第九話『空白後の光』
―――――――菜乃葉は庭へ来なくなった。
何故かは分からない。思い当たる節は皆無だ。悠人の告白が原因ならそんなのは二ヶ月前に来なくなっているはずであり、体調でも崩したのかと思ったが、彼女は一週間経った今も庭に訪れない。そして揉め事があったわけでも無かった。前日は揉め事どころか楽しかった記憶しかなく、本当に何の前触れもなかった。そしてこの状況は連絡先も知らない悠人には八方塞がりであった。
ひとつだけ、方法はあった。菜乃葉の通う大田高へ行けば菜乃葉には会えるだろう。だがそれを悠人に実行する勇気はなかった。菜乃葉が庭へ来なくなった原因が悠人にあるのだとすればそれはもう、悠人が接触を図るべきではないからだ。
葛藤はした。何度も葛藤を繰り返し大田高へ出向こうとも何度も考えた。しかし、どう考えたところで悠人の一番優先したい事は菜乃葉の気持ちを尊重したいというところにあるのだ。
「悠人最近元気ないけど何かあったのかー?」
悠人の分かりにくい感情の変化に昔からよく気付く洋一は悠人が学校に行く度にそんな風に声を掛けてくる。しかし悠人は「別に」と言うだけだった。自身が落胆している原因を誰かに話すのは苦手だ。両親が他界した時もそうだった。悠人に悩みを打ち明けるように話を促す教師、マスコミ、野次馬、悠人はそれが嫌で仕方なかったのだ。話したところで母親は戻らない。父親の不倫もなかったことにはならない。
気休めはいらなかった。悠人が欲しいのは心の拠り所だ。自身が心から安寧の時を過ごせる環境だ。それが菜乃葉だった。
悠人は毎日庭へ足を運んだ。今日はもしかしたら来ているかもしれないという淡い期待を抱きながら。そして期待は心の奥底で予想していた通りである事を知って絶望感に苛まれる。そんな事を繰り返していた。それ程までに菜乃葉の存在は悠人にとっての希望であった。
二週間経った今もそれは同じく、もはや来るはずもない庭に一人で足を運んではその場で放心し、重い足取りで自宅へ戻る。
出来る事なら菜乃葉にはずっとこの庭へ足をむけてほしかった。確かに一生をこの庭で過ごすなど、フィクションの世界だけだろう。彼女も大人になればこの土地を離れるかもしれないしそうじゃなくても人間は飽きる生き物だ。ずっとこの庭でだなんてそんな事はあり得ない。それは分かっていた。だがもう少しだけこの庭にいてほしかった。あと少しだけというそんな欲は最後が近づく度に永遠に感じてしまう事にも気付いていながら悠人はそう思わずにいられなかった。
しかし、そろそろ受け入れるべきなのかもしれない。そう思いながらも悠人は翌日の放課後も庭へ足を向けていた。
正直、三年前の不幸の連続と同じくらいの苦しさが今の悠人を襲っていた。今日も菜乃葉はやはり来ないようだ。誰もいない庭をただ眺めていると突然何者かの足音が聞こえてくる。
(どうせ通行人だ)
この近辺を通り過ぎる人は限りなく少数であったが、時々通行する人間もいた。実際に菜乃葉と庭で過ごしている時も何度か通行人が現れた事はあった。
悠人は振り返る事なく庭を眺めるのを続ける。悠人の髪を撫でる風は酷く心地良いのに悠人の気持ちはそれとは正反対であった。無言のままその場で立ち尽くしている悠人の背後から突如門を開く音が響き渡る。
「や、やっほー」
菜乃葉だ。菜乃葉の声である。悠人は放心した。嬉しさは勿論、何故という疑問と、自分のせいなのかという焦りが悠人の心中で暴れ出す。しかしそれらと同時に菜乃葉に何か事故など良くない事が起きなかった事にも安堵していた。そんな悠人の心情に気付くはずもなく菜乃葉は背後から言葉を続けた。
「ごめんね、最近色々あって全然来れてなかった。久しぶりだね! 元気?」
悠人の考えは杞憂だったのかもしれない。菜乃葉は前と同じ調子で言葉を告げるとそのまま悠人の反応を待っている様子を見せる。しかし未だに思考が働かない悠人は声を出せずにいた。その様子に気付いたのか菜乃葉は首を傾げて再び声を出す。
「悠人くん? 怒ってるの?」
気を遣っているのか恐る恐る尋ねてくる菜乃葉の声で悠人は口を開く事を決心する。
「別に。ただ…」
直ぐに菜乃葉の方へ身体を反転させると額を抑えて少し俯きながら菜乃葉に自身の心情を告白した。
「いきなりいなくなるのはずるい。もしかしたら二度と来ないかもって正直焦った」
まだ菜乃葉の目を見るのは怖かった悠人はそのまま目を伏せた状態で言葉を紡ぐ。
「菜乃葉がオレの気持ちに応えないのは構わないけど、オレの前からいなくなるのはやめてほしい」
そして額から手を離すと目線を少し上げて一番言いたい事を言葉にする。
「いなくなると、困る」
菜乃葉の目を見て言うのは難しかったが、言いたい事を口に出した悠人は安堵していた。しかしやはり慣れないもので普段口にすることのない言葉を言うのに頬が染まるのは避けられなかった。
「う、うん…」
菜乃葉は以前のように顔を赤く染めるとしおらしくそう答える。ようやく菜乃葉の顔を見る事が出来るようになった悠人はそのまま菜乃葉の顔を見つめる。菜乃葉も何故かその場から動かず暫くの沈黙が流れると沈黙に耐えられなかったのか菜乃葉の方から声を出してきた。何故か菜乃葉は言葉をつっかえていた。
「な、何しようか…」
「花に水は?」
水やりは菜乃葉のいつもの習慣だ。この二週間は悠人が毎日水やりをしていた。それは菜乃葉に早く戻ってきてほしいという思いが強かったからだ。
悠人の言葉に「あっ」と菜乃葉は思い出したような声をあげるとそのままじょうろを手に取り、いつもの段取りで植物へ水をかけていく。植物に水をあげるのが日常的だった菜乃葉が悠人に言われて気がつくのは非常に珍しかった。そんな菜乃葉の姿を見守っていると菜乃葉は悠人の視線に気が付いたのか少し恥ずかし気に顔を逸らしていた。いつもの菜乃葉なのだが、どことなく何かが違う気がした。
「何かあった?」
「えっ」
単刀直入にそう聞くと菜乃葉は明らかに動揺した様子でしかしその言葉を否定した。
「何もないよ!?」
顔は先程の熱が消えないのかまだ赤く染まっており、しどろもどろに焦った様子でそう答えてくる。
「ふーん」
どう見ても何かあったようだが悠人は追及することはしなかった。菜乃葉の様子からもそれを望んでいそうである。
(ま、いいけど)
何かを隠していたとしてもそれでも構わない。菜乃葉が来てくれたのだ。それだけで悠人は嬉しかった。事実、菜乃葉が来てくれたことでつい先程まで沈み込んでいた気持ちはどこかへ消えていた。一瞬夢なのではないかと疑ってしまう程に悠人の心には光が当てられ、表にこそ出せないもののとてつもない喜びが悠人の身体を支配していた。
菜乃葉の様子に違和感はあるものの、それ以外はいつもの菜乃葉であり特別病気にかかった様子もなく元気そうだった。菜乃葉が二週間来なかった理由は気になったものの、聞く事はしなかった。菜乃葉から話してこないという事は話しにくいという事だろう。詮索するのも質問と同じで嫌だった。それに何より悠人は、菜乃葉が本当に来てくれただけで充分心が満たされていた。
翌日の放課後も菜乃葉は庭へ来た。何か用があったのか、いつもの時間よりは遅かったが菜乃葉の顔は不思議とスッキリしたような顔で元気よく城の門を開けると「今日も天気良くてよかった―」と楽しげに笑っている。そんな菜乃葉の笑顔がいつも以上に可愛らしく見えた悠人はそのまま無意識に菜乃葉を見つめてしまう。
「あれ? 水やりするとこ? ありがとう!」
菜乃葉はじょうろを持ったまま立っている悠人の手元を見てそう言うと楽しげな表情を維持したまま植物に目を向ける。そんな菜乃葉の感謝の言葉に「………うん」と声を返す悠人だが、思わず菜乃葉に珍妙な提案を口に出していた。
「一緒にやる? 水やり」
断られると思う。さすがに一緒に水やりだなんて恋人でもあるまいし菜乃葉も嫌がるだろう。悠人は若干の気まずさを感じ目を逸らすが、視界の端で無言で頷く菜乃葉が見えた。
(…いいんだ)
悠人は内心驚いたが、それを表情に出すのは止め、そのまま菜乃葉と距離を縮めて一つのじょうろを二人で持ち始める。
一つのじょうろを二人で使うといった事例は聞いた事がない。普通はしないだろう。なのにそれを提案した悠人も、それに頷いた菜乃葉も二人ともどこか可笑しかった。
水やりをしながら菜乃葉と肩が何度か当たってしまうが、この距離ならそれは当然の事だった。悠人は心臓の鼓動が早くなる程に心が弾む状況ではあるが、菜乃葉はどうなのだろう。嫌われていないとはいえ、弟のような存在の悠人とこんな事をしても抵抗はないのだろうか。一通りの水やりを終えるとそのままじょうろを芝生の上に置いてから悠人は意を決して言葉を発した。
「…あのさ」
先程とは距離の空いた菜乃葉に背を向けながら言葉を続ける。自身の耳が熱くなるのを感じていた。
「嫌な事は言ってほしい。全然気にしないから」
菜乃葉の嫌がる事をしたくはない。もし断る勇気がなくて流されているのならそれは悠人に言ってほしかった。そう言う意味を込めて言葉を発すると菜乃葉の「うん」という素直な声が返ってくる。悠人はその返答に安堵すると自身のポケットに手を入れて「あ。あとこれ」と菜乃葉の方へ振り返りながら半分に折り畳まれた一枚の紙を差し出す。
「何それ?」
菜乃葉は不思議そうな顔をしながら悠人の手から紙を受け取る。悠人は菜乃葉を覗き込むように見上げると小さく声を発した。声が小さい理由は、どことなく気恥ずかしかったからである。
「オレの連絡先。またこなくなっても連絡できるように」
嫌味ではない。本当に来なくなっても大丈夫なようにそう告げる。そして逃げるように「じゃ、オレ帰るから」と言うと菜乃葉は何も言わずそのまま悠人を見送った。少しだけ菜乃葉の顔を見ると彼女の頬は赤くなり、悠人の言葉で照れたようだった。脈がないのは変わらないだろうが、このような反応がまた見られたことに悠人は嬉しさがあった。
今まで菜乃葉に連絡先を聞かなかったのは欲が増してしまう自分を止められる自信がなかったからだ。告白をしてからはまた気持ちが変化し、連絡先を聞こうと思った事も多々あった。だが、いつでも庭にくれば会える状況に安心していた悠人は連絡先に拘る事はなかった。三日に一度の頻度はいつの間にかなくなり、毎日のように菜乃葉に会っていたのでそれだけで満足していたからだ。そして菜乃葉が来なくなる事は絶対にないと決めつけて油断していたのだ。
しかし今回の件で連絡先を聞かなかった事は致命的であると痛感した。連絡先を知っていれば何があったのか気軽に聞く事が可能だったからだ。そのため今日は絶対に連絡先を交換しようと強い決意をしていた。無事に菜乃葉に連絡先を渡せた事で悠人は心が軽くなるのを感じた。
菜乃葉に渡したメモには悠人の電話番号とレインのID、それから十一月十七日は誕生日だから庭に来てほしいという内容を書き記していた。菜乃葉が毎日来るのかは悠人が決めつけるものではないと思い直した悠人は念の為、自身の誕生日を前もって知らせる事にしたのだ。誕生日を自ら知らせる事に、更にその日に菜乃葉を庭へ呼び出す事に多少の抵抗はあったが、怖気付くのはもう止めようと決心していた。
悠人は両親が亡くなってからこれまでの間、誕生日に特別な意味を求める事はなくなっていた。だが、誕生日に好きな人に会えるという状況はきっと幸福感で満たされるのだろう。経験はした事がなかったが想像しただけで悠人の心は明るくなっていく。
突然スマホの通知が鳴る。悠人は基本的に誰かとレインのやり取りをする事はなかった。洋一にさえIDを教えてはいない。知っているのは祖母や親戚くらいでその者達とも必要最低限のやり取りしかしていない。そのためこの通知は菜乃葉の可能性が極めて高かった。
『悠人くん菜乃葉だよ
連絡先ありがとう!
また明日庭行くね☆』
案の定、通知の相手は菜乃葉で悠人は胸が高鳴る。また菜乃葉とは初めてのネットでのやり取りに新鮮味を感じてもいた。顔を合わせるのが一番ではあるが、こうして離れた場所でも意中の相手と連絡が取れるのは嬉しいものがあった。
悠人は菜乃葉のメッセージを確認し終えると直ぐに返事を返す。誰かに返事を返すのがこんなにも気分を上げるものだとは思いもしていなかった。その後すぐ返ってきた菜乃葉からの返信に自然と笑みが溢れる。レインでの菜乃葉は文字からでも菜乃葉らしいと思える文体で、そんな事に気付けたことがまた嬉しかった。
第九話『空白後の光』終
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