第9話

 病院に着き、受付であの人の病室がどこか聞いた。初めに対応してくれた人には怪訝そうな顔をされたけど、私と翔也くんが話しているのを見かけた看護師さんがいて、なんとか信じてもらえた。私は「面会」と書かれた札を首から提げ、彼女の病室へ向かった。


   *   *   *


 綺麗な、人だった。

 いや、正確には、綺麗だったのだろうと感じられる人だった。翔也くんとは違いくりくりとした可愛らしい目で、眉間から綺麗に通った鼻や控えめな口元は彼とそっくり。そんな端正な顔立ちだけれど、目元の隈や頬に深く刻まれた皺、白髪の混じり伸びきった髪、そして疲れきった表情が、美貌を消し去ろうとしている。踏みつけられた枯れる寸前の花のようで痛々しかった。

 ドアを開けた瞬間、こちらを見たその人は、無言で私を見つめて、誰? と言った。私は何も言わずに傍まで行き、ベッド脇の収納棚に飾ってある写真を指し示した。

「『除け者少年』の翔也くんですよね。好きなんですか?」

 とっさに出たのが、それだった。唐突すぎて、自分でびっくりした。なのに、彼女の顔に差した表情は、驚きじゃなく嬉しさだった。瞳が急に生気を帯びた。

「ええ、大好きなの」

 そう口にして写真を手に取り、優しい手つきで指を這わせた。

 見回せば、部屋には翔也くんのグッズがたくさん飾ってある。壁にはポスターや団扇、棚の上には写真やアクリルスタンド、収納棚へ目を向けると翔也くんが表紙になった雑誌やDVDが並んでいる。先程、翔也くんが持ってきたのだろう花も花瓶に生けてあったし、幼い頃の写真もあった。

 十分だった。

 私は、まだ写真の翔也くんを撫でている彼女の手を両手で包んだ。

「会いましょう。翔也くんに」

 え? と丸くなった目が、こっちを向く。私はさらに念を押した。会わなきゃだめ。翔也くんは、今でもあなたのことが大好きなんだから。なのに自分は嫌われてるって思ってる。だから、会ってあげてください。


 私は翔也くんに偶然知り合って、話を聞いたことを告げた。そうして、お母さんの話も聞いた。翔也くんと暮らしていた頃の彼女は、常に不安の中にいたという。翔也くんがお腹にいる時に父親になるはずだった人が逃げてしまい、女手一つで彼を育てなくてはならなくなったそうだ。自分一人で育てられるか確信が持てず再婚するも、相手はDV男で、すぐに幼い翔也くんへ暴力を振るい始めた。逃げるように別れたけれど、元夫は職場にまで押しかけてきて怒鳴り散らしていた。

 あの日も、酔った彼がやって来て暴れ、彼女の上司を殴りつけたそうだ。警察沙汰になる前に去っていったが、代わりに彼女がクビになった。疲れきって、この先どうすればいいのかと途方に暮れて、元夫への恐怖が胸の底にこびりついて、翔也くんを育てていく自信がなくなった。そして、帰宅し呆然としたまま、それでも食事を作らなくてはとキッチンへ向かったところ、翔也くんが言ったのだ。おかあさん、ショウ、おてつだいしたい、と。

「あの子は、なんにも悪くないんです。悪くないのに、私が不安定だったせいで、あんな傷を負わせてしまった。私はどうにもならない自分の不安を、あの子にぶつけてしまったんです」

 声に、悲痛さが滲んでいた。見れば、眉が八の字に歪み、目は赤く潤んでいて、口は何かをこらえるように引き結ばれていた。

「あの……」

 気がついたら、話しかけていた。口から声が飛び出したことに驚いて、体が緊張する。でも、またキョトンとしてこちらを見たお母さんの顔に、ほっとした。その丸くなった目はまだ赤くて、涙の気配があったけれど、怒りを感じるくらいの悲しさの影は、驚きのためか薄くなっていたから。私は深く息をついて、心を平たくした。

「翔也くんの小さかった頃の話、聞かせてくれませんか? どんな子だったんですか?」

 一瞬の間の後、目の前の顔は大きく歪んだ。土砂降り間際の空のように。

 語られ始めた幼い翔也くんの話は、微笑ましいものばかりだった。保育園へお迎えに行くと、園庭で拾った石を「プレゼント」だと言って毎日渡してくれたり、お母さんへの手紙を一日に何枚も書いたりしていたらしい。その度に、お母さんも返事を書いていたそうだ。園で習った踊りを家でやって見せては嬉しそうにピョンピョン跳ねていて、なのに運動会やお遊戯会本番になると照れてしまって毎年上手く踊れなかったという。翔也くんのことを話すお母さんの頬には、幸せが浮かんで見えた。青白かった顔に色が差した。

 それを見ているだけで、なんだか私は胸がいっぱいになっていた。翔也くんの言う通り、この人は酷い母親などではなかったのだろう。幼い翔也くんがいつも幸せそうなのが、何よりの証拠だ。翔也くんが今でもお母さんを慕っている理由が、はっきり分かった。

 私は深呼吸して心に勇気を集め、お母さんに言った。いつもプレゼントを持ってきているの、翔也くんなんです、と。お母さんは、そう、と言って俯いた。

「そうなのかなって、思ってはいたの。一年くらい前からかな、毎週土曜日に花やプレゼントを置いていってくれる人が現れて、一度も会ってはいかなかったから。でも、最初に貰った手紙に書いてあったの。昔のファンだって。私、若い頃、一度だけ企業のイメージガールのオーディションに通ったことがあったから、その頃の。それで、あの子だって確信は持てなくて……。ちょっと怖いなって気持ちもあったんだけど、もしあの子だったらって思ったら断れなくて。病院の人も、みんな大丈夫だって言ってたし」

 一年もの間、ずっと名乗りもせずに通い続けていたことを思うと、また少し切なくなった。けれど、私は聞き逃さなかった。

「毎週土曜日に来るんですか?」

「ええ」

「それなら、私、今度の土曜日、翔也くんに言います。お母さんに会うように。来る時間は、いつも同じくらいですか?」

「ええ、看護師さんが届けてくれるのは、だいたい午後の四時過ぎだけど」

「分かりました。じゃあ少し前に来て、翔也くんに話してみます。もしかしたら、その日中には説得できないかもしれないですけど……」

 お母さんは小さな子みたいに目を白黒させて私を見ていた。

「でも、そんなこと……」

「会いたくないですか?」

「まさか……! 会いたいけど、でも、私にはそんな資格……」

「資格なんて要りませんよ。お母さんは会いたくて、翔也くんは自分から一年も通ってるんですから」

 私は、ね? と念を押すように、お母さんと目を合わせて頷いた。お母さんは顔を少し伏せ、胸に手を当てる。

「分かった。分かりました。会います」

 頬が、ひとりでに緩んだ。私はもう一度お母さんの手に手を重ねた。

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