先して人を救おうとしたことはない。

 それは自分の役目ではないと、やはり多くの人たちと同様に、見たくない現実から目をそらしつづけていたのだろう。

 情けないことだなと、苦笑いが漏れる。

 誰かがやらなくては、ならないことなのに――。


 寺を一通り巡ってから蓮台野に向かう頃には、赤焼けの空に変わっていた。

 そろそろ山の木々の葉が赤や黄色に色づき始めている。

 それに伴って、吹く風は冷たい。山道の途中で熟した柿をもぐと、「ほら」と深凪のほうに軽く投げた。それを両手で受け止めた深凪は少し目を丸くしている。

 もう一つ柿をもいで囓ってみると、あまり甘くなくて硬かった。

 渋い顔をしていると、深凪が笑う声を押しころして、肩を小さく揺すっていた。

 ガラガラと引く荷車はもう随分と軽くなっていた。

「……これっぽちの米で、足りるのか?」

 一袋はすっかり空になり、もう一袋も残っているのは半分よりも少ないだろう。

 深凪の家族の人数を考えれば、満足するほど食べられるような量ではない。

「野菜は畑で作ってるし……贅沢をしなければなんとかなる。今までもそうだったんだ」

 前を向いたままそう言ってから、「でも……」と深凪は少し言葉を濁す。

 家族に満足に食べさせられないことを、やはり気に病んでいるのだろう。育ち盛りの子どもがたくさんいるのだ。

 彼自身も、同じ年頃の富裕な家の子よりはずっと華奢だ。

「また、団子を買ってきてやるさ……」

 良春は呟くように言う。深凪は黙ったまま、手に持っていた柿を口に運ぶ。

 その柿は甘かったのか、口もとに笑みがこぼれていた。

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