第六話『夜の庭』



 夏期講習の最終日が終わり、洋一の家で夕食をご馳走になった。悠人は洋一と別れてから庭へ向かう。時間は夜の九時前だった。洋一とゲームをしていたらいつの間にか時間が過ぎていたのだ。このような時間に庭へ行くのは初めてだったが、水やりを済ませて帰ろうと悠人は足を進めた。

 庭の植物へ水やりを終え、じょうろを庭の奥へ置きに行く。そのまま自宅へ戻ろうと身体を反転させると何やら物音がした。そしてすぐにキィ……という聞き慣れた門の開く音が聞こえる。何かがブツブツと呟いている声も聞こえてきた。悠人は瞬時に頭を働かせると慎重に暗闇の中の人物を偵察しようとする。しかし街灯もないこの庭ではただの黒い影しか見えない。菜乃葉が来ない今、泥棒以外に思い当たる人物はいないのだが、悠人は物音を立てぬよう目を凝らしてみた。相手側からこちらが見える可能性は低いだろう。悠人は視力が良い方だが、暗闇の中の人物は中々見えなかった。

 すると突然その黒い人影は芝生の上に勢いよくダイブすると大声を上げて奇怪な行動を始めた。

「わ〜久しぶりの庭!!! 来たかったぁ〜」

 悠人は拍子抜けした。相変わらずこの距離でこの暗さでは人物の正体は目に見えないが、この声を聞いたら嫌でも気がつく。――この狂った声の主は菜乃葉しかいなかった。「お庭〜」といいながら芝生の上を両手で撫で始める菜乃葉の異様な姿に呆れながら悠人はゆっくりと近付いた。驚かせないためなのだが、さすがに呆れた声を隠す事はできなかった。

「びっくりした…」

「え」

「こんな時間に来るわけないと思ってたから不審者かと思った」

 隠す事はせず呆れ顔をしたまま菜乃葉へ向けて言葉を放つ。呆れついでに「ていうか何してんの?」という言葉も付け加えてやる。悠人の目線は足元にうつ伏せている菜乃葉へ向いている。菜乃葉はあまりに驚いたのか言葉を失った様で絶句したまま悠人を見上げていた。

「まあ不審者みたいなものか」

 何も話さない菜乃葉を見下ろしながらそう言い放つと菜乃葉は途端に顔を真っ赤に染め、勢いよく立ち上がり始めた。菜乃葉は赤面したまま目を伏せて悠人に「ひ、久しぶり」と上擦った声を放つと恥ずかしいのかそのまま暫く静止した。

「アンタも羞恥心はあるんだね」

 菜乃葉の動揺っぷりを見るに、誰もいないと確信してあのような行動をしたのだろう。悠人も呆れるほどの酔狂な行動だが、菜乃葉の植物への依存度を改めてよく理解できた。

 それにしても、こんな時間に一人で来るとは不用心ではないだろうか。悠人も人のことは言えないが、菜乃葉は一応女で女を狙う不審者は少なくない。人気のない城の周辺は街灯も少なく夜になると一気に暗闇に染まる。普通なら気味の悪い通りで近づく者も限りなく少ないのだ。そんな夜道を庭のためだけに通ってきた菜乃葉は余程庭が恋しかったのだろう。よく見ると彼女は制服を身に付けており、学校帰りである事が窺えた。

「な、何でこんな時間までいるの…? いつも早く帰るのに珍しいじゃないの」

 菜乃葉の声色から動揺しているのがよく分かる。菜乃葉の顔は以前の時のように真っ赤に染まっていた。悠人は特に隠す事もないのでさっき来たばかりだと返答をする。そして今日はたまたまこの時間になったのだと念の為補足もしておいた。長時間庭にいるオタクと勘違いされるのも困るからである。

 菜乃葉はまだ羞恥心が抜けないのか、顔を染めたまま悠人の話を聞いている。悠人も気になるところがある為問い掛けてみることにした。

「アンタこそ文化祭終わるまで来ないとか言ってなかったっけ」

 前に言ってた事と話が違うので一応尋ねてはみたが、菜乃葉は悠人の予想通りにある答えを口に出す。

「だって……庭が人生の生き甲斐だし庭に会えない人生なんて辛すぎるし…なんかもう耐えられきれなくて…」

 どうやら数週間庭に来なかったことが自分の想像以上に苦しかったようだ。菜乃葉は悠人とは目を合わせず気まずそうに斜め下を見やりながらブツブツと呟く。そんな菜乃葉の様子を静観していたが、もう一つ気になっていた事を口に出してみた。

「…じゃあ別に我慢せず少しでも来ればよかったじゃん」

 何故耐え難いと分かっていながら文化祭まで庭に来ないと宣言したのかは悠人には分からなかった。すると菜乃葉は先ほどの表情とは一変し、急に険しい顔をして人差し指を自身の顔の前に突き立てると普段より大きな声で口を開いた。

「それはダメなの!! あたし、庭に来るなら絶対一時間以上は居たいの!! それに短時間しかいないなんて庭に失礼じゃない!」

 菜乃葉の言っていることはよく分からない。少しでも来られればよくないだろうか。理解不能であるが、それだけ彼女の植物への気持ちが大きいのだろう。

「だから悠人くんももう少し庭に入ればいいのにっていつも思ってたんだよね! …ってまぁただあたしのモットーなだけだからいいんだけどさ」

(庭バカだな)

 悠人は確信した。菜乃葉ほどの庭バカは中々そういないだろう。それにしても菜乃葉の話を聞いていると夏休みだというのに毎日学校に通っているようだ。菜乃葉はキャンプ合宿の最終日でも庭に来るほどの庭オタクだ。土日が休みなら必ずここへ来る筈である。しかし庭に短時間しか居られないということは土日も関係なく文化祭の準備があるのだろう。菜乃葉の通う大田高は中々厳しい学校のようだ。

「でも今回は我慢の限界すぎて来ちゃった…しかももう帰んなきゃいけないし……文化祭までまだ一週間もあるし…」

 菜乃葉は急にしおらしくなると苦笑いしながら悠人へ背を向ける。

「…まあそんな感じで、帰るね。バイバイ」

 心底未練の残った顔をして菜乃葉は芝生に置かれた鞄を持ち上げる。暗闇でよく見えないが、グスッと鼻水をすする音が聞こえた。泣くほど悲しいのだろうか。悠人は菜乃葉が帰る前に声を発した。

「家どこ?送るよ」

「…えっ!?」

 菜乃葉は驚いた様子で宇宙人でも現れたかのような顔をして悠人をじっと見ている。視線に耐えかねた悠人は「…何?」と率直に尋ねると菜乃葉はあっさりと口を開いた。

「悠人くんもそういう事言えるんだね……」

 遠慮のない言葉だが菜乃葉の言いたい事は分かる。自分もそんな柄ではなかったし普段ならこんな事は言わないのだがさすがにこの時間に彼女一人で帰すのは気が引けた。

「……言えるよ、一応ね」

 そう言うと菜乃葉はまだ呆気に取られた様子で悠人の方から目を逸らさなかった。悠人は中々動きを見せない菜乃葉の横を通り過ぎ門の方へと歩き始める。

「それにここは人通りも少ないから送るのが一番無難だよ」

 この城の周りには立派な家が何軒も建てられているが、殆どは別荘住宅であり、実際に住んでいる人は限られていた。そのため夜にこの辺を歩くのは危険だと近所で噂されている。それにこの城自体も化け物屋敷と呼称されているのだ。住人どころか通り過ぎる人さえも殆どいない。なので不審者が現れる可能性は極めて高く、菜乃葉一人でここを歩かせるのは悠人も危惧するところだった。悠人はほらと声を出し菜乃葉を門の方へ来るよう呼びかける。

「行こ」

「う、うん!」

 菜乃葉は「そうね」と言いながらもまだ少し動揺していたが、悠人に促され二人で門を出た。そして暗闇の道を二人で歩き始める。

 歩きながら悠人は再び疑問点が浮かび上がる。いくら庭が好きとはいえ、夜空が加わり気味の悪さが増したこの城にこんな時間に来る菜乃葉の神経がよく分からなかった。悠人自身はこのさびれた城に恐怖という感情はなく、ただ物悲しい思いを抱いていた。それは過去の事があるからだ。最近は菜乃葉と過ごす時間のおかげかそれも薄くはなっているが、悠人の感情は他の者達と状況が違う為普通ではない。それは悠人もよく分かっている。だが菜乃葉はそうではないだろう。菜乃葉は深夜の城を恐ろしいと思う事がないのだろうか。

 悠人が思考する中、二人は並んで歩を進める。暫く無言で歩く二人だったが、通行人の多い通りに出始めた頃急に菜乃葉の方から口を開き始めた。

「もしかして悠人くんの家って全くの逆方向なんじゃないの……?」

 悠人はその言葉で自分の家とは正反対の道である事に気が付いたが、特に問題はない。菜乃葉の家が遠くても悠人の気にするところではなかった。歩くのには慣れているし遠いからと送らない選択肢はない。悠人は菜乃葉に一瞬だけ目線を向けてから言葉を返す。

「そうだけど平気」

「おばあさん心配してるんじゃない!?」

 菜乃葉は急に慌てた様子で「もう九時半だし」と言葉を続ける。祖母には連絡を入れてあるのでその点も何ら問題はなかった。祖母は何かと行事関連への強制はしてくるが、それ以外は基本的に緩いところがあった。そのため門限も特に決められてはいない。祖母は悠人が何時に帰ろうが夕飯の有無さえ分かればいいようだ。

「ばーちゃんには連絡してるから」

 悠人は本当の事を言うが、菜乃葉はまだ納得がいかないようで難しい顔をしている。「いやでもね……」と言いかけて菜乃葉は急に足を止めた。そして悠人の身体を反転させ、そのまま背中を両手で軽く押してくる。

「やっぱりここまででいいよ。あたしの家、もう少し歩かないといけないし悠人くんも帰って」

「平気だけど?」

「いいから!」

 悠人は菜乃葉の真意が読めず困惑するが、菜乃葉は悠人に本当に帰ってほしいようだった。確かに大通りに出た事で先程よりは明らかに人通りは増えている。菜乃葉を一人で帰しても危険は少なそうではある。しかし危険自体はゼロではない為悠人はその場で悩んでいた。すると菜乃葉は悠人の方を見て口元を緩めると言葉を発した。

「でも送ってくれてありがとね。じゃあまた庭で」

 バイバイという言葉を最後にそのまま背を向け悠人を置いて行ってしまった。

「…――へんなの」

 菜乃葉の小さくなっていく背中を見ながら小さく呟いた。平気だと言っているのに不思議な女だ。しかし無理について行くのも気が引けた為、菜乃葉の背中を見送ってから自宅へ戻ることにした。







 夏期講習が終わり、適当に夏休みの宿題を終わらせた悠人は三日に一度の頻度で庭の様子を見に行き、時には洋一に誘われてゲームセンターや洋一の自宅へ遊びに出掛けた。退屈な時間もあったが、もう少しで菜乃葉に会えるのは悠人にとって嬉しい事だった。七月はあっという間に過ぎ去り、文化祭の日がやってきた。この日は洋一以外に山咲も同行する為、野沢中の校門前で待ち合わせになっている。

「おー! 悠人! おはー!!」

 悠人に気付いた洋一はいつものように元気よく手を振ってくる。洋一の隣には既に山咲も来ており、顔を少し俯かせて「おはよう」と挨拶の言葉を口にした。

「はよ」

 悠人は素っ気なく挨拶を返すと洋一の誘導で大田高に向かい始める。大田高の道を知っているのは洋一だけだからだ。悠人は名前こそ聞いた事はあるものの、どこにある高校なのかは知らなかった。

「山咲は大田高受験すんのかー?」

 道中でも洋一が一番良く喋っていた。洋一はただの好奇心からなのだろう質問を山咲に投げかけ山咲もそれに答える。そんなやり取りに無関心な悠人は通った事のない道を眺めながら足を進めた。

「に、西田くんは……高校どこに行くの?」

 突然山咲に話を振られる。話を全く聞いていなかったが、質問から予測するとどこの高校に行くかを洋一と話していたのだろう。しかし悠人がどこの高校に行こうが山咲には何の関係もない。悠人は山咲の方は見ずに淡々と口を開いた。

「どこでもいいじゃん」

 そう言うと山咲はそれ以上何も言わなかった。悠人は自分がどの高校へ進学するかをまだ考えていない。駅が遠いため電車通学は避けたいというくらいしか頭になかった。この辺には高校が三校ある。恐らくそのどれかに通う事になるだろう。


 大田高に到着すると悠人達は早速校内を回り始める。校内には人で溢れており、活気があった。四方八方から接客のアナウンスが流れ込んでくる。洋一は着いたばかりだというのにすぐに今川焼に目を付けると好物の粒餡を購入して満足気に食べている。山咲もその場でカスタードを購入し頬張っていた。

「悠人も食えよー!」

「今はいい」

 今川焼の気分ではなかった悠人は洋一と山咲が食べ終わるのを待ちながら周囲に目を向けてみる。菜乃葉を見掛けられればいいのだが、そんな運良くはいかないだろう。予想以上に人が多かった事で悠人は菜乃葉の姿を見つける事は殆ど諦めていた。一番最悪な状況は菜乃葉に一方的に見られ、後日菜乃葉から聞かれる事だ。とりあえず洋一の気が済んだら帰ろうと決めた悠人は二人が食べ終わるのをそのまま待った。





第六話『夜の庭』終



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