10 グラス


 キッチンの台の上に、透明な細いグラスを二つ、並べた。


 赤いワインを、同じ量だけ注ぎ込む。


「出逢えた記念に、乾杯しよう。二人の愛に、赤い、血潮のようなこのワイン」


 言いながら、舞花はグラスを一つ持ち上げると、隣のグラスに軽く打ち付けた。


 それから一口、のどに流し込んでから、言った。


「いつまでも一緒にいておくれ、キミカ。きみは僕の生きる希望。永遠の夢」


 舞花はグラスを台に置き、少し横に移動して、立ち位置を変えた。それからわずかに間を置いて、声を震わせながら言った。


「いいえ、私は誰のものにもならないの。この心は底なしのように深く、一つの愛では、決して満たされることはない。私は、私自身の幸せを探して、世界中を巡るでしょう。留まり続けるのは、あなたの心の中にだけ……」


 舞花はグラスに背を向けた。大きくため息をつく。「なんて高慢なの、キミカって人は……」と、小声で吐き捨てるように言った。


 キッチンの台に、背中を押し付けたまま、座り込んだ。


 部屋は、音もなく静か……。動いているのは、時計の針と、私だけ……。


 いや、違う。ポタ、ポタ……、と、何かが落ちる音がした。


 重い腰を上げ、ゆっくりと立ち上がると、キッチンの流しのほうを見た。蛇口から、水が滴っているのかと思った。が、違っていた。


 舞花は台に両手をついて、目を強く閉じ、俯いた。


 邪魔をしないで。集中できない……。


 ポタ、ポタ……音が耳から、頭の中へ反響している。舞花はまぶたを開けた。裸足で廊下を歩いて、音のするほうへゆく。


 お風呂場だった。シャワーの先端から、丸い水が一粒ずつ生まれ、床のタイルに落ちて弾ける。


 下を向いたシャワーの姿が、舞花の目には、まるでうな垂れているように見えた。




 一階、一号室のチャイムを鳴らすと、ポロシャツに短パン姿のオーナーが、電話をしながら姿を見せた。大きな手を広げ、「待って」、と言うようにジェスチャーしたあと、


「おお、それじゃあな。あとでかけ直すよ」


 電話の相手に喋ってから、それを切ってポケットにしまった。


「どうかなさいましたか、三鷹様。また、お歌の伴奏のお誘いでしょうか?」


 やけに丁寧な言葉で話してくるオーナーに、舞花は思わず笑ってしまいそうになった。けれどポーカーフェイスは崩さずに、短く簡潔に言った。


「シャワーの水漏れらしいの。修理をお願いしたいのですが」


「分かりました。すみません、もうかなり古い建物なので、きっとガタがきているのでしょう。ちょっと確認させていただきます。自分で直せるような状態でしたら、業者の方はお呼びしなくてもいいかもしれません。いくつか道具を用意してから向かいますので、お部屋のほうで待っていてくださいますか」


 オーナーは自分の腕時計に目を落とした。


「あ、今少し、お時間よろしいですか?」


 聞かれて、舞花は一瞬ためらったが、「ええ」と言って、頷いた。それを見て、オーナーも頷いた。そして周りに誰もいないことを、首を回して確かめたあと、内緒話でもするかのように、声をひそめて話し出した。


「実は、先ほどの電話の相手からなのですが……何と言いますか、その……あなたが彼女に会えたかどうか、彼が心配していましてね。私の友人の、監督をやっている男が、ですね。来月あなたが、自分の元へ帰ってこない、ということも想定して、代役の役者を、候補に選んでおかねばならない、と、こう言うんですよ。私は、一ヶ月は待つときみが決めたのだから、そこは信じて待つべきだ、とそう言ってやりましてね。私も、夢を持つ人間でしたから、若い可能性を、大人の勝手な都合なんかで、摘み取りたくはないんですね。だから、そう言ったんですが……それで、よかったでしょうか?」


 舞花はオーナーの目をまっすぐ見据えたままで、数秒間、黙って考えた。そして、自分でも感心するほど、冷静に声が出た。


「はい、大丈夫です。私に代役なんて、必要ありません。多田さんの思いにも応えられるよう、励みたいと思います」


「それを聞いて安心しました」


 にこやかに微笑みながら、オーナーは続けた。


「うちは、丘の上に建つアパルトマンですから、家賃も安いですし、多いのですよ……働きながら、夢を追う人は。その中には、簡単に諦めてしまうバカもいる。しかし私は、頑張って夢を見続けようとする人を、ここから応援したいんです。……あ、それには、部屋のメンテナンスも、ちゃんとしておかなければなりませんね」


 オーナーは、「すぐ行きますから」と言って、扉を閉めた。


 舞花はその時、かけるの姿が頭に浮かんだ。かけるは、優しい父親の血を継いでいる、と、そう思えた。この父親がいたから、今のかけるがいるのかもしれない、とも思った。


 かける……。


 舞花は心の中で呟いた。


 まだ私たちは、夢の続きを見ることが、許されているのね……。


 その声は、届くことはないはずだった。けれど、舞花の部屋に、「チェックします」と言って現れたのは、頭にタオルを巻いて、工具箱を持った、かけるだった。




 かけるは、タオルを頭の後ろで、しっかりと結び直した。浴室のタイルの床に、工具箱を置き、「パッキンの傷みかな」と言って、シャワーを手に取り、確かめた。


「手におえなければ、業者だな。父さんは、あまり呼びたがらないけど……経費削減のために。息子もパシリにこき使う、駄目な親父だよ」


「あら、頼りにされてるってことじゃない?」


 舞花が明るく声をかけると、かけるは振り向いて、何かを言いたそうな顔をした。舞花はその時、浴室の狭さに気がついた。お互いの距離がとても近かった。少し気まずくなったのか、かけるはすぐに、またシャワーのほうに体を向けた。


「あっちも僕のことは、バカなやつだって言ってるから、まあ、お互い様かな。僕が帰ってきたのは、夢を諦めたからじゃないんだよ」


 親子で通ずるものがあるのかもしれない、と舞花は不思議に思った。ついさっき、オーナーが話してくれた内容と、同じような話を、かけるもしていた。


「僕はまだ、旅の途中なんだ。時には立ち止まったり、休憩を取る勇気も必要なんだよ」


 かけるは、話しながらも手を止めず、蛇口をひねっては水を出し、また止めたりして、シャワーの調子をチェックしていた。


「きっとね……どんなに回り道をしていても、前を向いてさえいれば、いつかたどり着くはずなんだ。だから、焦ることはない……。僕は自分にそう言い聞かせて、心の安定を保ってるんだ」


 声は少しだけ、浴室の壁に反響していた。それとも……、と舞花は、かけるのすぐ後ろで思った。私の心に響いたのかも……。


 かけるのそばで、かけるの背中を舞花は見つめた。彼の話す言葉が、じんわりとした温かさを持ち、自分でも抑えきれない、「苦悩」という感情を、上から包んで溶かしてゆく……。上手くは言えないけれど、そんな気がした。


「残留水だよ」


 かけるは笑顔を見せながら言った。


「よくあることさ。シャワーヘッドを、こうやって上に向けて、ホルダーに入れると、滴ることは少ないよ」


 かけるは、シャワーを上向きにして片付けた。使わなかった工具箱を手に取る。


「様子を見て、それでも気になるようだったら、ちゃんと水道業者に来てもらおう。……といっても、きみが出て行くほうが、先になるかと思うけど」


 今月が、今週で終わってしまうことを、舞花も知っていた。


 もう少し、彼と話をしていたい……。舞花は、自分の気持ちに気がついた。


 お茶でもどう? そう言って引き止めようとしたけれど、急には勇気が出なかった。


「キッチンの水道も見てくれない?」


 とっさに口から出た言葉に、舞花は自分で驚いた。かけるは「オーケー」と答えて、さっそうと歩いて行った。


 キッチンの台の上には、ワインの入ったグラスが二つ。かけるはそれを見て、一瞬だけ立ち止まり、首をひねった。けれど何も言わずに、水道に近寄って、手を伸ばし、水を出す。止める。そして、見守る……。


「大丈夫」


 かけるはもう一度、舞花に言った。「大丈夫」と。


 舞花はかけるの瞳を見つめた。数秒ほど、ただ黙ってそこに立っていた。けれど、かけるのほうから、その目をそらした。


「きみは、こんなところにいちゃいけないよ。こんな狭いオリの中には、ふさわしくない。世界へ羽ばたく人間なんだ」


 小さなその声は、舞花にセリフを連想させた。……私は、私自身の幸せを探して、世界中を巡るでしょう。留まり続けるのは、あなたの心の中にだけ……。


 次の瞬間、部屋のインターホンが鳴り、かけるは口早に言った。


「じゃあ行くね。また何かあったら、いつもの場所にいるから」


「え?」


「言ってなかったけど、創作意欲を呼び戻してね。似顔絵コーナー、再開したんだ」


 かけるは無邪気な笑みを見せてくれた。


 二人で玄関へ向かうと、そこにオーナーが待っていた。「どうだ、直りそうか?」、「壊れてなかったよ」と、親子は短い会話をし、かけるは廊下を歩いて、らせん階段のほうへ向かった。


「あっ、そうだ」


 オーナーは何かを思い出し、かけるを追いかけ、階段の上から、「おーい!」と、太い声で呼びかけた。すぐに下から、返事が聞こえた。


「なにー?」


「今日スーパーへ行くんなら、ついでに牛乳を買ってきてくれ」


「分かったー。ほんと、パシリだなぁ……」


 オーナーはまた玄関前に来て、それから一度、舞花に深くお辞儀をすると、息子のあとに続いて、らせん階段を下って行った。


 舞花は扉を閉めて、キッチンへと戻った。


 細いグラスの一つから、ワインを飲み干す。


 キミカは、高慢じゃない……。彼女は、ただ本当の幸せを探している、一人の女性にしか過ぎない。多くの愛を求め、世界を飛んでいるうちに、彼女は知るのだろう……。


 自分が、人々の心に、愛を与えていることを。


 舞花は、飲んだワインのせいではなく、内側から、胸が熱くなってくるのを感じていた。


 この役は、誰にも渡したくはない。キミカの役を演じられるのは、私以外に、他にはいない。


 もうすぐだ……。私は、彼女に会える。彼女の姿が、見えてきたから……。


 今度こそは、迷うことなく、監督の前で、彼女になりきることができるだろう。


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