第2話


「人を食う、鬼……ですか?」

 その日、姉の部屋を訪れた良春は、怪訝な顔をして問い返した。

 簾の間から吹き込んでくる風は、一月前までのうだるような暑さが嘘のように涼やかな秋の風に変わっていた。

「夜な夜な出没しては、人を浚って食べるそうですよ。その姿を見たものは絶対生かしてはおかないのですって。ざんばら髪で、この世のものとは思えないほど怖ろしい形相をしているとか。全身から棘が生えているという話も聞きました」

 姉は神妙な顔をして語りながら、パチンッと白の碁石を置く。黒の碁石を片手でもてあそびながら、良春はそろそろ詰んだなと形勢不利な碁盤を見つめて小さく唸る。 

 姉の常子はそんな弟を見て、開いた扇で口もとを隠しながらクスクスと笑った。都でも才色兼備と名高く、見目麗しい姉だが、その本性はなかなかの食わせ物だ。

 子どもの頃から囲碁好きな祖父に鍛えられただけあって、囲碁では右に出る者がいない。姉目当てで夜な夜な忍び込んでくるどこかの貴公子を、一晩中囲碁に付き合わせたこともある。姉のことだから、囲碁で自分に勝てたらお付き合いして差し上げましょうとでも言ったのだろう。その気の毒な貴公子は朝方、フラフラになりながら出て行って、それ以来屋敷にはもう二度とやってこなかった。相当、懲りたと見える。

(そんなことだから、行き遅れに……)


「良春、考えていることが顔に出ていますよ」

 姉にジロッと睨まれて、良春は「参りました」と頭を下げた。

 投了だ。姉に囲碁で勝てたことは一度もない。

「またですか。まったく、根性がありませんね」

 姉はため息を吐いて、呆れたように言う。

「姉上が鬼のようにお強いのですよ……」

 姉は『自分より囲碁の弱いお方とは結婚いたしません』と公言している。姉に勝てる相手など、そういるはずもない。

(姉に恋い焦がれる方々は、大変だな)

 かぐや姫の再臨と陰で噂をされてもいると聞く。たしかに、姉は類い稀なる美女ではあろう。歌を詠むのもお手の物で、琴の腕前も都随一だ。入内を望む声もあると聞く。たしかに、良春の父は大臣で、母は権勢を極める藤原氏の出である。家柄としては申し分ないため、その資格は十分にある。その上、美人と名高いのだから引く手あまただ。帝だろうと、どこかの貴公子だろうとかまわないから、さっさといい人のもとに嫁いでくれたらよいのにと思うのだが、姉にはさっぱりその気がないらしく、屋敷の奥にドーンと居座って悠々自適な毎日を送っている。

 一方で、良春は姉と違い、笛は聞くに堪えないと言われるほど下手くそで、歌のほうもさっぱりだ。かわりに、姉目当てに夜な夜な忍び込んでくる不逞の輩を片っ端から相手にしていたら、武芸の腕前だけは人並み以上に上達した。それが唯一の特技と言ってもいい。

 しかも、姉は屋敷からほとんど出ないくせに地獄耳で、どこかから出所不詳の噂話を仕入れてくるのだ。どこぞの貴公子と、どこかの姫君が駆け落ちをしたというような下世話な話や、今のような胡散臭いこと極まりない物の怪の話など、興味があることならなんでもいいらしい。

 今日も囲碁の勝負はついでで、ようするにその巷に現れるという人食い鬼の話を弟に聞かせたくてたまらなかったようだ。

「先ほどの話ですけれど、地獄の竃の口が開いて鬼が這い出してきたのですよ」

 姉は『ね? 怖ろしいでしょう?』とばかりに瞳を輝かせている。碁石を片付けながら、良春はため息を吐いた。

「姉上……誰がその鬼の姿を見たというのです? 見た者は生かしてはおかないのでしょう? おかしいではありませんか。どうせ、夜中に飛ばされた衣か何かを誰かが見間違えたのでしょう」

「つまらないことを言うのですね。それは、こっそり見たものがいるのですよ」

「鬼がノシノシ徘徊していたら、もっと大騒ぎになっていますよ。そんなくだらない噂話で、世の人々を不安に陥れるほうがよっぽどたちが悪い」

「噂が嘘か本当か、その目で確かめていないのならばわからないではありませんか」

「まさか、私に確かめてこいなんて言うつもりじゃないでしょうね?」

 嫌な予感を覚えて、思わず尋ねる。姉は扇を開いたまま、目尻を下げた。にんまりと笑っているのは見なくてもわかる。

「都の安寧を守るのは、お前の役目ではありませんか」

「鬼退治ならそれこそ、陰陽師か僧侶の役目ですよ」

「鬼じゃないかもしれないでしょう?」

「とにかく、俺は忙しいんです。噂の真相を確かめたいのならば、姉上がご自分でどうぞ」

 良春は「では、これにて失礼します」と、立ち上がる。これ以上姉の酔狂な噂話に付き合っているような暇はない。さっさと部屋を出て、渡り廊下を歩く。

 ほんの少しだけ色づき始めた庭の葉が、風にそよいでいた。一葉が飛ばされてきて、ひらりと足もとに落ちる。足を止めてその紅葉を拾うと、「姉上にも困ったものだ」とぼやくように呟いた。


(鬼など、いるものか……)


 百鬼夜行の都と言われるほど、物の怪、幽鬼、妖怪の話は多い。けれど、そのどれも良春は信じたことはない。実際にこの目で見たことがないからだ。以前も、鬼ババが出ると噂があり、同僚とともに真相を調べに出かけたことがある。けれど、いたのは衣を染めていたただの老女だった。そんなものだ。

 臆病な心が、人にあらぬものを見せるのだ。そう思っていた――。


***


 割れた面の下で、黄金色の瞳をした鬼が艶やかに笑う。

 嘲笑うように。


 ガバッと起き上がった良春は、汗ばんでいる襟をつかんで息を吐く。辺りを見れば、そこは見慣れた自分の部屋の中だった。

 明るい光が差していて、雀の鳴く声が庭のほうから聞こえてくる。

(またか……)

 深く息を吐いて、汗ばんでいる額を押さえた。

 鬼と出会ったあの日から、毎日のように同じ夢を見てうなされている。

 情けない話ではあるが、あの日は気を失って一晩その場所に転がっていたらしい。朝方、魚売りの男に起こされて目がさめた。そして、フラフラになりながら家に辿り着いたというわけだ。

 持っていた刀はなくなっていた。あの鬼が持ち去ったのか、野盗かなにかに持っていかれのかはわからない。ただ、あの日のことが夢でなかった証に、腹部には青あざがしっかりとついていた。それはまだ完全には消えてはいない。

「腹立たしいな……」

 良春は眉間に皺を寄せて呟く。両親は良春が鬼に遭遇したことを知ると、大げさなほど驚いて、祈祷師やら、陰陽師やらを次々と呼んできた。

 おかげで、噂も広まり、物忌みのために家に籠もっていなければならなくなったわけだ。これも、あの鬼のせいだと思うと腹立たしさも倍増だ。

 次に出会った時には必ず、とっちめてやるという気持ちになっていた。そもそも、あれが本当に鬼だったのかどうか、今となっては確信が持てなくなっていた。

(だいたい、本当の鬼なら、なぜ面をつける)

 それに、姉から聞いた噂では、ひどく怖ろしい形相だったはずだ。

 けれど、あの日見た鬼は――。

 良春は無意識に上掛けをつかんでいた。


 着替えて朝餉を食べ、薬湯を飲んでから、姉に呼ばれて離れの部屋に向かう。

「随分と顔色もよくなりましたね。お前が鬼に襲われたと聞いた時には、さすがの私も肝が冷えましたよ」

「姉上が調べてこいと私におっしゃったのでしょう」

「ほらやっぱり。私の言った通りだったでしょう。鬼はいるのです。信じないお前が悪いのですよ」

 シレッとした顔をして答える姉に、良春は顔をしかめる。

「確かに夜叉の面をかぶってはおりましたが、本当に鬼だったのかどうかはわかりませんよ」

「夜叉の面をかぶっていたのですか?」

 姉は驚いたように目をしばたかせる。

「ええ、私が柄を叩き付けると、面が割れました」

「ということは、お前は鬼の素顔を見たのですね?」

 姉はズイッと寄ってきて、好奇心いっぱいの瞳で見つめてくる。

「姉上、私は一応怪我人なのですけどね」

「どこかを鬼に囓られたのですか?」

「囓られたら、こうして姉上の前に座っているわけがありませんよ」

「それもそうね。運が良かったわ! きっと、お前はあまり美味しそうには見えなかったのね。体ばかり鍛えているから、筋張っていてかたそうだと思ったんですよ」

「それはよかった……」

 言っても無駄だと諦めて、良春はため息を吐いた。

「どんな顔をしていたのですか? なにか話はしたのですか? それよりも人の言葉がわかるのでしょうか? 鬼の言葉で話すのですか?」

 立て続けにきかれて、良春はあの日のことをぼんやりと思い返す。


『この姿を見て逃げ出さないとは、人にしては骨があるじゃないか』


 皮肉っぽく、小馬鹿にした言い方だったが、よく通る澄んだ声だった。

「人の言葉は話していました……」

 それに、あの甘い花の香り――。

(あれは……金木犀の香りだった)

「やっぱり! 地獄の底から蘇ってきて、亡者を連れて行くのかしら?」

「姉上、最初と話が違いますよ。鬼は人を食うために現れたのではないのですか?」

「ええそうです。亡者を連れて行くついでに、見つけた人間をバリバリ食べるのです」

(まったく、当てにならないな……)

「とにかく、鬼かどうかはまだわかりませんよ。人が鬼のふりをしていただけかもしれないでしょう。少なくとも、私が見た鬼は、姉上の話に登場する鬼のように、醜悪な形相ではありませんでした」

「では、どのような姿だったのですか?」

 きき返されて、思わず返答に窮する。

 どのような――。

 目に浮かんだのは、あの鬼の笑う顔だ。

 それを形容する言葉を、『美しい』以外に思いつかなかった。

 そう、あれはゾッとするほどに美しい〝モノ〟だった。

「良春?」

 ぼんやりと考え込んでいた良春は、姉の声で我に返る。

「人でしたよ……ただの……」

 そう答えて、腰を上げる。姉に「失礼します」と断って、踵を返して部屋を後にした。


***


 従者の同伴を断り、良春は一人で家を出る。その足で向かったのは、人で賑わう大路だ。市が並び、活気のあるその通りを歩いていると、「良春、こっちだ!」と呼ぶ声がした。

 木のそばで手を振っているのは、同じ検非違使庁の同僚である坂上真仁だ。背が高く、がっしりとした体格の彼は、人混みの中でもよく目立つ。

 軽く手を上げて歩み寄ると、「ほら」と笹の葉の包みを出される。香ばしく焼けた団子が並んでいた。それを一つもらい、頬張りながら歩き出す。

「そっちはどうだ?」

 良春は歩きながら真仁に尋ねた。

「お前が鬼に襲われたって言うんで、結構な騒ぎさ。大丈夫なのか?」

「とりあえず、囓られてはいない」

 肩を竦めると、「そりゃよかった」と彼は笑う。

「十日も休めと言われてもやることがない」

 正直、そんなに物忌みをするほど大げさなことでもない。けれど、出てくるなと言われれば、家に閉じこもっているしかない。その間、姉の囲碁の相手ばかりしているのも飽きるのだ。体がなまって仕方がない。

「どこかの姫君に文の一つでも送ってみたらどうだ? いい機会じゃないか」

「鬼に襲われて物忌みをしているやつから恋文を送られたところで、気味悪がられるだけだ。だいたい……送る相手もいない」

「この無頼漢め。そんなことを言ってると、他のやつらにみんな取られちまうぞ」

 良春は「余計なお世話だ」と、眉間に皺を寄せる。

「それより、鬼のことでなにかわかったか?」

 数日前に、この同僚に文を送った。鬼のことについて、調べてくれるように頼んだのだ。

「ああ、まあ鬼が出るって話は前からあったみたいだな。蓮台野のほうに消えていったという話もある」

「蓮台野……」

「幽鬼かもな」

 そう言って、彼はニヤッと笑った。言わばあそこは、人があまり立ち入らない死体の捨て場、墓地だ。

「幽鬼なら、衣をつかめるはずはない」

 真顔で答えると、真仁も神妙な顔になる。

「本当に、鬼だったのか?」

「…………なあ、真仁。お前は、屋敷の塀から塀に簡単に飛び移ることができるか?」

「できるわけがないだろ。途中で落ちて、腰でも打ってる」

「だろうな……」

 けれど、あの鬼はそれを簡単にやっていた。やはり人ではないのか。今になってみると、夢を見ていたような気がする。

 けれど、あれが夢なら、腹部にあざが残っているはずがない。あれは実体がある人だった。少なくとも、人の姿をした何かだった。

「人を食う鬼だと姉は言っていたけれど、本当に食われた人間がいるのか?」

 眉間に皺を寄せたまま、良春は話を続ける。

「それは聞いたことはないな。まあ、食っていたところでわかるはずもないけどな。死体なんて、いくらでも転がっている」

 真仁の言葉に、「それもそうか……」と呟く。川に身元も素性も知れない者の亡骸が浮かんでいることもよくあることだ。それをいちいち調べる者もいない。

「陰陽寮の連中にきけばなにかわかるかもしれんが……」

 真仁は「あいつらは苦手なんだ」と、帽子に手をやる。「同感だ」と、良春は笑った。魑魅魍魎の類いの専門家である陰陽寮の陰陽師だが、彼らの方がよっぽど魑魅魍魎のように得体が知れない。あまり関わり合いたい連中ではない。

「まあ、とっ捕まえたらきいてみるさ」

「悪いな」

「そう思うなら、今度酒でも飲ませろ」

 真仁にポンッと腹部を叩かれて、思わず「うっ!」と声を漏らす。

 痛みが小さく走り、咄嗟にお腹を抱えるように抑えた。

「傷でも負ったのか?」

「いや……っ……蹴られた……」

 呻くように答えると、真仁は目を丸くしてから遠慮なく大口を開けて笑い出す。

「そいつは、なかなか威勢がいい鬼だ」

「まあな……」

 このお返しは、今度必ずしてやる。そう決意して、フーッと息を吐く。

 やられっぱなしは性に合わないのだ。たとえ、それが人であろうと、鬼であろうとだ。

「けど、陰陽寮も今はそれどころじゃないかもな……」

「何かあったのか?」

 足を止め、真仁の顔を見て尋ねる。彼もつられて立ち止まっていた。

 彼は「実はな」と、重く口を開く。

「ここ数日、夜中に子どもが不可解なことを口走ったり、寝ているのに歩き回ったりするような事件が起きているらしい」

「それは、ただ夢を見ているだけじゃないのか? 寝言も、寝ぼけて動き回るのも、珍しいことじゃない」

「決まって、誰かと話をしているそうだ。誰もいないのにだぞ? しかも、なるのはいつも寝静まった頃だ……実に妙じゃないか。だから、幽鬼か物の怪の仕業じゃないかと噂になっている」

 確かにそれは妙な話だなと、良春は顎に手をやる。

「貴族の邸宅内でも起こっているから、陰陽寮の陰陽師が総出で調査しているって話だ」

「それで、連中はなんて言っているんだ?」

「河童の呪いだそうだ」

 良春は「河童?」と、呆気にとられて思わず彼の顔を見た。

「そう。河童だ。連中が三日三晩寝ずに占った結果だそうだ」

 真仁はそう言って、肩を竦める。すっかり呆れているのだろう。

 河童がなんだって、子どもを呪うんだと良春は帽子に手をやって顔をしかめる。まったく奇々怪々な話だ。

「だけど、連中がそう判断したのも、まったく理由がないわけじゃない。子どもは眠ったままなのに、フラフラと起き出して水辺に近付こうとするらしい。気づいた家の者が慌てて連れ戻しても、また気がつくと川や池、井戸に寄っていくそうだ」

「河童が子どもを連れ去ろうとしていると?」

「そういうことだ」

 良春は「馬鹿馬鹿しいな」と、鼻白む。

「河童の好物は胡瓜じゃないか。子どもを連れ去ってどうするんだ」

「俺にもさっぱりわからん。とにかく、今連中は都中の川や池を浚って河童捜しに奔走しているらしい」

「そいつはなんともご苦労は話だな」

 それで、河童が見つかればいいが、そうでなければ面目丸つぶれだ。

 同じ宮勤めの身としては、いささか同情する。

「まあ、やつらが河童を捜している間に、俺たちは俺たちで真犯人を調べなきゃならないってわけだ。帝直々のご命令だからな」

 ということは、相当な位の家の子どもがその怪異に悩まされているということだ。

「なるほど……それは、鬼どころではないな」

「まあ、お前はどのみちもうしばらく物忌みで出られないんだ。ゆっくり休んでろよ」

 真仁はそう言うと、「食えよ」と団子の包みを手に押しつける。

「まったく、どこもかしこも魑魅魍魎ばかりだな」

(鬼の次は、河童とは……)

 嘆息して言うと、「それが都だ」と真仁はあっけらかんと笑っていた。

「確かにそうだ……」

 呟いて、団子の包みを懐にしまう。

 百鬼夜行の京の都だ――。

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