4 リンゴ


 キッチンの棚にあった果物ナイフを、キレイに洗い、オレンジを切った。


 同じ棚から白い皿を取り出し、それも洗って、切った身をそこに並べる。


 寝室に戻って、丸い机の上で食べた。


 朝食はいつも、味気ないサプリメントを噛んでいたから、とても新鮮な気分だった。


 窓から白い朝日が差し込む。鳥の影が横切ってゆく。ゆっくりとした時間が流れる……。




 青いワンピースに着替えた舞花は、昨日の服やタオル類を、洗濯機の中へ放り込んだ。


 洗剤は、床に置かれたダンボールの中にあった。その他にも、ここから昨日、シャンプーやリンス、ドライヤー、歯ブラシなどの日用品を発見し、使用した。


 メーカーはすべて舞花の知らないものだった。これらすべてが、監督の好みによるものなのか、それともマネージャーが用意したものなのかは、謎だった。


 ただ分かったことは、名の知らない安物であっても、それなりには役に立つ、ということだった。


 洗濯機の使い方は分からなかった。


 ボタンに書かれた文字を見ながら、なんとなく適当に押していくと、機械音が鳴って、動き始めた。


 洗濯物は、浴室の上から吊るされていた竿に、引っかけて干した。




 テレビもない、新聞もない。


 ファッション雑誌も、漫画も、ラジオもない。携帯さえも、置いてきた。


 舞花は椅子に座って、窓からの景色を、ただずっと眺めていた。


 人も車もまばらだった。動かない建物だけが、陽に反射したり、雲に陰ったりしていた。


 時計の針が十一時を指す。


 買い物に行こう、と舞花は思った。


 坂道は長くて疲れるけれど、いい運動になるもの。それにまた、あの要二という人に会えるかもしれない……。


 舞花は鏡を見ながら髪をくくると、サングラスをかけ、部屋を出た。




 アパルトマンのすぐ前で、昨日はなかったものを見た。


 木のイーゼルに立てられた、小さな看板。カラフルな色で、「かけるくんの似顔絵コーナー」という文字が、ポップな字体で描かれていた。


 その横に、古びた木の箱が三つあり、三つとも側面に、リンゴの絵が薄く印刷されている。


 一つの箱の上には、無造作にスケッチブックがのっていた。


「きみに似た人を、知ってるよ」


 突然、オーナーの息子の声がした。手に何本もの鉛筆を持ち、アパルトマンから彼が出てきた。


 赤と青という、非対称の色合いの、小さな花模様のシャツを着ていた。頭には、大きめのベレー帽をのせている。顔には黒縁の、昨日と同じメガネをしていた。


 この人は、いつも派手な人なのね……、と舞花は思った。


「僕だよ。僕ら、似ている気がするんだ」


 息子は親指を立てて、自分のことを指しながら言った。


「父さんに言われたよ。客に手を出すなよ、ってさ。そう言われると逆に……ああ、何でもない。とにかく、きみは女優で、僕は絵描き。同じ芸術が分野の、仲間ってわけさ」


 舞花は何か言い返そうと、その口を開きかけたが、いいセリフが思いつかなかったので、それで、黙って立っていた。


 息子は木箱の一つに腰掛けて、鉛筆を、一緒に持ってきていたカッターナイフで、削り始めた。


「昨日の続きを描きたいんだけど、座ってくれないかな……」


 鉛筆に目を落としたまま、彼が言った。


「お金は要らない。もしきみに、時間があったなら……」


 時間なら山ほどあるわ、と舞花は心の中で言った。


 そして、普段あまりしたことのない、暇つぶしというものを、この時、舞花はしてみようと決めた。


 座り心地の悪い、がたついた木箱に座ると、舞花はサングラスを取って彼を見た。


「私は、三鷹舞花。あなたの名前は?」


 彼は鉛筆の先で、イーゼルの看板を示しながら言った。


「かけるくん。字を書けるとか、絵を描けるとか、これはペンネームみたいなものだけど。もっと深い意味合いでは、橋を架ける、っていう解釈もあるんだけど、ちょっとややこしいから、かけるでいいよ。ただのかける。僕は、多田のオーナーの息子で、多田かけるだよ」


 そう説明しながら、かけるの口は笑っていた。


「ごめんね、きみのことはあまり、知らないんだ。テレビも見ないし。おまけに僕は、ついこの間まで、三年間パリで暮らしていたからね。じゃあ、お願いします」


 削り終わった鉛筆を左手に、スケッチブックを右手に抱え、かけるは小さくお辞儀した。


「喋っててもいいかい?」


 聞かれて、舞花は「どうぞ」と言った。無言で見つめられ続けるよりは、話しているほうが気が楽だった。


 それに、自分のことを知らない人と、気兼ねなく話ができるという、珍しい体験をしてみたかった。


 かけるは、悪い人じゃなさそうだ。服装は奇抜だけれど、芸能界ではもっと特殊な人たちを、舞花は大勢、この目にしてきた。個性については、人より理解はあるつもりだった。


「それで、芽が出なくて帰ってきたけど、相変わらず絵は好きなんだ。パリではまあ、勉強になったよ。似顔絵師には、カリカチュアっていって、客の顔を誇張する技法も、よく使われているようだけど……僕は絵を、写真のように描きたいのさ。風景画も、もちろん描くよ。ここからの眺めは……」


 かけるは手を止めて、一度、周りの景色に目を馳せた。またすぐに、鉛筆を紙に走らせる。


「住んでいたパリの、モンマルトルの丘に似ているんだ。あんなに華やいだ街じゃないんだけど、なんとなくそう思えるんだよ。どうしてかな……。吹く風は同じ、って、そんなふうに言っていた人もいたっけ……」


 かけるは舞花の顔とスケッチブック、交互に視線を巡らせながら、その時、少しだけ押し黙った。


 静かな丘の上で、ただ鉛筆の、カリカリ、シュッシュッ、ササササ……という、細やかな音だけが、舞花の耳に聞こえていた。


 心地よい風が、坂の下のほうから吹いてきて、舞花の青い服が揺れた。


 風の音に混じって小さく、「キレイだな……」と、かけるの呟いた声がした。


「当ててみせようか」


 かけるが、囁くような小声で言った。


「きみはスランプに陥っている女優だ。そしてここへは静養に来たんだ」


 舞花はさっと席を立った。不意に、歯がゆいものが心によぎった。


 かけるは手を止めて、立ち上がった舞花を見上げた。黒縁メガネを手で直す。


「行かないで。僕たちは同じだ。発揮しきれない才能を、一人、持て余しているんだよ」


「分かったようなこと言わないでよ」


 舞花は慣れた手つきで、サングラスを目にかけた。


「私は、人を探しに来たの。キミカは、ここへ来てくれるはずよ、絶対に……」


 言ってから、舞花はぱっと、口元に手を当てた。かけるは座ったまま首を傾げる。


「きみか? 誰だろう……。もしよかったら、僕も探すよ」


 それを聞いて、舞花はだんだん、おかしさが込み上げてきた。唐突に笑い出した舞花を、ポカンとした顔で、かけるは見ていた。


 舞花はサングラスをまた外して、浮いた涙を指で拭った。かけるに向かって、優しく言った。


「ごめんなさい、おかしくて……。でも、あなたには無理よ。大丈夫、きっとキミカは来てくれるから。心配してくれて、どうもありがとう」


「ああ……」


 よく分からないながらも、かけるは舞花に頷いた。


「笑ったらお腹空いちゃった。続きは、また今度でもいいかしら。スーパーに行かなきゃ。冷蔵庫が空っぽなの」


「うん、もちろん。僕はずっと、ここにいるから」


「じゃあね」


 サングラスをし直して、舞花はかけるに手を振った。


 かけるの眼差しが、ずっと見送ってくれているのを、舞花は背中で感じていた。


 才能を、持て余す……か。


 舞花はかけるの言葉を、歩きながら思い返した。


 物思いにふけりながら歩いていると、スーパーへは、あっという間に着いた気がする。


 入ってすぐの青果コーナーに、リンゴがたくさん売られていた。偶然だろうか。さっき、かけるが座っていた木箱と、同じ箱に入れられていた。


 今日もオレンジを食べようと、買い物かごに入れていたけど、それは元の棚に戻して、舞花は、リンゴを一つ手に取った。


 そのあと、店内を二周回ってみたけれど、要二の姿は、見られなかった。




 キッチンに立ち、ナイフでリンゴを切り分ける。


 一口食べてみて分かった。硬い……。もう少し、冷蔵庫で寝かせておこう。


 リンゴの断面を見て、舞花はふと思った。


 私もかけるも、同じなんだ……。才能を秘めた、若いリンゴ。


 きっと、これからだと思う。


 諦めるにはまだ、早いのよ。


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