第七話『二人の変化』
三十分ほどが経ち、二階へ上がると見渡す限り人混みで溢れていた。廊下を歩く度に大田高の制服を着た生徒や文化祭仕様のクラスTシャツを身に付けた生徒が悠人達を勧誘してくる。洋一は「おーすげーな!!」と楽しげな声を出しながら気になった教室を覗いている。悠人と山咲も洋一の行く方向へ大人しくついていった。
「次こっち見ようぜー! 縁日だってよ!」
洋一の好奇心は収まる事を知らず関心を示したところへ次々と足を運んでいく。洋一が射的を見つけ、じっと見つめている様子だったので「やれば?」と提案すると洋一は「お前もやれよ!」ともっともな事を言ってきた。洋一と二人で射的をする事になり、大田高生の説明を受けてゲームを始める。洋一は山咲にも声を掛けていたが山咲は首を振って断っていた。
射的を楽しみ、景品を貰うとそのまま教室を出る。すると洋一が立ち止まり「次はどこにすっかなー」とパンフレットを見ているので悠人も横目で見ていると「菜乃ーこっちこっち」という聞き慣れた名前が耳に入ってきた。そう思ったのも束の間、すぐに悠人の背後を聞き覚えのある声が通りすぎる。
「はいはーい」
この声は間違いなく菜乃葉だった。悠人は振り返りそうになる衝動を抑え、菜乃葉が気付かない事を祈ったがそれは叶わなかった。
「悠人くん?」
見覚えのある背中だったのだろう。どんなに視野が狭くとも近距離で知り合いの横を通り過ぎれば気付くのも当然だ。悠人は振り返るのを躊躇っていると洋一がすかさず菜乃葉へ声を上げてきた。
「あれっ!? あの時の先輩じゃないっすか!」
「うそーなんでいるの!?」
お久っすと言いながら嬉しそうに菜乃葉の方へ話し掛ける洋一と心底驚いた様子で質問する菜乃葉。見つかった後の事は悠人の予想通りだった。
「なんだっていいじゃん」
悠人はバツが悪そうにそう答えると菜乃葉は呆れた様子で「なにその態度!!」と小言を言ってくる。側にいる洋一は菜乃葉がこの高校である事を知ってたのか悠人に聞いてくるが悠人は別にと答えて適当に誤魔化した。見つかってしまったからには仕方がない。悠人は見つかった事にこそ落胆していたものの、久しぶりに菜乃葉に会えた事自体は内心嬉しかった。
「先輩のクラスは何やってんすか?」
洋一はまるで遊園地に来た子どものように楽しげな顔をして菜乃葉に尋ねる。洋一は以前キャンプ合宿で菜乃葉と一度話した程度であるのにもう打ち解けていた。洋一の性格自体が、人見知りとは程遠い人物像のためそれも納得ではあった。
「あたしのクラスはお化け屋敷。入ってみる?」
すぐそこにあるしと言って菜乃葉が指差した教室は本当に数歩歩いた所であった。外観は分かりやすく『お化け屋敷』と書かれた大きな看板が装飾に加えられており、クオリティの高い外装となっていた。
「うおっ! 入ろーぜ悠人!」
お化け屋敷に興奮した洋一は意気揚々と悠人を誘ってくるが悠人は「めんどくさいからパス」と拒否した。洋一は不満げに「はー?」と文句を垂れるが、食い下がる事はせずその場にいた山咲の方を見て声をかける。
「じゃー山咲、行くぞ」
「えっ私は…」
山咲は突然の事に動揺した様子だったが悠人の方を無言で見てきたので悠人も言葉を出した。
「行けば?」
そう言うと山咲は困惑した顔のまま洋一と一緒にお化け屋敷の中へ消えて行く。二人の姿が見えている内に視線を他所へ向けるとやれやれとした顔で菜乃葉が口を出してきた。
「悠人くん女の子にはもっと優しくしないと……」
別に冷たくしているつもりもないが、優しくしてやる義理もない。悠人の異性に対する態度は常にこのようなものだ。菜乃葉はブツブツと「あんたって子は……」と小言を言ってくるが、それを真摯に受け止めるほど悠人は真面目な人間でもなかった。
「どっか行くの?」
悠人は菜乃葉の小言を無視して菜乃葉の手に持つゴミ箱を見ながら問い掛ける。先程菜乃葉を呼ぶ友人らしき声もあったことから元々何処かへ向かおうとしていたのだろう。すると菜乃葉は「ゴミ捨て。衛生委員なの」と言うとそのまま悠人に「じゃね」と別れを告げてくる。
しかし菜乃葉の顔こそは普通だが、ゴミ箱を持つ彼女の手は若干震えており、明らかに重いのを隠している様子だった。大人振りたがる菜乃葉の事だ、強がっているのだろう。悠人はそれに関しては指摘せず、ただ菜乃葉の持つゴミ箱を反対側から無言で掴む。それに驚いたのか菜乃葉は目を見開いた。
「え?」
「オレが持つよ」
不思議そうな顔で驚かれた為、補足でそう告げる。だが菜乃葉はゴミ箱から手を離さず悠人に向かって否定の声を上げた。
「何言ってんの? 別に重くないし持てるわよ」
そう言いながらも菜乃葉の手は震えており、この会話すらも早く終わらせたそうである。
「悠人くんは客なんだから気にしないでよ、中学生は楽しんでて」
早く離せばいいのに菜乃葉は普通を取り繕い悠人を嗜めてくる。しかしそんな強がりを聞いて離す気は更々起きなかった。暫く互いが持つ状況が続くと菜乃葉は「ちょっと」と怒りのような焦りのような困ったような声を出す。
「離してよ」
このままでは離してくれなさそうなので悠人は仕方なく説得する事にした。菜乃葉は思っていた以上に頑固である。
「確かにオレは年下でガキだよ。でも」
そう言って伏せていた目線を菜乃葉に向ける。
「力ならアンタよりある」
そう告げると悠人は自然に口元を緩め始める。
「これで文句ない?」
そして悠人は歯を見せてニッと笑ってみせた。普段表情を崩さない悠人だが、菜乃葉の前ではそれが嫌ではなかった。これも惚れた弱みというものなのだろう。菜乃葉は悠人の言葉で一瞬不服そうな顔を見せるも頬は薄らと赤く染まっていた。強がっていた事がバレて恥ずかしいのだろう。
「……バレバレなのね…」
「そーゆー事」
それが決め手であった。菜乃葉は観念したように手を離すと悠人に「じゃあお願い」とゴミ箱を託した。菜乃葉はそのままゴミ置き場の案内をするため悠人について来るよう誘導する。悠人もそのまま大人しく着いて行った。しかし何故こんなにゴミ箱が重いのか少し疑問ではあった。腕力にはそれなりに自信のある悠人には難なく持てる重さではあるが、これは力のない人間には少しきつそうである。菜乃葉もその内の一人なのであろうが、その理由はゴミ置き場に向かってる間で菜乃葉が教えてくれた。
「紙が上に溜まってるから見えないけど、下にたくさん文鎮があるのよ」
「ふーん」
何でもお化け屋敷の内装に文鎮を使おうと全校生徒から不要な文鎮を集めていたらしい。だが、暗闇の中文鎮を設置するのは危険だという理由から文鎮は一切使用されず、処分する事になったという話であった。その一部がこのゴミ箱に入っているというわけである。文鎮を集める前にこのような結果になる事を予想しなかったのだろうか。
「でもこれが最後のゴミ箱だからようやく解放されるわ〜」
菜乃葉は心底嬉しそうにそう言うと裏庭の扉を開ける。どうやら何度か往復を繰り返していたようだ。恐らく先程菜乃葉を呼んでいた友人と二人でこの往復を繰り返していたのだろう。
「まあ他のはまだマシな重さだったわよ。これが一番重くて最後に残してたの」
「嫌な事は最後に残すタイプだね」
「だって鬼でしょこの重さ!」
先程はあんなに見栄を張っていたのに開き直る菜乃葉の姿は何とも面白かった。だが、そんなところも悠人には可愛く見えるのだからどうにもできない。
二人は裏庭に入るとゴミ置き場に到着する。菜乃葉が大きなゴミ収納庫の扉を開けると悠人は持ち運んできたゴミ箱を中にそのまま置く。ドスンッと音がしたゴミ箱は筋トレにちょうど良い重さであった。大田高ではゴミ箱はそのまま収納庫に置き、代わりのゴミ箱を別の場所から持ってくる仕組みのようだ。
「ここでいいの?」
「そう、ありがと」
菜乃葉は口角を上げて悠人に礼を告げると「じゃあ戻…」と言いかけたところで第三者の声が邪魔をした。
「好きだよ」
この男の台詞はどう推測しても告白の言葉であった。声は悠人と菜乃葉のいる裏庭を右折した方角から聞こえる。ここから右折した先は校舎が視界に入り、姿は見えず声だけが聞こえる状況だ。菜乃葉を見ると驚いたような顔で「え?」と素っ頓狂な声を出して静止している。するとその告白の返事といえる女の声が新たに聞こえてきた。
「私も」
告白に対する返事まで聞こえてきたせいか菜乃葉は少し興味がありそうな顔をしている。悠人は菜乃葉の近くへ寄り、冷めた目で彼女を見据えた。
「何? またのぞきする気?」
悠人は肝試しで菜乃葉が洋一と共に告白を見ていた事を思い出す。他人の告白現場を盗み見るのは不可抗力とはいえ趣味の良いものではないだろう。念の為声を潜めてそう告げると菜乃葉は心外だとでもいうかのようにムキになり小声ではあるが語気を強めた口調で言い返してくる。
「あれはわざとじゃないってば!」
それから菜乃葉は「戻…」と言いかけたところで再び告白の返事をした女の声が耳に入ってきた。その名前は聞いたことのある名だった。
「私も岸くんが好き」
悠人は名前を聞いてすぐに菜乃葉を見る。菜乃葉は魂でも抜かれたような顔をして、すぐに声のする方へ顔を覗かせた。もはやこの状況はモラルどころの話では無くなっていた。すると菜乃葉は両手で口を覆い、その場で立ち尽くす。様子が可笑しい菜乃葉が気になった悠人は菜乃葉と同じく顔を覗かせ彼女が何を見たのか確かめようとする。
「どうし…」
「!」
菜乃葉が立ち尽くした理由は一目瞭然だった。そこには、菜乃葉が思い焦がれている岸と見知らぬ女が口付けを交わしていたからだ。
菜乃葉は立ち尽くしていたものの、何を思ったのか突然何も言わずに反対側へ走り出していく。
「菜乃葉?」
悠人の声で立ち止まるはずもなく菜乃葉は裏庭を駆けていく。すれ違い様に菜乃葉の瞳に涙が浮かんでいたのを悠人は視認していた。そのまま菜乃葉の背中を追いかけ、誰もいない裏庭へ辿り着くとそこで立ち止まる菜乃葉の姿があった。菜乃葉の顔は見えず、彼女の背中だけが悠人の視界に映し出されている。だが、如何に彼女が絶望の淵にいるのか背中を見るだけで嫌でも伝わってくる。悠人は声はかけずただただ彼女の姿を見守っていると菜乃葉はゆっくりと口を開いた。
「来なくて……いいのに」
だが、悠人は何も言葉を口にしない。かけてやれる言葉が無いのだ。気休めなんて絶対に口に出したくなどなかった。好きな相手だからこそだ。
「あたしの初恋……終わっちゃった…」
菜乃葉は自分を蔑むかのようにフッと笑いながら言葉を溢すが、その声は震えている。
「ほんと馬鹿だよねあたし……どうして岸くんに好きな人がいるって考えなかったんだろ?」
気休めの言葉は言えない。だが、今の悠人にも言える事があった。悠人は閉ざしていた口をようやく開く。
「まーたしかに馬鹿だよな」
菜乃葉の方へ歩み寄り、彼女の真隣まで来るとその場で声を発する。そう言うと菜乃葉はキッとこちらを睨みつけてくるが、その涙ぐんだ目は悠人にとって強がった姿であり、彼女の今の姿は痛ましく思える。
「でもオレはそんな馬鹿の方が好きだけどね」
気休めでも慰めの言葉でも無い。ただ、普段は気恥ずかしくて中々言えない悠人の本音だ――。
「おねーさん」
目線だけを菜乃葉へ向けていた悠人は身体ごと彼女の方を向き始める。そのまま彼女の瞳だけを見つめて悠人は言い放つ。
「初恋なんて、叶わないものなんだよ」
残酷な言葉だろう。だが、悠人には口に出す意味があった。菜乃葉の表情はその言葉で再び弱々しくなる。そしてその間、グスッと鼻を啜る音だけが裏庭の中に響き渡っていた。悠人はそんな菜乃葉からは目線を離し、菜乃葉に向けてとある宣言をした。
「オレは叶えるけどね」
「えっ?」
「じゃ、オレ帰るから」
そう言うと悠人は振り向く事なく裏庭を去った。正直、昨日まで、いやつい数分前までは菜乃葉を振り向かせるつもりは毛頭なかった――。菜乃葉の恋人になる事までは望んでいなかった。だが、先程の彼女の見たことも無い表情を目の当たりにした悠人は思い知ったのだ。彼女を泣かせたくないと――。
それを叶えられるのは自分しかいないのだと――――。
菜乃葉が間接的に失恋した事は、悠人にとって喜ばしいことではなかった。確かに、菜乃葉と僅かでも進展できる事を期待しなかった訳ではないが菜乃葉の気持ちが常に最優先であり、自分の願望などは二の次だった。そして何より、菜乃葉には幸せに楽しく人生を謳歌してほしかった――。そう、いつもあの庭で見せる天真爛漫な笑顔でどんな奴だろうと幸せになってくれるならそれで良かった。菜乃葉が特定の誰かと付き合う事になっても邪魔する気も略奪する気も更々無い。一生片想いで構わない。菜乃葉が絶対的に幸せであるならそれ以上望む事などない。この気持ちを自覚してから、ずっとそんな覚悟でいたのだ。だからこそ菜乃葉に気持ちを知られたくはなかった。しかし、岸という男が菜乃葉を幸せにする可能性はゼロになった。元々奴に気などなかったのだろう、腹立たしい男である。あの男の善意が菜乃葉を傷付けた。
しかし、今回の事で悠人は理解した。菜乃葉を幸せにするのは自分だと。悠人は菜乃葉に対する態度を改める決意をした。
帰ると口にはしたが、家に帰宅するつもりはまだなかった。そのまま菜乃葉の教室であるお化け屋敷まで戻ると悠人の姿を見つけた洋一が駆け寄り呆れた顔を見せてくる。
「おい悠人お前どこ行ってたんだよ、ったくよー」
洋一に心配をかけた事に多少思うところはあったが、今の悠人はそれどころではなかった。
「おい聞いてる?」
洋一はブツブツと小言を口にするが悠人の目線は菜乃葉にだけ向けられている。菜乃葉は一旦落ち着いたのかあの後すぐに教室へ戻ってくると笑顔を見せ陽気に接客をしていた。しかしその陽気な笑顔も無理をしているのは明らかだった。
その後洋一はそのまま大田高を後にした。突然母親から電話が入り、おつかいを頼まれたからだ。洋一は無念そうに帰っていったが、洋一は明るさだけで人生を乗り越えられるような人間だ。今頃はケロッと愉快に笑っているに違いないだろう。山咲も洋一と共に帰って行った。彼女は悠人に何かを言いたそうにしていたが、悠人が何も口に出さないので諦めたようである。
悠人はまだ大田高に残っていた。裏庭で暇を潰していたのだ。その理由は、まだ菜乃葉を一人に出来ないと思ったからである。少しでも菜乃葉の心の傷を減らす事が出来るなら、時間などは少しも惜しくなかった。
暫くすると菜乃葉が裏庭に顔を出した。約束をしていたわけではないが、彼女ならきっと人の少ないこの裏庭に来ると踏んでいた。悠人は菜乃葉の方へ足を進めると少し離れた距離から声を掛ける。
「吹っ切れたの?」
その声で悠人に気付いた菜乃葉は少し驚いた表情を見せて「悠人くん帰ったんじゃないの?」と不思議そうに尋ねてきた。
「まー色々」
適当に誤魔化すと菜乃葉も特に気に留めていないようで追及はしてこなかった。それから目を伏せると悠人に背中を見せたまま先程の問い掛けに答え始める。
「吹っ切れるも何も諦めるしかないし」
菜乃葉は物憂げな顔で空を見上げるとまるで独り言のようにポツリとつぶやいた。
「あーあ、また新しい恋でも探すよ」
菜乃葉の表情は先程と変わらない。前向きな言葉を発してはいても、心の中はそう簡単に癒えるものでもないだろう。
「まああたしを好きになってくれる人なんて、そうそういないけど」
そう言って悠人の方を振り向き、笑いかけた――。その笑顔は悲しげで、どことなく頼りなくて、直視するには堪えるものがあった――――。
「決めつけるのは早いんじゃない?」
段階を踏むつもりだった。少しずつ、彼女に気を許してもらおうとそういう考えを頭の中で思い描いていた。だがもう今しか彼女を救えないと思った。手遅れになるのは嫌だった。
「オレはアンタの事好きだけど」
「えっ?」
もう一度菜乃葉の目を見て言葉を告げる。自身の計画などどうだって良い。彼女が何をすれば、一番救われるのかを優先したかった。
「な、何言って…」
明らかに動揺の色を見せた菜乃葉の言葉を悠人は遮る。
「これは」
「誰にでも言うような意味じゃないから」
菜乃葉の顔は紅色に染まり、小さな口を開いたまま悠人の顔を見つめている。
「返事はいらない。保留しといて」
悠人は最後にもう一度菜乃葉の目を見ると「じゃあオレ帰るから」と言い残して今度こそ本当に菜乃葉の前から姿を消した。菜乃葉はただ顔を赤面させたまま、呆然と立ち尽くしていた。
きっと驚いているだろう。今まで菜乃葉にわざと気持ちを隠してきたのだ。そんな素振りを見せた覚えはないし、不覚に見せそうになってしまった時も何とか誤魔化してきた。そんな男が自分を好きだとは夢にも思わないだろう。だが、今後はもうあんな態度はとらない。菜乃葉への気持ちをこれからは全面に出していくつもりだ。
悠人は大田高を出て、自宅へ戻る中そんな事を考えていた。不思議な事に告白に緊張感は一切なかった。むしろ自分の告白で頬を赤らめた菜乃葉が可愛らしいと感じ、そんな反応を見せてくれた事が嬉しかった。
早くまた菜乃葉に会いたい。先程会ったばかりなのにそんな事を思った。悠人は少しでも菜乃葉の心が癒えることを願い、次に会える時の事を考え始めた。
翌日は文化祭の二日目なので菜乃葉が来る可能性は低かった。いつもの菜乃葉なら、最終日でも庭来たさに訪れるだろうが今の状況は彼女にとっては気まずいだろう。悠人の告白を受けてきっと頭が混乱しているはずだ。念の為夜頃、庭へ足を向けたが菜乃葉が来る気配はなかった。
そしてまた翌日になり、悠人は庭へ出向く。今日はきっと来ると思ったのだ。気まずいとはいえ、長い間庭を我慢していた菜乃葉にとって庭をお預けするのは無理な事だろう。
悠人はいつもの足取りで城へ向かうと案の定、菜乃葉の姿がそこにあった。彼女は門の前で静止したまま動かなかった。きっと悩んでいるのだろう。悠人が近づいている事にも気付かない菜乃葉は困惑したような顔で唸っている。
「入れば?」
その一言に余程驚いたのか菜乃葉は過剰な反応を見せると僅かに顔を赤らめ悠人を見る。
「ゆっ悠人くん!?」
しかし悠人はそのまま表情を変えず言葉を続ける。
「いつものアンタなら入ってんのにらしくないね」
菜乃葉が庭に入るのを躊躇する理由をわかってはいるのだが、少しからかってやりたくなった。菜乃葉は動揺したまま悠人へ言い返してくるがその様子はいつもの姿とは違い、可愛らしさが垣間見える。
「うっうるさいわねっ! 誰のせいだと…」
その言葉で悠人は菜乃葉が自分に対してその反応を示してくれているのだと悟り、確信する事で嬉しさが増す。
「オレにも動揺してくれるんだ?」
悠人は普段あまり見せない笑顔を菜乃葉に向けて言うと菜乃葉は「なっ」と口籠らせながら更に動じた様子を見せ、眉根を吊り上げ悠人に抗議してきた。顔はまだ赤く染まったままだ。
「こっちは真剣に悩んだのよっ!?」
「うん。知ってる」
悠人は口元を緩めたまま菜乃葉の気持ちを肯定する。そのまま菜乃葉の黄緑色の瞳を見つめながら言葉を続けた。
「おねーさんは、そういう人だよね」
菜乃葉は何かに気付いたように吊り上げていた眉根を元に戻すと悠人の言葉を静かに聞く。そして悠人の次の言葉で再び彼女の頬は染まり始めていた。
「オレは菜乃葉のそういう所が好きなんだ」
菜乃葉が悠人の告白を軽々しく受け流す人間だとは思っていなかった。菜乃葉はお節介で変な女だが、そういったところは決して疎かにしない。悠人は菜乃葉のそんな所も心から好きだった。
「別に負い目なんて感じなくていい。一昨日失恋したのにオレを好きになるなんて思ってないし」
菜乃葉に告白をしたからと言って自分を好きになってほしいという希望はあっても、絶対的な思いはなかった。彼女が幸せでなければ意味はないのだ。悠人は真剣に菜乃葉を振り向かせたいと思うが、最終的に菜乃葉がそれを望まないのならそれを受け入れる覚悟もあった。
「ただアンタの事、好きな奴もいるって事だけ知ってて」
悠人が今一番伝えたかったのはこれだ。菜乃葉には好きだと好意を向ける男も存在するのだと、だから自分を変える必要はないのだと、自分に自信を持って良いのだと。
「うん」
菜乃葉はゆっくりと目を閉じて口元を緩めると胸の前に両手を当て、悠人を真っ直ぐ見つめて笑顔を放つ。その笑顔は気を張って出した作り物の笑顔などではなく、悠人が目を奪われた天使のような笑みだった――――。
「ありがと悠人くん、嬉しい」
その笑顔は不意打ちだった。その菜乃葉の笑みに魅了されると悠人は思わず目を逸らす。これは無意識だった。心臓が一気に跳ね上がり、いつも以上に鼓動が速く落ち着かない。
「別にオレは」
左肩に右手を添えてそっぽを向くと悠人は若干上擦った声で声を出す。らしくもない。だが、それほど彼女の笑顔が魅力的だったのだ。
「本当の事言っただけだよ」
そう告げると菜乃葉は目を細めて微笑む。その微笑みが再び悠人の心臓を高鳴らせ、悠人は離脱を決意した。気持ちを全面に出すとは決めたが、こんなに笑顔を振りまかれては悠人の身が持たない。
「じゃ、オレ帰るから」
そう言うと菜乃葉は「え、もう?来たばっかよ?」と驚いた様子を見せる。「てか入ってすらいない」菜乃葉はそう言って門をキィ…と動かしてみせるが悠人はその誘いに乗る事はできなかった。今日はもう勘弁である。
「別に、関係ないじゃん」
あからさまに顔が赤く染められた悠人はその顔を隠す事はできなかった。だが、せめてもの抵抗で菜乃葉に背を向けて言葉を口に出す。それが精一杯であった。しかしその様子に気付いたのか菜乃葉は一拍置くとプッと吹き出し、そのまま彼女はクスクスと笑い出す。菜乃葉が声を出して笑うのは初めてで、悠人は複雑な表情になりながらも、菜乃葉の笑う姿を無視する事はしたくなかった。悠人は顔を赤く染めたまま彼女の方を振り向く。笑い続ける菜乃葉の笑顔はとても可愛らしくほんの少しだけ寂しげで、けれど――何者にも代え難い天使のようだった――――。
第七話『二人の変化』終
next→第八話
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます