第1話 : 天才『東 信二』

 朝靄あさもやが立ち込める山の麓。そこに立つ病院は静けさと喧騒に包まれていた。特に最上階にあたる4階の廊下では看護師たちが眠たげな挨拶を交わしながら、右往左往と足を進めている。その足音はまるで眠気を誤魔化すかのように絶えず病院内に響きわたっていた。

 そんな眠気漂う朝の中、1人異質な雰囲気を放つ看護師がいた。長い黒髪をたなびかせ、同僚とすれ違う度に交わされる挨拶は廊下の隅から隅まで響きわたっていた。その正しく張られた胸元には『都加瑠つがる 澪みお』と書かれた名札がぶら下げられている。

 スタスタと勢いよく廊下を突き当たりまで進むと、澪は「病室A1:東あずま 信二しんじ」と書かれたネームプレートのある病室の前で足を止めた。そして、チラリと扉の横にあるプレートを確認すると、次いで勢いよく扉を叩いた。


「朝だぞー! 起きてるかー!」


 廊下中に響き渡る声で澪は病室の中にいる人に声かける。が、病室の中から返答は返ってこない。いつもと変わらない状況に澪は大きなため息をつくと胸にぶら下げた名札をネームプレート下の端末にかざし、扉を開けた。


「おい! 聞こえてるんだろ!」


 開いた扉の先に向かって澪は声を張り上げる。病室の照明は消されており、再奥の窓から差すはずの光は分厚いカーテンに遮られ、窓際の床を薄っすらと照らす程度の光量しかない。そして病室の中央、最も光の届かない場所には丸みをおびた病床があった。

 まるで焼かれ餅のように膨らんでいるその病床は、生き物のように小さく上下運動を繰り返している。毎日見るその光景に澪は呆れを通り越して哀れみを抱いてしまった。


「毎日毎日、同じことを言わせるな。お前もわかってるだろ」


 扉の縁にもたれながら片手を腰に当て、澪は目の前の膨れている布団に言い聞かす。が、当の布団はまるでその声が聞こえていないかのようにただ膨らんではしぼんでを繰り返すだけだった。見かねた澪は大袈裟にため息をつくと、扉近くにあるスイッチを入れる。薄暗い病室が蛍光灯に照らされ、宙に浮くほこりを照らす。

 電気をつけた澪は次いで病室の奥へドタドタと足を進め閉め切られていた窓の前に近づくと、勢いよくカーテンを開け放った。

 瞬間、遮断されていた光が病床の周りに向かって流れ込み、乱反射した光が病室を暖かく照らす。中央にある布団がその白さを主張し、枕元からははみ出した黒い短髪を浮かび上がらせた。


「ほら起きろ! 登校の時間だ!」


 光が差し込む窓を背に澪は両手を腰に当て、諭すように叱声を投げる。しかし、澪のそんな言葉に反し、はみ出ていた黒髪は布団の中へと引っ込んでしまった。澪は大げさに肩を落とすと、やむなしといった様子で丸くなった布団に手をかけた。


「いい加減起きなさいッ!」


 言葉とともに澪は丸まっていた布団を引っぺがし、中にいるモグラを引きずり出す。剥がされた布団の中にはうつ伏せのまま背を丸める少年の姿があった。青みががった病衣に身を包み、膝を折り曲げ丸くなっているその姿は、まるで青色のボールのようだった。はみ出ていたはずの黒髪は青い袖によって隠され、差し込む光を最小限に抑えるように顔を病床に押し付けている。


「お前もこうなることくらいわかってただろ、東信二」


 澪は呆れた口調で目の前の少年『東 信二』に言葉を向ける。すると信二はその言葉から逃げるようにゆっくりと頭を窓とは反対の方に向けた。


「わかっていても、やらなきゃいけないこともあるんだよ」


 顔を窓から背けたまま、信二は澪の言葉に反論する。寝ぼけを孕んだその声は、一般の男性よりも少し高いものだった。

 言葉の後、また微動だにしようとしない信二に澪はただただため息をつくと、そのまま病床の隣にある小さな冷蔵庫へと足を進めた。ポケットに入れていた電子端末を取り出し、電源を入れる。電源を入れたばかりにも関わらず、端末の充電表示には赤い警告が映し出されていた。


「ならせめて対処する方向に努力しろ」


 赤く点灯した端末をそのままに、澪は冷蔵庫を開けながら淡々と言葉を返す。


「だから、それを今しているッ!」


 澪を言葉に子供のような反発声を放ち信二は大袈裟に布団をかぶり直す。目に入り込む光を最小限ために顔半分を枕に埋め、もう半分の顔を布団と袖で覆う。しかし、薄い生地でできた布団と病衣では差し込んだ光を低減する程度の効果しかなく、布を貫いた光が信二の瞼を赤く照らしてしまう。だからといって、光を遮るために顔を枕に埋めると息がしづらくなって寝苦しい。どうしたものかとゴソゴソする信二に澪はチラリと視線を向けた。


「それは対処とは言わない。ただの遅延行為だ」


 言い訳を諭すような澪の言葉に思わず信二の口角が上がる。体に入った光を追い出そうとする行為。それを他者から見ればどう思うだろうか。そう考えたとき、澪の言葉はあまりにも適切で妥当なものだと信二は感じた。


「遅延行為じゃない。ささやかな抵抗だ」


 顔を枕に押し付け、駄々をこねるように信二は言い返す。意味の無い言葉だということは信二自身わかっていた。前後の意味はほとんど同じで言い換えただけ。否定していると見せかけた肯定の言葉。そんな言葉に作業していた澪の手が思わず止まった。


「……言ってて虚しくならないか?」


 信二の方に顔を向け、憐れむように澪は言葉をこぼす。その言葉は病床で光に悶える信二にとって苦言以外の何ものでもなかった。

 仕方ないと言わんばかり、信二は寝そべっていた体をゆっくりと起こす。病床の上で身悶えていたせいか、病衣ははだけ、日焼けのない薄い肌色のお腹が顔を見せていた。


「ていうか、あんた看護師だろ? もう少し患者の扱いに気を使った方がいいんじゃないか?」


 寝ぼけ眼を擦りながら、信二は起こした体を屈め病床下のタンスから制服を引っ張り出すと、近くにあった適当な棚の上に放り投げる。そしてそのまま、制服の下に埋まっていた靴下を取り出すと、同じ棚の上に放り投げた。


「患者っていうのは病気を患ってる人のことを指すんだ。何にも患ってないお前らは患者じゃないだろ」


 病床から降り着替えを始める信二を横目で確認しながら、澪は冷蔵庫の扉を閉める。次いで屈めていた体を起こすと、冷蔵庫の上に置かれてる機器を起動させた。持っていた電子端末を機器に接続し、モニターを操作する。画面にダウンロードバーが表示され、その下に終了までの時間が表示された。


「天才のメンタルケアもあんたの仕事だろって言ってるんだ」


 制服のボタンを閉めながら、信二は静かな声で言葉を向ける。背を向けたまま見る澪の眉間には薄っすらとしたシワが寄っていた。


「そんなのは私よりも適任がいるだろ? 由乃よしのとか」

「せめて他の看護師を頼れよ」


 看護師でない人の名前を上げた澪にため息をつきながら、信二は続いてズボンに足を通す。その視界端に映る澪は足を小さく上下に揺らし、仕切りにモニターと電子端末に視線を通わせていた。


「忘れたのか?」


 唐突な信二の言葉に澪が一瞬だけ動揺を見せる。声の方を見ると、そこには既に着替えを終え、澪の方を見る信二の姿があった。その姿に澪は「あぁ」と納得したように相槌を打つと、ばつが悪そうな笑みを浮かべた。


「ちょっとね。でも大丈夫、もう少しで来るから」


 信二はその言葉を聞くと、つまらなさそうに澪から視線を外し、近くに置いてあった学生カバンに教科書やノートを入れ始めた。

 しばしの沈黙が病室内に降りる。閑静となった朝の病室では、教科書とノートが擦れ合う音と澪のカタカタとした足音が2人に時間の進みを伝え続ける。ときおり信二が澪の方に視線を向けると、その眉に刻まれている皺が時間の経過と共に濃くなっていくのが見て取れた。画面を見る視線が険しさを増し、足音が次第に大きくなっていく。

 そんな静かな喧騒が流れること数分、カバンの整理を終えた信二が澪に声をかけようと立ち上がったその瞬間、


「都加瑠ー! 頼まれた充電器、持って来たんだけどー!」


 扉の方からノック音と共に女性の声が聞こえてきた。待ち望んでいたその声に澪はホッと胸をなでおろすと、扉の向こうに向かって声を張り上げた。


「ありがとう! そこ置いといて!」


 扉の向こうにいる人物は澪の指示に「わかった」とだけ言うと、その場に何かを置く音を残し、スタスタと扉の前を後にしていった。廊下からの足音が徐々に遠のいていき、やがて病室内からは聞こえないほど小さいものへと変わる。

 澪は足音が完全に聞こえなくなった事を確認すると、扉前に置かれていた充電器を取りに扉の方へと向かった。


「……非効率的だな」


 扉の前に置かれた充電器を拾い上げる澪を見ながら、信二はぼそりと呟いた。その声は先程までの子供地味ものとは違う、ひどく落ち着いたものだった。


「誰のせいだと思ってる?」


 もらった充電器を見つめながら、澪は静かにそう言葉を返す。その言葉に信二は何も言い返すことができなかった。


 返答がないと察したのか、澪は拾った充電器を手に持ったまま病室の方に振り返る。その視線の先には登校の準備を終えたまま立ち尽くす信二の姿があった。手に持っているカバンの取手を強く握りしめ、不快そうに視線を逸らしている。その様子に澪は薄っすら微笑むと、喝を入れるように大きな声を上げた。


「ほら、早く行け! 遅れるぞ!」


 その声に信二は眉をひそめたまま澪を睨みつけると、渋々と行った様子で自分の病室を後にした。

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