第八話『前触れもなく』

 


 菜乃葉に告白をしてから約二ヶ月が経った。八月、九月も気が付けば過ぎ去り暑かった気候は段々と涼しくなり始め、季節は秋に切り替わっていた。

 放課後になると悠人はいつものように庭へ足を運ぶ。月日が変わっても悠人の行動は変わりなく、それは菜乃葉も同じだ。庭へ出向くと必ず菜乃葉の姿が在り、飽きる事なく楽しげな顔をして庭で時間を過ごす。そんな菜乃葉と同じ空間で過ごす時間が悠人は毎回楽しみだった。

 二ヶ月前に失恋した菜乃葉だが、今ではもう吹っ切れたようだった。あれ以来、菜乃葉の表情が曇る事はなく気を張ったような様子も見えなかった。悠人の告白が少しでも彼女の傷を薄められたのならそれ以上の事はない。

 庭へ到着するとまだ菜乃葉の姿はなかった。今週は掃除当番だと言っていたのでそのせいだろう。悠人は花壇の隅に置かれたじょうろを手に取るといつもの段取りで植物に水をあげていった。

 水やりを終えてから数分が経過すると、スキップをしながら城の方へ駆けてくる菜乃葉が現れる。菜乃葉は笑顔を絶やさず門を開けると「庭っ庭〜♡」と言いながら鞄を芝生に置き、両手を広げて元気よく踊り出す。悠人はそんな菜乃葉を横目で見つめながら声を発した。

「水やりしたから」

 そう言うとその声で我に返った菜乃葉は、悠人の方を振り向き「なんでー?あたしするのに」と不思議そうな顔をして言葉を返す。菜乃葉は悠人が菜乃葉ほどマメに植物に水やりをする訳ではないことをこの数ヶ月で理解していた。そのため本人としては水やりは菜乃葉がする事になっているらしい。だが悠人は菜乃葉と過ごすようになってから水やりを面倒だとは思っていない。その為出来る時は悠人も水やりをするつもりである。

「暇だったから」

 菜乃葉の問いにそう返すと菜乃葉は目を細め、優しく悠人を見てきた。最近菜乃葉が向けてくる悠人への視線は以前より柔らかくなっているような気がする。それが恋だと自惚れているわけではないが、菜乃葉との関係は告白をする前とした後で明らかに変わり始めていた。

「あたしの事待っててくれたの?」

 数秒、悠人を見つめていた菜乃葉は急に口元を和らげ、ふふっと笑いながら悠人に話を振ってくる。

「それ自意識過剰」

「…カワイクない子」

 悠人は大きくため息を吐いてそう告げると、菜乃葉は不満げな顔をして小さく愚痴をこぼす。こんなやり取りももはや日常茶飯事になりつつあった。


 二ヶ月前、菜乃葉に告白はしたものの返事は求めていなかった。それを知っている菜乃葉も悠人に返事をしてくる事はなく、今は悠人が菜乃葉にただ片想いをしているという認識が二人の間で共有されている。悠人自身も、菜乃葉への告白はあくまで彼女の心の傷を癒やすためだけにした事だったので、今すぐ菜乃葉とどうにかなる事を望んではいなかった。ただ前と違うのは、時間をかけてでも菜乃葉を振り向かせたいという気持ちが間違いなく強い気持ちで生まれたという事だ。

 告白をした事で一番危惧していたのは、菜乃葉が気まずさや悠人からの好意に嫌気が差してしまった場合に庭へ来なくなる事だったが、数日が経っても菜乃葉が来なくなる事も態度がおかしくなることもなく杞憂に終わったのは幸いだった。

 最近では菜乃葉の悠人へ対する態度も分かりやすい程に親しげである。これは悠人もよく分かっているのだが、菜乃葉はどうやら悠人を弟のように感じているようだ。恋愛対象どころか斜め上の弟というポジションに思うところはあるのだが、煙たがられるよりは何倍もマシであると悠人は思うようにしている。弟のようだという感情は徐々に薄めていければそれで良いだろう。それに菜乃葉が悠人に親しい態度を取る事には変わりがないのでそれはそれで嬉しい気持ちがあった。

「あ」

 花壇の前にしゃがみ込み暫く植物にじっと目を凝らしていた菜乃葉は突然声をあげる。悠人はそんな菜乃葉の後ろ姿を見ながら「何?」と問い掛けると菜乃葉は興奮した様子で「つぼみが咲いてる!」と声を張り上げた。ほらっと勢いをつけて菜乃葉が指を差す先にはダイアンサスの花がいくつか植えられた花壇がある。その中にある一本のダイアンサスは成長速度が遅く、菜乃葉が以前から気にかけていた一本であった。

「もう絶対咲かないと思ったのに!」

 心底嬉しそうに喜ぶので、悠人も菜乃葉の隣に足を運び屈んだ姿勢で花壇を覗き込んだ。菜乃葉の言う通り、本当につぼみが咲いており、この調子なら開花するのも問題ないだろう。悠人はつぼみを見ながら「ほんとだ」と声に出すと菜乃葉がすかさず「ねっ!」と悠人の顔を見上げてくる。

 その顔が、あまりにも純粋な瞳で可愛らしく、言葉にし難い思いが悠人の心中になだれ込んでくる。

 悠人は菜乃葉から顔ごと視線を逸らした。空気感から菜乃葉が不思議そうにこちらを見ているのが伝わる。悠人は小さく声を出す。

「…なんだよアンタずるいよ」

「え、何!?」

 悠人の非難するような言い方に菜乃葉は少し焦ったのか直ぐに立ち上がったような衣服の擦れる音がした。「何かした?」と聞いてくる菜乃葉の顔は見れぬまま、悠人は首筋に手を当てがうと思った事をそのまま口に出した。

「そんな顔で見ないでよ、照れるから」

 悠人は自分の頬が染まった事に照れながら、しかし菜乃葉に誤魔化す事はしなかった。これは菜乃葉への気持ちを隠さず彼女に少しでも好意を伝えたかったからである。流石の菜乃葉もその言葉が照れ臭かったのか悠人の台詞を聞くと彼女は口を閉ざした。軽く目線だけを彼女に向けると菜乃葉の頬も少し赤みが差しており、可愛らしい反応を見せている。菜乃葉がこういった事に慣れていないだけなのは分かっているので自分に気があると思って期待はしていない。

「オレ、帰るから」

「え?」

 悠人は耐え切れず声を出す。菜乃葉に好意を素直に伝えるのはやはり慣れるものではなく、気恥ずかしさが強かった。伝えた事を後悔する事は断じてないが、慣れないものは慣れない。悠人は芝生に置いた鞄を身に付けるとそのまま菜乃葉に背を向ける。菜乃葉も一瞬驚いたもののすぐに「わかった」と柔らかく返事をするとそのまま悠人の背中を見送ってくれていた。







「悠人! ゲーセン行こうぜ!」

 放課後の騒ついた教室で洋一はいつものように悠人へ誘いをかける。だが悠人は悩む間も無く断った。洋一はいつもの調子で「じゃあまた明日なー!」と元気に言うとそのままクラスの生徒と談笑を始める。悠人は席を立つと鞄を身に付け教室を出る。そしてそのまま庭へ向かった。


 最近になって悠人は庭に訪れる頻度に拘る事も止めようと思っていた。

 その理由としては単純に菜乃葉の顔を少しでも見たいからである。今までであれば昨日庭へ顔を出したのだから次に来るのは明後日の放課後なのだが、悠人は今日も庭に足を踏み入れたいという気持ちが大きかった。三日に一度の頻度という独自のルールはこの時から悠人の中で薄れ始めていた。


「あれっ悠人くん!?」

 庭へ到着してから数分後、昨日と同様に悠人の後から庭へ訪れた菜乃葉は悠人の姿を見て驚きの声をあげる。菜乃葉がなぜ驚いているのかは分からず悠人は「?そうだけど何?」と口を開くと菜乃葉はそのままの表情で声を漏らした。

「あ、何でもない……」

「ふーん」

 菜乃葉は未だに不思議そうな顔をしているが、そんな菜乃葉を目にして悠人は菜乃葉が長袖を着用している事に気がつく。

「衣替えしたんだ」

 そう言うと予想外の言葉を耳にしたのか「え?」と再び不思議そうに声を返すと自身の制服を見やりながら再度口を開いた。

「ああ……うん、今日から替えたんだ。そろそろ涼しいし…」

 菜乃葉はいつも半袖のワイシャツの上にベストを身に付けた制服姿だったのが、中のワイシャツが半袖から長袖に変わっていた。彼女の長袖姿を見るのはこれが初めてで些細な事なのだが、新鮮に感じる悠人がいた。

「それに冬でも庭を楽しみたいし♪」

 菜乃葉は急に笑顔になると人差し指を立てながら楽しげにそう付け足す。「防寒しとかなきゃ!」と更に言葉を並べるのを見ると寒くなっても庭には来るつもりのようだ。きっとこれまでも四季などは関係なく、植物観察を続けてきたのだろう。

「……ほんとガチ勢だよね」

 悠人はそんな菜乃葉に半端呆れながらもそう返した後、すぐに言葉を続ける。

「……でもなんか…新鮮だね、それ」

 言う事自体に抵抗はないもののやはり言い慣れず、照れ臭くなった悠人は菜乃葉から視線を外し声の大きさもいつもより小さくなっていた。しかし、目の前にいる菜乃葉には十分聞こえる距離であり、それを耳にした菜乃葉は驚いた様子で「えっ!!?」と悠人の倍のボリュームで声を上げる。

 何とも言えない空気が二人の間に流れ、体感的には数秒の時間が酷く長く感じられた。菜乃葉は何も言わないもののじっと悠人の方を見ているようでその視線は今の悠人にとってあまりにもくすぐったく感じる。痺れを切らした悠人は首筋に手を当てたまま視線だけを菜乃葉に向けて「何?」と声を発すると菜乃葉は突然壊れたおもちゃのように笑いながら声を出した。

「いや、悠人くんと会った時はずっと半袖だったからねぇ〜」

 あははと笑いながらそう返す菜乃葉だが、何やらいつもと様子が違う。慣れない悠人の褒め言葉に照れているのだろうが、混乱したように笑い続ける菜乃葉は何だか可笑しく、でもそんな所にも悠人の気持ちは可愛い以外に思考が向かなかった。







 休日の日も悠人は庭へ行く準備をする。悠人が支度をしていると悠人の名を呼ぶ声が聞こえる。祖母だ。

「ねえ悠人、あんた今日は朝ご飯どうすんの」

 寝起きの祖母は眠そうな顔をしながら悠人の側へ近付くとそんな事を口に出してきた。

「ばーちゃんが何か作ろうか?」

 祖母は欠伸をしながらも悠人に尋ねる。悠人は祖母に目線を向けるとそのまま口を開いた。

「食べたからいい。ばーちゃんの分冷蔵庫に入れてる」

 そう言うと祖母は眠そうだった目を見開いて嬉しそうに笑みを見せた。そして両手を自身の前で合わせて悠人へ感謝の言葉を述べる。

「あらそう!? ありがとう悠人〜」

「じゃあ行くから」

「はいはーい! 行ってらっしゃい〜」

 その言葉を最後に玄関の扉を閉める。

悠人は祖母と二人で暮らし始めた時から自炊をしており、大抵の食生活は悠人が手綱を握っていた。料理自体はするものの偏った食事を好む祖母の食事管理も兼ねているのだが、最近は休日に悠人が外出をする為食事について聞いてくることが増えていたのである。自身が出掛ける際、悠人は余った時間で作り置きをするようにしており、祖母の食事を疎かにするつもりはなかった。無論、悠人もついでに食事を済ませている。

 そのままの足で庭へ向かうと菜乃葉は門の内側付近で何故か立ち尽くしていた。彼女の背中しか見えない悠人は不思議に思いつつもそのまま門を開き「おはよ」と菜乃葉に声を掛ける。

 すると瞬間悠人の方へ勢いよく振り向いた菜乃葉は珍しく目をキラキラと輝かせて更に不思議な言葉を口に出した。

「さすが悠人くん!ナイス!!おはよ!!!!」

 分かりやすく喜びで満ち溢れる菜乃葉の周りにはキラキラと光の結晶が見えそうな程であり、彼女が喜んでいるのがよく伝わる。

「何急に」

 そんな菜乃葉が可愛らしいとは思いつつも大袈裟な出迎えに違和感を覚える悠人は思った事をそのまま口に出す。すると菜乃葉の表情は一変し、眉根を吊り上げ声を出してくる。

「ちょっと!! そこは喜ぶとこでしょ! あたしの事好きって言ってたのに…!」

 しかしその台詞と同時に菜乃葉の顔は真っ赤に染まり、謎の言動を繰り出す菜乃葉を前に悠人は冷静な言葉を返した。

「? いや好きだけどアンタの言動が謎すぎてそういう気分にならない」

 確かに菜乃葉が悠人の姿を見て喜ぶ姿をうれしくは思ったが、今菜乃葉に放った言葉が全てだった。そして菜乃葉の言葉に対し「てか、自意識過剰」と言葉を付け足す。しかし菜乃葉は悠人の言葉に憤りを見せる事はなく、逆に元々赤らめていた顔を更に真っ赤に染めて口をつぐんだ。そんな菜乃葉を呆れた様子で見ながら悠人は言葉を出す。

「何照れてんの」

 恐らく彼女の赤面の要因は、菜乃葉を悠人が好きだと言う言葉を肯定したからなのだろうが、自分で言っておいて自分で照れる菜乃葉の姿は何とも面白おかしい光景であった。悠人もはばかりなく「自分から言ったクセに」と言ってみるが菜乃葉はただただ顔を赤らめるだけだった。しかしそんな謎の菜乃葉の事もいつもの様に愛らしく感じられる。

「そうそう! 実はお弁当作ってきたのよ! 無意識に二人分」

 菜乃葉は急に話の内容を変えると肩にかけていたトートバッグを手で持ち直して悠人の前にサッと差し出して見せる。

「良かったらお昼ここで食べない?」

 予想もしていなかった提案に悠人は素直に喜びを表した。

「いいの? ありがと。食べる」

 他でもない菜乃葉が悠人の為に用意してくれたのが嬉しかった悠人は素直にお礼の言葉を告げる。もしかすると菜乃葉が悠人の姿を見て妙に喜んでいたのは、弁当を二人分持ってきていたからかもしれない。もし悠人が来なければ二人分の弁当は余ることになってしまうだろう。それなら納得である。悠人は温かい気持ちになるのを感じながら菜乃葉の方を見る。

「菜乃葉って料理するんだ」

 深い意味は特になく声に出すと菜乃葉は居心地が悪そうに「あ、いや……」と口籠ると先程まであった勢いが徐々になくなっていく。

「お母さんの作ったおかずをつめただけ。料理は全然できないよ」

 どうやら作ったと言った手前訂正するのが恥ずかしかったのだろう。普段の菜乃葉は大人ぶりたがるのだから無理もない。しかし嘘をつかないところも何とも菜乃葉らしい。菜乃葉は焦った様子で悠人に説明してくるが悠人は手作りだろうがそうじゃなかろうがどちらでも良かった。悠人の分も持ってきてくれた行為自体が嬉しいのだ。

「そうなんだ。でもオレの分も持ってきてくれてありがと。嬉しい」

 悠人は自然と口角が上がり、笑みを見せるとその言葉を聞いた菜乃葉はポカンと口を開けて「えっあ、うん……」と言葉を返した。不思議そうな顔で悠人を見ている。

 昼まで時間があるのでそのまま菜乃葉と庭で過ごす事になった。いつものように時間は流れるが、時折庭へ運び込まれる風がすっかり秋の空気を纏っており心地よい。それは菜乃葉も感じているようで目を閉じながら風の空気を気持ち良さそうに吸い込む姿が悠人の目に映る。そんな菜乃葉の姿を見つめながら悠人は幸せを感じていた。幸せだと感じられるのは本当に、久しぶりの事だった――。


「弁当ご馳走様。オレ帰るね」

 昼になり、菜乃葉と二人で食べる弁当はとても美味しく感じられた。食事を終えたので悠人は帰宅しようと菜乃葉に別れを告げる。

「うん!またね」

 菜乃葉も口元をゆるめながら笑顔で手を振り見送りをする。そんな菜乃葉の顔をもう一度見ようと顔を向けると菜乃葉の顔に何かがついているのに気が付いた。

「あれ?」

「ん?」

 悠人の言葉に菜乃葉も疑問の声を出す。

「おねーさん顔に何かついてるよ」

 そう言うと菜乃葉は「えっうそ!」と言って慌てた様子で身体をこわばらせた。悠人はそのまま菜乃葉に近寄ると菜乃葉の左頬についた何かを右手で取る。瞬間顔を真っ赤に染める菜乃葉が視界の中に映る。手に取った何かは予想した通りただの花びらで、先程風が吹いた際に付いてしまったのだろう。

「やっぱ花びらだ」

 悠人は自身の右手の先にある花びらを見ながら言葉を口に出す。「虫じゃなくて良かったね」と虫嫌いの菜乃葉にフォローの言葉を付け加えると菜乃葉は焦った様子で悠人からゆっくりと距離を取り始める。

「よ、よく気付いたね! アリガト!」

 菜乃葉の様子が可笑しいのはどう考えても先程悠人が近付いたのが原因のようだが、本当に免疫がない菜乃葉は少しの事でもすぐに顔を赤らめてしまう。

「うんまあいつも見てるし」

 悠人はしれっと隠さずそう告げる。くすぐったい空気感が漂い始めるが、菜乃葉の顔がいつまでも赤みを帯びているのが何だか面白くて悠人は耐えきれずにぷはっと笑いを零した。

「ぷっ、おねーさんほんと免疫ないんだね」

 そう言うと菜乃葉は口は開かないものの顔の変化は分かりやすく真っ赤な顔で驚いた様子を見せるので「顔真っ赤じゃん」と指摘すると更に彼女の赤みは増していく。

「可愛い」

 笑いを抑える事はせず素直に思った事を告げると菜乃葉は先程よりも物凄い顔をして驚く。そして菜乃葉はいつものように眉根を吊り上げて悠人へ抗議の声を上げた。

「か、からかわないでよ!!」

 吊り上がった眉根は、真っ赤に染まった顔のせいで全く威勢はなく、ただただ可愛らしい女の子という印象しか悠人には感じられなかった。

「からかってないよ」

 その一言で菜乃葉の表情は再度驚きを見せる。

「好きだって言ったでしょ」

 悠人はいつもより真剣に菜乃葉を見据えてそう告げると菜乃葉の赤面の濃さは今日一番の赤さを記録更新した。脈がないとはいえ、このように悠人の言葉で顔を赤らめる菜乃葉を見るのは悠人も嬉しく、気分は自然と高揚していた。

「っ…き、気持ちは嬉しいけど! あたしにとって悠人くんは弟だから!!! 」

 菜乃葉は悠人から目を離して両手を前に出しながらそう言うとまだ照れているのか目線を泳がし落ち着かない様子である。悠人は菜乃葉ににこっと笑みを向けて「知ってるから平気」と何も問題がない事を伝えた。

 弟のようだと直接言われたのは今回が初めてだが、そんな雰囲気は感じ取っており今の悠人にそれは不都合な立ち位置でもなかった。

「アンタが庭に来てくれるなら何でもいい」

 これは紛れもなく悠人の本心だ。菜乃葉がこの庭で楽しく過ごしてくれるなら何でも構わない。悠人は菜乃葉と庭で過ごせる事自体が自身にとって喜ばしいと思うからだ。

「じゃあね、菜乃葉さん」

 菜乃葉に背中を見せ今度こそ別れを告げて門を開く。薄く笑ってそう口にする悠人とは対照的に菜乃葉は何とも言えない表情をしたまま静かに悠人を見送っていた。







「幸せ…」

 目を閉じながら空を仰ぎ幸せそうなため息を吐く菜乃葉は花壇の隅で腰をおろしてそう呟く。菜乃葉と向き合う形で花壇の隅に腰掛ける悠人はそんな菜乃葉を見つめながら心地の良い空気感に浸っていた。目を閉じて菜乃葉と共に過ごす時間を堪能すると、悠人は立ち上がり「そろそろ帰るから」と菜乃葉に声を掛けた。「ん?」と言いながら悠人を見上げる菜乃葉はその後すぐに笑顔になり悠人に手を振る。

「うん、またね」

 親しげにそう告げる菜乃葉をじっと見つめながら悠人は照れ臭いながらもとある質問を口に出した。

「ねえ明日も来る?」

「え!? 勿論くるけど?」

 菜乃葉はそれが当然だというかのように悠人を見上げて即答する。表情を崩さず「明日は土曜だし」と言葉を続けてくる。迷う暇もなくそう告げる菜乃葉は何だか頼もしさがあった。

「ふーん」

 悠人はその言葉にそう返してみると菜乃葉は何かに気付いたのか「ん?」と再び声を発した。

「もしかして悠人くんも来るの!?」

「まあ……アンタが来るなら行こうかなって」

 悠人は薄らと頬に赤みが出るのを感じながら菜乃葉に言葉を返す。照れ臭さから目線は合わせられず左手は無意識に自身の首筋を触っている。

「えっ」

 悠人の言葉で急に顔を赤らめた菜乃葉は暫く悠人の方を真っ赤な顔で凝視していた。悠人は目線に耐えきれずそのまま「じゃあまた明日」と言葉を残すとそのまま早足で城を後にする。


 自宅に戻ってからも悠人は気持ちが昂っていた。最近は菜乃葉に会う度に気持ちが高揚している気がする。片想いである事実は変わらないが、菜乃葉と毎日顔を合わせ、共に庭で過ごせるだけで悠人はとてつもない満足感で満たされていた。明日以降もそれは続くのだと確信のようなものが生まれていた悠人は明日の事を考えながら宿題や料理に勤しんだ。







 結局土日はどちらも庭へ訪れた。菜乃葉は二日とも早朝から来ており、いつものように他愛もないやり取りを交わして庭での時間を過ごす。それはきっと明日も続く事なのだと悠人は信じ切っており、翌日の放課後に菜乃葉が庭に姿を見せない理由は全く分からなかった。












―――――――菜乃葉は庭へ来なくなった。






第八話『前触れもなく』終



                 next→第九話

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