3 ベッド


 スーツケースの中に詰められた、たくさんの化粧品。


 舞花はその一つひとつを手に確かめながら、鏡台の上に並べていった。


 化粧水、乳液、美容液、コロン、ファンデーション、チーク、リップグロス、アイシャドーにアイライナー……。


 すべてのケースに、ハイブランドのロゴマークが刻まれている。


 転がった衝撃にも耐えたのだろう。割れたり、ヒビが入ったりしたものは、一つもなかった。


 舞花は顔を上げ、白い縁飾りのついた鏡を眺めた。


 外した帽子とサングラス。髪の毛を手ぐしでとき、後ろで一つにまとめる。サングラスの跡がないか、鼻筋を指でなぞってみる。


 鏡の向こうに、この部屋の様子が反転して見えた。


 白を基調とした、備え付けのアンティーク家具。


 細い足の、丸い机。背もたれの高い椅子。幅の狭いベッド。オフホワイトの、クローゼットの扉。


 舞花はクローゼットを開けてみた。さっと左右に目を動かすと、すぐにまた閉じた。


 中のハンガーにかけられていた、青いワンピースのすそが、扉の間に挟まった。


 くるりときびすを返し、舞花はこの部屋を出た。


 他の部屋を、静かな足取りで見て回る。


 コンパクトなキッチン。シンプルなユニットバスと、ドアの幅しかないトイレ。小さな洗濯機と、洗面台。窮屈な玄関。それですべてだった。


 ベッドのある部屋に戻ると、舞花は椅子を窓辺に寄せて、そこに座った。


 部屋は狭いけれど、眺めは壮大だった。


 街並みが遠くまで見渡せる、丘の上のアパルトマン。


 あの坂が、さっき上ってきた道で……あっちにあるのが、スーパーと、その向かいは花屋さん。


 舞花は指で、内側から窓をなぞった。


 あれが図書館でしょ、それからあれが、喫茶店。ハサミの看板は、きっと床屋さんね。その奥が……えっと、郵便局かしら。


「ようっ、三年ぶりだな!」


 オーナーの声が、すぐ下から、この三階まで響いて聞こえた。


 舞花が視線を下ろしてみると、アパルトマンの前に、オーナーの多田がいた。先ほど会った息子と、そこで立ち話をしているのが見えた。


「えっ? ここでか?」


 オーナーの太い声しか聞こえない。息子は小声で何かを喋り、しきりに頷いていた。


「まぁ、いいけどよ」


 どうやら、何らかの許可が下りたようだった。息子はにっこり笑うと、手にしていた麦わら帽子をかぶったので、もうその表情は見えなくなった。


 オーナーは息子の茶色いトランクを手に、アパルトマンの中へと入った。息子のほうは、坂道をまた歩いてゆく。


 彼、さっきからあの道を、何往復しているのかしら……。舞花はほんの少しだけ笑った。


 それから窓辺を離れると、そばのベッドに横になった。


 一眠りしておこう。時間はこれから、まだまだたくさんあるんだし……。


 目覚ましもかけずに眠れるのは、今まで時間に追われていた舞花にとって、本当に、久しぶりのことだった。




 空腹で目が覚めた。


 壁にかかったローマ数字の時計が、午後七時を回っていた。


 舞花は掛け布団を足で蹴って、伸びをした。


 アクビをすると、同時にお腹の虫が鳴った。


 ベッドから起き上がって、ぼんやりと周囲を眺める。


 ここは……そっか、アパルトマン……。監督の指示に従って、一ヶ月間、過ごす場所。キミカを見つけて、彼女と一緒に……。


 舞花はベッドから降りて、鏡を覗いた。


 暗い。


 部屋の壁を伝って歩き、電気のスイッチをオンにした。


 小さなシャンデリアの、暖かみのある光が部屋を照らし、家具の影を壁に映した。


 また鏡の前に立ち、手ぐしで、崩れた髪を結び直す。


 ドアを開けて部屋を出た。


 裸足で短い廊下を歩き、キッチンまで来ると、冷蔵庫らしき光沢のある扉を開けた。


 中は暗くて何も見えない。


 寝室から漏れる明かりで、コンセントが差さっていないことに気がついた。


 ここでは何もかも、自分でやるのね……。


 舞花は冷蔵庫のコンセントを差し込み、中身が空っぽなのを確認してから、扉を閉めた。




 夜のスーパーは活気のない場所だった。


 念のためサングラスをしてきたが、細い通路をすれ違ったのは、三人の主婦らしき女性たちだけだった。


 舞花は商品棚から、買い物かごへ、ミネラルウォーターのペットボトルを入れようとしたが、すぐに戻した。


 水は、蛇口をひねれば出る。今後は必要なものしか、買わないようにしよう。


 オレンジを二個、牛乳を一パック、食パンを一袋、バターと、ハム。それぞれをかごに入れて、レジへ向かった。


 レジの前で、男性の店員が二人、低い声でお喋りをしていた。


「ようじって、漢字でどう書くんだ?」


「カナメって字に、二つです」


「そっか。昔は一緒のクラスだったのにな、俺たち。あ、お客さん」


 頼むわ、と言って、その店員は離れて行った。残った要二という店員が、舞花のかごを受け取った。


 いらっしゃい、の挨拶もなしに、黙々とバーコードを読み取ってゆく。エプロンから出た腕は、機敏だった。


 精算を済ませると、覇気のない顔で、お辞儀をされた。


 舞花はレジ袋に商品を詰めると、自動ドアから表へ飛び出した。サンダルの足で少しだけ走って、立ち止まる。


 知らない場所で、一人で買い物をするのは、何だか緊張してしまう……。


「あの!」


 急に後ろから声をかけられ、舞花は素早く振り向いた。なぜか、要二が立っていた。


「お釣り、渡すの忘れてしまって……」


 舞花の手を引き寄せて、要二は小銭を掴ませた。


「ごめんなさい。この時間帯になると、どうしても目がかすんじまって」


 要二は目をしばたいた。


「あ、どうもありがとう……」


 舞花が言うと、要二は軽く会釈してから、走ってスーパーへ戻って行った。


 舞花の胸は高鳴っていた。要二に、正体がバレてしまったのかと思った。でも、そうじゃなかった。




 軽い夕食を取って、お風呂へ入る。


 バスローブで鏡の前に立ち、顔のケアをして、髪にドライヤーをあてる。


 ベッドの上で足のマッサージをしていると、これらの一連の流れに、舞花は意識が向いていないことに、気がついた。


 頭の中で、あの覇気のない、けれど美しい要二の顔を、繰り返し繰り返し、思い出していた。


 ベッドに腰掛けて、舞花は自分の手をさする。


 一般人に、一目惚れをした女優……。まるで映画みたいな恋ね。


 お釣りを渡される時、引かれた手の感触が、舞花の心にはまだ残っていた。


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