第5話
すみません! 移植する記憶を、もう一人の協力者のものと取り違えてしまいました!
私が「自分の記憶じゃない」と訴えると、青年は血相を変えてどこかへ飛んで行った。そうして戻ってくると、語尾のひきつり乱れた声で言ったのだ。「取り違えた」と。
「そんなこと、あっていいんですか!?」
私は口を手で押え、どんどん溢れてくる涙にむせながら、ほとんど叫んでいた。だって、これはただのありふれた記憶じゃない。子どもに暴力を振るった記憶だ。
おかあさん、ショウ、おてつだいしたい。男の子はそう言っていた。駄目だと答えると、腕を掴んできた。きのう、おてつだいするって、いったでしょ? おかあさんも、いいよって、いったよ。
それだけだ。たったそれだけのことで、頭に血が上った。疲れていたから、些細なことでカッとなった。疲れていたから、小さな息子が手を出してくることを煩わしく思った。やめてくれと思った。その感情が、駄目だと言っても食い下がってきたことで、一気に爆発した。体が勝手に動き、まだ幼いその子の腕に、熱した油を浴びせていた。
手のひらが熱く、痛んだ。脳天に突き抜けるほどの、鮮烈な痛みだ。これは、今溢れ出してくる他人の記憶じゃない。私のものだ。前後の記憶は曖昧だけれど、それははっきり分かる。きっと、高校一年生の文化祭でたこ焼きの鉄板に触れてしまった時のものだ。指先だけだったはずだが、そんなことはどうでもいい。痛かった。そこだ。痛かったんだ。涙を抑えきれないくらい、痛かったんだ。鉄板に一瞬触れただけであんなに痛かったのに、百七十度はあろう熱した油を両腕に浴びせられたのだ。その痛みは、どれほどのものだっただろう。他人の記憶と自分の記憶が混ざりあって反発しあって、頭の中も心の内もグチャグチャになって、気がついたら私はしゃがみ込み、両手で頭を抱え、声を上げて泣き喚いていた。
私がわあわあ泣いている間に、青年は例の附属の大学病院に連絡を取ったらしい。少し涙が引いてくると「行きましょう」と肩へ手をかけられた。今すぐ、みてもらえるそうです。彼に助けられながら立ち上がり、私はゆっくり歩いた。
向かった先の病院で、少しカウンセリングを受け、次回の予約をして帰った。安定剤を貰ったので、少しは落ち着いたが、それでも頭の中はグルグルグルグル自分と他人の記憶が巡っていて、ベッドへ入ってもなかなか寝付けなかった。あの大学附属の病院に入院しているという、もう一人の治験協力者の過去が、ものすごい重さで私にのしかかって来た。
信じ難い出来事と、それに対する全く理解できない感情の記憶。何より受け入れ難かったのは、「彼女」が息子を愛おしいと思っていたことだ。私に植え込まれた記憶では、そうだった。油を浴びせられた息子が泣き叫ぶ姿を見て、大きな大きな後悔と共に突き上げたのは、溢れんばかりの愛情だった。愛おしい子、可愛くて仕方のない子が、痛みに声を上げて泣いている。その姿に胸が抉られた。すぐに流水で腕を冷やし、救急車を呼んだ。
一部をデザインした記憶。
そう説明された。つまり、この記憶のどこかには、嘘がある。それはきっと、息子を愛おしいと思う、この感情だ。精神を病んでいるというこの記憶の本来の持ち主は、自分の息子を疎ましく思い、疲れのせいと言い訳して暴力を振るう人間なのだ。そういう病気に違いない。いや、それとも人間性の問題か。実の息子は受け入れずに、アイドルに入れ込んで自分の寂しさだけ癒そうとする性根の腐った人なのか。
頭の中でパズルを組みかえるように色んな言葉を浮かべて嵌め込み、違うと外してを繰り返している時、私の心には母がいた。父のあの事故以来、私を憎むようになった母が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます