百鬼の王 ~平安あやかし異聞~
春森千依
第1話
知らなかった。世界がこんなにも汚れていることを。
知らなかった。世界がこんなにも美しいことを――。
蒼い月が見下ろす夜の都に、悲鳴が轟く。
その声が聞こえると同時に足の向きを変えた源良春は、人気のない屋敷の塀が続く通りを駆け出した。角を曲がったところで、道の真ん中で揺れる明かりが目に入る。そのそばで腰を抜かしているのは、どこかの屋敷に仕える使用人の男だろう。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄ると、男はあえぐような声を漏らして気を失ってしまった。吹き抜けた風に頼りなく揺れていた炎が消え、辺りを照らすものが月明かりだけとなる。
微かに笑うような声につられて、良春はハッと見上げた。
屋敷の屋根の上から隣家の屋根に軽やかに飛び移ったのは、薄衣をかぶった人――。
いや、人ではない。その薄い衣の下から覗くのは夜叉の顔だ。
「鬼……っ!」
思わず、漏れた声に怯えが混じる。
怯みそうになる自分の足にしっかりしろと命じて、良春は腰に差していた刀の柄をつかんだ。すぐさま足の向きを変えると、屋根伝いに逃げていくその姿を追いかける。
ここ最近、都に出ると噂の鬼。
その噂が誠だったのかと、内心驚嘆していた。幽鬼や妖怪といった類いの話はことかかかないけれど、実際に目にしたことはない。だから、今までその手の話を信じたことはなかった。ただ、臆病者の目の錯覚。きっとそんなものだろうと思っていたが、それなら今、自分が追いかけているものはなんなのか。
わずかな恐怖心より、好奇心のほうが勝り、貴族の屋敷が並んだ通りを駆けながら思わず、笑いそうになる。
(確かめてやろうじゃないか……)
そういう気持ちになっていた。とっ捕まえて正体を暴けば、話の種にでもなるだろう。野盗の類いならば、ますます放っておくわけにはいかない。
なにせ、検非違使として宮中や都の治安を守る役目を担っているのだ。世を不用意に騒がせるものは、物の怪だろうと、なんだろうと、見過ごせない。
その夜叉は、塀の上にトンッと移ってから跳躍する。通りを挟んだ隣の邸宅の塀に移ろうというのだろう。人が簡単に飛べるような距離ではないのに、それは月を背負うように宙を舞う。
今だとばかりに、良春は懐から取り出した小刀を投げた。
それがふわりと浮かんだ衣をかすめると、夜叉が宙でクルッと一回転して地面に降りてくる。
「この姿を見て逃げ出さないとは、人にしては骨があるじゃないか」
夜叉が愉快そうに笑う。
「そっちこそ、鬼のくせに人の言葉が話せるとは驚きだな」
ハッと笑って、刀を構えながら言い返す。地面を蹴って踏み込むと同時に、刀を横一線に振ったが、その刃は簡単に交わされてしまう。だが、『逃がすものかっ!』とばかりに手を伸ばしてその衣をつかむ。グイッと引き寄せると同時に、持っていた刀の柄をその夜叉の額に叩きつける。
パリッと音がして、夜叉の顔に罅が入る。
『面っ!?』
割れた夜叉の下から、黄金色の瞳が驚いたように自分を見ていた。
その艶やかな唇に不敵な微笑がこぼれる。
息を呑んで、思わずつかんでいた衣から手を放しそうになった。
次の瞬間、腹部を思いっきり膝で蹴りつけられた為、息が止まる。
「ひ、卑怯者……っ!」
足に力が入らず、ガクッと膝から折れる。そのまま、良春はうずくまった。
動こうにも体が痛みを堪えるのに必死で動かない。あえぐような声が漏れるばかりだ。手から離れた刀がカランッと地面に落ちる。
そばにやってきた相手が、身をかがめて刀を拾い上げる。
そして、割れている夜叉の面をゆっくりとその顔から外した。せめてその顔だけでもしっかり見てやろうと思ったのに、視界が霞む。
そのまま、気が遠のいてしまった。
都に、夜な夜な鬼が出るという。
その噂を聞いたのは、十日ほど前のことだった――。
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