第6話

 家を出る、と告げたのは高校卒業間近のことだった。父も母も一度キョトンとしたけれど、すぐに二人の顔にはそれぞれの感情が表れた。父は不安そうに目尻を下げ、一方の母はキリリと眉を吊り上げていた。

「大学にも行かないで、挙句に家からも逃げようってこと?」

「そういうとこだよ!」

 私は語尾を強めて返した。

「お母さんは、そうやって私のこと悪いようにしか考えない。だから一緒にいることに耐えられないんだよ」

「図星ってことね」

 そう言うと、母はそっぽを向いた。好きにすればいいでしょ。もう知らないよ。父は一人で私と母を交互に見ては、「落ち着いて話し合おう。な?」などと言っていた。

 結局、私は高校卒業とほぼ同時に家を出た。父はよく連絡をくれるけれど、母は素っ気ない文面のLINEをごく偶に寄越すだけだ。もし世間が言うように母親ならみんながみんな、当然に子どもを愛しているなら、私は母からこんなに冷たくされないし、記憶の中で泣いていたあの男の子は腕に熱した油をかけられたりしなかったはずだ。

 目の縁へ熱さがじり寄ってきた。また涙の発作に襲われそうな気がして、私は目をギュッと閉じ、頭から布団をかぶった。


 次に私が病院を訪れたのは、三日後のことだった。時間が経ったからか安定剤のおかげか、この時には、もう初めほどの動揺はなかった。それでも、胸の内では「あの記憶内の感情」と私自身の感情がぶつかり合いせめぎ合いの大戦争を繰り広げていた。その状態でも泣きじゃくったりせずにいられるようになっただけ。ずっと続くのは耐えられない。早く何とかしてほしいと思って受診しているのに、医師は呑気だった。

「焦らず、時間をかけないと」

 そう言った医師の説明によると、一人の人間の中に全く別人の記憶を移植してしまうと、既に構築されている現在の人格と記憶の中の人格との間に齟齬が生じることが懸念されるという。そうすると人格の同一性が保たれなくなるかもしれない。そして、解離性同一性障害――平たく言えば多重人格のことらしいが、それを引き起こしてしまう可能性もあるという。私の場合「他人の記憶」であることがはっきり分かっているのが不幸中の幸いで、もし自分の記憶と他人の記憶の境目が分からなくなっていたとしたら、事態はもっと深刻だったとか。いや、それよりも前にこんなミスするな。しれっと説明する前に謝れ。あんたのしたことじゃなくても、あの大学の附属病院なんだろ、ここは。ともあれ、多重人格の兆候が見られないかどうか、じっくり観察しつつ、植え込まれた記憶が「他者のもの」だと割り切れるようにしていこうという話だった。

「チップを取り出して、記憶を削除することはできないんですか?」

 私の質問に、医師はうーんと言うように腕を組んだ。

「チップを取り出しても、君自身が既にチップに埋め込まれた記憶を見てしまっている。だからそれを見た記憶は、チップとは関係なく残ってしまうんだよ。その点を考慮すると、また手術してチップを取り出すのは、負担に見合うほどの効果はないだろう。やめておいた方がいい」

 なによ、それ……。込み上げてくる思いをグッと押さえつけながら、私は医師の話を聞いていた。

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