第十話『変わる心境』
「あのっお話が」
そう言って呼び止めた女の子はあの時悠人に告白をした子だった。肩まで伸びた
キャンプ合宿の最終日、バスから降りて友人の
(名前は確か…山咲さんだっけ?)
菜乃葉は昨夜、洋一に聞いた名前を思い出す。そして目の前で深刻そうな顔をした彼女に「ん?」と問いかけてみると山咲はゆっくりと口を開いた。
「あの…西田くんと…どんな関係ですか?」
(は?)
菜乃葉は途端に頭が真っ白になる。悠人との関係を何故聞いてくるのだろう。菜乃葉にとって悠人は共通の庭で植物を楽しむただの植物仲間である。断じて疑われるような関係などではない。
「二人共よく話してるし仲良さそうだし…」
だがそんな菜乃葉の心情が山咲に伝わるわけもなく、山咲は次々と菜乃葉の目が見開くような事を話してくる。
(ちょ、ちょっとまって何この質問)
大人しく山咲の話を聞いてはいるものの、前代未聞の出来事に呆気に取られることしかできない菜乃葉は次に放たれた彼女の一言で更に言葉を失うことになる。
「もしかして…好きなんですか?」
(いやいやいや…)
これ以上山咲の妄想が膨らむのはよろしくない。そう思った菜乃葉はようやく否定の言葉を口に出す。
「あ、あのね、あたしはちゃんと他に好きな人いるから」
勿論それは嘘などではない。菜乃葉の意中の相手は岸という名の明るく爽やかな男がきちんといるからだ。菜乃葉がそう言うと山咲は心底安心したのか分かり易い表情で安堵の息をつくと柔らかい笑顔を見せてもう一度口を開いた。
「良かった…私…ずっと気になってて。西田くんにフラれたけどまた頑張ろうって思ったんです」
山咲は余程安心したのだろう。再度笑顔を菜乃葉に向けてから会釈をするとそのまま去っていった。まさか悠人との仲を誤解されるとは思ってもいなかった。
(悠人くんてどこにモテる要素が?)
菜乃葉は暫し考えてみるが全く答えは浮かんでこない。
(わからん)
そんな事を考えていたのが夏休み前だった。この時の菜乃葉は悠人に対して庭仲間としか認識しておらず、会う度に生意気な態度をとる悠人に憤慨することも少なくなかった。そんな関係だった。
悠人の過去を聞いた時は驚いたが、それを聞いて菜乃葉の今までの行動が変わる事はなかった。ただ菜乃葉がこの城へ訪れるようになったのは本当に偶然だったが、自分の行動が悠人の救いになっていたという事は悪い気がしなかった。悠人の態度は相変わらず子生意気で何を考えているのか分からないところがあったが、菜乃葉は悠人が嫌いではなかった。時々見せてくる悠人の笑顔はどことなく憎めなくて、弟がいたらこんな感じなのだろうかと思う事が増えていた。
文化祭準備で忙しく庭へ中々行けなくなった時期があった。どうしても庭へ行きたい思いから何とか時間を見つけて深夜に庭へ行った日に偶然悠人と鉢合わせた。その日は不思議な事に悠人が彼らしくもない言葉を口に出してひどく驚いたものだ。帰ろうとする菜乃葉に普段憎まれ口しか叩かない悠人が家まで送ると言うのだから驚かない方が難しい話だった。途中までは送ってもらったものの菜乃葉より年下の悠人をこんな時間まで出歩かせるのは気が引けて結局無理矢理引き帰らせたのだが、いつもドライな悠人が建前だとしても菜乃葉を送迎しようとしてくれた事は、正直言うと嬉しかった。だがこの時も、悠人を異性として見てはいなかった。
突然の失恋をした時、悠人からの予想外の告白には心底驚いた。悠人への信頼は庭を通じて高まっていたのも事実だが、そういう対象で見たことは一度もなかった。だからこそ、山咲に聞かれた時もあり得ないと思っていたのだ。この時まではそれを疑う事は一度としてなかった。
悠人からの告白は返事を求めたものではなかった。ただ菜乃葉を好きな人間がいる事を知っていればそれでいいと言われただけだった。一切返事を求めないその悠人の姿勢は菜乃葉にとってとてつもなく救いだった。菜乃葉の失恋は、間違いなく悠人のおかげで大分浅い傷で済んでいた。
この時には悠人の事は大分好きになっていた。無論、弟のような立ち位置として、だ。月日が経ち、岸への気持ちが友達へ戻っても悠人をそういう目で見る事はなかった。
ただ悠人からの告白以降、何か吹っ切れたのか悠人からの包み隠さない好意に戸惑いは隠せず、しかし不快感などは全くない自分もいた。これが本当に弟なら嫌悪感を抱いてもおかしくないのに悠人にはそういった感情は全く感じられなかった。
要するに悠人からの好意が満更でもなかったのだ。いや、嬉しいと白状する方がいいかもしれない。しかしこの矛盾に気付くことはまだ出来なかった。
いつの日か、悠人が二日連続で庭へ来る事があった。菜乃葉は悠人がいるとは思わず、驚きの声を上げたものだが悠人は何故驚いているのか分からない様子だった。しかしそれ以来、悠人が高頻度で庭へ来るようになり菜乃葉はそれを嬉しく思う自分がいた。はじめこそは一人で楽しむ庭がなによりも幸せだったのだが、悠人と接していく内に二人で過ごす庭の心地よさを実感していたのだ。
悠人が菜乃葉が庭へ来るなら自分も来るつもりだと発言した時、菜乃葉の心はいつになく心が動いていた。それは悠人の態度が明らかに前より積極的で、会う度に菜乃葉のときめきを生み出させてくるからである。そして菜乃葉はある日ふと気付いた。悠人が向ける菜乃葉への視線が、最初の頃とは明らかに違う事に。
(なんか、悠人くんて…かなりのやり手!?でもなんか…)
そう、本当に心の底から悪い気はしないのだ。むしろこの好意が嬉しく、会う度に期待をしてしまう自分がいたりする程に菜乃葉は悠人からの好意を好いていた。
(だからって弟以上には思ってないけど…!!)
そんな考えを巡らせて庭へ通い続けた。
だがある日、テストが近付いた時の出来事だ。菜乃葉がいつものように庭へ向かおうと校門を出ると「あのっ」という遠慮がちな声が聞こえてきた。そこには見た事のある女の子が立っていた。そう、山咲である。
(あれ…この子…)
「す、すみません」
菜乃葉が不思議そうな顔で山咲を見つめると山咲は一言謝ってから「お話いいですか?」と以前と同じように菜乃葉を引き留めた。校門の前で向かい合っていた二人は他の生徒の邪魔にならないよう端の方へ移動する。暫く無言で俯く山咲からはどことなく異様な空気を感じた。
(何だろうこの空気)
菜乃葉は山咲が話し始めるのをそのまま待つ。それにしても何故またいきなり菜乃葉の元へ来たのだろうか。数分の間が経過すると山咲は意志を固めたのか口を開き始めた。
「私…」
以前も感じていたが、山咲は見た目と同様に女の子らしく可愛い声をしている。そこまで人の外見に興味のない菜乃葉だが、山咲の事は可愛いと思う。
「西田くんが好きなんです。でも…」
菜乃葉は山咲の言葉を聞いてキャンプ合宿の時の事を思い出していた。あれから三ヶ月程経つが、彼女は未だに悠人に思いを寄せているようだ。山咲はようやく顔を上げて菜乃葉の瞳を見据えると一度止めていた言葉を再び口に出す。
「もう一度確かめたくて」
「え?」
「西田くんの事、どう思ってますか?」
控えめな声ではあったが、はっきりと悠人をどう思っているのか問い掛けてくる山咲に菜乃葉は困惑した。
(どうって言われても…)
正直どう答えるべきか難しかった。あの時とはまた状況が変わっている。菜乃葉にとって悠人は大きな存在になっていた。菜乃葉は言葉を選びながら山咲へ質問の答えを出そうとする。
「あたしは」
「確かにあのキャンプ合宿の時みたいに今は悠人くんの事他人だなんて思えない。悠人くんの事は好きだし否定しない」
菜乃葉の言葉を不安げな表情で静かに聞く山咲を横に菜乃葉は自分自身にも問いかけていた。
「だけどあたしの悠人くんに対する好きは恋愛感情じゃないよ。凄く大切なのは間違いないけど」
(悠人くんといる時間は正直言って凄く楽しい。だけど…)
そこまで言うと山咲は口元に手を当てながら更に不安そうな目を向けて言葉を告げる。
「それは本当に…恋じゃないんですか?」
「……」
菜乃葉は即答出来なかった。自分でも疑問に感じるほど分からないからだ。だが、悠人を弟のように思っている気持ちも否定できなかった。
「ごめんね、あたしも自分の事全部分かってるわけじゃないの。でも…あたしの好きは恋じゃないと思う…」
風で靡く髪を右手で押さえながら菜乃葉は山咲へそう答える。そこまで言うと山咲は肩に掛けた鞄の持ち手を掴みながらその答えに対する言葉を発した。
「そうですか…色々すみません。でも」
山咲は今にも泣きそうな瞳で菜乃葉と目を合わせると「先輩が西田くんを好きになっても私…諦めません!」と今日一番の大声を出してそのまま走って行ってしまった。
「あ…ちょっ…」
反射的に手を伸ばし呼び止めようとするが山咲はあっという間に消え去ってしまった。
(行っちゃった…)
山咲に伝えた事は決して嘘ではない。菜乃葉は悠人への気持ちを恋ではないと自分で本当にそう思っていた。一度分からなくなったものの、そう思うのは悠人との今の関係をこれ以上にもこれ以下にもしたいと思わないからだった。
(だから、これは違う)
そう思いながらも複雑な気持ちは消えず、菜乃葉はそのまま自宅へ戻った。庭に立ち寄らないのは非常に珍しい事だった。自宅へ戻ると母親に「あら珍しいわね早いの」と言われ、菜乃葉は適当に誤魔化して自室へ入る。そのまま鞄を床に置き、ベットの上に座り込むと菜乃葉は思考を巡らせた。
(もしかしてあたしって…あの子にとって凄く邪魔な存在なのかな?)
先程の山咲とのやり取りを思い返し、自身の立場を今一度考えてみる。学年も学校も何もかも違う女子高校生と好きな相手が一緒にいる姿を見てしまえば、不安になる気持ちはよく分かる。菜乃葉も彼女の立場ならきっと平静ではいられないだろう。
(でもあたしは悠人くんの事を弟みたいに思ってて…)
告白はされたが、返事は保留のままいつもの状況を過ごしている。それは悠人も菜乃葉もお互い暗黙の了解になりつつあるのだと思っていた。
(あたしはどうすればいいんだろう)
悠人の顔を思い浮かべる。そこで菜乃葉はある思考に辿り着く。それは、悠人の事だ。悠人は返事は必要ないと告げていたが、それは菜乃葉が言葉を間に受けて結局のところ悠人に甘えているだけではないか。それは悠人本人に申し訳ないのではないか。そこまで考えると菜乃葉は更にある事に気が付いてしまう。
(もしかして)
考えるのは怖かった。だが、逃げるのはもっと怖かった。
(あたしってもう庭に行くべきじゃないのかも…)
大好きな庭。いつも嫌味を言いながら本当は心優しい悠人。菜乃葉は気付いてしまったからには目を背ける事はできなかった。いつまでも悠人に甘えるのは駄目なのだ。悠人の告白から二ヶ月以上経っても彼の気持ちには応えられない。それなのに庭に居座るのは虫が良すぎるのではなかろうか。
―――――――『アンタが庭に来てくれるなら何でもいい』
あの時の言葉をふと思い出す。悠人に改めて好きだと告げられ今まで以上に動揺した菜乃葉が悠人は弟だからと返答した時、言われた言葉だ。悠人は本当に菜乃葉が庭に来るだけで嬉しいようだった。そしていつも真っ直ぐに菜乃葉を見てくれた。しかし、そんな悠人の期待に応える事は出来ないのだ。
(ごめんね悠人くん)
菜乃葉は湧き上がる罪悪感と未練を胸に抱えながらも苦肉の決断をした。それはもう、二度と庭へ行かない事だ―――。
もう決めたのだ。庭には行かないと。悠人には――会わないと。菜乃葉が決断をしてから翌日。菜乃葉は終礼が終わってもいつもの様に颯爽と教室を出なかった。
「あれ? 菜乃珍しいね、いっつもすぐ帰るのに」
あすかは不思議そうな顔をして菜乃葉の顔を覗き込む。今までは終礼が終わると直ぐに教室を出て庭へ向かっていたのであすかが気にするのも不思議な話ではなかった。菜乃葉は座席に座ったままあすかを見上げた。
「学校に用でもあるの?」
あすかの問い掛けに菜乃葉は「ううん」と否定する。そのまま机に描かれた落書きを見つめながら淡々と言葉を口にした。
「もう早く帰る理由がなくなっただけ」
それから二週間が経った。菜乃葉はここのところ授業が終わると重い足取りで近場の植物を見に行くが、気分は全く高まらずそのまま直ぐに自宅へ帰る事が殆どだった。
(悠人くんどうしてるかな)
今日も放課後は何も予定がない。菜乃葉は虚無感に襲われながらゆっくりと足を動かして廊下を歩く。
(今もまだ庭にいるのかな…)
不思議なことにいつも思い出すのは庭ではなく、悠人の事だった。菜乃葉なら庭への未練が強い筈なのに、自分でもよく分かっている筈なのに何故か、悠人の事ばかり考えている時間が多かった。
「菜〜乃!」
廊下を亀のような遅さで歩いていると背後からあすかに呼び止められる。あすかは明るく菜乃葉に笑いかけると「暇なら寄り道してかない?」と菜乃葉を遊びに誘ってきた。「ねっ!」と一押しするあすかの好意を素直に受け止め、菜乃葉は久しぶりに友人と遊びに出掛けた。
中高生に人気のあるカラオケ店に入るとあすかは明るい調子で流行りの曲を次々と流していく。菜乃葉は歌う気分ではなく、ただあすかが歌うのを聴いている。口角を上げてあすかを見ていた菜乃葉だが、意識をしなくなれば持ち上がった口角は一瞬で下に落ちてしまう。菜乃葉は歌い続けるあすかを横目に視線を下へ落とすと急激に虚しさを感じた。
(なんだか…さみしいなぁ…)
それは悠人に会えないからだろうか。しかしそれは自分で決めた事だ。悠人への気持ちに応えられないからと自分で、決めたのだ。菜乃葉は心の中で自問自答をしているとカタンと突然マイクをテーブルの上に置く音が聞こえた。
「ねー菜乃、最近おかしいよ?」
「え…」
あすかは先程のような笑顔ではなくいつになく真剣な顔で菜乃葉を見下ろす。
「この数週間ずっと元気ないじゃん」
あすかは普段から明るく覇気があり、精神面も強い子だった。周りに煙たがられる事があっても全く動じず、去るもの追わずといった意外にもさっぱりした性格をしている。そんなあすかが笑わない事はなく、どんな時も明るく中学二年の時から友達である菜乃葉と喧嘩をした記憶もなかった。
そんなあすかが目に涙を浮かべて菜乃葉を見つめていた。あすかのそんな表情は見た事がなかった。
「そんなんじゃ寂しいよ」
あすかは菜乃葉の隣に座ると言葉を続ける。
「何があったか話してよ」
菜乃葉はこれまでの出来事をあすかに話す事にした。庭の事。そこで悠人という男の子に出会った事。無論悠人の過去までは触れていない。ただ、通い続けていた庭が悠人と菜乃葉にとって特別である事はあすかに説明をした。そして山咲との会話に関しても話をした。
「そんな事があったんだ」
「うん」
あすかは菜乃葉の言葉を遮らず、説明が終わるまでずっと黙って聞いていた。菜乃葉が話し終えてあすかは菜乃葉へ疑問を投げかけてくる。
「じゃあ菜乃はその悠人くんって子の事どう思ってるの?」
菜乃葉は困惑しながらも前に辿り着いた答えをそのまま口にしようとする。
「どうって弟みたいな…」
「それっておかしいよ」
菜乃葉の言葉を遮る形であすかが口を挟んだ。思わず「え?」とあすかの方を見ると、あすかは真剣な眼差しで言葉を続けた。
「ただ弟みたいに思ってる子の事をそんなに気にするかな?」
そこは考えなかったわけでもなかった。だが、弟以外の言葉が怖いのだ。認めるのが怖いのだ。
「今凄く会いたいんでしょ?」
あすかの言葉は的を得ている。正直会いたくて仕方がない。他でもなく、悠人に会いたい気持ちが日々膨らんでいる。菜乃葉が今最も求めているのは庭などではなかった。
「その子のこと、好きなんじゃない?」
「えっ!? あたしが?」
「そうだよ」
その言葉は二週間前にも聞いた台詞だ。あの時は否定の気持ちが強く、いや否定したかった。自分を偽っていたのだ。あすかは戸惑いながらも顔を赤らめた菜乃葉を見て笑みを零すと「菜乃が恋するなんてね♡」と嬉しそうに言った。
(あたしが…悠人くんを?)
意識して悠人の顔を浮かべた途端、菜乃葉の顔は上気すると共に鼓動は次第に速くなっていく。冷静にこれまでの事を思い返す。菜乃葉が庭へ行かなくなってからずっと考えているのは悠人のことばかりなのだ。いつの間にか庭よりも悠人に会いたい気持ちが勝っていた。悠人と今以上の関係を望んでいないと思い込んでいた菜乃葉は、ただ自分でブレーキをかけていただけに過ぎなかった。気持ちを認めると一気に悠人への気持ちが溢れ出す。
(あたし、悠人くんの事好きなんだ)
菜乃葉は自分の気持ちを確かめるように何度も同じ思考を繰り返す。けれども、今までのように悩む間も無く確実に悠人への気持ちがある事を菜乃葉自身がよく理解していた。現に今、気持ちを認めた事で菜乃葉の心はスッキリとしていた。何かを残したような嫌な感覚は一切感じられない。
「気付いた? 菜乃」
あすかは菜乃葉の様子を悟ったのか、笑みを向けてそう尋ねる。菜乃葉はあすかと自分自身に向けて声を出した。
「うん、あたしずっと恋じゃないと思ってた…」
スカートの裾をぎゅっと掴みながら菜乃葉は自身で出した答えを最後まで口に出す。
「でも違うんだね」
菜乃葉は顔を上げる。
「恋なんだ」
口に出すと菜乃葉の心から全てのモヤが消え去った。そんな感覚だった。
翌日の放課後は久しぶりに庭へ行くと決めていた。だが、丸々二週間も庭を放置しておいて、今更顔を出すのも中々勇気がいるところであった。しかしだからといって今の菜乃葉に行かない選択肢はなかった。自分の気持ちに気が付き、庭に行かない理由がなくなったからである。悠人の気持ちに応える事は勿論、何より菜乃葉自身が悠人と共にいたいと強く思っていた。
(悠人くん、どう思ってるかな)
急に菜乃葉が来なくなったのだ。悠人にも思うところはあるだろう。菜乃葉は気持ちに応えられないことに罪悪感を抱き、悠人の事を考えて悠人の前から姿を消していたがそんな事は悠人の知った事ではないのも理解していた。
悠人にとっては裏切りだと思われても仕方がないかもしれない。そしてもしかすると悠人に軽蔑の目で見られる可能性も考えていた。そうなったとしても、菜乃葉のした事はそういう事だ。どんな理由であれ悠人に何も言わず姿を消したのは褒められることではない。言い訳にもならないが、この二週間は菜乃葉自身も自分の事で一杯一杯だったせいか、そこまで頭が追いついていなかった。だが冷静に物事を捉えられるようになった今なら菜乃葉もとんでもない事をしてしまったと反省していた。
庭に到着すると思い焦がれていた悠人の後ろ姿があった。だが悠人は特に何をするわけでもなく、ただそこに立っている。考え事でもしているのだろうか。菜乃葉は意を決して門の扉を開くと声を絞り出す。
「や、やっほー」
思わず声が掠れてどもる形で出た久しぶりの言葉はだがしかし悠人に反応を与えなかった。菜乃葉は気にはなったもののそのまま言葉を続ける。
「ごめんね、最近色々あって全然来れてなかった。久しぶりだね! 元気?」
言い訳がましいが菜乃葉はとりあえず庭に来なかった事を簡単に言葉にする。まだ悠人に告白をする勇気は持ち合わせていない。もしかしたら悠人が菜乃葉に落胆し、もう好きではなくなっている可能性があるのと、菜乃葉自身にまだ告白をする気量がないのが理由だ。
菜乃葉の言葉に未だ声を返さない悠人の様子を窺っていたが、やはり悠人は怒っているのかもしれない。菜乃葉は悠人の背中を見ながら「悠人くん? 怒ってるの?」と単刀直入に問い掛ける。すると悠人はようやく声を発してくれた。
「別に。ただ…」
悠人の否定の言葉にホッと安堵する。そして同時に悠人の声を久しぶりに聞けた事を嬉しく思っていると悠人は体を反転させて菜乃葉に向き合った。
「いきなりいなくなるのはずるい。もしかしたら二度と来ないかもって正直焦った」
悠人の意見はごもっともであった。しかし悠人の視線は何故か菜乃葉を捉えない。菜乃葉は悠人を見つめているが額に手を当てながら悠人は俯き加減で言葉を出している。それが少し、寂しかった。
「菜乃葉がオレの気持ちに応えないのは構わないけど、オレの前からいなくなるのはやめてほしい」
しかし悠人から出される言葉は全て、菜乃葉を未だに好いてくれているのが分かるものばかりだった。菜乃葉は悠人のひとつひとつの言葉に顔を赤らめていると悠人は止めの一言を発した。
「いなくなると、困る」
菜乃葉にまだ目を合わせてはくれないが、悠人は先程よりも顔を上げて庭の方へ目線を向けながらそんな言葉を繰り出してきた。悠人の顔は仄かに赤みを帯びており、照れているのが菜乃葉でも分かる。
「う、うん…」
菜乃葉はそのあまりにも一直線な言葉に心臓を高鳴らせながら悠人へ心の中で言葉をかける。
(両思いなわけだけど、もう少し待ってね)
悠人には絶対に菜乃葉から気持ちを伝えるつもりだ。しかし今日この瞬間はもう少し心の準備をする時間がほしかった。
菜乃葉は不思議な気持ちになっていた。それはいつもなら悠人は照れると直ぐに帰る素振りを見せているのだが、今回はそうではないからである。残ってくれるのは嬉しいのだが、何故今回は帰らないのか少し疑問があった。久しぶりに再会できたからだろうか。悠人が帰る様子は全くなく、ただ菜乃葉と沈黙を共有している。互いに頬を染めながらその場で沈黙していると、菜乃葉は沈黙に耐えきれず「な、何しようか…」と口を開く。すると悠人はようやく菜乃葉と目を合わせ「花に水は?」と声を上げた。
菜乃葉はすっかり失念していた事に気がつく。「あっ」と声を上げてすぐさまじょうろを手に取るといつもの手順で植物に水を上げていく。途中悠人からの視線を感じ、一瞬目を向けるが何だか照れ臭くすぐに逸らしてしまった。
悠人の視線は菜乃葉が目を逸らしても注がれているのが伝わり、その視線から菜乃葉を好きだという想いが伝わってくる。それが恥ずかしくて、だけど嬉しい。そして菜乃葉はとても幸せな気分になった。菜乃葉はこれが両思いなのかと空を見上げて思い知る。
(悠人くんにも早く気持ち伝えたいな)
出来るだけ早く悠人に告白をしよう。そんな事を考えていると突如悠人から「何かあった?」と声がかかった。
「えっ」
「何もないよ!?」
菜乃葉はあからさまに動揺するが、悠人は「ふーん」と応えるだけでそれ以上追及してくる事はなかった。菜乃葉は悠人の背中を見つめながら悠人に心の中で話しかける。
(ごめん悠人くん、『あなたが好きなの』なんて今はまだ…)
勇気が出るまでそう時間はかけたくない。そう考えたところで重要な事を思い出す。
(そうだ、あの子にはちゃんと話さないと)
菜乃葉の頭には山咲の顔が浮かんでいた。翌日の放課後、急ぎ足で野沢中の校門まで足を運ぶ。距離は遠いが、まだ下校には間に合うはずだ。ただ、悠人に会う事だけは避けておきたかった。山咲とのやり取りを悠人に知られたくないからである。野沢中の生徒は次々と校門から出てくるが、予想外に菜乃葉に話しかける一人の生徒がいた。
「あれ? あの時の先輩!!」
そう言って明るく話しかけてきたのは肝試しの時にたまたま余り者同士でペアになった洋一だった。
「えーっと、東くんだっけ?」
「そうっす! 悠人っすか?」
菜乃葉の声に元気良く答えると今度は洋一の方から質問をされる。洋一は「仲良いっすねー」と笑顔でそう言うが菜乃葉は「えっといや…」と少し焦りを見せた。その様子にキョトンとした洋一に菜乃葉はもう一つ質問を投げかける。
「山咲さんてまだいる?」
「山咲ならもう来ると思うっすよ」
特に詮索される事もなく明るい調子で答える洋一は人見知りな菜乃葉でも話しやすさを感じる。
「ありがとう。それとあたしが来てた事、悠人くんには言わないでほしいの」
菜乃葉はついでにそんな事をお願いすると洋一は「分かったっす! ではー!」と何の障害もなく元気に校門から去っていった。その様子をしばし見送っていると菜乃葉の背後から「あの」と聞き慣れた女の声がする。
「先輩…どうして」
そこには菜乃葉の待ち人――山咲が立っていた。
「急にごめんね、話があって待ってたの。少しいい?」
菜乃葉はすぐ山咲に本題を告げると山咲は始めこそ驚いていたもののどんな話なのか予想がついたようだった。菜乃葉はそのまま山咲へ自身の気持ちを表明した。悠人が好きだと言う事。あの時は山咲に否定してしまったが、自分の気持ちに気づいた事。菜乃葉自身も気付かなかったとはいえ結果的に嘘をついてしまったのだ。その事に関しての謝罪もした。それを山咲は静かに聞いていた。山咲の表情は変わらない。怒っているわけでも悲しそうなわけでもなかった。
「……先輩はお優しいですね。自分の気持ちが分かったから私に伝えようと律儀に来て下さったんですね」
山咲は菜乃葉の話が終わり、一拍置くとそんな言葉を口にした。そして再び口を開く。
「だけど、だけど私負けません」
山咲は先程とは違った表情で菜乃葉を見据える。普段穏やかな雰囲気の山咲はここで初めて敵意のある視線を菜乃葉に向けてきた。
(この子…本当に悠人くんが好きなんだな)
その視線で山咲の本気度が伝わった菜乃葉はだからこそ彼女には言うべきだと意志を固める。
(でも)
菜乃葉も負けずと決意の眼差しで山咲を見据えると二人は対面したまま互いを見合った。そこには二人にしか分からない闘争心が生まれていた。
「山咲さん」
山咲の名を呼び菜乃葉も声を発した。
「あなたの気持ちが生半可なものじゃないって事は分かってる。でもあたしも悠人くんを好きな気持ちは誰にも負けない。遠慮はしないわ」
宣戦布告をした。これは菜乃葉と山咲の戦いだ。菜乃葉は悠人の事に関して譲る気はなかった。その言葉に驚きの色を見せたライバルの山咲はすぐに顔の表情を変えて菜乃葉の宣言をそのまま受け取った。
「はい。今は先輩の方が有利かもしれませんが、油断なされないで下さいね」
山咲は今までに見せたことの無い強気な笑みを向けそのまま二人は火花を散らせた。菜乃葉も山咲もお互いをライバルと認識するとそれぞれ別々の方向へ足を向け解散する。
悠人に告白をされているとはいえ、山咲は中々に強敵だ。油断をする事は出来なかった。しかし山咲へ気持ちを伝えた事で菜乃葉は心の靄が晴れていた。スッキリしたことでそのままの足で庭へと向かう。少し遅くなったもののまだ庭を楽しむ時間は残されていた。
「今日も天気良くてよかったー」
悠人の姿を確認し元気良くそう告げながら庭へ訪れると悠人はそれに対して何も言わずただ菜乃葉の事をじっと見つめていた。菜乃葉はそのまま悠人の持っているじょうろに目を向けると笑顔のまま言葉を続ける。
「あれ? 水やりするとこ? ありがとう!」
そう礼を告げると悠人は「…うん」とだけ答えて何故か思いもしなかった事を提案してきた。
「一緒にやる? 水やり」
しかし悠人の視線はすぐに菜乃葉から逸らされ気恥ずかしい空気を醸し出す。悠人からの提案に驚く菜乃葉だが、悩む時間は短く気が付けば頷いていた。今までなら絶対に断っていた筈だが、悠人への想いを自覚した菜乃葉に断る選択肢はなかった。だが頷いては見たものの、そもそも一つのじょうろで水やりを誰かと共にするものなのか、菜乃葉は高鳴る心臓のせいで分からなくなっていた。
水やりを二人で始めると自然と肩がぶつかる。菜乃葉はその度に顔を赤らめ、ときめく気持ちは止まる事がなかった。悠人はどのような気持ちなのだろう。そんな事を考えているうちに水やりは終わり、悠人がじょうろを芝生の上に置く。すると悠人は何か思う事があるのか「…あのさ」と声を出した。
「嫌な事は言ってほしい。全然気にしないから」
悠人の方を見ると悠人は菜乃葉に背中を見せそう言った。悠人の耳は真っ赤に染まり、彼が照れているのが見てわかる。そして悠人の気を遣う発言も嬉しかった。菜乃葉は「うん」と答え、悠人を愛おしげに見ていると「あ、あと」と言いながら突然こちらを振り向く悠人は「これ」と言って一枚の紙を差し出してきた。
「何それ?」
一枚の紙は折り畳まれており、内容は見えない。率直に尋ねると悠人はすぐに返答を返した。
「オレのレイン。また来なくなっても連絡できるように」
いつもより小さな声でそう発すると悠人は「じゃ、オレ帰るから」と足早に庭を去ってしまった。悠人の頬は少し赤みを帯びており、そんな姿で今の発言をされて菜乃葉の胸はこれでもかというほどに高鳴っていた。
(また照れて帰った…もう来なくなったりしないのに)
悠人の意思表示が嬉しかった。レインは菜乃葉も聞こうと思っていたが、まさか今日悠人から渡されるとは思いも寄らずそれがまた嬉しい気持ちを増幅させていた。菜乃葉はしばらく嬉しさに浸った後、悠人から受け取った紙を広げる。
(駄目だあたしもう、完全に悠人くんに心持ってかれてる。明日にでも告白したい…)
「ん?」
そんな気持ちで広げた紙に目を通し始めると連絡先以外に短いメッセージが書き記されていた。
『十一月十七日はオレの誕生日だから、良かったらいつも通り庭に来て』
悠人からのメッセージはこうだった。十七日は三週間後である。菜乃葉はそこまで考えるととある展開を思いつく。
(誕生日に告白とかも…!?)
誕生日の告白は特別感があった。きっと悠人なら喜んでくれる筈だ。菜乃葉は気合を入れて誕生日に告白することを決意した。それまでは、悠人に気持ちを隠す事になるが誕生日が近いならその日に告白したいと思ったのだ。
「気合い入れよっ!!」
広々とした庭で一人決意を固めるとまるで菜乃葉の気持ちを応援するかのように心地よい風が菜乃葉の背中を押した。
自宅へ戻りやる事を済ませた菜乃葉は悠人へ連絡を送ろうとレインの画面を開く。しかしどう送るべきかで中々送信する事ができず、菜乃葉は顔をしかめた。
「えーっと…嬉しい?嬉しかった?」
悠人が連絡先を教えてくれた事に対して気持ちを伝えようと思ったが上手い言葉も見つからず菜乃葉は文字を打つ手が止まってしまう。
「レインで悩むなんて人生で初めてだなぁ…『また明日庭行くね☆』これでいこう!」
一人でぶつぶつと呟きながら送信ボタンを押すと菜乃葉の気持ちは花畑へ遊びに出掛けたかのような高揚感で満たされていた。するとすぐにレインの通知音が鳴る。
「返信早いな悠人くん」
ドキドキしながら通知を開くと悠人からの返信があった。
『うん。ありがと。待ってる。』
たったのそれだけなのだが、何とも悠人らしく悠人のメッセージがこのような感じなのだと知れた事がとても嬉しく思えた。菜乃葉は胸をときめかせたまま顔もどこか熱を帯びている。
「一つ一つでドキドキするのやめたい…あたしの方が年上なのに…」
そうぼやいてみるが実際に年上かどうかは関係がない。菜乃葉は大人ぶりたい気持ちが常にあったが、恋愛においてそれは難しいのだと思い知り始めていた。何故ならいつも悠人が一枚上手だからだ。しかしそうであっても決して嫌な気はしなかった。むしろそれが嬉しく菜乃葉は悠人にリードされる事を心のどこかで望み始めていた。
第十話『変わる心境』終
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