第3話


 真仁と別れた後、良春は鬼が消えたという蓮台野に向かっていた。

 鬱蒼とした雑木林の間の細い道を歩いて行く。背丈ほど伸びた草の間には、いくつもの卒塔婆が並んでいた。カラスの鳴き声が、夕暮れに染まる空に響いてなんとも不気味だ。鬼や幽鬼、物の怪が出ると噂されるため、人も忌避して近付こうとしないのだろう。

 肌に刺さる枝や葉を手で除け、先に進む。しばらくすると、沼のほとりに出た。

 緑色の淀んだ水が溜まるその沼を、覗き込んでみる。

「鬼よりも河童が潜んでいそうな場所だな……」

 辺りを見回して、手頃な枝を拾う。蔓を引っ張って引きちぎると、簡単な釣り竿を作った。

(河童って、なにを食うんだ?)

 魚だろうか。それとも、やはり胡瓜のような野菜類だろうか。

 だが、周りに落ちているのは栗くらいだ。

 鬼が姿を現すのは、おそらく日が暮れてからだろう。それまで、このあたりで待ってみるつもりだった。

 その間の暇潰しに、陰陽寮の連中の河童捜しを少しばかり手伝ってやろいう気になっただけだ。どうせ、他にすることもない。河童のかわりにウナギの一匹でも釣れれば夕飯のかわりにもなる。

 沼のほとりの石に腰を下ろし、蔓の先に括り付けた餌を沼に投げる。

 しばらく、鈴虫の声を聞きながら時間が過ぎるのを待っていると、次第に眠気が襲ってきて、あくびが漏れた。

 辺りを包む薄暗い不気味さも、慣れてくればどういうこともない。

 むしろ、静かでいい場所じゃないかとすら思えてきた。膝を立てて座ったまま、その膝に肘をひっかけて頬杖をつく。

 その時、不意に釣り竿が引っ張られる。咄嗟にその竿を引くと、餌にくいついた獲物も負けじと引っ張ろうとしてくる。かなりの大物だ。

「本当に、河童じゃないだろうな!?」

 良春は立ち上がって力一杯竿を引く。水面からジャブンと飛び上がったのは、そこそこ大きさのあるナマズだ。それは餌を食いちぎると、そのままま沼に沈んで見えなくなってしまった。

 竿の先にぶら下がった蔦が、プラプラと揺れている。それを見て、良春はがっくりと肩を落とした。

「河童なわけがないか……」

 呟いて、竿をポイッと投げ捨てた。その時だ。

「グッ……馬鹿じゃないのか?」

 そう微かな人の声がして、ハッと顔を上げる。

 振り返ると、草むらの方で人影が動くのが見えた。

「誰だ!? 出てこいっ!」

 強い口調で問うと、焦ったようにその人影が逃げ出す。

「待て!!」

 良春は生い茂る草をかき分けながら、駆け出した。

(童子……か?)

 背格好からして、十五か、六といった年齢だ。

 背にカゴを背負っている。追いつきそうになったところで、手を伸ばしてそのカゴをつかんだ。

 グイッと引っ張ると、相手が「うわっ!」と声を上げて後ろ向きにひっくり返る。一緒になってドサッとその場に膝をつくと、ちょうど相手に覆い被さるような体勢になった。

 数秒、荒い息を吐きながらお互いに見合っていただろうか。

 不意に相手が飛び上がるように起きたので、ガツンッと額と額がぶつかる。その痛さに思わず呻き、良春は額を押さえた。

「この……っ!! 悪童め!」

「誰が悪童だ! そっちがいきなり追いかけてきたんじゃないか。この変態野郎!」

 威勢よく罵られて、良春は瞬きして相手を見た。

 立ち上がり、「フンッ!」と腰に手を当てているのはやはりどう見ても童子だ。もちろん、元服は終えている年齢だろうが、顔立ちにはまだまだ幼さが残る。

 華奢な体つきで、日にあまり当たったことがないような薄い肌の色だった。

 帽子をかぶっておらず、ピンピンと跳ねている髪は栗色だ。後ろで結んだ髪が、一房肩にかかっていた。

 睫が長く、目が大きい。整った綺麗な顔立ちをしているが、頬や額は土仕事でもしたのか汚れがついていた。

(近くの……集落の子……か?)

 良春はその子どもをついジロジロと見てしまった。すり切れた草履を履いていて、見るからに着古している衣は袖がすり切れ、そこかしこ継ぎ接ぎがしてある。

 良家の子ではないのは確かだろう。貧相だなというのがその印象だった。

「人のことをいきなり変態野郎と呼ぶやつがいるか!」

 ポカッと軽く拳で頭を小突いてやると、相手は「押し倒したじゃないか!」と顔をまっ赤にして憤慨する。

 たしかに、こんな子ども相手に大人げなかったと、良春はため息を吐いた。

「わかった、わかった。驚かしたのは謝ってやる。それで、お前はこんなところで何やってるんだ? 子どもが遊ぶような時間じゃないぞ。もうすぐ日暮れだ」

「うるさいっ、俺はただ栗を拾っていただけだ」

 立ち上がったその童子は、カゴを背負い直す。倒れた時に、せっかく拾った栗があたりに散らばってしまったらしい。それを、童子は「お前のせいだ」と、憮然としながら拾い集めている。

 良春は自分の足もとに転がっている栗を拾い、「ほら」と差し出した。

 いかにも胡散臭いやつだとばかりに睨んだ後、童子はパッと栗を取って背中のカゴに放り込む。

「家の手伝いか? 偉いぞ」

「人のことを童子扱いするな。失礼なおっさんだな」

「人のことをおっさん呼ばわりするなよ。失礼な童子だな」

 すぐに言い返してやると、童子はしかめっ面になる。もう話しかけるなとばかりに、身を翻してさっさと立ち去ろうとするから、「ああ、待てよ」と急ぎ足で追いかけた。

 隣に並ぶと、チラッと煩わしそうな視線を向けてくる。ふくれっ面で、いかにも機嫌の悪い顔だった。

「ついてくるな。悲鳴を上げるぞ?」

「上げたところで、カラスがびっくりして逃げていくだけだ。それより、お前はこの辺りに住んでるのか? というより、この辺りに集落なんてあるのか?」

 あるのは、墓場ばかりだ。

(まさか……幽鬼ってわけじゃないだろうな……?)

 押し倒した時の手応えははっきりとあった。それに、足や腕が透けているわけではない。

 相手の頬にピトッと手の平を当てて確かめてみる。

(ちゃんと温かいな……やっぱり生きた人か?)

「~~~~っ、勝手に触るな!」

 童子は苛ついたように言って、良春の手を避ける。

 次に触ったら、栗のイガをその手に突き刺してやるからなとばかりに、片手に栗を持っていた。

「そう、噛みつくな。ほら、団子をやろう。うまいぞ」

 真仁からもらった団子の包みを懐から取り出すと、童子の表情がパッと変わった。

 キラキラした目で団子の包みを見つめ、少しだけ震えている手で包みを取る。けれど、すぐにハッとしたように警戒の眼差しに変わっていた。

「団子だけで、俺を懐柔できると思ってるんじゃないだろうな?」

「そんな、けち臭いことをするものか」

「…………どういうつもりだ?」

「お前はやせっぽちだからな。ちゃんと食え。でないと大きくならないぞ」

「お、俺を肥え太らせて、食うつもりなのか!?」

 童子は逃げ腰になりながら、ギョッとしたように言う。

「それじゃあ、いらないのか?」

「いる……っ! これは俺の団子だ!」

 童子は返さないとばかりに包みをしっかりと腕に抱える。

(やっぱり、まだ童子じゃないか)

 童子は包みを開くと、団子を一つ手に取る。それを頬張ると、うまかったのか口もとが緩んでいた。ゆっくり噛んで食べると、残りの団子には手をつけず、しっかりと包み直す。

「もういらないのか? 全部食べていいんだぞ?」

「残りはみんなにやる……こんなうまいもの、俺だけ食ったら罰が当たる」

 少しだけ驚いて童子を見てから、「いい子だ」とその髪をクシャクシャと撫でてやる。「うわっ、触るな!」と、童子がピョンッと飛び退いた。

 まるで野良犬が威嚇するように唸っている。それがおかしくて、良春はクッと笑った。

「家族がいるのか?」

「……当たり前だ。俺をなんだと思ってるんだ?」

「この辺りの村か?」

「ついてくるな……あっちに行け!」

「そう、邪険にすることはないだろう。団子をやったのに」

「団子だけで、信用してもらえるなんて思うなよ。だいたい、食い物でつろうとするなんて悪いやつに決まってる」

「俺はこの辺りで……」

 言いかけて、良春はふと口を噤んだ。童子は怪訝そうな顔をしてこちらを見る。

「河童を捜してるんだ」

「まさか……さっき、河童を釣ろうとしてたのか?」

「そうだ。釣れたのはナマズだったけどな」

 肩を竦めて答えると、童子が「ブハッ」とふきだした。

 よっぽどおかしかったのか、お腹を抱えながら笑い転げている。

「河童を釣ろうとか……アホじゃないのか!?」

「まったくだな……」

 ほつれた前髪を手で上げながら、ため息を吐く。けれど、そう笑っていられるような話でもない。都で子どもが急に気を失う事件が起きているのは確かだ。その理由ははっきりとは分かっていない。

「鬼と関係あるのかどうか……」

 ポツリと呟くと、急に童子が笑うのをやめる。

 ジッと見つめてくるその瞳は、髪と同じくほんの少し茶色がかって見えた。

 あの時見た鬼は、目に焼き付いて忘れられなくなるような鮮やかな黄金色の瞳だった――。

「河童だとか、鬼だとか……大人のくせにそんなものが怖いのか」

 童子はフンッと小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「怖くはないが、世を騒がせる以上放っておくわけにはいかないんだよ」

 童子は振り向くと、急に良春の肩を両手で突き飛ばす。不意を突かれたものだから、良春はよろめいてドスンッと尻餅をついた。

「じゃあ、ずっと河童釣りでもしてろ! バーカッ!」

 ベーッと舌を出すと、童子は弾むように駆け出す。

 その姿はあっという間に雑木林の奥へと消えていった。

「あの、悪童め……っ!」

 軽く毒づいて、良春は腰を払いながら立ち上がる。団子をやったのに、ろくな話も聞けなかったではないか。

 フッと息を吐くと、いつの間にか風が強くなりはじめ、枝葉が波打つように揺れている。茜色だった空には、闇がゆっくりと広がっていた。

 

***


 夜明けに家に戻った良春は、着替えをして倒れるように寝床に入る。けれど、眠れたのはほんの一刻ほどだった。

 姉が呼んでいると起こされ、朝餉を食べる暇もなく着替えをして部屋に向かう。

 まったく、姉ときたらこちらの都合などお構いなしだ。やれやれとため息を吐いて部屋に入ると、「いったい、なんなんです?」とさっそく尋ねた。

 どうせまた、巷の噂話か何かだろう。

「良春! よく来てくれました」

 落ち着かないように待っていた姉が、パッと顔を輝かせる。

(そっちが、呼んだんじゃないか……)

 まったくと、良春は少し傾いている帽子に手をやって直す。

「大変なことが起きたのです!」

 閉じた扇を握り締めながら、姉が膝を寄せてくる。

「……はぁ。とうとう、姉上の嫁ぎ先でも決まったのですか?」

「誰がそんな話をしていますか」

 姉は扇で弟の額を軽くペチンッと打った。

「では、なんでしょう?」

「最近、噂になっている河童の呪いですよ!」

「ああ……そのことですか」

 噂好きの姉の耳に入らないわけがない。「けど、それが姉上とどう関係が?」と、良春は眉根を寄せた。

「私の大切なお友達が藤原家に嫁いでいるのですけど、その方の五歳になる女の子が、つい先日、とうとうその河童の呪いにかかってしまったのです!」

「それは、なんと怖ろしいっ! 身震いがつきました」

 大げさに驚いてみせると、「真面目に聞きなさい」と姉に睨まれる。

 姉の話によると、その五歳になる娘が毎晩、寝ているはずなのにずっと誰かと話しているのだという。最初はただの寝言だと、母親である姉の友人は気にとめなかったようだ。けれど、一人で話してはクスクスと笑っているのが、我が子ながら奇妙だったようだ。

 そのうち、気づくと動き出して部屋を歩き回っている。先日にはとうとう庭に出て、大きな池のほうへと歩いて行こうとするものだがから、気づいた侍女が慌てて連れ戻したという話だった。

「もう少しで、池に落ちるところだったようですよ。気づかなければ、大変なことになっていました」

 それで、さすがに母親も様子がおかしいと、山伏や陰陽師を呼んで祈祷をしてもらったが、それも効果がないらしい。

「いつまた娘が誘い出されるかわからないため、夜も寝ずに見ていなければならず、その方も心労のあまり随分と憔悴してしまっているのです。その方から文を受け取って、私も胸が痛くなってしまいました……」

 姉はいかにも心配だとばかりに、開いた扇を口もとにやりながらため息を吐く。

「……それはたしかに、由々しきことではありますね……」

 嫌な予感を覚えながら、相づちを打つ。

「ですから、私がなんとかしましょうとその方に文を送ったのです」

「そうですか……姉上がなんとかしてくださるのなら、その方もきっと安心したことでしょう」

「ええ、ですから。良春……」

「私は急なお役目がございまして、忙しいのでこれにて失礼いたいます」

 すっくと立ち上がって踵を返し、すぐさま姉の部屋を出て行こうとした。けれど、衣の裾がグイッと引っ張られる。

「…………姉上、できればその手を放していただきたいのですが」

「良春。お前のお役目はなんだったかしら?」

「検非違使です……」

「都の珍事や怪事を解決するのも、お前のお役目ではないのですか?」

 姉はしっかり衣の裾をつかんだまま、にっこりと微笑む。

「…………私は今、鬼探しで忙しいのです。それに、河童の呪いであれば陰陽師の領分ですよ。そちらに任せておけばよいのでは?」

 藤原家ならば、お抱えの優秀な陰陽師がいくらでもいるだろう。自分のようなものが出しゃばることはない。

「それで解決できないから、困り果てているのではありませんか!」

「だったら、なおさら、私のような凡人になにができますか」

「お前には、我が子が怪異に悩まされる母親の気持ちが分からないのですか! ああっ、おかわいそうな清子さん……きっと、胸が潰れてしまいそうな思いをしているでしょう。毎日、祈祷や読経をしているとか。お寺やお社にお参りをして祈願もしているそうですよ! 気の毒ではありませんか。なんとかして差し上げたいと思うのが人の情というものです。お前にはその情がないのですかっ!」

 姉に「薄情者!」と裾を引っ張られて、良春はげんなりした顔になる。

「ですから、私にどうしろと?」

「見つけるのです。子どもを次々と呪う人でなしの河童を!」

「それは、まあ……河童ですから、人ではないでしょうね」

「良春っ!」

 名前を呼ばれて、つい首を竦める。

「わ、わかってますよ……とりあえず、調べてくればよろしいのでしょう? といっても、その方のもとに出向いて話を聞き、様子をうかがってくることくらいしか、できませんよ?」

 良春は投げやりに言った。そうでも言わなければ、姉はとうてい納得しないだろう。このまま、長々とお説教を聞かされることになるのはご免だ。

 河童を捕まえてお仕置きをしろと言われても、土台無理だ。陰陽師でも出来ないことが、怪異について知識も能力もない自分にできるわけがない。

「ええ、それ以上のことなどお前に期待したりしていません」

「そうですか。それはよかった」

 良春は「では、失礼します」と、頭を下げて部屋を出る。

 廊下を歩きながら、「やれやれだな……」と嘆息を漏らした。

 姉にも困ったものだ。けれど、断れば姉のことだから、屋敷を抜け出して自分で河童捜しをしようとするかもしれない。

 そんなことが噂になれば、ますます姉の嫁ぎ先が見つからなくて、この家にずっと居座ることになるだろう。それは困る。実に困る。

(まあ、姉上も心配で様子を見てきてほしいだけだろう……)

 話を聞いて、それを報告すれば姉もひとまずは満足する。

 それに、まったくこの一件に関心がないわけでもない。やはり世間を騒がせる事件を放置できない。

 河童の呪いかどうかはわからないが、実際に幼子が次々と倒れているのだ。流行病や、なにかの毒物が原因ではないとも限らない。だとすれば、それを調べるのは自分の役目ではある。


***


 遅めの朝餉を食べてから良春が向かったのは、大臣である藤原忠清の屋敷だ。良春の母も藤原氏の出であるため、忠清の娘である清子とは親戚同士でもある。

 清子が嫁ぎ先の屋敷ではなく、実家である忠清の屋敷にいるのは、例の河童の呪い事件のせいだろう。

 夫のお役目にも影響がでかねないため、嫁ぎ先に居づらくて実家に戻ったようだ。藤原忠清も、かわいい孫が河童の呪いで怪異に悩まされているのだから、なんとかしてやろうと実家に呼び戻し、連日連夜、河童が屋敷に近付かないよう、都の名だたる陰陽師や僧侶、山伏を呼んで祈祷させている次第のようだった。

 良春も物忌みの最中であるため、訪れるのは躊躇ったものの、姉が文を送るとすぐにでも来てほしいと返事があったようだ。

 それだけ切羽詰まり、藁にも縋る思いなのだろう。

 良春が屋敷に行くと、すぐに中に通された。清子とその娘が滞在しているのは、離れの部屋だ。御簾越しであるため顔や姿は見えないが、その弱々しい声からして相当に憔悴しているようだった。

 良春は挨拶を簡単に済ませると、すぐに話を聞く。手短にすませたほうがよさそうだと思ったからだ。

「それが、実は……」

 清子の話によると、五歳になる娘が夜中になると誰かと話すように寝言を口にするようになったのは、半月ほど前からのようだ。

 寝ていて目は瞑っているのに、起き上がってきてフラフラと部屋を歩きまわるようになり、三日ほど前には知らない間に庭に出て、池のほうへと歩いて行こうとしていたらしい。

「その時、気づいたのは私でございます」

 そばに控えていた侍女が、娘が庭に出ていることに気づいて、急いで部屋に連れ戻したようだ。けれど、寝かしつけてもまたすぐに部屋を出て、池のほうに歩いて行こうとする。

「私が話しかけても、姫様は少しも返事をなさらないのです。その間も、ずっと誰かと話しているようで、楽しそうに笑ってもいらっしゃいました……」

「寝ぼけているわけではないと……?」

「ええ、私は姫様を起こそうと、何度も肩を揺すったのです。けれど、姫様はまったく目を開けませんでした。それが一晩中続くのです」

「池のほうに歩いて行く、というのは確かなことなのですか?」

「ええ、間違いありません。私が立ちはだかろうとすると、急に乱暴になって押しのけようとしたり……それも、子どもの力ではありませんでした……これを、見てくださいませ!」

 侍女は袖をめくり、細い腕を見せる。その肌にはくっきりと青あざが残っている。しかも、子どもの手の形にだ。良春もさすがに少しばかりゾッとした。

「……なるほど。ほかに、気づいたことや、変わったことはありませんでしたか? 怪しげな人影のようなものを見た、とか……」

 そう尋ねると、侍女は御簾の陰にいる清子のほうを見る。

「いいえ、人影は見当たりませんでした……毎晩、見廻りをさせておりますが、その者たちも誰も見かけなかったと……ただ……」

 御簾の向こうから、清子の声がする。「笛が聞こえておりました」と、きっぱり答えたのは侍女のほうだ。

「笛……ですか?」

「ええ、あれは間違いなく、笛でございました。毎夜決まって聞こえるのでございます。けれど、どこからその笛の音が聞こえてくるのか皆目分からないのです。もちろん、屋敷の中で笛を吹いている者もおりませんでした」

 良春が眉根を寄せて考え込んでいると、御簾をすっと手で除けて清子が姿を見せる。その顔色はひどく青白く、色を失っている唇はギュッと結ばれていた。

「良春様……」

 清子は良春の前に膝をつくと、深く頭を下げる。

「どうか、娘のことを助けてやってくださいませ!」

 震える声で頼み込んでくる彼女に、良春は何も答えられなかった。


 部屋を出ると、日差しが少しばかり眩しく感じられた。

 清子と侍女の話を思い返しながら長い渡り廊下を歩いていると、キャッキャッと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。その声につられて庭を見れば、小さな女の子が侍女たちと一緒に手鞠で遊んでいる。

 あの子が清子の娘だろう。自分の身に異変が起こっているなど、まったく気づいていない様子で、明るい声で笑っていた。

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