7 階段
毎日変わることのない、穏やかな日々。
朝起きて、青いワンピースに着替える。
軽い朝食を取り、歯を磨く。鏡の前で、メイクする。
洗濯機を回し、洗濯物を干す。
それから、台本を開いて、何度も黙読を繰り返す……。
お昼。料理をする。食べて、食器を洗う。歯を磨く。
寝室の窓から、かけるの様子をうかがってみる。お客さんがいなければ、下りて行って、会話を交わす。飽きたり、誰かが来たりしたら、自室へ戻る。
洗濯物を取り込んで、たたむ。
サングラスと財布を持って、アパルトマンから、坂を下ってスーパーへ。
働いている要二を、遠くから、それとなく見る……。
帰って、夕食を作って、食べて……食器を洗って、歯を磨き、お風呂へ入る。
顔と、足のマッサージ。
ベッドに入り、何を考えるでもなく、ただ眠りにつく。
大体は、この一連の繰り返し。それが、舞花のルーティンになっていた。
ある昼下がり、アパルトマンのいつもの場所で、
「しばらく、寝かせようと思ってる」
と、かけるが言った。まだ仕上がっていない舞花の似顔絵を、かけるは「中断する」ということを、舞花本人に伝えてきた。
「僕は似顔絵に、こんなに時間をかけるタイプじゃないんだよ。だけどこの絵だけは、どうしても力作にしたくてさ。ここに、何か閃きを足したいんだ。それには一度、この絵から離れて、客観的に見られるようになるための時間が、僕には必要だと思うんだ。だから、待っていてくれるかい?」
舞花は頷いてから、かけるに優しく微笑んで見せた。
「ええ、どうぞ。時間のことは、気にしなくていいの。私にも、あなたの言いたいことは、すごくよく分かる……。大切なのは、自分が納得のゆく作品を作る、ってことでしょ?」
「そうだよ」
と、かけるも頷いて同意した。
「いい作品は、絵でも、音楽でも……何であれ、作者が死んでしまったとしても、この世に残るものだからね。人の心に住み着くものだ。僕たち、ものを作る人間には、そういった、大きな責任があるんだよ……。自分が、正しいと思えるものを、なおかつ、誰もまだ見たことのないものを、ゼロから生み出さなくちゃいけないんだ。……なんてね。今はまだ、独りよがりなものだけど」
「あなたって、時々深いことを、平然とした顔で言うのね……」
そうして、舞花のルーティンの中から、かけるという一部が消えた。
スーパーの陳列棚から、何本ものビールの缶が、転がり落ちた。
背の高い、黒いシャツを着た男が、酔っているのか、棚にもたれかかったのだ。
大きな音に気を取られ、舞花はレジの前で、要二が差し出していたお釣りを、取りこぼしそうになった。
要二は、いつかのように舞花の手を掴み、もう一方の手で、お釣りを手の平にのせてくれた。
そして何も言わずに、酔っ払いの男のそばに近寄って、その男の顔を見るのでもなく、何事もなかったかのように、転がった缶を拾い始めた。
黒いシャツの男は、しゃっくりをしながら、店を出て行ってしまった。
まるで、心がここにないみたい……。黙々と作業をする要二の姿に、舞花は思った。でも、美しい……。もしも私がスカウトマンだったなら、絶対に彼をスターにしたいと思っただろう。
彼は、普段は何をしている人なんだろう。どんなものが好きなのかしら。恋人は、いるのかな……。
そんなことを考えながら、舞花が帰り道を歩いていると、前方から、何だか奇妙な声が聞こえてきた。
歩き続けると、声は次第に大きくなった。そしてそれが、先ほどの酔っ払いの男が、しゃっくりをしている声だと分かった。
舞花は接近しすぎないように、なるべく小さな歩幅で歩いた。
彼が街灯の下を通過するたび、伸びた長めの金髪が、淡い光を放って見えた。
もしかして……、舞花は思った。だけど、違うかもしれない……でもこれは、それを確かめるチャンスなのかも。
舞花はアパルトマンへの坂を、男の後ろから歩み続けた。
男はフラつきながら、アパルトマンの前へ来た。しかし入り口へは向かわずに、建物の裏手へと回って行った。苦しそうに出していたしゃっくりは、もう止まっているようだった。
舞花は周囲を見回した。誰もいない。男は尾行されていることに、気がついている様子もない。
舞花はサングラスを取った。見失わないよう、注意深く目を凝らして、追跡を続ける。
アパルトマンの裏口から、白い明かりが漏れていた。男は眩しさに目を擦りながら、それでも足を止めることなく、光の中へと入って行った。
コツン、……コツン、と、男の不規則な足音が響く。舞花は、足音のする方向へ顔を上げた。そこには、四角いらせん階段が、ずっと上まで延びていた。
蛍光灯の明かりが、男の長い影を一段、一段と、滑らせてゆく。舞花は、音を立てないよう、はいていた靴を脱ぎ、荷物を持つ反対の手に抱えた。
手すりは、錆びた色の鉄のようで、つる草の装飾が施されている。古いけれど、味がある。この場所だけが、どこかノスタルジックな空間に思えた。
こんなところがあったなんて……。普段はエレベーターを使っていたので、舞花は、この階段の存在を知らなかった。
冷たい感触を、足の裏に感じながら、一階から、二階へ上る。角を折り曲がった所の踊り場で、舞花の目は、あるものに釘付けとなった。
それは、壁の中央に描かれた、壮大な絵画だった。
コバルトブルーの、海の中。揺れる海藻と魚たち。白い砂底に、光の筋と、波の泡――。
舞花は瞬きをするのも忘れ、見入ってしまった。
なんてキレイなの……まるで、海底に開いた窓のよう……。
一歩近づくと、つま先に何かが触れた。見れば、足もとにはたくさんの丸い缶が、乱雑に転がっていた。まだ乾ききっていないペンキが、缶の中には残っているものもあった。
不意に我に返って、舞花は先ほどの男を追いかけようと、駆け足で階段を上って行った。
三階まで上がってきた時、廊下の中腹で、部屋の扉が「バタン」と閉まるのを、舞花は見逃さなかった。
やっぱり……そうだった。舞花は確信した。
彼は、自分の隣の部屋に住む、謎の外国人だった。
翌日の正午過ぎ。
舞花はサングラスもせず、部屋を出て、あのらせん階段へと向かった。
一階と二階の間の、踊り場の側面。描かれた海の絵を、舞花はもう一度目にしたかった。
しかし、その絵の前にはすでに、かけるが一人立っていた。
頭に、赤いバンダナをかぶるように巻いている。服装は、ペンキに汚れた、藍色のオーバーオール。メガネの奥の目は、絵を睨んでいるかのように、鋭かった。
舞花はそっと靴を脱ぐと、彼と絵が見える位置の段に座り、気配を殺して、様子をうかがった。
かけるは、ペンキの缶を右手に持ち、左手では細い筆を持って、そこに微動だにせず、立っていた。
舞花はかけるの横顔を、鉄の手すりにもたれ掛かりながら、じっと見ていた。
何分経っただろう。静止画のようなその光景からは、時間の感覚が掴めなかった。
最初は冷えていた手すりの温度が、舞花が触れ続けていた体温で、そこだけ温かくなっていた。
舞花はゆっくりと体を起こし、かけるの邪魔にならないように、靴を手に持ったまま、三階へと戻ることにした。
階段を上がる途中で、最後にもう一度だけ、身をかがめて、かけるの姿を眺めてみた。
かけるは、同じ体勢を維持し続けていた。しかしその目は、何か考え事をしているように、ぎゅっときつく閉じられていた。
舞花は、廊下に出てから靴をはき、少し歩いてから、足を止めた。
芸術が生まれる過程に、立ち会えた気がした。
ほとんどの人が利用しない、古い階段の途中で、彼の頭の中の想像が、現実に、一つの絵として現れてゆく……。
そんな奇跡のような工程を、彼は、たった一人で行っている。とても孤独な芸術家。
そして、彼が言っていたように、それはいつの日かきっと、多くの人の、心の中に……。
そうなって欲しい、と陰ながら願いつつ、舞花はまた前へと、廊下を進み続けた。
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