13 音


 荒れ狂う海は、世界を水没させてしまいそうだ。


 高い空で、波が弾ける。冷たい飛沫が雨のよう。


 風がうるさい。頭の中が、風の音でいっぱいになる……。


 私は、通い慣れたような足取りで、浜を横切り、工場の中に入って行った。


 ここも、機械の音が耳に響く。ただ何も考えられずに、私は私の足が動かす場所へと、進んで行った。


 先端がキラキラと光っていた、複雑な作りの装置の前を、見向きもせずに素通りし、奥の部屋へとやってきた。


 後ろ手にドアを閉めると、外の騒音は少しだけ和らいだ。


 時計の音がする。


 壁一面の時計たち。秒針のリズムは、どれも違う。揺れる振り子時計、時々鳴く鳩時計、回る歯車。


「……誰だ!」


 男の人の声がした。窓際の机に向かって、椅子に座っていた白衣の男性が、私を見上げた。


「きみはいったい……」


「……秋吉博士」


 私は博士に近寄って、言った。


「今日は、いつ、ですか?」


 博士が教えてくれた日付で、ここが十年前の、あの嵐の日だと分かった。


 博士は立ち上がって、さらにこちらに近づいた。私の片手を恐る恐る触り、温かい両手で包んだ。


「では、完成したんだな、マシンは……きみは私の」


「逃げてください」


 私ははっきりとした強い声で告げた。


「もうじき、ある事件が起きるの。今日ここには、あなたを監禁している、あの人たちは来ていない。今すぐ逃げて」


「未来からの警告か?」


 手を離して、博士は聞いた。それから机の上に置いていた、私によく似た女性の写真を取り上げた。


「私のことより、彼女を助けてくれないか。娘が生まれてからすぐ、病気で亡くなってしまったんだ。どうか……」


「マシンは、捨ててください!」


 話をさえぎった私に、彼は驚いた目をして、一歩、静かに後ずさった。


「時空にひずみが生じたのか……? 人類抹殺計画に、反対派の力が、作用したのか……?」


 言いながら、壁の時計を見回した。焦っているらしく、手が震え、写真は床に落ちてしまった。


「博士、時間がないんです。マシンは完成しなかったわ。私が、その稲妻を浴びてしまったから、きっと壊してしまったのよ。だって、そうでしょ。あの人たちはあのあと、もうここには来なくなったもの。工場は必要なくなり、売りに出され、あとには灯台が建てられるのよ」


 私は早口でまくし立てた。それとは反対に、博士は急に冷静になって、私のことを真顔で見つめた。


「きみが、稲妻を浴びたって?」


「はい。それで、トリップしてしまうようになったんです。こんな体に……」


 私は一瞬、相手の目から、目をそらした。彼はそれを見逃さなかった。私に、低い声のトーンで囁く。


「今、壊せば、きみはもう、トリップしないのではないか? きみは変われるだろう。そして、きみを取り巻く周囲の人間や、環境も。変えることができるんだ」


 声が出なかった。ずっとそうしたいと、心の中で思っていた。電気を浴びるたびにトリップするのは、精神的に、疲れてしまうことだから……。


 それなのに、今、自分の中に芽生え始めた、純粋な気持ちに、私は嘘はつきたくないと、素直に思った。


「私は、」


 振り絞るように、声を発した。


「今の私を変えたいんじゃないの。この私だから付き添ってくれた人や、出会えた人と、もう別れるなんてことはできない。私は、今の自分と生きていくの。これからも……」


「きみの言う通りにしよう」


 何かを悟ったのか、博士は私に、ゆっくりと頷いてくれた。


「今から私は、この場所から、娘を残して、一人で逃げよう。……本当に、それでいいんだね、アキちゃん」


「うん」と頷くと、目から零れた涙が、ひとしずく、音もなく床に落ちた。


 さようなら……、と言って出ていく博士を、私は揺らぐ視界で見送った。


 ありがとう。分かってくれて、ありがとう……。


 私は涙を手で拭うと、部屋を出て、大きな装置の前へ来た。


 もうすぐ、あの子が来る……隠れなきゃ。


 急いで装置から離れ、工場のすみで身を縮めた。


 すぐに、女の子がやってきた。装置の前で立ち止まり、放たれていたキラキラに向かって、そっと小さな両手を伸ばす。


 次の瞬間、キラキラの光が、その何千倍にも光量を増し、大きな雷となって、少女の体を包み込んだ。


 私は思わず、顔を背けた。自分の両手を、ぎゅっときつく握りしめた。


 光が弱まると、私は立ち上がって、工場から、また時計の部屋へと駆け戻った。


 机の上にあった、電話の受話器を持ち上げ、場所だけを告げて救急車を呼んだ。


 それから、警察署にも電話した。警察官は、至急、パトロール中の警官を、こちらに向かわせると言ってくれた。


 部屋中にある時計が、カチカチとうるさい。


 胸の中で、脈打つ心臓が、同じボリュームを上げている。


 ただ、どの時計かは分からなかったけど……一つのアラームの音だけが、その時の私の耳に、まっすぐ通って聞こえていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る