絶望

「……はぁ」


 白雪とプールに行った翌日のこと、俺はベッドの住人になっていた。

 今朝目が覚めてから妙に体が熱いと思っていたのだが、まさか風邪を引いてしまったとは予想外だ。


「斗真君、具合はどうかしら」

「大丈夫だ……白雪の方は特に変わりなかったか?」

「えぇ。あの子はいつも通りよ?」

「そうか……感染ったりしてなくて良かったよ」


 昨日はプールもそうだし、その後もずっと一緒に居たようなものだ。

 帰ってからは翡翠も傍に居たけれど……目の前の翡翠はいつも通りで、白雪もさっき顔を出したけど体調の変化はなさそうだった。


「馬鹿も風邪を引くんだなぁ」

「あら、斗真君は馬鹿じゃないでしょ?」

「そうかな。二人と過ごすうちになんかこう……この体って性欲お化けだなって思うようになってきたからさ。それも馬鹿の一種じゃない?」

「だとしたら私たちも馬鹿の仲間入りね♪」


 それは暗に白雪も翡翠も性欲お化けと認めているようなもので……あれ、別に間違いではないのか。

 夏ということで暑いはずなのに寒気も感じるため中々に本格的な風邪だ。

 今は翡翠が看病をしてくれており、白雪はそんな翡翠の代わりに買い物のため外に出て行った。


「……熱が出て弱くなっている斗真君……悪くないわね?」

「おい、何をする気だ?」


 手をワキワキとさせながら近づいてくる翡翠だが、冗談よと言って手を引っ込めて笑った。


「どれだけあなたのことを愛していても時と場合は考えるわ。これだと二三日はご無沙汰になりそうだし、久しぶりに相棒の出番かしら……」

「相棒?」

「こっちの話よ」


 その後、翡翠は俺の頭を撫でて部屋を出て行った。

 それでも気になるからということで30分に一回は見に来るらしいが、それでも寂しかったら遠慮なく連絡をしてくれとのことだ。


「……愛されてんな本当に」


 そう呟くと自然と頬が緩む。

 思えば前世でも嵐としての記憶でも、こうして風邪を引いたところで誰かに心配されるようなことはなかった。

 大したことのない風邪だとしても、それでもあんな風に心配してくれる人のありがたみというのはあまりにも大きく、俺も何かお返しをしたいなと思うほどには彼女たちの愛を感じていた。


「……眠くなってきたな。風邪を治すには睡眠が一番か」


 ゆっくりと目を閉じると段々と眠くなってきた。

 何分、何十分、何時間寝てしまうかは分からないが……次に起きた時には白雪も帰ってきてるだろうか……そこまで考えて俺はクスッと笑った。


「片時も離れたくないっていうか、そんな風に考えてるな俺って」


 今に始まったことではない、それでも彼女たちの戦略通りだなと苦笑する。

 そうして俺はしばらく眠りに就くのだった。


▽▼


「……? 斗真君が私のことを思っていたような気がしますね」


 斗真が眠ってすぐ、同時刻に白雪はそんなことを呟いていた。

 もはや体の全てが斗真に反応するようになってしまった彼女なので、こうして少しでも彼が白雪のことを考えれば、即座に白雪がそれを感じ取ることが出来る。


「……なんて、流石に考え過ぎでしょうか」


 そう言って彼女は笑った。

 まあそんなどこぞの超能力者のような力は当然白雪は持っておらず、単純に斗真がそう思ったのではないかと感じたに過ぎない。

 決して彼女は不思議な力を持っていない、それは確かである。


「熱冷ましもそうですけど、スポーツドリンクも買っておきましょう。後は斗真君が元気になった時に一緒に食べるアイスも買って――」


 っと、そのように彼女は斗真のことばかり考えている。

 そんな彼女だったが、決して周りを見ていないわけではなく……目的の物を手に入れる前に済ませてしまおうと、彼女は背後を振り向いた。


「それで、あなたは私に何の用ですか?」


 白雪が振り向いた先、そこに居たのは洋介だった。

 実は家を出てからずっと彼が後を着いてきたのは気付いていたのだが、白雪としてはいずれこういう時が来ることが分かっていたので、自分の言葉で完膚なきまでに全てを伝える絶好の機会だと判断した。


(こういう時、斗真君ならきっと心配するんでしょう。ですが、私は自分のことを過信するわけではないのですが――私は鳳凰院白雪、何も心配など要りません)


 白雪は全てにおいてありとあらゆる可能性を考慮している。

 仮に今、洋介に襲われたとしても問題はなく、彼女の前には男女の差なんてものは何も意味を為さない――男という部分で勝てるのは斗真だけ、無様に涙を流しお情けを乞うのも斗真を相手にする時だけだ。


「白雪……僕は君を助けに来た」

「……ふ~ん? 随分と妄想に憑りつかれているようですね。私を助ける? 何からでしょうか?」

「あいつから……郡道から君を助けるんだよ!」

「……はぁ」


 白雪は頭を横に振り、小さくため息を吐いた。

 もしここで斗真に対して罵詈雑言を口走ったなら相応の報いを受けさせるくらいにはあったものの、これも全て想定してた内の言葉だ。


「白雪は騙されてるんだよ! だってずっとあいつのことを嫌いだっただろ? 迷惑そうにしていたじゃないか!」

「人は変わります。変わった彼のことを私が好きになったそれだけのことです」

「だからそれが間違ってるんだよ……だって白雪は僕を――」

「あなたをなんですか? まさか、私があなたを好きだとでも言うんですか?」

「……………」


 黙り込んだ洋介に白雪はもっと深くため息を吐く。

 過去から続く昔馴染みとしての関わりはどうしても消せず、斗真のことを思い本当の意味で自分を取り戻す前に構築した関係性は変えられない。


(この人、こんなに面倒な男になるんですね……なるほど、これが斗真君の言う主人公の姿ですか)


 白雪の洋介を見る目は冷たかった。

 洋介も白雪からこのような目を向けられるとは思っておらず、一瞬だが白雪のことを分からなくなっただろう。

 彼はこう思っているはずだ――この冷たい目をした女は誰だと、僕の知る白雪ではないんだと。


「私は彼のことをずっと知っていました――あなたと出会う前よりも」

「……え?」

「ようやく本当の意味で彼と再会した……出会えた。この言葉の意味をあなたが理解することはないでしょう。何故ならあなたは何も関係のない、蚊帳の外の人間なんですから」


 蚊帳の外というよりは世界の外とも言えるが……白雪は言葉を続ける。


「小泉君、私はあなたのことが好きではありません。むしろ嫌いですよ」

「……きら……い?」

「嫌いです。まるで自分のモノかのように私を見る目が嫌いです。私の愛する人を見下したように見つめるその目が嫌いです。私と彼の関係を何も知らないくせに、自分の意見を押し付けるあなたのことが大嫌いです」

「……………」


 どんなことを言われても洋介は決して信じず、自分の意志を貫いただろう。

 だがこうやって真正面から嫌いだと言われれば、洋介の心はその言葉を受け入れるしかなく……それはつまり、長年抱いていた想いが打ち砕かれていくのを意味する。


「小泉君、あなたは私のことを綺麗だと思いますか?」


 コクンと、呆然としながら洋介は頷いた。

 その頷きを見て白雪は笑みを深くし、そしてニヤリと口角を上げた――その笑みは彼女に似つかわしくない悪魔のような微笑みで、洋介はこの瞬間に白雪に対して恐怖を抱き、そしてこれ以上何も言わないでくれと耳を塞ぎたくなった。


「私の体はもう純粋なものではないんですよ。彼の色に染まってしまったんです。私の体は常に彼を求めて火照り、彼のことしか考えられないんです……私はもう、彼が居ないとダメなんですよ――私はもう、彼じゃないと満足できないんですよ」

「……しら……ゆき……?」


 白雪は興奮した様子で自身の体を抱いた。

 彼女の腕によって形を変える豊かな胸元、心なしか彼女から香る匂い……その全てがまるで異質な何かを思わせるほど、白雪は今……どうしようもないほどの女の子を顔をしていた。

 それは洋介が決して引き出せないもので、既に白雪が洋介の手が届かない場所に居ることを決定付けさせるものだった。


「数えきれないほどにキスをしました。数えきれないほどに愛を囁きました。数えきれないほどにセックスをしました。数えきれないほどにその証を受け止めました」


 白雪は下っ腹を抑えてうっとりと微笑みを浮かべる。

 ちなみにしっかりとゴムはしているので大丈夫なのだが、洋介からすればもはや何も聞こえてこない……気付けば彼は走り出していた。

 遠ざかる背を見つめていた白雪だが、すぐに忘れたかのように歩き出す。


「……私、悪女の才能があるのかもしれないですね」


 なんてことを口にして笑った白雪はもういつもの彼女だった。

 あそこまで言われ、あそこまで現実を突き付けられた洋介は果たして……立ち直れるのかどうか、それはもう白雪にとってはどうでも良いことだった。

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