第2話
ドアを開けた瞬間、焦げた匂いや洗剤のようなツンとした匂い、それにお酢みたいな匂いがいっぺんに来て、ちょっと頭が痛くなった。見回せば、白い天井に、白い壁、ズラっと並ぶ机も白く、その間を縫って歩く人々もほとんど白衣を身に付けている。あんまり白くて、廊下や他の部屋よりも、ワントーン周囲が明るく見えた。
駅前で勧誘を受けた翌日、私は、少年にまだ片足突っ込んだくらいの青年が告げた大学へやって来ていた。ここで、例の「治験協力」をするのだ。
キョロキョロしていると、すぐに少年にまだ片足――面倒くさくなってきた、青年がやって来た。
「ありがとうございます。こちらへどうぞ」
誘われるまま体を斜めにして机と机の間を通っていき、奥の部屋へ入る。そこには一つの机を挟んで向かい合わせに椅子が置かれている。片方に座って顔を上げると、青年も腰掛け微笑みかけてきた。
「それ」
突然出てきた指示語に驚いて、彼の指の示す方を見る。私の鞄があった。
「今回、同じ治験に協力してくださる方も持ってました。人気のグループなんですね」
あ、なるほど、と思って反射的に鞄に付けていたキーホルダーを触った。彼の指し示したのは鞄ではなく、この男性アイドルグループの写真入りキーホルダーだったのだ。
「いえ、ちょっと前までは好きだったんですけど、今はあんまり……」
そうだ。キーホルダーを外し忘れていたけど、私は数日前に、このグループ――
少し前に、除け者少年のサイン会へ行った時のことだ。一通りイベントが終わった後、忘れ物をしたことに気がつき、私は会場へ戻った。そこで目にしたのは、もう一人のメンバーと話しながら貰ったファンレターを破く推しの姿だった。ヘラヘラ笑っていた。こういう手紙、気持ちわりいよな。そう言ってビリビリビリビリ破っていた。紙屑となったファンレターは、床へはらはらと落ちていった。最後の一枚が手を離れると同時に、彼は一緒にいたメンバーに片手を上げて挨拶した。歩き去っていく姿が小さくなるのを目で追ううちに、私の心にあった鮮やかな憧れは、灰色に褪せていった。取り残されたもう一人のメンバーは、床に散らばったファンレターの亡骸をかき集めると、近くにあったゴミ箱へ捨てた。彼が立ち去った後にゴミ箱の中を確かめると、それは私が書いたファンレターだった。
キーホルダーを、見つめる。こちらへ満面の笑みを向ける元推しは、あんなことをするなんて気配ほどにも感じさせない。目の前にいる全ての人の気持ちを、元気いっぱい受け止めてくれるようにしか見えない。それが幻想だということを、私はあの瞬間、まざまざと見せつけられた。無条件に受け入れてくれる人なんて、いないのだ。
キーホルダーを裏返し、私は青年へ視線を戻した。丁寧な笑顔が口元に浮かんでいた。
「今日は聞き取りをします。ここで語っても差し支えない過去の出来事を聞かせてください。それを元に記憶データを作成します。データは、チップに保存し脳に移植します。このチップは、海馬という記憶を保存する役割をする器官の働きを模して作ったものです。その働きにより、長期記憶としてデータが埋め込まれます。前後の整合性を保つために、デザインした一部を含め、お聞きした場面そのものを電子化します。電子化には時間がかかりますから、移植作業は後日行います」
青年は、そこで少し声を低めた。
「それと、もし万が一なんですが、移植後に何か問題が起きた場合、附属の大学病院でケアを行うことができます。なので、ご心配なく」
何か起きた場合の話なんかされたら、心配する以外に選択肢がない。けれど目の前の青年は、そんなこっちの感情など毛ほども察していないらしく、貼り付けたような微笑を崩さない。気味が悪くなって、俯いた。
「話すって、何を話してもいいんですか?」
「はい、どんなことでも構いません」
とっさに頭に浮かんだのは、母のことだった。無条件に受け入れてくれる人なんて、いない。さっき突き上げた感情が、母の記憶をも引っ張り上げていた。「
大きく息をついてその声を振り払い、私は高校生だった頃の話をした。一年の秋だったから、三年前だ。文化祭で私たちのクラスはたこ焼き屋さんをやった。当日、たこ焼きを焼く作業を任された私は、うっかり鉄板部分を触ってしまった。熱ッ、と思った時には接触した部分が赤く腫れていて、強い痛みに涙が滲んだ。
「大丈夫!?」
すぐさま声を掛けてくれたのは一緒にたこ焼きを焼いていた男子で、どこからか冷えたラムネ瓶を持ってきた。
「これで、手ぇ冷やしな。店番は俺一人でやるからさ。後ろで休んでなよ」
手は痛かったけれど、その男子の優しさにひどく安心した。私は言われた通りに店の裏で手へラムネ瓶を当てていた。なんだか、とても懐かしい気分になっていた。小さな頃、お祭りで買ってもらったラムネのことを思い出したからかもしれない。
文化祭の話を終え、初日の「治験協力」はあっさり終わった。あまりに簡単で拍子抜けもいいところだ。
物足りない思いで帰路へつこうとした時、少し気になり尋ねてみた。
「あの、さっき、同じ治験に協力してくれる人がいるって言ってましたよね? その人も来てるんですか?」
「いえ、その方は附属の大学病院に入院してます。精神科の患者さんで、もう何年も入退院を繰り返してるらしいんです。僕は一度協力のお願いに伺ったくらいで、よくは知らなくて。でも、部屋にはそのキーホルダーのグループのグッズがたくさんありましたよ。特に、髪黒い人。前髪長めで綺麗めの」
あの時、元推しと話していたメンバーだ。確かに顔が綺麗で、目にかかる長めの前髪をしている。それでいて清潔感もある。だからか「国宝級イケメン」なんて言われて、年齢を問わず女性人気は高い。両手にいつもつけている、腕まで続くフィンガーレスグローブもかっこいいと言われている。けれど、私は「陰のあるイケメン」を演出しすぎで好きではなかった。いつも無愛想でニコリともしないし、口を開いてもつまらない。アイドル活動を舐めてると思えて仕方なかった。
「
そうなんですね、と言い、青年は口角を上げた。じゃあ後日、またお願いします。その言葉に、私は会釈で応じて背を向けた。
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