6 カーテン


 元気な子供たちの笑い声が、静かな午後の通りに響いた。


 舞花は覚えたてのメロディを、軽いハミングで続けながら、窓から、通りを見下ろした。


 いつもと同じ位置に座る、かけるが見える。水色のハンチングをかぶった後頭部。顔は、坂道のほうへ向いていた。


「一緒にやろう、お兄ちゃん」


 坂道で男の子が二人、サッカーボールを蹴り合っていた。かけるに声をかけている。


「絵なんか描いてないでさ!」


「きみたち、もう少し、こっちに上がってきてから、遊びなさい」


 かけるは、穏やかな声で注意した。男の子たちは、ボールを持って駆け上がってきた。


「ねえ、サッカーしようよ、えっとー……かけるくん!」


 置かれた看板の文字を見て、一人が言った。


「かけるくんは、絵しか描かないんだよ」


 と、素っ気なくかけるが教えると、「つまんないのー」と言って、二人の子供たちはまた、そこでボールを蹴り始めた。


 坂ではなく、平坦な場所で遊びだしたので、かけるは「よし」というように頷いて、スケッチブックに向き直った。


 舞花はハミングをやめ、開いた窓から、かけるの描く絵を覗いてみた。


 この三階からでは、はっきりとは見えなかったが、それは風景画のようだった。しばらく見ていると、かけるの顔が、何度も坂のほうへ向けられていて、どうやらそこからの景色を、彼が観察して描いているのだと、舞花には分かった。


「バタン!」


 と、何の前触れもなく、隣の部屋の窓が、いきなり開いた音がした。


 舞花はその場で身を固くした。意識をそちらに集中させる。少し離れてはいるけれど、隣室の誰かが、窓辺に立っているのが、気配で分かった。


 音を立てないように、そっと舞花は窓を閉めた。前を向いたまま、ゆっくりと後ずさりし、壁に背をつけてから、ようやくホッと息を吐いた。


 ここは、自分の家じゃない。舞花は思った。不特定多数の人が入居する、アパルトマンだ。隣人がどんな人なのか、何も知らない……。


 見えない相手への不安を感じた。さっきまで、あんなに気持ちよく歌っていたのに。今は呼吸すら、息苦しく思えた。


 舞花は寝室を出て、短い廊下を歩き、キッチンへと逃げた。




 たまっていた食器を洗い終えると、舞花は冷蔵庫を開けた。


 今晩は何を食べよう……。と、いうよりも、残った食材で、何の料理を作ろうか。


 これまでの舞花は、外食ばかりで、自ら作るという行為を、あまりしてこなかった。忙しくて、時間が取れなかったせいもある。


 料理のレパートリーが頭にないので、冷蔵庫の残り物だけでは、何も作れる気がしなかった。


 舞花は冷蔵庫を閉めて、棚の上に置いていた財布を、片手に掴んだ。




 アパルトマンの入り口で、白い外壁に手をついて、そっと上をうかがってみた。


 クリーム色の窓枠が、均等に並んでいる。少しサングラスをずらして、自分の部屋の、隣の窓をチェックした。


 閉まっている。黒っぽいカーテンが、吹いてきた風に揺れなかった。


「まるでスパイだ」


 と、声がした。舞花はサングラスを取って、声の主、かけるのほうへ歩み寄った。


 かけるは木箱に座って、相変わらず絵を描いていた。片足で貧乏揺すりをしている。よく見ると、はいているスニーカーの生地が、左右で色が違っていた。


「早くしないと暮れてしまうよ……」


 かけるは焦っているように、鉛筆を持つ手を激しく振っていたが、急にそれをピタッと止めて、舞花に向かって、声を発した。


「ゲームオーバー。……もう線が見えない。これ以上やると、目を酷使するだけだ」


 そして、小刻みに揺らしていた足も止めた。


「お疲れ様」


 と、舞花が言った。かけるはゆっくり頷いた。


 夕焼けが空に広がっていた。赤く染まっていた雲が、風に真横に流されてゆく。長い髪が後ろからあおられ、頬に当たるので、舞花は風に、顔を向けた。


「それで、スパイの役は上手くできそう?」


 かけるのジョークに、舞花は振り返らずに微笑んだ。


「ここに座っているとね……後ろで窓が、開く音が聞こえるんだ」


 かけるはスケッチブックを閉じ、木箱に置いてから言った。


「時々だけど、僕の絵を、そこからじっと、眺めている人がいるんだ。僕は気づかないふりをして、絵を描き続ける。その人は、ずっと前から、きみの隣に住んでいて、滅多に外出もしないんだ。って、父さんが言ってたよ。僕もまだ、ちゃんと姿を見たことがない。そして、その人はたぶん、この国の人じゃないんだ」


 舞花は振り返って、黒いカーテンの閉まっている窓に、視線を上げた。


「名前の響きからすると、フランス人じゃないかって、僕は思ってる」


 かけるは立ち上がり、舞花の隣に並ぶと、同じようにその窓を見上げた。


「だから、何かあったら、僕が話をつけるから……」


 その続きを、かけるは口にしなかった。舞花はかけるの顔を見た。心配しなくていい、と、メガネの奥で彼の瞳が、そう語ってくれているように、舞花には思えた。


「いろんな人がいるからね」


 とかけるが言い、舞花は頷く。


「いろんな人の人生が、カーテンの裏には隠れているのさ」


 かけるがまっすぐな目で見つめてくるので、舞花はさり気なく、その目を伏せた。


「きみも、探してた人が見つかれば、ここを出ていくのかな……」


 かけるも舞花から目をそらし、木箱の上に散らばった、たくさんの鉛筆を手に集めながら、話し続けた。


「こうして友達のように話しているけど、そういえばきみは、手の届かない人だったっけ。結局は僕は、ファンの一人にしか過ぎないんだ」


 何と言っていいか、舞花は言葉が出なかった。こんな時、私にセリフがあったらいいのに、と舞花は思った。彼のほうは自然と、気の利いた言い回しができている。


 スケッチブックを脇に挟んで、かけるは、黙っている舞花に質問をした。


「どこか行くの? その探している人に、会いに行くのかな」


 舞花は首を横に振った。それから、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、かけるにこう言ってみた。


「キミカ以外にも、もう一人、会いたい人がいるの」


 鉛筆とスケッチブックを抱えたまま、かけるは少しだけ近寄ってきた。舞花の声に耳をすます。


「その人は、要二という人なんだけど、スーパーで働いている店員さんなの。このアパルトマンを出る前に、もう一度、その人に会ってみたいのよ……」


 かけるは丸い目をして、「要二……」と呟いた。「そう、要二」と、舞花はもう一度言って、かけるに教えた。


「彼ね、モデルのようにキレイな顔をした人だった。私の、ただの片想いだけど」


「それ、知ってるよ……」


 と、かけるが、不思議そうな顔をした。


「というか、僕の親友だよ。なんだ、もっと早く言ってくれればいいのに……。彼は毎日、仕事は夜からやるんだよ。そうだな……七時以降に店に行けば、きっと会えるよ。へぇ……そうだったのか……」


 かけるは、嬉しそうな笑顔を見せた。両手に荷物を持ったまま、そばの木箱に腰を下ろす。


「驚いたよ。だって、彼は子供の頃から、全然目立たない、引っ込み思案なやつだったんだ。同級生にさえも、敬語で話すぐらいのね。自分の好きなもの以外には、何にも興味を示さないような、周りから見れば、ちょっと変わった子供だった。それでも……幼馴染みっていうのかな。僕はよく、要二と一緒に遊んだよ。さっき、ここでサッカーをしていた少年たちのように、僕らもここで、絵を描いたりね……」


 そう教えてくれるかけるの瞳は、どこか遠くの場所へと向けられているように、舞花には見えた。けれど、少し寂しそうな顔をして、ポツリと言った。


「要二、喜ぶと思うよ」


 かけるは、自分の色違いのスニーカーを見つめていた。メガネのレンズに、赤い光が反射した。


「さてと。それじゃあ今日は、これでお開きにしようかな。また来てくださいね、マダム。今度はもっと、明るい時間帯に」


「ええ、ありがとう」


 屈託なく笑うかけるに、舞花もつられて笑い返した。


 アパルトマンへ帰ってゆくその背中は、何だか少し疲れているような、彼らしくない……、そんな印象を、舞花は受けた。


 彼の住む部屋の、そのカーテンの向こう側にも……きっと私の知らない、彼の姿が隠れているんだ。


 舞花は、かけるのことを考えつつ、財布を片手に持ったまま、ゆっくりとした足取りで、自分の部屋へと戻って行った。


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