予期せぬ場所で牙は届く

 日曜日の夕方……我、とらわれの館から脱出したの巻。


「……はは、なんてな」


 今は既にアパートに戻ってきたわけだが、俺としては原作の洋介のように本当の意味であの家に……彼女たちに囚われるのも魅力的だった。

 心から後悔はしているものの、今の俺の家はあくまでここ……それを考えると帰らないわけにはいかない。


『これ、うちの合鍵よ。いつでもいらっしゃい』

『そうですね。というよりも、いつでも荷物を纏めて来てください。私と母はいつでも待ってますから……あ、でもこちらから我慢出来なくなって手を引きに行く可能性もありますけど♪』


 なんとなく、すぐにでも来そうな気がしたのは考え過ぎだろうか。


「……ふぅ」


 とはいえ、個人的にはあの家から出たことで安心したのも確かである。

 俺にとってあの場所はやはりとらわれの館という名が示すように、ずっとあそこに居たら彼女たちのことしか見えなくなる。

 それこそ、彼女たちから与えられる無限の愛にそのまま浸って他のことがどうでもよくなってしまいそうな感覚に陥るのだ……まあ、それを良しとしている部分もあるけど、実際に体感したことで彼女たちの愛の深さは想像よりも遥かに凄まじいことが理解出来た。


「……今の俺は高校二年生、時期は夏の前……夏休みが始まる頃にはもう完全に捕まってそうだな」


 なんてことを他人事のように呟いたその時だった。

 ピンポンとインターホンが鳴り、誰かと思って覗き穴から外を見る――そこに居たのはスーツ姿の男性で、その顔を見た時に嵐としての記憶が刺激された。


(この人は確か……)


 記憶の中の顔と名前が一致した。

 この男性は郡道景隆かげたか……嵐の父親だ。


「……………」


 居留守を使うわけにもいかず、俺はすぐに扉を開けるのだった。

 顔を見せた俺を彼は少しばかり嫌そうに見つめた後、早速こう言い放った。


「相変わらずの醜い体だな」

「……随分とご挨拶じゃん」


 そう言い返すと父は目を丸くしたが、すぐに気に入らなさそうに鼻を鳴らした。

 おそらくだが今までの嵐は父親は母親と対面した時、言われるだけで何も言い返してはいなかったようだ。

 だからこそ、父は先ほど目を丸くしたんだろう。


「たとえ一緒に住んでいなくてもこうして確かめねばならん。全く、義也や加奈のような優れた子たちに加えどうしてお前はそんなに……」

「長くなる? ならとっとと帰ってくれないか」

「なんだと? それがせっかく様子を見に来た親に対する態度か?」


 ……嵐よぉ、こんな親を持ったことは流石に同情するぞ。

 様子を見に来た云々はただの義務感で、彼からは俺に……嵐に対する一切の愛情は欠片も感じられないので、これはおそらくどんな風に嵐が変化したとしてももうこの見方は変わらないだろう。


「高校卒業までは面倒を見てやると言ったが、今すぐにでもお前みたいな息子を持っていることすら忘れてしまいたいほどなんだぞ。義也にとって大切な時期、お前みたいな息子が居ることは最後まで隠さねばならん気苦労を何だと思っている」

「……知るかよ。良いからとっとと帰りやがれ」


 どうでも良いことをベラベラと喋り続ける父の胸をトンと押して外に押し出し、扉を閉めてすぐ鍵もした。

 数回ほどドンドンと扉を叩かれた後に、俺の方からは二度と連絡をすることも顔を見せることも許さないと言って父はようやく帰った。


「あんなのが居んだなぁ……ドラマとか漫画の世界だけだと思ってたわ」


 あそこまで強烈な性格の父親なんて現実にはそう居ないだろうが、今の俺の家族が実質それだと思うとなんというか……面倒だなとも思う。

 ま、個人的には俺から会いに行くことは絶対にない。

 それこそ彼が言っていたように高校を卒業した段階で家族の縁が切れようとも正直どうでも良いことだ。


「……にしてもスッキリしねえし、まだ夕方前だからランニングに行くとするか!」


 ヤバい……いや全然ヤバくはないんだが、もうランニングをしようと決めたら逆に楽しくなってきてしまう。

 運動を好きになるのは悪いことではないので、俺はすぐに着替えて再び外に出るのだった。


「……流石にどこにも居ないよな?」


 父の姿がないのを確認しながら俺はアパートから駆け出した。

 実は今日向こうから帰る時に、白雪から運動をするかどうかと質問をされたものの今日はしないと伝えていたので、これでもしも知られるようなことがあれば何か小言を言われるだろうか……ま、気にしなくて良いか。


「ふぅ……ふぅ……っ!」


 段々と呼吸が荒くなってくる中、それでもまだ体力には余裕がある。

 一番最初の頃を思えばとてつもない成長だし、ある意味で、白雪と翡翠とのやり取りで持久力が付いたのも大きいだろう。


(あれってやっぱ結構良い運動になるよな)


 エッチな行為をするのも汗は掻くし体力も使う。

 白雪が言っていた気持ち良くて汗を掻ける運動……言いえて妙だが確かになと俺は心から納得した。

 それから休むことなく走り続け、いつも休憩場所として訪れる公園のベンチまでたどり着き、俺は水分補給のために自販機で水を買ったのだが、そこでちょうどスマホに電話がかかってきた。


「翡翠?」


 電話をかけてきたのは翡翠だったので、俺はすぐに息を整えながら通話に出た。


「もしもし?」

『もしもし、斗真君? その息遣いは運動をしていたみたいね?』

「あ~分かるか?」

『分かるわよ。白雪には断っていたはずなのに運動しているなんて……ふふっ、あの子は拗ねそうだけど頑張り屋の斗真君らしいわ』

「……ありがとう」


 白雪に褒められても嬉しいが、それ以上に翡翠に褒められると心が躍る。

 二人の間に優劣はないはずなのだが……これはおそらく、翡翠に言われたように心のどこかで彼女に母のようなものを感じ、その母性に溺れたいと思っているからだろうか。


「翡翠に褒められると嬉しいな……ありがとう母さん」


 ちょっと試しにというか、面白がってそう言ったら翡翠の様子が一変した。


『母さん……母さん!? んあああああああああっ!! 最高じゃないの斗真君もっと呼んで呼んで呼んで!!』

「……今の声はなにさ」


 明らかに絶頂したような声が聞こえたんだけど……。

 電話の向こうでコホンと咳払いをした翡翠はどうして電話をしてきたのか、それは単純に俺のことを心配してのことだったらしい。


『改めて気持ちが通じ合うと心配する気持ちもひとしおなのよ。ふとした時にあなたのことを考えてしまって……それは白雪も同じみたいよ? リビングで何もせずに斗真君の家の方角をジッと見ているから』

「……えっと」

『怖いわよねぇ。ちょっと重たすぎるんじゃないのってツッコミをしたくなるわ』


 それ、あなたがツッコミを出来る立場なんですかね。

 まあでもこの重たい愛を心地良く感じる俺もまた普通とは違う……うん、とても悪くない気分だ。


「ありがとう翡翠。ちょっとスッキリしない気分だったけど元気になった」


 それは父の来訪があってのことだったが、どうも翡翠には聞き逃せなかったようで声のトーンが落ちた。


『何があったの?』

「っ……」


 その声はとても冷たかったのだが、その後に是非話してと言われて俺は全てを話さざるを得なかった。


『そう……家庭環境についてはある程度教えてもらったとはいえ、実の息子にそんなことを口にするゴミが居たのね』

「あの……言ってもそこまで気にしてないのは本当だぞ?」

『分かってるわ。でもそんな話を聞かされたら今すぐにでも傍に行って抱きしめたい気分よ』

「それはまたお願いするよ」

『えぇ、絶対よ?』


 それから翡翠と少しばかり話をしてから電話は切れた。

 通話が終わる頃には本当に父のことは頭の片隅にまで追いやられており、帰ってからも特に気にするようなことは無かったが……翡翠の声を聞いたせいか、その日は妙に夜が少し寂しかった。


▽▼


 斗真の外面である郡道嵐、彼の父である景隆は大企業の部長である。

 嵐を除けばエリートの家系と言っても過言ではなく、有名大学に進学した息子の義也を含め、全てが順風満帆だった――不出来な息子である嵐の存在がなければ。


(全く、あいつに会うとしばらくは機嫌が悪くなるな……切り替えねば。今日は大切な商談だ)


 景隆は勤めている会社の社長と今日は商談に訪れていた。

 それは彼の会社が更に飛躍できるかどうかを決める重要なもので、相手の意向次第になるが景隆の肩に乗る期待は大きい。


「緊張しているのかい?」

「いえ、大丈夫です」


 不出来で不細工、愚図の息子のことを頭から追い出し、景隆は社長と共に商談相手の待つ部屋の前に立った。


「これが上手くいけば我が会社も更に発展する。今まで何度も提案をしては良い回答をもらえなかったが、今回ようやくチャンスを掴むことが出来た」

「そうですね。必ず成功させましょう」


 意気揚々と景隆と社長はそう話し、ついにその扉が開かれた。

 中に入った二人の目に映ったのは美しい女性、彼女はニコッと微笑んで二人を見つめるのだった。


「ようこそおいでくださいました――鳳凰院翡翠と申します」


 鳳凰院グループの現トップである彼女がそこには居た。

 しかし、そこでなぜか景隆は背中にひんやりとした何かを感じたがそれが何かは分からなかった。

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