9 手紙
ステンレス製のドアポストに、一通の手紙が差し込まれているのが、内側から見えた。
いつからあったんだろう……。このところ、舞花は外出していなかった。買い物もまとめ買いをしていたし、手紙が届いていることなんて、まったく気づいていなかった。
今日は、薄くなってきた財布に紙幣を補充するために、郵便局へ行くと決めて、部屋を出ようとしたところだった。
ポストから手紙を取って、部屋へと戻る。封筒は、赤、青、白、のラインの入った、エアメールのようなデザインだった。表には、住所も郵便番号も書かれていない。ただ、「三鷹舞花様」とだけ、細いペンの字で、宛名が横書きに記されていた。差出人の名前は、表にも裏にも、どこにもなかった。
手紙を封筒の上から触ってみる。薄い紙の感触しかしない。悪質なファンレターでもないだろう。舞花はそう考え、封筒の端にハサミを入れた。
封筒から引き出した、三つ折りにされた便箋を開き、目を通す。羊皮紙を模した、素朴な色合いの便箋には、宛名と同じく細い字で、こう書かれていた。
ごきげんよう、舞花様。いかがお過ごしでしょうか。最近、あなたのお姿を見られなくなり、会えない時間が僕に、よりあなたを思い出させようとしています。僕の筆は止まったままです。煮詰まっている僕の気晴らしに、助け船を出すつもりで、どうかお付き合いくだされば光栄です。この月曜の午後二時に、郵便局前のバス停にいます。もしよろしければ、同封したチケットをご持参ください。
舞花は、封筒の中に残っていた一枚のチケットを、顔の高さまで持ち上げて、じっと見つめた。
「流星の、サーカス団……」
印刷された字を読んだ。派手な衣装とメイクで、満面の笑みを見せる団員たちが、チケットには映っていた。
はっとして、封筒の消印を確認しようとしたが、ハンコが押された跡はなかった。切手さえも貼られていない。この手紙は、直接ポストに入れられたようだった。
壁の時計は、一時二十分を指している。けれど、今日が何曜日なのか、舞花にはまったく分からなかった。新聞も、テレビも、携帯も、必要ないと思うものは、一切持たないと決めて、ここへ来たのだ。
舞花はチケットを財布にしまった。たとえ今日が月曜でなくても、また、火曜だったとしても、舞花が郵便局へ行くのは、変わらなかった。だから、無駄足になることはない。
サングラスをして部屋を出た。廊下を歩いていたが、ふと思い直して、また部屋へと戻った。
青いワンピースを脱いで、初日に着てきた服を着る。つばの広い帽子をかぶり、サングラスを外し、代わりにマスクで顔を隠した。
予感がした。それは、今日なのだと。
まだ時間が早いのか、バス停には誰も待っていなかった。
舞花は郵便局へ入り、ATMからお金を下ろして、財布に詰めた。
自動ドアから外へ出ると、たった今出現したかのように、かけるの姿がそこにはあった。
緑のキャップに、ネコのキャラクターがついたTシャツ。色落ちしたジーンズと、メーカーのロゴマークが入ったスニーカー。いつものような、奇抜さがない。とてもラフな格好に見えた。
「よかった。投かんしたあとで気づいたんだよ、僕の名前を書いていなかった、ってね」
「あなただって、文面から分かったわ。でも、どうしてサーカスなの? バスで行くほど、遠い場所だし」
「それはね……」
かけるはキャップを目深にかぶり、少し恥ずかしそうに、舞花から目を外して言った。
「最初は、映画館にしようと思ってたんだけど、きみが、仕事のことを思い出すといけない、と気づいてね。たとえば、スクリーンに知り合いが映ってたら、冷めるだろう? それでさ」
「優しいのね」
「そう。週末じゃなく、人の少ない月曜にしたのもね……。今日は僕も、絵のことから少し離れて、休日のデートを楽しもうと思ってる。ちょっとの間、きみを独り占めする気でいるのさ。きみがここに、来てくれたからね」
久しぶりに見るかけるの笑顔に、気持ちがほぐれていくような温かさを、舞花は感じた。それは、恋や愛とはまた違う……孤独な寂しさを、慰めてくれるような笑みだった。
「だけどこんなこと、監督やマネージャーに、もし知られたら……」
「二人だけの秘密にしよう。きみとのことは、僕は父さんや友達にさえ、誰にも話していないんだ」
舞花は、要二のことが頭によぎった。彼は、私の素性を何も知らない。好意を寄せていることも、かけるは告げ口せずにいてくれた……。
「時々、刺激を与えて、流れを変えてやらないと、心はどんどん、濁っていくやつで……えっと、何だったっけ」
かけるは、後ろ頭を片手でかいた。
「なんか、いいたとえを用意してたんだけど、忘れちゃった。まあいいや。今さえ、僕は楽しめれば、それで……」
会話の途中で、バスが来た。
かけるが乗り込む。そのシャツのバックプリントに、自分より大きな魚を口にくわえた、ネズミのシルエットが描かれているのを、舞花は目にした。
ネコとネズミか……。舞花は笑った。休みの日だって決めたとしても、やっぱりかけるは、かけるなんだ。非凡で、芸術家気質の、個性的なアーティスト。
バスにはお婆さんが一人、運転席のすぐ後ろに乗っているだけだった。二人は最後尾の席に座った。バスの扉が閉まりかけたギリギリで、二十歳くらいの、若い男の子が乗ってきた。舞花は、マスクを顔に、そっとかけ直した。
バスが音を立てて動き始めると、舞花はスカートのポケットを、上から軽く叩いて、かけるに小声で言った。
「ここに、今月を乗り切る額を、下ろしてきたの」
「大丈夫、僕が守ってあげるよ」
「それでもう、今後はいっさい、買い出しをするぐらいしか、外出することはないと思う」
「……つまり、今月、残り数日しか、きみはアパルトマンには、いないってことかい?」
「ええ。キミカが見つかっても、見つからなくても、私は今月末で、あのアパルトマンを出ていくの」
かけるは、大きな窓に目を向けて、流れる景色を眺めていた。メガネの黒い縁に、陽の光が映り、眩しそうに目を細めていたが、それでも外を見続けていた。
「僕は、絵を描き続けるだろうな。そしてこのまま、今の道が変わらなければ、オーナーの座を引き継いで、あのアパルトマンの一室に、ずっと……」
揺れるバスの中で、舞花とかけるは、特に話をすることもなく、ただ隣で、肩を並べて座っていた。
バスは各駅に停車しながら、何人かの乗客を運び、また降ろしていった。忙しそうに乗り降りをする人たちとは反対で、バスに留まり続ける二人の姿は、一つのオブジェのようだった。
サーカスのテント小屋は、大きなデパートの横の、広い駐車場を占拠したように、堂々とした佇まいで開設されていた。
赤と白の、縦ストライプの大テント。澄んだ青空によく映える。まるでキャンディの包み紙のような、鮮やかで、くっきりとした幕の柄。上部には、「流星座・Shooting Star」と、踊るようなフォントで書かれた、巨大な看板がのっていた。
並んだ入り口で順番が来ると、係員が、渡したチケットをミシン目から切り取って、また半券を手に戻してくれた。
舞花とかけるは、半券に記載された番号の、自分たちの指定席を探しながら、テントの中を歩いて行った。
テントの内幕は、夜のとばりを思わせる、濃い紫色だった。しかしそこには、淡く光る小さな粒が、無数に貼り付けられていた。よく見ると、それは均等に散りばめられた、蛍光塗料の星だった。
席は、円形のステージを取り囲むように並んでいた。数席ごとに、通路で分けられている。二人の席は、入り口から一番離れた場所だった。かけるは、自分が盾となって、隣の客から隠せるように、通路側の席へ、舞花を座らせてくれた。
薄闇の中で、舞花は帽子とマスクを外した。
ざわめく群衆の中、静かに、太鼓の音色が響き始めた。それはだんだん大きく、テンポも速くなってきて、お腹に響くまでの音量となり、そして唐突に、止まってしまった。
しんとした会場に、突然、一本のスポットライトが注がれ、ステージ中央を細く照らした。長いシルクハットをかぶった、燕尾服の男性が、ライトの下に立っている。彼はカールした口髭を指先で摘み、整えた。蝶ネクタイを直しながら、もったいぶったように、一つ咳払いをし、それから、持っていたステッキを高くかかげて、澄んだ声を張り上げた。
「レディースアンドジェントルメン! 流星のサーカス小屋へ、ようこそ!」
団長らしきその人は、ここで二ヶ月間公演をすること、そして携帯や、カメラのフラッシュをたかないことなど、小さな注意事項を、大袈裟な身振り手振りで説明し、客の笑いを取っていた。
その後、スポットライトが消え、全体が明るく照らし出された時には、団長はまるで手品のように、ステージ上から姿を消していた。そうして、サーカスは始まったのだった。
美しくもどこか物悲しい、不思議な音色の音楽とともに、さまざまなアクロバティックなショーが繰り広げられた。
空中ブランコが、大きく揺れ動く。色とりどりの衣装を着た男たちが、軽やかに飛び移ってゆく。次から次へと、また、逆の方向へも。
スポットライトの中の綱渡り。華奢な女性が、スパンコールのドレスを光らせ、たゆむロープをすり足で進む。
動物たちのショーもあった。ステージと客席の境に、厚い金属の格子が張り巡らされ、空間を二層に遮断した中で、行われた。
調教師がムチを振り鳴らすと、たてがみの長いライオンが、障害物を飛び越えたり、リズムに合わせて、歌うように吠えたり、多才な芸を見せつける。
立てられた丸い輪っかに、火が放たれる。何匹ものトラが、連続で、燃える輪くぐりを披露する。息を飲んで見守る人々。
小柄なゾウ使いと、大きなゾウの、器用な二足歩行の行進。それには笑い声と、盛大な拍手が沸き上がった。
最後の演目は、ピエロの親子によるジャグリングだった。「我らは代々、道化師一家」と名乗る父親と、まだ未熟な腕の、小さな息子。頬に涙のペイントをして、一輪車にまたがり、光るボールでお手玉をする。父親は、俊敏な動きでステージを移動し、回すボールの数も増やしていくが、息子はなかなか、上手くできない。取り落としたボールを、父親は拾いながら息子に言う。
「跡継ぎよ、できなければ引退だ。さあ、初めから。私をガッカリさせないでおくれ」
息子は特訓を積んで上達してゆき、ついには父親と同じ数のボールを、一輪車にも乗りながら、立派に回せるようになっていた。しかしこれは演出であり、息子役の彼は、最初はできない演技をしていた、ということになる。
場面が暗転し、ジャグリングのボールだけが光を見せた。高く投げられるたび、宙に光の帯を残し、それはまるで、いくつもの流れ星のようだった。さあ、星に願いを込めて。いつか叶う、その日まで……。そういったストーリー性を見せながら、このサーカスが終わる時、拍手喝采の中で、かけるは言った。
「あの子には、選択肢の自由がなかった。僕たちは、道を選ぶことが許されている。それは幸せなことだけど、その分、迷子にもなるだろう。考え方一つで、ネガティブになったり、ポジティブにもなったり、いろいろと、考えさせられるショーだったよ」
その瞳が潤んでいることに、舞花は気づいた。
「ねえ……泣いているの?」
「いいんだ。泣かせてくれ」
かけるの頬に、一滴の雫が流れた。ピエロのペイントと、同じように。
夜が降りてくるのが、帰りのバスの窓から見えた。青紫のグラデーションが、濃く、深くなる。
乗客のいないバスの中で、舞花は帽子もマスクも外し、窓際の壁にもたれ掛かりながら、隣に座るかけるに言った。
「思い出したことがあるの……。演じるということは、見ている人に、感動を与えられるという、とても素晴らしいことだった。昔ね、ファンの女の子から、ある手紙をもらったことがあるんだけど……そこには、こう書いてあったの。……あなたを見ている間は、他の嫌なことなど、すべて忘れていられるんだ、って」
かけるは、舞花の横顔を、静かな眼差しで見つめていた。それから一言、「うん」と言って、頷いた。
「連れてきてくれて、ありがとう。今日のことは、私、絶対に忘れないと思う。だって今、心が澄んでいるって、分かるもの」
自分の中で、何かが変わってゆくのを、舞花は感じた。それはたとえて言うならば、曇り空が晴れ渡り、星の光が見えてきたような、すっきりとした清々しさだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます