筋トレはいいぞ
時に出会いというのは唐突なものを齎す。
俺にとってあまりにも充実している夏休み、既に数日が経過したがその一日一日を必要のない日だと思ったことはない。
そんな中で友人と出掛けた白雪は傍に居なかったが、翡翠と一緒にのんびりと買い物をしている時だった。
「……あ」
「どうしたの?」
俺たちが訪れているのは鳳凰院傘下のデパートだ。
簡単に買い物を済ませた後、翡翠と一緒に今日の晩御飯は何にしようかと話をしていた時にバッタリと出会った。
「……あら」
「っ……」
そこに居たのは嵐の父である景隆と妹の加奈だった。
突然の出会いに俺は少し驚きはしたものの、特に表情に出ることはなく見返した。
父にとっては色々と弱みを握られている翡翠に会ったからか委縮しており、そして加奈に至っては俺を見下すような視線は相変わらずだが、父の様子を見て何事かと困惑している。
「あら、ご無沙汰しています」
「は、はい……」
「……ちょっと父さん?」
俺にとってもはや思うことがないからこそ、父の様子には何も感じない。
逆にあそこまで怖がらせている翡翠が大したものだと思うくらいで、本当に元家族に対して思うことはなかった。
父とも加奈とも話すことはなにもないので、そのまま通り過ぎようとした時、加奈が声を上げた。
「ちょっと、父さんに何かしたわけ? また迷惑をかけたんじゃないの?」
「迷惑?」
俺は別に父に迷惑をかけた覚えはない。
まあ今の俺という存在が産まれたことに関しては迷惑をかけたかもしれないが、少なくとも妹はただ言いがかりを付けたいだけなので気にする必要はなさそうだ。
「止めなさい加奈」
「なんで!?」
グッと堪えるように父は加奈の頭に手を置いた。
やっぱり父は他の家族に説明はしていないようで……まあその理由も何となくだが俺には分かった。
きっと父は知られたくないのだ――俺のことはともかく、翡翠に握られている数多の秘密を……信頼を失墜させる秘密を。
「郡道さん、もしかしてご家族には伝えていないのですか?」
「っ……それは――」
ニヤリと笑った翡翠は正に悪女の顔をしている。
そんな翡翠が俺を見て一つウインクをすると、父と加奈に向き直ってこんな言葉を彼女は続けた。
「そちらが娘さんなんですね。まだ説明されていないのであれば簡単に説明しておきましょうか。あなたのお兄さんは将来、こちらに婿養子に来ることになっています」
「……え?」
突然のことに加奈が目を丸くした。
俺がもし彼女と同じ立場ならいきなり何を言っているんだと呆然とすること間違いなしだが、俺は翡翠の言葉を黙って見守るしかない。
「私もそうだけど、娘も大層お兄さんのことを気に入ってね。仕事の関係で郡道さんと知り合った際に、是非とも高校を卒業した段階でという流れで了承をいただきました」
「なに……え? このデブ兄貴が養子……?」
翡翠が小さく舌打ちをしたが何とか堪えていた。
白雪もそうだが彼女も俺に対する悪口というか、見下すような視線と言葉には瞬時に反応しそうになるけど……それもやっぱり俺にとっては幸せなことだ。
「大丈夫だ翡翠」
「……分かっているわ」
ポンポンと肩を叩くと翡翠は微笑んだ……目は笑っていないが。
「嵐君から家族との折り合いが悪いことは聞いていたわ。彼のことを気に入っている私たちからすればそれもちょうど良かった。郡道さんは快く頷いてくださったから」
「っ……」
「父さんが……」
加奈は完全に現状を呑み込めてはいない。
そんな加奈と、そして父に対して宣言するように翡翠はこう続けた。
「さっきも言ったけれど高校を卒業したその時、彼は鳳凰院家の一人となる――そして娘と結婚をする形になるわ」
「結婚!? って鳳凰院……!?」
そこでついに加奈も言葉を失ったようだ。
中学生ともなれば雑誌やネットから鳳凰院の名は意識しなくても目にすると思うので、やはり加奈も鳳凰院の名前は知っていたようだ。
行きましょうと、翡翠に手を引かれて俺たちはその場を後にした。
「本当ならもう少し色々言いたかったんだけど、斗真君が特に何も思っていない以上はこの程度で構わないでしょう」
「悪いな。俺のことで色々と気を遣わせちまって」
そう言うと翡翠は手を俺の頭に置いた。
撫でられる感覚に身を委ねたくなるが、流石に夏場ということもあってデパートから外に出ると暑さが凄まじい。
半袖と半ズボンも俺も涼しい恰好ではあるが、胸の谷間がこんにちはしている翡翠の服装は……って、普通にこれで出歩くのは他の人に刺激的だよな。
「さてと、ある程度買い物は終わったし……どうしましょうか」
「そうだな……他にどこか行きたいところとかあるのか?」
「特にないわね。白雪が戻るのは夕方だし……うふふ、夜に出来なくなるほどに搾り取るのもありかしら?」
「やめてください」
「残念♪」
その後、翡翠が運転する車に乗って家に戻った。
彼女が言ったように色々と甘い時間を過ごすのもありと言えばありだが、俺はすぐに運動着に着替えて外に出た。
「本当に頑張るわね斗真君」
「あはは、もう運動が趣味みたいになってるよ」
「体には良いことよ。気を付けてね? 今日はすき焼きだからたくさん汗を掻いていらっしゃいな」
「マジで!? って無くしたもの以上のカロリーを摂取しそうだなぁ」
ま、偶にはお肉をたくさん食べるのも悪くない。
翡翠に見送られて門を出た後、いつものランニングコースを駆ける。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ」
もう息遣いにもなれたもので、汗は掻くし息は上がるがそれでももうダメだと疲れることが本当になくなった。
実は近々街で行われる誰でも参加出来るマラソン大会に、白雪と一緒に出場することも決まっているのでそれの予行練習でもある。
「……うん?」
それからしばらく走り続け、途中で小さいペットボトルのスポーツドリンクを買った時だった。
三人ほどの友人たちと楽しそうに歩く白雪を見つけたが、俺は彼女が気付かないなら声をかける必要もないかと視線を逸らす。
(俺との時間だけじゃない、白雪には友人たちとの時間も大切だからな)
朝から出かけているのでもしかしたらもう解散かもしれないが、結局帰れば彼女とも会うことになるのでわざわざ声をかけるほどでもないのだ。
「よし、行くか」
「斗真君」
「っ!?」
さあまだまだ走るぞ、そう思った時だった。
突然背後から声をかけられ、俺はお化けでも見たかのように思いっきりその場から飛び跳ねた。
動けるデブを体現するかのような動きを見て、いつの間にか背後に立っていた白雪が肩を震わせて笑った。
「驚きすぎですよ斗真君」
「いやだって……あれ、他の人たちは?」
「ちょうど解散したんです。斗真君がこっちを見て、視線を逸らしたこともバッチリ分かっていますよ?」
「……エスパーなのかな?」
「何を言いますやら。斗真君のことならなんでも分かるだけです」
そういうことらしい。
流石にこうなると白雪を置いていくわけにもいかず、大分走ったし今日はもう良いかなと俺も一緒に帰ることにした。
「すみません。もう少し走ろうと思っていたのなら余計なことをしましたね」
「そんなことないって。確かにもう少し運動はするつもりだったけど、帰ってから筋トレでもしようかなって」
「では私も付き合いますよ」
「おっけ」
それから一緒に屋敷までの道を歩く中、ふと白雪がジッと見つめてきた。
どうしたのかと思っているとこんなことを彼女は口にした。
「汗を掻いている斗真君……良いですね」
「……それ、本来は逆じゃないのか?」
そういうのは本来男が女に感じるものだと思うんだが……まあ俺からしたら今日の翡翠みたいに露出の多い恰好ではなく、白雪のような涼し気なワンピース姿も十分に見てしまうが。
「違いますよ。そういうことではなくて、あなたの頬や首筋を流れている汗は努力の証だと思うんです。それを見るとときめくんですよ」
「……そっか」
「はい。半分くらいしかエッチなことは考えていないので大丈夫です」
何が大丈夫なのか聞きたかったけど、分かりやすく実践しますかと言われたので俺は首を振るのだった。
家に帰ってからは白雪と一緒に筋トレを始めると、途中から翡翠も合流して三人で筋トレをすることになり、みんなでトレーニングをするというのはある種の一体感があって凄く良かった。
「汗を掻く斗真君、最高だと思いませんか?」
「最高ね……ふぅ」
この日の筋トレはちゃんと健全でした。
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