白の境に舞う金烏。

尾八原ジュージ

三十日間

 夜になると、真っ白な幽霊になった母が家中を練り歩くようになった。

 母に限らず死者とはそういうものだ、と祖母は私と姉に向かって言った。亡くなった人は三十日の間、自分の暮らした家の中を彷徨う。

「あんたたちのお祖父さんも、三十日間こうやって家の中をうろうろしてたことがあったのよ」

 だそうだ。祖父は私が赤ん坊の頃に亡くなっているから、もちろん私はそのときのことを覚えていない。二つ上の姉も記憶にないという。

「昨夜で十日目だったっけ。さすがに見慣れてきたね」

 姉はそんなことを言うけれど、私はまだ母の幽霊が怖い。真夜中、ふと目覚めてトイレに行ったときなど、白い顔をした無表情な母に出くわすと悲鳴を上げそうになる。

 いつか私が死んだときも、こうして生前暮らした家の中を彷徨うものになるのだろうか、と思いを馳せたりもする。まだ見ぬ私の子供や孫が、私の姿を見て「ぎゃっ」などと言うかもしれない。

 母が現れる夜間、父はリビングのソファに座って母が通り過ぎるのを眺めている。リビングは家の中心にあるから、母は何度もそこを通ることになる。

 父は小さな会社を経営しているが、今は仕事のほとんどをひとに任せて、一ヶ月間の休暇をとっている。昼間は母と行った湖や映画館などを回り、夜はリビングのソファでうろうろする母の姿を飽きもせず眺める。何かしゃべることはない。死者に話しかけることはご法度だ。命を失い、一緒に家の中を彷徨うことになる。

 それでも、もしも私たち娘や祖母がいなければ、父は母の幽霊に話しかけていたのではないか――私にはそんな気がする。


 母が亡くなってから二十日が過ぎた。ようやく私も母の幽霊に慣れて、不意打ちで遭遇しても何とも思わなくなった。

 姉は母の本棚の中身をそっくりもらって、形見分けはそれでいいと言う。私は母の訪問着と袋帯、正絹の長襦袢、それから収集していたテディベアを二体譲り受けた。

 祭壇には母の写真が飾られている。卵型の顔に奥二重の大きな目、体つきもすらりとして、我が母ながらなかなかの美人だったと思う。姉は母似だ。私は明らかに父の方に似て、女にしては骨太で筋肉質になった。好みや性格も、姉は母の方に似ている。

 姉は本棚の中身を並び替え、私は訪問着のために桐箱を注文した。父は朝寝をし、昼過ぎにのんびりと目を覚ましては、生前の母とデートした場所に出かけていく。

「今日はデパートに行ってくる」

 そう言って出かけて行った父は、洋菓子店の箱を持って帰宅した。中にはホールのチーズケーキがひとつ入っていた。

「母さんが好きだったから」

「コーヒーをいれようか」

 私はそう言って立ち上がる。父と姉と祖母と私、四つのカップがテーブルに並んで湯気を立てている。最後にサーバーに残った分を母のカップに注ぎ、小皿にチーズケーキを取り分けて、祭壇の前に持っていく。

「母さん。これ、父さんからお土産」

 母は黙って写真立ての中で微笑んでいる。


 三十日目。最後の夜、私と姉は父と並んでリビングのソファに腰かけ、母の姿を見守った。祖母はキッチンで全員分のうどんを茹でている。

 母の姿はだいぶ薄くなった。白くて半透明な影のようなものが、私の横を通り抜けていく。

「お夜食どうぞ」

 祖母がうどんを運んでくる。

 私たちは黙ってうどんをすする。母がすーっと階段を下りてきて、和室の方へと向かう。父が「こっち来ないかなぁ」と密かに呟く。

 やがて窓の外が白み始める。太陽が昇ってくるのだ。カーテンの隙間から明かりが差し込み、その途端母がすっと首を伸ばしてそちらを見る。

「あーあ」

 父がため息のような声を漏らす。

 母の姿はみるみるうちに白く大きな鳥に変わり、かと思うと光の粒子になって、きらきらと美しく舞いながら窓の外、太陽の方へと抜けだして行く。生者と死者との境界にあった曖昧なこの三十日間の夜、それが終わったことの証だ。

 月には兎が、太陽には鳥が住むという。母は太陽に向かって飛んで行ったらしい。私はほっと胸を撫で下ろした。

 ふたたび夜がやってきても、もう母が家の中を歩き回ることはない。

 父は翌日から、また普段通り出勤するようになった。

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白の境に舞う金烏。 尾八原ジュージ @zi-yon

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