第11話 ヤコブの梯子
「界人くん、半年ぶりね」
「京介の、お母さん」
もはや辺りを包む異常気象は、春の嵐と言っても差し支えなかったが、その中にあっても京介の母は揺るがなくそこに立っていた。
気丈な精神で俺を待ち受けていたかに思えたが、その実、瞳の周りは赤く腫れており、俺が来るまでの間に、風に涙を拭かれながら悲哀に暮れていたことがなんとなく想像できた。
「止めないでくださいよ」
こうなった時の為に猫の天使がもう一匹必要だったか、と冗談めいたことを考えていたが、その心配は無用だった。彼女は俺の前に立ちはだかるでもなく、道の端に立って空を眺めていたのだから。
「止めないわよ、界人くんと京介の関係はよく知っているわ。京介が貴方のことをどう思っているのかも」
残念なことに、俺は京介自身の思いについてはまだ全て分かっていない。その答え合わせの為にここに来たようなものだ。
「私はね、貴方にはむしろ頑張ってほしいと願ってるくらいよ。私達は親として最も穏便な方法しか取ることが出来ないのだから。界人くん、貴方だからこそ、こんなことが出来るのよ」
恐らく、京介の父と同じ葛藤が彼女にもあったのだろう。それでもこうして俺を止めずにいるのは、また別の角度で救いを求めているからだ。
だったら、俺はそれに応えるしかない。
「任せてください。京介は俺が連れ戻します」
とうとう雨が降り始めた。時刻は夜の九時半。空もすっかり曇っている。しかしそれでも例の如く、黄金の空のおかげで、地上はほのかに明るかった。曇天の真昼間と同じくらい足場がはっきりしていた。
ようやく階段を全て上り終えて、辺りを見渡す。
目的地についたのだ。俺達の思い出の場所に。
「はぁ、はぁっ。京介、どこだ……!」
近くには展望台があり、山のふもとから眼下に街を見下ろすことができる。
空があんな調子になる前までは、そこから堪能できる夜景はなかなかに見物だったと、母が言っていた気がする。
抱えていた松葉杖を使い、ふんっ、ふんっ、と慣れない調子で歩いていく。ほのかに明るくとも、そこは人探しには不向きだった。
こうなればと思い、すぅっ、と息を吸い込んで、ちょっと雨粒も口に含みそうになりながら、俺は力いっぱいに叫んだ。
「京介ぇーーっ!」
ざぁ、ざぁ、ざぁ。
俺の声に反応したのは、嵐に揺さぶられた木々たち。まるでやかましい、と注意されているようだ。
ダメ元でもう一度、すぅっ、と息を吸い込もうとした時、その声は聞こえた。
「界人」
「……京介! げほっ」
声を張った割に、そいつは存外近くに居たようだ。展望台の小高いところに立ち、親友、薊京介は空を眺めていたらしい。そこは、初めてヘイローを戴いた場所だ。
「……来てくれたんだ」
「当たり前だろ。忘れ物もあるしな」
雨天につき、京介が置いて行ったこの写真を野に晒す訳にはいかない。俺はポケットをぽん、とだけ叩いて示す。
「ありがとう……父さんと母さんには会ったかい? 僕の方から一人にして欲しいって、離れてもらってたんだけど」
「あぁ、さっき少しだけ話してた。いい親だよ、ほんと」
表情を変えずそう評価する俺に、京介は微妙そうな顔で「ははっ」と返す。
「なぁ。合言葉、もう一度交わしたいんだ」
合言葉。これを引っ張り出すと京介は露骨に嫌がった。後ろめたい思いでいっぱいの表情が、いつも俺の心に刺さったのだ。そして今も――
「ごめんな、界人。僕にはそれを言う資格なんてないんだ」
「……どうして」
「神様に選ばれたんだ、僕。父さんも母さんも許してくれた。天に召されるのはきっと名誉なことだから、安心して行きなさいって」
病院で聞いた時とは違う、それは建前で塗り固められた虚勢ともいうべきものだった。いやきっとそう言われたこと自体は本当だろうが、京介の両親も同じように建前を並べたに過ぎなかったはずだ。揃いも揃って気を使いやがって。
「こんなの、突拍子もない、信じてもらえないと思って、ずっとお前に嘘を吐いた。傷つけたくなくて、お前をずっと避けていたんだ。こんなに酷いことをしてきた僕に、その合言葉は答えられないよ」
「――まだだ!」
「えっ」
ガリッ、と松葉杖を荒っぽく突きながら、鬼気迫る勢いで俺は京介に近づいた。思わず京介も後ずさりしていたが、その眼は期待を孕んでいたようだった。
「お前はまだ自分の気持ちを言ってないだろ。申し訳ないとか、誰かに言われたからだとか、そんなことばっかりだ! お前がどう思っているか、俺は知りたいんだ!」
「そ、そんなこと言われても……」
「お前は、どうしたいんだよ!」
京介の前に立ち、真っ直ぐとその眼を見つめた。長いまつ毛が雨を滴らせていたが、今度の京介は決して俺から目を離さなかった。
「でも、でも! 僕はもう天使で、お前はただの人間だ……もう手遅れなんだよ! この天使の輪が見えるだろ!」
ぷちん、と俺の中で縛っていた思いが、緒の千切れと主に解放される感覚がした。
あぁ、見えるとも、忌々しい。自ら光ることはないが、それでも綺麗な輪っかだ。だけど――
「だけど、それがどうした! そんなもの今まで幾つも見つけてきただろ! くだらない!」
「く、くだらな……!」
それまで執拗に隠していたソレを、京介はずっと思い煩っていただろうな。だが、だからこそ、俺は言ってやりたいんだ。ヘイロー探しは俺達の冒険の目的だけど、それで終わっちゃいけないんだと。
そんなものは、頭につけて遊ぶだけの、ただの飾りなのだと。
「京介、天使なんかになるな。俺と一緒に居てくれ!」
松葉杖を捨てた、からん、という音がきっかけだった。俺が伸ばした手は、天使を地上へ誘う悪魔の囁きだったのだろう。
雨で誤魔化された京介の涙は俺の心をくすぐって、目が離せなかった。
界人、と震えながら俺の名前を呼ぶその姿が、その他一切への警戒をおざなりにさせていた。
だから、遠くでセムが「伏せろ」と大声を張り上げていたのにも、全く気付けないでいた。
その為に、暴風雨の所為でどこからともなく運ばれたコンクリ片らしき瓦礫が、無警戒の俺の脳天に直撃してしまったのだ。
ほんの一瞬、確実に意識が飛んでいた。頭の痛みは反復するように消えたり現れたりしていて、身体は異常に寒い……気がする。ここで俺はようやく理解した。『神のご加護』だな。
「ぐうぅ……」
「界人、界人ぉ! 死なないで、頼むから……」
地面に伏す俺を揺さぶる白髪の美少年が、ぼんやりと視界に認められた。
あぁ、こいつを見上げた景色、これまで何度も見て来たな。
「馬鹿、なんで避けなかった!」
セムが俺の背をぐいぐいと揉んでいる。ひょっとして揺さぶっているつもりなのか?
なんで避けなかったと言えば、そうだな、多分――
「見惚れていたから……」
「えっ、そ、それはっ」
言葉の調子から、京介が赤面しているのが分かった。
うっかり、自分でも気付かない内に言葉にしてしまったが、それを恥ずかしがっている余裕もなかった。痛いし、寒いし、とても苦しい。
さっきから、京介が眩しくて仕方がないんだ。
「京介、身体が」
セムの言葉と同時に、少年の身体がふわりと浮き始める。とうとうこの時が来た。来てしまったのだ。
「あぁ!」
「ぐあぁ、動けっ……!」
俺が気張って手を伸ばす毎に、その声は遠くなっていった。いつの間にか嵐も止んで、天はひと際黄金色に輝いている。静寂の中で声だけが遠くなるのだ。
もしかしてこれで終わるのか? 行ってしまうのか? 嫌だ、駄目だ、放したくない。このまま終わりたくない。
まだ、まだなんだ。
「京介!」
「界人!」
あいつは俺を呼びながら、必死に手を伸ばしていた。雨が止んだ後も、その顔は涙のせいでひた濡れていた。
「隠してたんだ、言うのが怖くて!」
天に攫われながら、京介は叫んだ。
「僕、本当は」
頬を赤らめて、拳を握りながら。
「お前のことが、ずっと、ずっと、ずっと……」
神に背を向け、俺だけに宛てて。
「好きだったんだぁ!」
叫び声は空を響かせ、文字通り雲を裂いた。……なるほど、これも天使の力か。風が一瞬
しかし、それでも彼を包む光は、いや正しくは彼を天へと送るためのヤコブの梯子は、架けられたままだった。
すると、びゅうっ、と思い出したように風が吹き直した。それはまるで京介を引っ張るように。
往生際が悪いぞ神さま。ここまで来ると人間臭いを通り越して、人でなしだ!
だが、一方の俺だってこのままでは満足できなかった。ここまでまっすぐな告白を受けてなお、やっぱり素直になれなかった。
最後にこれを言わなければ、決着はつけられない。
「京介、合言葉は!」
そうして少年は叫び返す。はあっ、と微笑んで、朱色の頬を携えながら。
「少年!」
「ヘイローー!!」
がっこん――天の梯子が外された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます