アパルトマンで見る夢は
1 椅子
白髪頭の監督は、お辞儀をするように下を向き、その顔を両手で隠した。
体が前へ傾いたことで、彼の座っていたパイプ椅子が、キィ……と小さな音を立てた。
静まり返った広い部屋に、その音だけが通って聞こえた。
数秒後に、ピタピタ、と、裸足の足音が近寄ってきた。
自分のすぐ正面で止まるのを、監督は闇の中で感じ取った。
両手をそっと顔から下ろして、目を開くと、白くて細い足が二本、きれいに揃っているのが見えた。
「駄目だ」
監督はかすれた声を上げた。白い足がわずかにずれた。
「お前は、キミカじゃない。キミカならもっと、上手くできたはずだ」
「私には無理です」
か細い声で、彼女は言った。
「私にはまだ、この役はできません。セリフが頭の中で、空回りして、どうしても掴めなくて……」
足先が後ろを向いた。
監督は、膝に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。パイプ椅子がまた、先ほどと同じような音を立てた。
背を向けた彼女を見る。緩いウェーブのかかった栗色の髪が、青いワンピースの腰の辺りまで伸びている。
今度は彼女が、両手で顔を隠していた。肩がかすかに揺れている。
監督は、声を低くして、孫ほどの年の離れた娘を、諭すように話した。
「俺は、お前の才能を、買ってるんだ。できるようになるまで、稽古をつけてやる。キミカがしたように、お前もやればいいんだ。お前にとっては、至極、簡単なことじゃないか」
「だから私は、キミカじゃないのよ!」
彼女の叫びは、がらんとした部屋の壁に当たって、監督の耳に痛く響いた。
「私は、舞花よ。それ以上の何者でもないわ。何度やれと言われても、今の私には、キミカのようにはできないのよ」
監督の口から、大きなため息が出た。固く目を閉じると、眉間のシワが、さらに深く刻まれた。
「よし。ならば、こうしよう。お前に時間をやる。その代わり、俺の提案を呑んでくれ。ここに、キミカを連れてこい」
舞花は大きな目を監督に向けた。監督の口から、低く絞った声が放たれる。
「キミカを、ここに連れてくるんだ。これは、お前にしかできないことだぞ」
監督は上着のポケットから、茶色い手帳を取り出して、その場で素早く走り書きした。
破ったメモを、舞花の手に握らせる。舞花は無言で、そのメモに視線を落とした。
地名と番号が、筆圧でついたへこみとともに、右肩上がりに羅列していた。
「行け。彼女が見つかるまでは、この稽古場へは顔を出すな」
小さく「はい」と言って、舞花は逃げ出すように、裸足で部屋を駆けて行った。
その足音が消えるまで見送ったあと、監督はポケットに手帳を戻しつつ、言った。
「はたして……」
独り言の続きを、監督は胸の内で、短くすませた。
舞花は、あの子に出会えるだろうか……。
そして再び、古いパイプ椅子に、深く身を沈めた。
錆びた椅子の短い悲鳴は、自分の心の声を、忠実に代弁したかのように、監督には思えた。
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