2 スーツケース
三鷹舞花は、黄色いスーツケースを転がしながら、坂道を上っていた。
サンダルから出たつま先の、赤いペディキュアが、踏み出すたびに光るのを、繰り返し見ていた。
ボタニカル柄の、すその長いスカートが、足にまとわりついてくる。
なぜ、こんなことになったんだろう……。
いつもはマネージャーに持たせるはずの、重い荷物を、自分の手で運んでいるなんて。
要領の悪いマネージャーの顔を、その時ふと、思い出した。
メールでスケジュールを送信してくるのだが、毎回、誤字が混じっている。何度注意しても、ニコニコと笑ってはぐらかす、年の若い女の子。
今回彼女は、一ヶ月先まで空白になった予定表を、舞花の携帯に送ってきた。
何かの間違いじゃないかしら。そう疑ったが、今回ばかりは正しかった。
一ヶ月まるまるのオフ。でも休養期間じゃない。キミカを探すという、使命がある。これは、仕事だ。
急に、引っ張っていたスーツケースが、軽くなった。
坂道が終わり、平坦な道になっていた。
舞花は足を止め、顔を上げて前を見た。
つばの広い、麻の帽子と、大きめのサングラス越しに、白い建物が見えていた。
いくつも並んだクリーム色の窓枠が、どことなく西洋風のおもむきを出している。
握りしめて、シワくちゃになっていたメモを、舞花は読んで確認した。
「アパルトマン・多田……。ここね」
ここで、私はキミカに会って、一緒に、監督の元へ帰るのだ。
歩き出そうとした舞花は、不意に斜め前方から、誰かの強い視線を感じた。
足を止めたまま、そちらを向きもせず、舞花はその場で身構えた。
あの感じに似ている……パパラッチの、カメラのレンズが光る感じに。
そして舞花は、「ガシャン」という、何かが地面に落ちる音を聞いた。
反射的に振り向くと、そこに、一人の男が立っていた。
男の足もとに、茶色いトランクが転がっていた。金属の鋲が打ってある。音の正体はこれだった。
しかし、それよりも舞花は、男の着ている服のほうに目が行った。
シャツの模様は、中央の開きから、左右でアシンメトリーになっており、それぞれが水玉とボーダーという、派手さだった。くるぶしより上のパンツと、素足に革靴を合わせている。そして頭には、麦わら帽子。また顔には、黒縁のメガネ。
男は少し驚いたような表情を、その顔に張り付けて立っていた。視線は、ずっと舞花に注がれている。
舞花が無視して顔を伏せ、また一歩、建物へ踏み出そうとすると、
「あっ……」
と、言って、男は自分のトランクに手を伸ばした。
男の行動が気になってしまい、舞花は歩き出せなかった。
男はトランクを開けて、中からスケッチブックを引き出した。派手なシャツの、胸ポケットに差していた鉛筆を持ち、忙しそうに何かを書き始めた。左利きだった。
舞花がいるか確認するように、時々顔を上げて見る。
そのうちに舞花は、彼がこちらの姿を描写しているのだということに、気がついた。
舞花はスーツケースをそこに立てて置くと、サンダルの靴音を強く鳴らせて、男に近づいてから、言った。
「ねえ、失礼じゃないかしら?」
男は慌ててスケッチブックを小脇に下ろした。
「ああ、あまりにも美しかったので……すみません」
自分への褒め言葉を聞いて、少し微笑みかけたけど、次の瞬間舞花は、後ろでまた「ガシャン」という音を聞いて、振り返った。
「あー、荷物が」
と男が言って、倒れた勢いで坂道を転がってゆく、黄色いスーツケースを指差した。
傾斜に沿いつつ起き上がり、それは体勢を立て直した、かと思うと、そのまま滑らかに加速していく。
ゴロゴロゴロ……と遠退いてゆく車輪の音を聞きながら、舞花は深いため息をついた。しかしすぐに、男が言った。
「取ってくる」
舞花の手にスケッチブックを預け、男は軽やかに走って行った。
スケッチブックに描かれた、何本もの細い線。
舞花はそれをじっと見つめた。
真っ白な紙に、描きかけの自分。まるで消えかけたような、今の自分を想像させる……。
「三鷹様」
アパルトマンのほうから、太い声で名前を呼ばれた。
「ようこそ、三鷹様。お早いお着きでしたね」
中年の男が、出迎えで来ていた。
「初めまして。オーナーの多田です。あの監督とは、古い友人でしてね。彼に言われた通り、送られたお荷物はもう、部屋の中に運んでおきましたよ」
「ありがとうございます」
舞花はスケッチブックを、地面に寝ているトランクの上に、そっとのせた。
「そちらもお運びしましょうか?」
オーナーの問いかけに、舞花は微笑んで答えた。
「いいえ。それよりも、私がここに入居するということは、くれぐれも内密でお願いします」
「ええ、その件は承知してます。もうお気づきかと思いますが、この辺りはずいぶん、人通りも少ない街でしてね。坂の上には、このアパルトマンしかございません。こんな寂れた田舎に、一流の芸能人が来たと知れたら、街中の人々が総出で、坂に押し寄せることでしょう。そんな危ないことは、できませんよ」
ハハハ、とオーナーは、ポロシャツの上からでも分かるほど、お腹を揺らせて笑った。
「ああ重い。何が入ってるんだコレ」
先ほどの男が、舞花のスーツケースを持ってきながら言った。「ありがとう」と声をかけて、舞花が受け取る。
その時、強い突風が吹いて、男のかぶっていた麦わら帽子が、後方へと飛ばされて行った。
「ああっ!」
叫びながら、男が帽子を追いかける。上ってきたばかりの坂を、すぐにまた下って行った。
オーナーは舞花に、にこやかな笑みを見せて、落ち着いた声で言った。
「それでは、お部屋へご案内いたします。指示通り、お荷物の一部は、すぐに使えるよう準備させてもらいました。長旅でお疲れでしょうし、ゆっくりとお休みになってください。あ、それから……あいつはうちのバカ息子なんですが、どうぞお気になさらずに」
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