2章

2-1


 広い噴水のへりに、男がひとり座っていた。


 もう何時間もここにこうして待っている。


 黒いスーツに銀縁眼鏡。


 眼鏡はダテで、視力はいい。


 見えないものまで見えるほうだ、と、自分では思っている。


 前を通り過ぎてゆく、街灯に照らされた観光客の表情を、見て見ぬふりして座っていた。


 時々、足を組み直し、そ知らぬ顔で。


 ピチャン、ピチャン、と水の跳ねる音がする。


 後ろの噴水からじゃない。男のひざ下まで、アクアアルタが迫ってきていた。


 通行人が波を起こす。それにも動じず。男の長い足は黒いブーツで守られていた。


 男はホテルの警備員だった。


 ラジ、という名前だが、それは本当の名前じゃない。


 32歳といっていたが、もう少し若いかもしれないし、もっと年をとっているかもしれない。


 誰もラジに気をとめないし、ラジもそれでよかったのだ。


 ただひとり、警備をするホテル経営者の、後継ぎ息子以外は。


 息子の名前はキトという。島でいちばん、興業成績を収めているホテルの御曹子だった。


 島にはいろんな人が来る。


 ただ観光だけじゃない。よからぬことを考えている者もいるかもしれない。


 息子の誘拐を恐れた身内は、ラジにボディーガードを任せた。


 前例や、そんな素振りはいっさいない。


 にもかかわらず、ラジをガードに付けたのは、他ならぬラジ自身が仕掛けたことだった。


 ラジは望みを叶えるために、切れる頭を使うのだ。


 しかし、上手くいくとは限らない。


 今もこうして、わがままなキト坊ちゃんに振り回されているのだから。


 ラジは通りの向こうの、花屋を見た。


 表で待ってろ、と言ったきり、坊やはそこから出てこない。


 ラジの腕時計は、6時を回っていた。


「もしもし……局長ですか?」


 電話をかけながら、隣のふちに座った男を、ラジは見た。


 年はハタチ過ぎくらいか、その格好には違和感があった。


 紺色の制服、襟のふちや袖口には、赤いラインが入っている。


 大きな鞄を大事そうに抱え、見えない相手に電話し続ける。


「すみません、そういうことなので、帰りは明日、フェリーが来る9時過ぎくらいになると思います。こちらは速達はないので大丈夫だと。はい、僕はどこかに泊まりますので。本当に、すみませんでした」


 電話を切って、ふっと肩を落とす。その足には、ラメの入った長靴が見えた。


 メールボーイだ。


 ラジの直感はラジの心にこう言った。


 この男を使うか。キトを喜ばせられるだろう。


「この近くに」


 ラジは唐突にメールボーイに話しかけた。


「ホテル・モンフルールがあるだろう? あそこの中のレストランは、三ツ星シェフの絶品だ。朝食はルームサービスで、ただっていう噂だぜ」


 メールボーイはふと丸い目をしてこちらを見たが、「それは……そうですか」と言って、ひざに手をつき、立ち上がった。


 歩き出そうとする彼の背に、ラジは声をかける。


「モンフルールのシングルは、1泊4千円と格安だ」


 すると彼はラジを向いて、


「どうもありがとう。この近くですね、行ってみます」


 と笑顔を見せた。


「モンフルール……あの変わった名前のホテルだな」と呟きながら、波を立てて歩いて行った。


 ラジも微笑んで見送った。


 厳密にいうと、ここから一番近いホテルは、モンフルールじゃない。


 しかしメールボーイは行くだろう。キトのホテル、モンフルールへ。


 そのために、ラジは2回も言ったのだ。


 メールボーイが見えなくなったあと、花屋の扉がドアベルを鳴らして開いた。


 15歳のかわいい坊やが駆けてくる。手に豪華な花束を持って。


「待たせたね、ラジ」


 透き通った声に、ラジは首を横に振った。


「いいんですよ。それより、その花束は」


「これはロビーに飾るためだよ」


 にっこり笑うキトを見て、ラジは心でこう言った。


 花屋の愛しの店員に、キト坊ちゃんはぞっこんだ。


 この様子だと、まだ当分、俺は振り回されるだろうな。


 この噴水のへりが、俺の指定席にならなければいいが。


「帰るよ」


 キトが急かすので、ラジはすっと立ち上がった。そして水をかき分けて歩きながら、


「そうそう。メールボーイの男をひとり、ホテルに誘導させました。ラメ入り靴の男ですよ」


 と言うと、キトは立ち止まり、とびきりの笑顔でラジを見上げた。


 しかしそれも、ラジには計算済みだった。


 眼鏡のふちに手をかけ、直すと、街灯の反射でキラリと光った。


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