羽虫の囀り

「……腹減ったなぁ」


 昼休みを目前にした体育の時間、俺はそう呟いて周囲を眺めた。

 今日は男女混合の体育ということで、女子たちも今日は一緒にマラソンをすることになっているらしい。


『お弁当を作ったんです』


 朝に白雪に言われた言葉が脳裏から離れず、それは腹の空いた俺の胃袋をこれでもかと刺激し、とっとと食わせろと叫んでいるかのようだ。

 この時間を乗り切れば白雪が作ってくれた弁当を食べられる……しかし、そんな時間を前にして神は俺に試練を与えたようだ。


「……はぁ」


 体を動かす前の段階としてストレッチをするのだが、先生の指示で男女誰でも良いから二人一組でみんなストレッチを行っている。

 男子と女子で仲良くしている人も居るが、同性同士の方が圧倒的に多いというのも特に珍しい話ではない……そんな中、俺はハブられていた。


(こういうの……マジで気まずいよな)


 そもそもクラスの人間が奇数という時点で誰かがハブられるのは確実だが、それはまあ俺だろうなというのはあった。

 先生も先生で嵐のことは嫌っているらしく、余りものの俺をチラッと見ただけで知らんぷりだし……ま、そこまで気になるモノではないが。


「嵐君」

「……………」

「嵐君」

「……はい?」


 どうしようかと考えながら、一人でストレッチをしていた時だった。

 背後から声を掛けられたので振り向くと、当たり前のようにそこには白雪が立っていた。

 体操服の膨らみは目の保養で、ズボンから覗く綺麗な素足は健康的で……やはり彼女を見ると変態的な目になることを戒めつつ、俺はどうしたのかと聞いてみた。


「どうしたんだ?」

「お一人のようでしたので。私の方はもう終わりましたし体を押したりするのを手伝いますよ?」

「……あぁ。ありがとう」

「いえいえ」


 たぶんだけど一人で居た俺を気に掛けてくれたんだろうな。

 向こう側に居る白雪の友人はちょこんと頭を下げてきただけで、嫌そうな顔というか拒絶的な視線を向けてこなかったのはありがたい。


「背中、押しますね」

「頼む」


 俺の背後から白雪は優しく背中を押してくれた。

 彼女から体重を掛けられたところで大したことはないのだが、それでも腹の肉が少しだけ苦しいのは相変わらずだ。


「どうします? もう少し力を入れましょうか?」

「そうだな。もう少しいけそうかも」

「分かりました――それでは」


 そう言って更に強く彼女は体重を掛けてきたのだが……それは俺が想像していたストレッチ風景とは違った。


「し、白雪……?」

「ふふ。なんですか?」

「……………」

「まだ行けそうですか? もう少し強くします?」


 彼女は体全体で俺の背中から体重を掛けている。

 それはつまり、彼女はその豊満ボディを思いっきり俺の背中に押し付けており、むにゅりと形を変えているパイの感触を俺は感じている。


(……くそっ、煩悩退散! これはあくまで彼女の気遣い、決して原作のような誘惑ではない! そもそも、彼女は俺とそういう関係を望んでいない! 白雪には洋介が居るだろうがちくしょう死んでしまえあの野郎!!)


 嫉妬と羨望と緊張、幸せの四重奏だぜ今の俺は……。


「……つうかそんなに引っ付くなよ。汗臭いぞ」

「私がですか?」

「俺がだよ……」


 実は俺、まだ運動はしていないのに汗を既に掻いている。

 だからこそ以前にも思ったが女の子からしたら汚いだろうし、嫌な臭いだってするだろうと思っての言葉だ。


「汗に臭いがあるのは当然です。しかし、私からすれば努力している人の流す汗はとても綺麗に思えますが」

「それは……ちょっと違うんじゃない?」

「そうですかね。少なくとも私は嫌ではありませんよ」

「……………」


 本当にどうしてこの子は俺にとって嫌な言葉を一つも言わないんだろう。

 厳しかったり発言を咎めてくることはあるのだが、それは俺の心に刺さるものではなくあくまで注意というか、思い遣りを感じさせる言葉なのは言うまでもない。

 まるで俺が操作する洋介に対して向ける言葉かのよう……いや、それよりも優しさを感じるからこそワンチャンあるんじゃないかと希望を持ちそうになる。


「さて、それじゃあ私は戻ります」

「おうマジでありがとう」


 ストレッチを終えて白雪は戻って行った。

 ちなみに、白雪が俺を手伝ってくれたことに対して先生まで面白くなさそうな顔をするのはどうかと思う……あの先生、もしかして白雪に対して抱いちゃいけない気持ちを持っちゃってないか?


「……ちっ」

「っ!?」


 ドンと、背中から肘打ちをもらった。

 振り向くとクラスの陽キャ連中の一人だったので……きっと白雪との絡みが気に入らなかったんだろう。


「……いってえなぁ」


 クラスでもっとも人気のある美少女と、日陰者のデブが仲良くしている姿は受け入れられないってか……ま、良くある光景だよなこれって。

 一体なんのラブコメだよと思いつつ、誰とも話をせずに体育の時間を過ごした。

 そして、ついに待ち望んでいた瞬間だ。


「……おぉ!」

「どうぞ」


 昼休みになってすぐ、俺は待ち合わせ場所でもある屋上に向かった。

 先に白雪が教室を出たのは見ていたので、待たせるのもマズいと思ってすぐに後を追ったわけだ。


「めっちゃ美味そうだな。肉は控えめで野菜多めだけど……うん、めっちゃ美味そうで腹が鳴るぜ」


 そう言った瞬間、本当に腹が大きな音を鳴らした。


「大合唱ですね」

「そこまでじゃねえよ……じゃあ早速、いただきます!」


 そこからは一瞬だった。

 野菜多めだからといって満足出来ないわけでもなく、しっかりと栄養バランスが考えられている食事というのもあるが何より……誰かに作ってもらったお弁当という時点で謎の補正が掛かるほどに美味しいのだ。


「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」


 しっかりと手を合わせて弁当箱を白雪に返す。


「……マジで美味かった」

「表情を見ていれば分かりますよ。自分の作ったものが絶対に美味しいと豪語するわけではないですけど」

「いやいや、本当に美味しかったんだ。その……弁当っていうのも久しぶりで、凄く嬉しかったよ」

「……そうなんですね」

「あぁ。まあそれもあるんだが……誰かが作ってくれた弁当ってなんでこんなに美味しいんだろうな。よく家族が作ってくれる弁当を無償の愛なんて言い方も聞いたことがあるけど……って、こうなると何かお返しを――」

「あ、大丈夫ですよ。これは等価交換みたいなものです」


 それはどういうことだ?

 彼女の言葉に頭を傾げた俺だったが、そんな俺に彼女は説明してくれたものの、更に困惑させてきた。


「これはお返しです。以前に私も嵐君からとっても美味しい物を御馳走になりましたからね」

「……なんかあったっけ?」

「ありましたよ。とても美味しくて、つい下品にも口の中でもごもごとしてしまったくらいには……あぁ♪ 思い出すだけでお腹が疼きますね」

「っ……」


 俺には彼女が何を言っているのかイマイチ分からなかった。

 それにしては……何だろうかこの雰囲気は、彼女から醸し出される雰囲気に俺はこんなことをストレートに思う。


(なんか……エロくない?)


 頬を赤く染め、何かを思い出すように吐息を零す。

 彼女はゆっくりと俺を見つめたかと思えば、その潤んだ瞳に浮かんだ色は……マズい、このまま見つめていると何かが脳をおかしくさせてしまいそうだ。


「……と、取り敢えずマジで美味しかった! 今日はありがとな白雪!」

「うふふ♪ はい、どういたしまして」


 今の表情は……なんだ?

 結局、その後は白雪の表情におかしなものは見られず、ある程度話をしてから俺たちは教室に戻るのだった。

 そして、放課後になっても俺はあの弁当の味が忘れられなかった。


「……美味かったなぁ」


 心からそう思う……本当に白雪の作ってくれた弁当は美味しかった。

 彼女と別れてからも、それこそあの弁当のことを思い出せばいくらでも今という瞬間を頑張って生きられる活力になる。

 俺はすぐにアパートに戻った後、ランニングの為に服を着替えた。


「よし、今日も頑張るとするか!!」


 しかし、どうも楽しい時間があれば面倒な時間もあるらしい。

 それはある程度走り終えてから休憩をしている時のこと……あいつが、嵐の妹である加奈が現れたのだ。


「うわぁ、誰かと思ったらデブ兄貴だったんだ本当に。あはは、必死になっちゃって相変わらずキモいんだぁ」

「……………」


 なんだこいつはと、当然のように俺が考えるのはこうだった。

 可愛い見た目をしておきながら、兄を兄とも思っていない言動を加奈はずっと繰り返し、俺はそれを聞いているだけで何も反応はしない。


「そんなだからあたしもよしにいも、パパもママも鬱陶しいって思うんだよ」


 よしにい……記憶を遡ると分かったが、おそらく嵐と加奈の兄のことだ。


「よしにいさぁ、大学で彼女が出来たんだけどぉ。その人、すっごくお金持ちの家の人らしくてね? やっぱり優れた人には優れた人が近づくんだよ。どっかの愚図と違ってさ」

「……………」


 なあ嵐、白雪を襲う前にこいつを分からせた方が良かったんじゃないか?

 まあ俺としては特に思うことはないし、単純にあまり見た目が好みじゃないからどうでも良いんだが。


「言いたいことはそれだけか? そんなに人を罵倒したいんならドMの彼氏でも作るんだな。俺は全く興味がないぜ」

「はあ? 何言ってんの死ねよ」

「強い言葉を使うなよ、弱く……こほん」


 いかんいかん、オタクが出そうになったので俺はなんとか堪えた。

 俺は特に話すことはないと立ち上がり、買ったペットボトルを手にランニングを再開させた。

 後ろから聞こえる醜い罵倒なんて一切気にすることなく、俺はそのままアパートに戻るのだった。









「薄汚い羽虫の囀りを見てしまったわ。さて、どうしたものかしらねぇ」

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