第8話

 席につき、テーブルを挟んで向かいの彼を見る。こちらを向いた顔は仇にでも対面しているような、迷いなく相手を憎んでいるような、そんな感じで怖い。恨まれているんだ、という気持ちがあの記憶から心へ滲んでくる。本人であるわけでもないのに。

「話って?」

 尋ねる声は意外なほど低かった。そうだ。目つきは鋭くともどちらかと言えば童顔な翔也くんは、見た感じ、そう声の低そうな人ではない。でも実際は、弦楽器の低音を思わせるイケボだ。何度も聞いているので知っている。でも、今はあの記憶のイメージが強すぎて、分かっていたはずの低い声に、ひどく気持ちを揺さぶられた。あの頃は、まだ高く細い声をしていたから。経験したはずのない記憶が、再びぶわりと溢れてきそうになる。胸に手を当て、それを抑えた。

「お母さんのお見舞いに来たんでしょ?」

 どうにも固まらない言葉を、それでも声にした。翔也くんの眉間が、さらに不愉快そうに歪む。

「ネットの書き込みでも見たのか?」

「違うよ! ただ……私、ちょっと理由があってお母さんが……君にしたこと、知っちゃって……」

 語尾のぼやけた、自分でも情けなくなるくらいの調子で話した。こちらを見る目は、疑うように細まっていた。

「知ったから、何だってんだ? 興味本位で真偽を確かめようってか?」

「違うよ!」

 考えるより先に声が出た。でも、本当だ。真偽を確かめたくはあるけど、それは興味本位なんて軽い気持ちじゃない。私は、ただ、ただ、胸に湧き上がってくる、この理解し難い感情が嘘か本当か知りたかった。翔也くんとあの記憶が結びついた瞬間、彼が花だけ置いて帰ろうとした事実が切なくなって、どうしても知りたくなった。深呼吸して、波打った心を平たくする。

「私、翔也くんのお母さんに……話を聞いたの。翔也くんの腕に、熱した油をかけちゃったって」

「あんた、カウンセラーかなんかなのか? それとも看護師?」

「うん、まあ、そんなとこ」

 適当にはぐらかし、続く言葉を考えていると、翔也くんの方が口を開いた。

「俺が来てること、バレちゃいましたか?」

 急に敬語になっていて、ちょっとびっくりした。ううん、と答えると、まっすぐこっちを向いていた目が伏せられた。長いまつ毛が目元に陰を作る。

「言わないでください。言ったら、きっと嫌な思いさせる。俺もこれ以上嫌われたくないし」

「嫌われたくない?」

 とっさに訊いていた。彼の眉が悲しげに下がったのを見て、ごめん、と口を押さえる。首は、そっと横に振られた。

「母がどういう話してるか分からないけど、たぶん、自分は酷い母親だとか、そんな風に言ってますよね?」

 突き上げた後悔の念を思い、私は頷いた。翔也くんは唇を噛み、さらに深く顔を俯ける。垂れた前髪で、完全に顔が見えなくなった。

「そんなこと、ないんです。もっと俺が小さかった頃、母は再婚相手の暴力から俺を守ってくれました。離婚してからは一生懸命に働いてくれて。あの件だって、俺に暴力振るおうとしたわけじゃない。突発的な、事故みたいなもんだったんです。分かってる。分かってるから、俺は今でも母のこと、好きです。だからこれ以上嫌われたくない。それに、俺がいたから母はあんなことするほど追い詰められたんだってことも分かってる。だから、会えないんです」

 彼は言葉を切ると、手袋を掴んだ。丁寧な手つきで、ゆっくり引っ張る。下から現れたのは、赤紫と白がまだらに混じり、肉の引き攣った手だった。薬指と小指の爪がなかった。

「昔は、もっと酷かったんです。でも、母は生活のために貯めていた金みんなはたいて、俺の皮膚移植の手術用にって、『今の家』に金送ってくれました。火傷が酷かったから、一回じゃ綺麗にならなかったけど、でも、ずっと良くなったんです」

 翔也くんは、また手袋をはめた。そうして顔を上げ、私をまっすぐに見る。

「今も、母は俺のためにって金送ってくれてます。自分の入院費だってあるのに」

「お母さん、そんなにお金あるの?」

 翔也くんの眉間が歪んだ。

「知らないのか?」

 けれど、彼はすぐに顔に表れた疑問を引っ込め、説明してくれた。

「入院し続けてたら費用が高額になるから、入退院を繰り返してる状態なんだ。退院してる間に、働いて金用意してる」

 そっか、と言って、私は顔を伏せた。彼と目を合わせていると、嘘が見破られそうで怖い。

 俺、と再び話し始めた彼の声は柔らかかった。

「今の仕事、母に金返したくて始めたんです。きっと、好きなこと何にもできないくらい、大変だと思うから」

 彼の気持ちが胸にしみた。染みたし、沁みた。じんわり温かく、でも傷口をなぞられたような感じもした。でも、だったら……。

「ねえ、お母さんに会いなよ。それだけ君のこと大事にしてくれてんだもん、お母さんだって、君のこと今でも好きだよ」

「好きなんじゃない。罪悪感ってやつですよ。それに、俺がいなきゃお母さんはこんな風になってないし、会ったら、きっと辛いこと思い出させちまう」

 翔也くんは深く息をつき、立ち上がった。

「あんたが訊きたかったこと話せたかは分かんないけど、俺から言えることは、こんなもんです。母には言わないでください。けど……いつかきっと、たくさん金貯めて、渡しに来ます」

 彼は「払っときます」と言い残し、伝票と共に去っていった。


 翔也くんが帰ってからも、私は喫茶店の椅子に座って、じっとしていた。

 優しかった。良い子だった。熱した油を浴びせられて愛されていると信じられなくなったのに、自分では母を心底想っている。それが堪らなく悲しくて、動けなくなっていた。

 そうして、しばらくじっとしていると、あの、感情の大波が来た。縁から溢れそうなくらい胸いっぱいに愛おしさが満ちてくる。愛おしい。可愛い。だからこそ、心が痛い。愛情が溢れれば溢れるほど痛みは増して、今度はじっとしていられなくなった。私は急き立てられたように喫茶店を出た。


 早足で向かったのは、病院だ。あの人に、翔也くんの気持ちを伝えなくちゃと思った。

『言わないでください』

 彼の言葉が耳の中に残っていて、病院へ近づけば近づくほど大きく鼓膜を揺らした。頭の隅には、いつの間にか母がいて、私を深く厳しい目で見つめていた。やめなさいと咎めるような、あんたのせいでみんなが傷つくんだと責めるような、そんな視線だった。でも、足は止まらなかった。だって、私には『あの記憶』が、あの人の感じた愛情の記憶が、あるのだから。

 そんなの、嘘だ。

 そういう気持ちは未だにあるけれど、でも、もっともっと心の柔らかいところでは、翔也くんが、愛されていて欲しかった。そうして私も、たぶん、愛されたかった。だから、確かめずにはいられなかった。

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