第3話
大学の建物から出ると、傾いた日が辺りをオレンジ色に染めていた。まだ四時半なのに、日が沈むの、早くなったな。そんなことを思いながら歩いた。気温も夏に比べてだいぶ下がり、昼間は暑いと感じることもあるけれど、この時間になると上着が一枚欲しいくらいだ。
そう言えば、母に怒鳴りつけられたあの時も、こんな涼しい夕方だった。小学生の頃だ。十月半ばになり、街がハロウィンの装飾で溢れていた時期。どこへ行っても怖い顔をしたカボチャやオバケ、コウモリや魔女の帽子などの飾りが目に入ってきた。私もすっかりハロウィン気分で、三十一日を待つこともできず、父にせがんだ。ビーチでハロウィンするイベントがあるんだって。砂浜にランタン並べて飾るの。テレビで見たけど、すっごい綺麗だったよ。ねえ、連れてってよ。今度の休み、予定ないでしょ? 「ねえ、ねえ」と腕を掴んで揺する私に、父は笑って「考えとくよ」と言った。
週末になり、父が一人、バイクに乗ってどこかへ出かけたと聞き、私は口を尖らせた。そんな私に、母は「何でもすぐにやりたがるんだから」と小言をたくさん並べてきて、さらに機嫌が悪くなった。その日は雨だったのでビーチハロウィンも中止だっただろうけど、そんなことで納得できるほど私は素直じゃなかった。ちゃんと頼んだのに、とふくれていた。
でも、そんなこと、どうでも良くなった。父が事故で大怪我をし、病院へ担ぎ込まれたのだ。
後から聞いた話によると、その日父は三十一日に私をビーチハロウィンへ連れていこうと、下見をしに行っていたらしい。途中の車道で落石があり、避けようとしたところ、後続の車と衝突したという。大腿骨を骨折していて、すぐに手術が行われた。
「あんたが我儘言うから、お父さん、こんなことになっちゃったんだよ!」
手術室前の廊下で、母は私に向かって怒鳴った。だって、こんなこと起こるなんて思わないもん……。応じた瞬間に涙が転げ落ちたけれど、母は言葉を緩めはしなかった。
「咲、ちょっとした我儘が最悪の事態を招くこともあるの。だから、もう無理を言うのはやめなさい」
強い調子で諭されたが、私の胸には「でも」「だって」という気持ちばかりが巡っていて、俯くしかなかった。
父の術後の経過は良好で、早い段階でリハビリを始めることができた。後遺症も残らなかった。不幸中の幸いだなあ、とおどける父に、母はため息をついた。
「何言ってるの。すぐにその気になっちゃうんだから。いい加減、子どもの我儘に振り回されないでね」
父のことを咎める言葉には、けれど、棘はなく労りが滲んでいた。父を見る目には、優しさがあった。そうして、母のその目が私に向けられたことは、あの件以降、一度もなかった。
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