第9話 俺に勇気を与えてくれた
「全治半年か」
俺の意識が明瞭になったのは、近くの大きめの病院に運ばれ、二、三日が経ってからのことだった。
それまでは生死の境を彷徨っている程ではないにしろ、意識不明ということで母親から途轍もない心配をされていたらしい。
実際、俺が目を覚ましてから真っ先に視界に入ったのは母親の顔で、その表情がどれだけ俺の心を苦しめたことか。不良らしく夜に出歩いていたせいだ、これきりにしてお母さんの言うことを聞いて、これ以上お母さんを悲しませないで、などの俺を責め苛むような言葉は一切ない。ただ涙ながらに一言、「良かった」と声を漏らされた時は、こっちも涙をこぼしそうになった。
しかし俺は自分がしたことに後悔はない。薊京介にこの思いを伝え、そしてあいつの思いを確認するまでは、このへし折れてしまった脚でさえも止める訳には行かないのだ。
そうして目を覚ましてから一か月程が経った今。病室で独り言ち、窓から外の景色を眺めていた。
「界人、界人」
うわ、と驚きながら振り向いたその先には、白猫のセムが居た。いつの間にか病室に忍び込んでいたのか。おいお前、こんなところに居ても飯は出てこないぞ。
「安心したまえ。私はこれでいて天使だからな。本来食事は不要なのだよ」
なんだと? その言い分をそっくりそのまま信じるなら、必要のないただ飯を喰らって、必要のない糞を排泄して、その都度俺の手を煩わせていたことになるが。
呆れた俺に対しセムは、むぅ、と香箱座りをしながらうな垂れていた。少なからず、天使の尊厳にかけて申し訳なく思っているようだ。
「しかし界人よ。この体たらくではいつまで経っても薊京介とマトモに会話もできないぞ。近づいても加護が邪魔をして、しかし放っていれば時が来て完全に天使と成ってしまう。というか、君が退院できる頃にはもう『その時』だぞ」
ああそうだ。京介の『余命半年』という宣告から、大方の予想はついていた。父の言葉はあながち嘘ではないのだろう。半年後に神に取られ、居なくなってしまうことを便宜的に表現したのだ。だから退院までに半年を要する今の俺の状況は、かなり具合が悪い。
だが心配する白猫をよそに、俺の心は落ち着いていた。これについては、セムにも知らない事情がある。
「逆に聞きたいんだけど、お前はどうして俺にここまで肩入れするんだよ。お前も『神様側』だろ」
天使団グリゴリの一員。人間の監視者。その響きから神の目となり耳となる存在とみなして間違いないだろうに、コイツがしている行動はただの人助けだ。俺の応援ばかりしている。
真の目的はなんだ? と暗にその腹の中を探るように訊ねた。
「君の疑問は最もだ。だが言っただろう? 君は私にとって『救いたくなる人間』なのだよ。君たち人間はどうしようもなく欠けていて、どうしようもなく弱い。この世に乗り越えられない試練はないと言うが、手放しにしていれば滅ぶのが君たちの道理だ。天使の尊厳だなんだと飾ってはいるが、究極的には助けたくて仕方がないだけ。最初に言ったように職業病なのだよ」
「……なぁ、本音は?」
納得できない俺は、その懐に差すようにして追及した。
セムは香箱座りを解いて、毛を繕った。ウニャウニャと言いながら。
「あぁ、そんなに聞きたいか――そうだ、そうだよ。神に不満を持つ天使が居ても良いだろう別に。私だって薊京介といういたいけな少年が、神に気に入られたというだけであらゆる関係から引き剥がされるなんてこと、そう容易く認めたくはないさ」
おお、と感心してしまった。なんだか、セムが初めて本音を語ってくれたような気がする。それまでこいつが神を語る口調は仰々しく、どこかわざとらしかったので、仮面が剥がれて言葉を飾らなくなったことが妙に嬉しい。
「す、済まなかったと思っている。神へのあてつけの為に君を利用していたことを正直に告白するよ。苦痛に直面させ、神秘に臨ませているという点では私も神と同等に卑劣だ」
「そんなこと言うなよ。決めたのはいつだって俺自身だ。俺はお前が居てくれて良かったと思う。それに――」
この神との戦い――薊京介を振り向かせる勝負は必ず俺が勝つ。その根拠もここにある。
ベッドの傍ら、ミニテーブルに置かれた一枚の写真が、俺にここまでの勇気を与えてくれたのだ。
遡って一か月前、これはセムも知らない事情だ。俺の記憶にあるのは、真っ暗な病室の窓から覗く黄金色の空。目覚めてから一日目の晩、憎しみの全ては真っ先にその空に向けられた。
「そこに居んのかよ、神さま」
様などとつけても、どこにも敬意なんて存在しなかった。昼夜問わず天の上に座すソイツが、地上に伏している自分との対比のようで、無性に腹が立ったのだ。
ずっとそんな感情を走らせて睨むものだから、その日の晩はどうやっても眠れなかった。考え事をしようにも苛立ちが先行するので、開き直って苛立ち続けるしかなかった。
コン、コン。
ドアを外側から叩く音が聞こえる。遠慮がちなノック音は、なんとなく夜中に巡回をする職員によるものかと思ったが、それならばノックはせずに扉を開けるはずだ、と俺は推理を巡らせる。
つまり、時刻にして十時に差し掛かるこんな時間に面会者だ。「ひょっとして神の加護が」と訝しんで、意味があるかはわからないが、俺はひとまず警戒のために、扉に背を向けて寝たフリをした。
「界人……」
俺をその名前で呼ぶ人間は多く居るが、その声だけは一人しかいない。
「ごめんな、僕のせいでこんな目に……」
部屋に入ってきたのは薊京介だった。返事を待たずに、京介は続けた。寝たフリが通用しているのだろうか。
「隠してたけど、僕、神様に呼ばれたんだ。父さんも母さんも泣いてたけど、もちろん僕も嫌だったけど。でも最初に『神のご加護』を見てから、こんな恐ろしい奴を相手にどうすればいいか分からなくなったんだ……。皆を怪我させちゃうんじゃないかって、怖くて誰にも近づけなかった。誰にも話せなかった」
なるほど。それで俺とも距離を置いていたということか。神の過剰な保護がかえって脅しとなっていたとは……。しかし車に撥ねられることで加護を体感した今となっては、そうした京介の境遇もおおむね予想通りではある。
「なぁ界人」
俺は心の中で、なんだよ、と優しく返事をした。
「どうせこんな目に遭っても、お前は絶対僕のことを助けに来るんだろ? 半年後、僕が召される頃には回復して……いや、例えしてなくても、お前はきっと僕の前に立つんだろ?」
それは呆れて言うよりかは、期待を込めて放っている、希望まじりの言葉のように聞こえた。
「だからさ、僕も待ってるよ」
少しずつ声が遠ざかっていくのを感じた。同時に、声も少しばかり震えていたように思う。泣いてしまう前に、部屋を抜けようとする京介の姿が脳裏に浮かんだ。
「また一緒に――」
そう言い欠けて、ばたん、とスライド式のドアが閉じる。
足音に耳を澄ませて、居なくなったのを確認してからそっと起き上がった。重傷の為ベッドから降りてそれを拾うことはできなかったが、何であるのかを確かめることはできる。
それは床にわざとらしく落とされた一枚の写真。内容は小学生低学年の時分に撮られた、俺の姿だ。そこに京介の姿はない。
あの時はお互いがお互いを撮っていたから、二人で写った写真があまりないというのもあるが――写真の角の擦り減りや現像して時間の立っていそうな具合から察するに、京介個人の私物だと考えるのが妥当だろう。
色々と考えてみたが、行き着く結論は一つだった。きっとこの一連の行為は、例え俺がこの場で寝ていても起きていても、必ず伝わるようにするためのヘルプサイン。
思わせぶりに残された思い出は、俺が京介の元へ行くための口実のように見えた。
つまり、あいつは助けを求めていたのだ。
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