ガーネットの影

音瀬 りょう

第1章

第1話 幸先


 車窓の風景が、今にも止まりそうなほど遅くなっている。つい先ほどまで農地が広がっていたというのに、いつの間にやら市街に入っていた。


 クソッ、どうして……


 本を閉じて心の中で毒づく。気分が悪い。以前は乗り通しても何とも無かった筈なのに。どうも吐き気というのは、中途半端に微温ぬるい2等車の暖房と相性が悪いらしい。それに、


 ……懐かしい景色筈なのに感慨の一つも浮かばないのはどういうことだろうか。


「3年ぶりか」


 そう呟いてから、まだまだ気が早いと気づいた。我が家に着くのは明日の昼だ。今から行ったのでは森の中で日が暮れてしまう。ここでひと晩泊らなければならない。

 我が家……ね。自然にその単語が出てきて少々驚いた。別に今の家の居心地が悪いわけではないのだけど。3年の外泊から帰ってきた気分、と言ったところ——


「——ゲホッ、ゲホッ!」


 あぁ、せっかく感慨が顔を出して来たというのに。咳と一緒に胃の中身まで出てしまいそうで……


 まして決して公衆の面前で吐くことはすまいと唾を飲み込んでから、立ち上がった。列車から降りることを考えると少し気が楽になる。もう何時間も土を踏んでいないことだし。


 ……酔ってしまうとは思わなかった。


 歩きながら額に手を当てる。眩暈めまいまでしてきたことを鑑みるに今日は体調が悪いらしい。こちらの空気は街と比べると相当いい筈なのだけど。まずい、人にぶつかるわけには……


 とうとうドアを開けて小さなバルコニーのような——正式な名前は知らない——場所に出ると、キキィッ、耳障りな音を立てながら汽車が止まった。

 同時に立ち込める煙の匂い。木を燃やした煙よりは硝煙……いや、建国記念日にあげる花火の匂いと形容すべきだろうか。汽車なんて滅多に乗らないから新鮮でもある。


 ようやくだ。やっとホームに降りることができた。自分の立てる靴音で、今立っているのが石の上……地面だと実感する。冷たい風が心地良い。平地であればこのような丁度いい強さで吹いてくれるのだけど。


 ……生憎、これから行くのは山地のただ中。今頃も誰かの帽子が吹き飛ばされているかもしれない。


「ハァッ——……ケホッ」


 寒い。もう4月で、今は昼すぎなのにも関わらずだ。南の山岳地帯は、北の海沿いと比べ物にならないほど気温が低い。身体が弱くなったせいか長く暖かいところにいたせいか、やはり寒さに弱くなっている。毛布を持って来て正解だった。


 天気が気になって空を見上げる。この時期は滅多に雲がかからないのだっけ。平年の通り、晴天だ。上を見ながらくるっと一周回ってみる。雲一つ——


 ——……駅舎のほうに目をやって、気がついた。僅かばかりの雲と一緒に見覚えのない時計台が乗降場の屋根の上から覗いている。この駅にあんな時計台などあっただろうか?


「……あぁ、駅舎を建て替えたのか」


 新品同様とも言える材木を見て納得した。見たことのない土地に放り出された気がして怖くなったけど、看板にある文字は変わっていないし、よく見れば建物も所々面影を残している。目的地を通り過ぎたりしたわけではない。


「ここも変わっちゃうのかな……」


 しばらく新しい駅舎を眺めていたが、安堵の中に寂しさが出てきて思わず呟いてしまった。知っている場所が変わっていくのはあれで少し悲しい。廃れる訳で無いのならば、歓迎しなければならないのだけど。


 独り言が多くなった気がする。いや、今更気にしたところで無駄かもしれないけど。ずっとこうだ。


 ……向こうに着けば多少は気分が晴れるだろうか?


「——もし、ゴウォンプキロールキャベツはご入用?」

「え……?」


  物売りの老婆に、声をかけられた。駅舎から目が引き戻される。突然声がかかってきて驚いたけど、周りを見れば自分の他にもホームで売られているもの目当てに人が降りてきていた。が、彼女の前には自分以外の誰もいない。昼食にはまだ早いせいだろうか。


 ……どうしたものか。そういえばずっと汽車にいたせいで朝食すら食べ損ねていた。よほど大きな駅でなければ5分と停まってくれないせいで中々降りて買う事ができなかったのだ。

 かと言って、お腹が空いたわけでもないけれど。パンに挟まれたそれと自分のお腹を見比べる。とても食べ物が入るとはおもえない。気分の悪さは相変わらず。けど……


「……1つ頂きます」


 まぁ、これも縁だろう。時間が経てば、きっとお腹も減るさ。これを30分も手に持っていられないという事はない筈。


「昨日に作ったものはありますか?」

「おぉ、幸運だったね。1つ残ってるよ。きっと美味しいだろうさ」

「確かに」


 この料理は一晩置いた後が、一番美味しい。


「見たところ隣国ウェールトリアの人のようだけど、こんなところに来るなんて珍しいこともあるものだね」


 彼女が、ロールキャベツゴウォンプキをパンに挟む間に聞いてくる。あぁ、またかとうんざりしそうになるが……この手の話はもう慣れた。


「ハハッ、これでも祖父の代からの共和国オルクビア人なんですよ?」

「じゃぁあんた、革命の頃の……。なるほどね」


 思い当たる節はあったようで、老婆は納得してくれた。革命期に英雄的な活躍をした外国人連隊というのは、有名な話だ。


「さて、そういうことならソーセージをひとつおまけしようじゃないか。英雄の子孫に会えるなんて私は運がいい」

「……そうですか。ありがとうございます」


 もっともそれは僕の養父の父の話で、実の祖父ではないのだけど。こう言う扱いをされると少々気まずい。


「ほら、どうぞ。お代は90ペンゲーだ」

「じゃぁ100で。ありがとう」


 少々饒舌な老婆からそれを受け取った。紙幣を手渡してようやくというべきか、歩き始めた。


「1人旅は大変だろうけど、気をつけるんだよ!」

「えぇ、そちらも!」


 さて、時間には少し余裕がある。これを食べた後は、ひとまず町で蕾のドーナツポンチュキでも売っていないか探してみよう。今は甘いものが欲しい。


 そんなことを考えながら陸橋の階段に足をかけた。今は建物で見えないけれど、確かこの上は……——


「——痛っ」


 ……1段目を上がったその時、、足に旅行鞄トランクがぶつかった。まさしく足を引っ張るように。あぁ、分かってはいたけど少々重い。流石に荷物を詰め込みすぎたかもしれない。前と比べたら幾回りも小さくなってはいるけど。


 さて、そんな些事はともかくとして……


 陸橋の中程に差し掛かると、建物の横から山が顔を見せてくる。それも1つの山じゃない。だ。もっと大きい山ならいくらでもあるだろうけど、雄大というに差し支えない筈。もう言ってしまっても早すぎることはないだろう。3年ぶりだ! 帰ってきた!!


 ……あの山の向こう側へ行くのか。


 そう思うと、先ほどふけり損ねた感慨が再びやってくる。やっぱり、こうでなくちゃ。ここはポトノージェふもとの町。名前の通り、ここから南はそれこそ大陸の向こう側まで山が続くのだ。同時に南西部でも指折りの都市であり、共和国オルクビアの半分の川の源でもある。

 ……山に雲がかかっていないということは、明日は晴れるみたいだ。色々忘れてもこんなことだけは覚えているのだから不思議なものだけど。


 また山を歩けるかな。木こりや狩猟の真似事ができなくても、山菜を採るくらいなら。久々に胸の高鳴りというものを覚えたかもしれない。向こうにいる間だけでも昔みたいに——


 ——待って。途中で倒れたりしたら迷惑をかける。大人しく……しておこう。


「コホッ……」


 煙を吸ってしまった……。どうしてこう、感動的な場面に限って邪魔が入るのだか。口元を覆いつつ陸橋を渡る足を早めた。


 ……幸先の悪い。せっかく僕の街の煙から逃げてきたというのに。


***


 草の揺れる音が、響き渡る。


「こんにちは、かな。久しぶり」


 木の向こう側から姿を表したそれに声をかけた。そもそもこちらの声を聞いているかも分からないのだけど、反応はしてくれるので聞こえているのだろう。彼、あるいは彼女が扉の横に置かれたホウキに留まる。

 私たちが昔と呼んでいたそのままだ。


「あなたがこっちに居るなんて珍しい。カミルのそばに居なくていいの?」


 この精霊はいつも街へと人物の後ろについていた。その人が最後に帰って来てから……


 もう、3年経ってしまうのか。


 彼といえば、『近いうちに帰ってくるかもしれない』という手紙があってから果たして何日経っただろう。いまだなんの音沙汰もないなら取りやめになってしまったのかもしれない。


「あなたが居るならさ、もしかしてカミルが近くまで来ていたりとか?」


 彼の羽は微動だにしない。否、ということだ。是なら羽を動かすはず。少々落胆してしまうのは仕方ないと思う。


 ……あの人は頭がいいから、こういう辺鄙な場所にいるより街にいた方がいいのは分かってるんだけど。


「まぁ、気まぐれで来たのならゆっくりして行ってよ」


 一旦話を切り上げて、羊小屋の扉を閉める。外はもうだいぶ陽が傾いていた。明日の朝は特別早いから急いで仕事を終わらせないといけないのに。チーズのために羊乳を絞り始めるから。

 まぁ、山に雲がかかっていないということは次の日は晴れてくれる。きっといい日になるだろう。チーズ作りも、嫌いじゃないし。燻製にするときの煙を除けば、


「さて、私は先に帰るけど、精霊さんは——」


 ——……え?


「ハァ。まったく……」


 特大のため息をついた後、軽く項垂れる。振り返った時には彼は姿をくらませていた。思えば昔はいつもこんな別れ方だったのだけど、遊ばれたみたいで少し腹が立つ。


 ……ガラス細工のくせして。


「あ、ちょっと懐かしいかも」


 彼に撒かれるのも、この捨て台詞を吐くのも。最初は隣町でそれを見て感動したからつけたあだ名だったんだけど——


「——おーい! ヨハナ!」

「っ!?」


 前触れもなく後ろからかかった声に思わず竦んでしまったけれど、それが父さんの声だと理解するのに時間は掛からなかった。見ると、こちらに一目散に走ってきている。


 ……どうしたんだろう、そんなに急いで。急病人?


「大変だ、今隣町から号外が来たんだが……あぁ! もういい、来い!」

「え、ちょっと待ってよ!」


 号外……? 珍しい。たとえ国の総統が変わってもここには号外なんて来ないのに。が、私が詳しいことを聞こうとする前に、父さんは説明するのが面倒になったらしい。口を開く前に取って返してしまった。


 ……走るのは得意じゃないんだけど。


「仕方ないかぁ……。行くよ、トーシャ」


 彼女を腕に抱えたまま、深めに息を吸い込んだ。

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