第2話 風の季節



 ——サァッ


「誰か?」


 草の揺れる音がして、振り返った。当然のことだけど返事は無い。目に入るのは踏み固められた土ともう道の目印以外の役目をなしていない壊れかけの柵だけ。


 ……鹿か何か、かな。


 恐らく何かの動物だったのだろう。少し気が張り詰めていたらしい。気を取り直して、再び前を向いた。あの後ポトノージェふもとの町から馬車で近くの町まで行って、後は山道をひたすら。今はちょうど森を抜けて小さな湖の畔に出るところだ。


 ヒュウッ!


「——っ!?」


 視界が広がった途端、風に帽子を飛ばされそうになって思わず立ちすくむ。鏡になって対岸のブナ林を映していた湖面が乱れた。

 ……頬が刺すように痛い。風の冷たさのせいなのか、巻き上げられて当たった小枝のせいなのか。


 朝はまだ息が白くなるのだから、カーディガンも持ってきていて正解だった。本当に春が来たのか疑いたくなる。それでも……


 平原に顔を出した何種もの草の下で時折足元を彩るクロッカス。春が来たことの証左だ。都会に住んでいては中々見られるものではない。これに小鳥か蝶でもいた時には。


 ……釣り小屋で休もう。せっかくだし、少し湖を見て行っても罰は当たらないさ。


 湖畔の小屋が目に入って、そんな考えが浮かんできた。しばらくの間ここを眺めていたいと思ってしまうのは仕方がないと思う。山地なら大抵の場所にある景色でも、煙で塗られた都市とは比べ物にならないほど綺麗。


 釣り小屋……。もしかしたら、山を歩くのは無理でも釣りくらいならできるのではないだろうか? 考えてみれば釣りなんてやった事がなかった。我ながら良いアイデアかも……いや、良いアイデアだ! 休暇の間にまた——


「ゴホッ、ゴホッ……!」


 考え事に気を取られて立ち止まった途端、初めて自分の息が荒いのに気が付いた。肩の上下と一緒に呼んでいない咳まで出てくる。思ったより無理をしていたらしい。荷車くらい……用意して欲しかった。不可能なことでも無いだろうに。賃くらいなら、僕が払うから。


 そもそも体調の悪い人間にこんな距離を歩かせることが間違っているんだ。これじゃ何のための療養か分からなくなる。逆に悪化させるような事をして……


 心の中で恨み言を吐いているうちに、小屋の前に着く。不満なんて、懐かしさに吹き飛ばされてしまった。片手で数えるくらいだけど、昔に連れられて休憩に使った事があるんだ。故郷に少しずつ近づいているんだとようやく実感が持てた。

 思い出に浸る間もなく、ドサっと音を立てて置かれた旅行鞄トランクの横に、崩れ落ちるように座りこむ。外の長椅子ベンチを借りることにしよう。小屋に入るには鍵がいるから。息をついた後に出てくるのはなんともいえぬ解放感。


 ……歩くことに退屈していたのかな。懐かしい風景というのが唯一の救いだったけど。


 馬車があるのは近くの町——故郷にいた頃みたいに、隣町と呼んでも差し支えないだろう——までだ。荷車を捕まえられなければ、どうしてもそこからはひたすら歩くことになる。存外登り坂の多い道を話し相手もなしに。まぁ、


「故郷が待っていると思えば……——ゴホッ」


 案外なんとかなるものだ。まぁ向こうに着いてから数日は安静にすべきだろうけど。そう思いつつ、咳を落ち着けるべく深呼吸。長椅子——と言ってもほとんど丸太を切ったそのまま——からキシッときしむような音がしたけど、今はそれに構っている余裕もなかった。


 寄りかかっている小屋の壁もしなってしまうから、ひょっとしたら少し腐っているのかもしれない。水の近くにあるのだから仕方ないけど。


 一息ついた後に懐中時計を取り出した。陽の高さから薄々察していたが、もうすぐお昼時らしい。そう分かった瞬間、お腹が空いてきた。

 ……おかしいなぁ、午前中には着くと思ったのだけど。よもや12の頃の僕に体力で負けていないだろうか?


 グゥゥ……


 嫌な疑問が浮かんできたが、お腹の音で思考が中断される。まだ辛うじて食欲は残っていたらしい。同時に、今朝食べられなかった分のパンを持ってきていたのだと思い出した。持ち合わせがあるだけ幸運だ。あまり、気は乗らないけど——


 ——ザァッ!!


 え……?


 一際大きな風が吹いた。帽子ばかりでなく荷物や上着まで飛ばされそうな。危うく無くしてしまうところだった帽子を被り直して目を開いた刹那、思わず目を釘付けにされる。


「……君は、」


 いつの間に現れたそれに、恐る恐る手を伸ばしてみる。思った通り僕の指は表面を捉えることなく向こう側へ

 雪のようにこぼれ落ちていく鱗粉。ガラスみたいにキラキラしているくせして感触のない体。やっぱりそうだ、間違いない。


 あえて、形容するなら……感動の再会といったところだろうか?


「久しぶりだね、精霊さん。元気にしてた?」


 その一言をかけてから少し手を引いて指を差し出すと、昔のようにそこに留まってくれた。こちらからは触れないのに。不思議なものだ。

 精霊さんがパタパタと羽を震わせる。さっきの質問の返事。こっちは確か是という事だった。


「良かった、心配してたよ。3年前くらいにも来たんだけどさ、あの時は2日しか居れなくてね。探せなかったんだ」


 一通り喋った後、質問を考え始める。これ以上話していると、そろそろ彼が困ったようにゆっくりと羽を上下させる頃合いだ。彼は「はい」か「いいえ」でしか答えないから。


「えっと……君はあれからもここに居たの? みんな元気してるか、分かる?」


 ……彼は微動だにしない。是なら羽を震わせるはずだ。否、か。予想通りといえば予想通り。精霊さん、結構気まぐれなんだ。猫といい勝負になるくらいには。


「へぇ、ならふもとの方へ行っていたとか」


 ……否。


「それなら山の方だ」


 ……否。


「待って、遠くに行ってたの? もう心あたりがないよ。そうだね……」


 彼の行き先を聞くのは至難の業らしい。喋れるなら喋ってくれればいいのに。御伽話とかだったら、精霊は——


「——あれ、もう行くの?」


 彼が僕の指から飛び立って思わず声をかけた。聞こえたと思うのだけど、彼が戻ってくる気配はない。

 ……飽きられちゃったか。一瞬そう思ったけど、精霊さんは森に消えるのではなく近くで留まっていた。だいぶ朽ちているように見える看板。まだかろうじて倒れる気配はない。湖の名前が書いているものだ。


『北湖』


 名前はそれだけなのに、なぜかの部分に目が吸い寄せられた。精霊さんがその単語の真上にいるからかもしれない。察せ! と言うことだろうけど。


 北……「方位で聞け」とでも言いたいのだろうか。


「もしかしてさ、北に行っていたりする?」


 ……是!


「じゃぁ僕の街の方か! 家の近くまで来たりとか?」


 彼が近くまで来ていたと考えると、途端に嬉しくなってくる。寂しさが和らぐ気がした。街に連れられた時もあまり物を持っていけたわけじゃないから。期待を込めて、返事を待った。


 ……是だ!


「なんだ、せっかくなら会いに来てくれれば良かったのに。あ、それとも君も煙には弱いのかい?」


 ちょっとした不満を口にしてしまったけど、会わなかったのではなく……会えなかったのだろう。空気の綺麗なところに居た人間には都会の空気が合わないと言うのは、僕の経験談だ。


 ……是。思った通り。


「そう。それなら似たもの同士だね」


 ハァ……


 一つため息をついて、開きかけていたトランクからさっきのパンを取り出した。向こうに着いてから何か調達しないと。昼食にするには少し足りない。まぁ、小腹を満たす分にはこれでもいいか。


 ケールと塩漬け肉、それにチーズの挟まったパン。ライ麦パンロッゲンブロートと言うやつだ。パンと言ったら小麦のパンの次にこれなのだけど……僕はあまり好きじゃない。なんと言ったって——


「——……酸っぱい」


 麦の味が際立って美味しいのは分かる。小麦のパンに比べて腹持ちがいいのも理解している。けれど結局、突き上げるような酸味のせいで全てが押し流されてしまった。

 いつも1口目は食べられるのだけど、どうしても2口目が続かない。しばらく持て余した結果、そっとマットを敷いてその上に転がした。


 ……これ以外があるわけでもないのに何をしているのだか。


 どうして店に行ったらこれしか残っていなかったのだろう? 小麦のものやじゃがいも料理でなく、よりにもよって。そう疑問を呈するのは、今日何度目かわからない。


「そのパン、いる?」


 食べ物を放っておくのは気分が悪くて、もしかしたら引き取ってくれないだろうかと精霊さんに聞いてみる。いや、でも多分……


 ……否。


 まぁ、こうなるか。彼が何かを食べている姿なんて想像もつかない。花の蜜くらいは吸うのかな。蝶みたいだから。


「そうか……。これ、どうしよ」


 返答しつつ、次の手を考える。朝にあまり食べられなかった分少し無理しても食べるべきか、このままでいいから行くべきか。


 ……もういい。腹ごしらえが無くてもなんとかなるさ。今は休もう。それがしばらく考えた末の結論だった。


「じゃぁ、しばらくここにいることにするよ。これは後で食べるさ」


 ……気が向いたらの話だけど。


 後ろの壁に体重を預けて、そっと深呼吸をしてみた。ここは空気を気にしなくて済むところがいい。それに平和なところも。鷲が空を飛んでいることは例外かもしれないけど、それも人にはあまり関わりないことだ。


「そういえばさ、土産話とかは無いの? 他の土地の話とかあれば聞きたいな」


 ……街からは滅多に出ないからなぁ。僕の養父の仕事柄、離れられないと言うほうが正しいけど。


 緩やかに、羽が上下する。困った時の仕草。彼が沈黙を破ることはなかった。


「話せるなら話してくれればいいのに」


 ……否、か。


 少しは我儘わがままを聞いてくれてもいいじゃないか。せっかくの再会なんだから。まぁ……喋れないのかもしれないし、あるいは喋るつもりなど毛頭無いのかもしれない。どちらにしても、彼をこれ以上困らせるのはやめておこう。湖の方に、目を移した。


 風が吹き止んだせいで、太陽が存在感を増している。こうなると朝や街での寒さが嘘に思えてくるんだ。土地が高いから太陽により近いのか、忌々しい雲や霧がないからか。ここは意外と日向ぼっこに向いていると、離れてから知った。


「……今から昼寝したら風邪ひくと思う?」


 ……是。


「だよね。やっぱりもう行った方がいいかも」


 このままだと眠ってしまいそうだ。思ったよりも心地が良い。パンッ、パンッと頬を叩く。体に軽く喝を入れてから、立ち上がった。

 ……当然のように襲ってくる立ちくらみ。これは下手をすれば寝込むことになるかもしれない。伸びをしながら、そんなことを考えていた。


「じゃぁ、僕は先に行ってるよ。次はいつ会えるかな」


 喋ってくれないかと思って「はい」か「いいえ」じゃ答えられない質問をしてみたが、予想通りだ。どっちつかずに羽が少し動くだけ。これ以上足掻くのはよそう。


「ごめん、もう意地悪しないから。今週中には会える?」


 そう言ってしばらく待とうが、一向に彼の羽は動かない。……嫌な予想が浮かんできた。まさかとは思うけど、このまま他の場所へ? 彼なら、あり得る話——


 ——じゃぁね。


「……え?」


 ——人が来るから。


「待って! 君、喋っ——」


 ヒュウッ!!


 再びの風に、帽子をおさえた。風が吹き止んだと思ったのは束の間のことでしかなかったらしい。考えてみれば当たり前のこと。今は風の季節だ。


 目を開ける頃には、精霊さんの姿は掻き消えていた。

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ガーネットの影 音瀬 りょう @Copacabana

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