第10話 あの背中にこそ

 およそ半年間の回復期間を経て、リハビリこそまだだが、俺は無事に退院することができた。

 入院前は冬に差し掛かった十一月の半ばで、こうして外に出たころにはもう五月が始まっていた。

 春のただなかで、陽気が匂いとして感じられるような季節だ。空気は暖かく、風を受ける度に肌が心地いい。

 しかし俺の気持ちは決して晴れやかなものではなかった。心の準備だけはこの期間で充分にしていたが、それでも、神秘の最前線に挑むのには勇気が要った。


 

「母さん、あそこに向かってくれ」

 車で迎えに来た母は安堵の表情に満ちており、俺にかける言葉はやれやれとか、心配したわよとか、そんな春の夜によく馴染む暖かいものばかりだった。

 だが、それを受けてなお繰り出された俺の親不孝な我儘に、彼女は面食らった表情を見せた。

「なんで今……」

 俺が指定した所は、退院してすぐかつ、リハビリを終えていない人間が向かうなど言語道断の場所。正気で言うのならば今すぐ頭の中身を検査しに、病院に逆戻りしても良いくらいだった。

 だがそうでもしないと間に合わないし、強く求めなければ何も得られないことは俺自身がよく知っているのだ。猪突猛進してぶつかっては一握の手がかりをつかみ続ける、そんなことの繰り返しだったこの事件に、俺は終止符を打たなければならない。

「とにかく、ここに行きたいんだ。今すぐ行かないと不味いんだよ」

「そう。はぁ、分かったわ……まったく。でも全部終わったら、お母さんちゃんと怒るからね」

 そうわざわざ宣言する母の表情は優しく、だが少し恐ろしかった。

 母は俺に対して怒気を露わにすることは少ないのだが、そんな彼女がここまではっきりとした言動を示すのだから、相当な心配をかけているのだろう、と反省するしかない。


 しかし、その後セムを抱えながら病院から出てきた俺を見て、母さんは程なくして後に取っておくはずだった大激怒の勢いを見せることになる。病院に動物を持ち込んだとして、病院からも母からもこっぴどく怒られたのだが、流石のセムもその間は気まずそうにして、俺の腕に抱かれていた。

 そういえば、母は夜のコンビニで高校生の不良に立ち向かったと聞いたが、その時もこれと同様の怒髪が天を突いたというのならば、彼らを少し気の毒に思ってしまうな。




 道中、車に揺られながら空を見た。いつの間にか吹き荒ぶ暴風に、加えて天から降りるような光の柱。世界はまるで荘厳な雰囲気を醸し出している。

 後から知ったことだが、空に見えるあれら光柱は『ヤコブの梯子』と呼ばれる自然現象らしかった。そうとは知らない俺は天から伸びたいくつものそれらに、手を伸ばして何かを掴み取ろうとする我儘な子どもを連想した。

「変な天気ね~。あんたが6歳くらいの時よ、こんな色の空になったのは」

 そうだったっけ。と小声で返事をする。俺はそれ以前の空をあまり憶えていない。

「いつになったら消えるのかしらねぇ。もう夜なのに明るすぎるわぁ。前の空が好きだったんだけどなぁ」


 ぐおおん、と車窓から見える景色が次々に変化していく中で、空だけは動かなかった。月が雲から見え隠れしている様子は、俺に僅かばかりの期待を抱かせた。




 がこん、というパーキングブレーキの音と共に、車内のルームライトがオレンジ色に灯る。

「母さんはここで待ってて……大丈夫だよ、向こうに京介が居るから」

「ほ、本当? 大丈夫よね?」

 母の心配を少しでも誤魔化す為、ここでセムを置いていっても良かったのだが、しかしコイツ自身がそれを良く思わないだろう。俺と共に神に一泡吹かせてやろう、という顔つき満載の、ぶすっとした表情だったからだ。

 負傷していたのは右の脚だったので、松葉杖を抱えつつ、手すりを掴みながら片方の脚を使って、けんけんの要領で階段を上がる。車で向かったのは山道の途中までで、そこからは階段を使うしかない。片足だけで歩き続けるのは、しばらく病床に伏していた俺にはとても辛かった。


「しかし界人、よくここだと分かったな。もしかしてここは……そういうことなのか」

 セムが俺の傍らでトコトコと歩きながら話しかける。

 そうだ。察しの通り、ここの山の展望台は初めてヘイローを見た場所。全てのはじまりの月暈げつうんの観測現場。ここから俺達の冒険は始まったのだ。


 横殴りの風が強く、バランスを保つだけでも精いっぱいだ。それでも止まる訳には行かず、歯を食いしばって階段を登る。

「はぁ、はぁ……っ!」

「天使の力で少し浮かしてやろうか。まぁ、持って数秒が限界だが」

「そんなことできんのか……」

 そういえば、初めて会ったあの日に天使の力というものがあると言ってたか。元々期待はしていなかったが、まさかただ人を少し浮かせる程度の力だったとは……。

 ますますこの猫の情けなさに拍車がかかるが、それでも今はセムが隣にいてくれることが何より心強かった。

「いや、いい。というかそんなことしたら神様にいよいよ怒られるだろ」

「んん、ああ……」

 はっきりと言い切らない、どっちとも取れそうな返事だった。その表情を見る余裕はなかったし、見てもただの猫の顔なので分かりもしないのだが、もしかしたらこの状況はセムにとってはもう手遅れだったのかもしれない。


「やぁ、界人くん。来ると思ったよ」

「あっ……!」

 俺が無心に階段を上り続けていたその時、地面を睨んでいた視界に大人の脚が映る。

 久しぶり、かつ以前会った時もほんの10分程のやりとりだったので、その容姿は今一度見ただけでは誰か分からなかったが……その穏やかな笑みから京介の気配を感じとったことで、理解する。

「京介の、お父さん」

「脚は大丈夫……じゃなさそうだね。ここからは本当に危険だから、早く帰った方が良いよ」

 そう言われて易々ときびすを返す程、俺が半端な決心で挑みにきているとは本気で思ってもいないのだろうが……しかしその言葉からは「頼むからこれで立ち去ってくれ」という懇願にも似たニュアンスを読み取れた。

「それでも嫌かい……息子は、京介はもうとっくに覚悟を決めているんだよ。今君が行っても意味はない」

「意味がないなら、行くだけ行って良いでしょう。止めないでください」

 中学生らしく屁理屈で返したが、それでも京介の父は穏やかさだけは崩さず、叱るような調子で話した。

「あの子は神に選ばれたんだよ。そしてそれを受け入れている。今君が行って、仮にその覚悟が揺るぎでもしたら、神は一体どのようにお怒りになる?」

 京介の父が俺の右脚を指さす。

「君もその身をもって思い知っただろう。神の力は超自然的で、我々人間にとっての脅威でもあるんだ。今にして思えば分かる。この黄金の空も、吹き荒ぶ風も、全部全部、神の力だ」

 神について話した途端、彼の表情から優しさというものが消えていった。それは酷く怯えているようにさえ見える。

 あぁ、と俺は得心が行く。ムーン・ヘイローについて教えてくれたのもこの人だったか。セム曰く宗教的知見の乏しい俺と、外国暮らしの長かった彼では、神の所業に対する感じ方が違うのだろう。

 この人にとって息子が天に召されることも、ご加護も、自然も、恐ろしさのあまり同列になってしまっているのか。

 依然、激しく吹き荒ぶ風に抵抗しながら俺は呟いた。

「そうか。ここにも要因があったんだな……」

「なに?」

 そう言うと、京介の父は少し身構えるように後ずさる。俺が不良だと各所で囁かれているせいか、彼は強行突破の為に、ここで襲い掛かってくるとでも思ったのだろう。

 だが、俺は一刻も早くこの先に行きたいんだ。病み上がりで喧嘩なんて無駄なことはしていられない。

「セム、行けっ!」

「ングルナウッ!」

 俺の声と共に、牙と爪をむき出しにしたセムが、京介の父の顔面に飛びついて覆いかぶさる。

「ぐわっ! な、なんだこの猫はぁ!」

「ご覧の通り、そいつもヘイローを戴く天使の一匹ですよ。そんなに神様が怖いなら、下手に抵抗せずそこで大人しくしてください」

「そ、そんなっ……待つんだ!」

「ふん、天使遣いが荒い奴め、ンニャウ!」

 引っ掻きや噛みつきを無視してでも、なんとかして俺の脚にしがみつこうとする京介の父へ、セムが耳元にかじりつくようにして話した。


「――さて薊京介の父上。愛息子の危機に際し、悲しみに暮れる気持ちは良く分かる。だが、京介が最も信頼を置く少年が、今こうして救世くぜの手を差し伸べにやって来たのだ、任せてやってくれないか」

 天使だと言われても、突然猫が喋りだすことにはそれなりの驚きがあった筈だろうに、彼は構わず、涙ながらに自分の思いを訴えた。

「そんな、私には、息子の覚悟を支えることすらも許されないのか! そりゃあ、確かに神は恐ろしい……きっと怯えているのは京介よりも私の方だろう。だがそれでも、息子が少しでも確実に幸せになれる方を選んで、それを応援するのが、父親の私が出来る唯一のことだと! そう信じて今まで、私は……」

「残念ながら、何が幸せかを選ぶのは京介自身だ。父上、貴方ではない。そしてこの事件の当事者は『榎本界人』と『薊京介』と『神』の三者だけである……我々はここから見守るしかないのだよ」

「それだと、このままでは私は何もできずに……!」

「だから言っただろう、見守るのだ! さぁ見たまえ――神の怒りが風となって襲ってくる中、怪我を庇いながらも邁進まいしんする、懸命な救世主の姿を!」

 セムの言葉を飲み込みながら、彼は潤んだ瞳で少年を見つめる。


「もしこの世界で一縷いちるでも希望を見出すのならば、それは神ではなくあの背中にこそある」

「あの子が……」

 信じられないと思いつつも、そう言われれば最早祈るしかなかったのだろう。


 脂汗を垂らして、強風によろめきながらも前へと進むその背中に、京介の父は小さく、「がんばれ」と声をかけた。

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