第23話 恋と初恋

 彼岸花の群生が名物な奈川なかわの河川敷を、俺は一人の女性に手を繋がれながら歩く。

 夕刻といえども真夏の猛暑は残り、また蜩の合唱に煩わしさを覚える。

 日差しへの耐性が弱い彼女は、白いワンピース姿に麦わら帽子と日傘を兼ね備え、死体のような冷たい手の感触を俺に与える。

 心苦しそうに彼女は俺から手を解くと、座り込んで視線を俺に合わせた。


 『かがり姉さん?』


 困惑する俺を見守る彼女の表情は、淋しげな様子が僅かに漂う空笑いを浮かべる。

 彼女は俺を抱き寄せると頭を掻き撫でる。そして、その体勢を保ち続けたまま、彼女は俺の耳元で囁いた。


 『あーくんは、私のこと、好き?』


 『好きだよ』


 そう返事すると彼女は一層俺を抱き締める強さを増し、暫しの間何も発さなかった。

 普段なら抵抗する俺だがその気力もなく、俺は彼女の抱擁を黙って受け入れた。

 ようやく解放されたかと思うと、彼女は俺の口元に口付けを行う。


 誰をも魅了させる天性の微笑。心臓の鼓動が昂り、頬の紅潮が赤味を濃くする。これが夏の暑さによるものか、彼女に魅了された影響なのかは分からない。

 見惚れた俺に微笑むと、彼女は足元を反転させて先へ歩み始めた。

 俺は彼女の後を必死に追おうとするが、何故か追い付くことは叶わず、距離は一層拡大していく。


 『姉さん、篝姉さん──!』


 全力疾走で彼女に追い付こうと、転倒し膝に擦り傷が出来ても挫けずに、俺は懸命に呼び掛ける。

 やがて彼女の姿は見えなくなり、一面彼岸花が生い茂る暗闇と化し、世界は崩壊してゆく。


 『────、──』


 篝姉さん。

 俺を置いていかないで。

 頼むから俺を一人にしないで──。


 ──


 ────


 侑子様が帰国される日曜日。梅原兄妹と俺の三人は、侑子様をお出迎えすべく成田空港にて待機していた。

 深夜3時に起床し4時までに和泉家に集合という、基本的に日曜日は爆睡している俺にとって過酷な日程。

 4時30分頃に和泉家を出発した俺は猛烈に眠気を催す。

 寝ていろという運転手の吾妻さんのお言葉に甘え、俺は車の中で休息を取ることにした。ちなみに助手席の蛍さんは既に夢の世界に行っていた。


 こうして6時前に成田空港に到着した俺達だが、侑子様の搭乗する飛行機の到着は8時頃。

 到着ロビーの椅子に腰を下ろし暇を持て余す俺達。何故か梅原兄妹を挟むように座り込んだ俺は、右側で再度爆睡する蛍さんに肩をもたれかかれていた。


 「渋滞を考慮して早出したが、大分早く着き過ぎたな」


 「みたいですね」


 「魘されていたようだが、大丈夫か?」


 久々に嫌な夢を見てしまった。

 最後、篝姉さんは俺に何を伝えようとしていたのだろうか。


 「篝姉さん、篝の夢を見ました」


 「篝さんか。随分と懐かしいな」


 先日俺の初恋は侑子様だと語ったが、正確な初恋相手は篝だと言える。

 篝は燈さんの実姉であり紛う事無く俺の身内であるのだが、そんな彼女を恋慕っていた。

 そんな5年前に病死した彼女は、生前同様に元気な姿で、俺の夢に度々現れる。

 太陽のような人物だった。俺は今でも亡くなった彼女が突然復活するのでは、努力すれば生き返るのでは、また逢えるのでは、そんな突拍子もない事を考えてしまうのだ。

 

 嫌な夢を見た。憂鬱だ。

 侑子様に会う手前、この調子ではいけないというのに。

 俺は大事に持ち歩いている写真入れを鞄から取り出し、若干色褪せした写真を見詰める。

 そこには仏頂面の俺を抱き抱える笑顔の篝の姿があった。

 深呼吸で呼吸を整え落ち着きを取り戻すと、それを胸の懐にしまう。


 「調子が悪いならそこの爆睡中の妹を起こして家に引き返させるが。あぁ、組長と姉御には俺から伝えておく」


 「いえ、問題ありません。少し過去を偲んでいただけです」


 「無理はするなよ。悪くなったらすぐ言え」


 そう言うと吾妻さんは自販機で購入したお茶を俺に手渡した。

 気分を切り替えなくては。ペットボトルの蓋を開けるとお茶を口に含む。


 「あーくん大丈夫……?」


 吾妻さんに叩き起こされた蛍さんが俺の身を案じる。


 「ご心配をお掛けしました。大丈夫です」


 蛍さんは強引に俺の頭を鷲掴みにすると、俺を横に倒し彼女の膝に頭を付けさせた。


 「ちょっとお姉ちゃんの膝で休憩しようか」


 「いや、こんな公衆の面前で恥ずかし──」


 「休憩、しようか?」


 「はい……」


 圧の籠った声色に屈した俺は、彼女の膝を受け入れた。

 俺と彼女のやり取りを静止せず傍観していた吾妻さんは、喫煙所に行くと席を立つ。


 「子守唄歌う?」


 「要らないです」


 「頭撫で撫では?」


 「結構です」


 「もう我儘ばっかり! あーくんはいつからそんな捻くれた男の子に成長しちゃったの!?」

 

 一体どの部分が我儘に該当するのだろう……。

 体よく拒否し続けていると、構わず蛍さんは俺の頭を撫で、小声で音痴な子守唄を歌い始めた。

 本当結構なので勘弁して下さいと懇願すると、彼女は不服そうに申し出を受け入れた。


 「昔はもっと可愛かったのに! 蛍お姉ちゃん〜って、よく付いて来てくれたのに!」


 幼少期の可愛い自分と言えども愛想の悪い俺が、そんな振る舞いをするはずなど……。蛍さんの記憶は都合良く改竄されていないか?


 「そう言えば、お嬢といっちー深見一華が幼馴染問答を繰り広げてたけれど、私もあーくんの幼馴染に含まれるんだよね」


 俺が和泉家と──お嬢との初邂逅は、俺が6歳の頃である。

 当時の吾妻さんは高校生。蛍さんは中学生であった。そして、今では見る影もないお嬢は、大分捻くれた我儘放題のお転婆娘であった。

 当時のお嬢が初対面の俺に言い放った挨拶は『貴方が鬼灯茜!? いいわ、私の下僕にしてあげる!』である。

 『ヒェェ……』となった幼少期の俺は、篝のお友達になりたいんだってという解釈の元、お嬢のご友人になったのであった。

 それは結局友達でも無く本当に主人と下僕の主従関係だったのだが、それに気が付いたのはごく最近のことであった。


 「あの頃のお嬢は可愛かったなぁ……」


 「今じゃ可愛くないみたいな言い分だね」


 「逆に聞きますけれど、可愛いと思います?」


 「私は今の方が可愛いと思うけれど? だってほら、あんだけツンツン爆発してたお嬢が、今ではあーくん好き好き大〜好きな恋する乙女でしょ? 私ね、お嬢がおバカになったけれど、お嬢がおバカになってくれて良かったと思っているんだ」


 お嬢が馬鹿になったことを肯定する人物がいるとは。


 「だって……あれじゃ実らないよ。言葉で好きって言わなきゃ私は伝わらないと思うんだ。だから、今の自分自身の感情を曝け出したお嬢は、結構好きなんだよね」

 

 蛍さんは続けて語る。


 「私ね、お嬢だけじゃなく、あーくんのことも好きだよ?」


 「それは恋愛的な意味ではなく家族愛的な好きですよね」


 「──どっちだと思う?」


 彼女の顔を見上げると、俺を揶揄うように微笑んでいた。

 言葉に詰まった俺に、彼女は顔を近付ける。


 「私がお嬢と同じで──恋愛的な要素であーくんを好きだと言ったら、あーくんはどうする?」


 「純朴な少年の心をくすぐるのは止してください」


 「侑子様に初は奪われちゃったけれど、その次は私にしてあげよっか?」


 顔面が──蛍さんの両手で締め付けられているため脱出することが叶わない。

 彼女との顔の距離が縮んでいき、互いの吐息が重なり合う程まで近付くと、人を揶揄うように呟いた。


 「──どうする?」


 「どうもしません。離してください」


 蛍さんは俺の頬を軽く叩くと顔を上げる。

 俺は叩かれた部分を摩ると若干熱くなっていた。


 「あーくんって、同性愛者なの?」


 「……何でそうなるんすか」


 「お嬢やいっちー言い寄られても反応しないじゃん。私の中で同性愛者疑惑と勃起不全疑惑があるんだけれど、その辺りはどうなの?」


 あんた成田空港で何ていう話しているんすか。


 「あーくんは他者の好意に無自覚な恋愛鈍感系じゃないし難聴属性発動する朴念仁キャラじゃないでしょ。思春期のお盛んな少年が幼馴染の年上美人に強請まれたら、普通は何も考えず飛び付くと思うんだ」


 「は、はぁ」


 「それなのにあーくんは全く反応せず! 私に女性としての魅力が無いのかな……と不安になっちゃいそう! でもそれは有り得ないので、そうなれば必然的にあーくん同性愛者説か勃起不全説が成り立つわけ!」


 「は、はぁ」


 拘束を解かれた俺は膝から起き上がり、蛍さんから顔を背けて発する。


 「別に、そういうわけじゃないですよ」


 「というと?」


 興味津々に顔を近付ける蛍さんを押し返しながら続ける。


 「俺には、好きな人がいるので、そういうのは良くないと……」


 「──!」


 口元を手で覆いながら蛍さんに視線を合わせると、彼女は驚愕したような表情を浮かべ言葉を失っていた。


 「それ即ち、あーくんの好きな人が私ではないということになるわけで……! またお嬢やいっちーではないと証明されてしまうわけで……! 更にあーくんに好きな人がいる事実が発覚するわけで……! えぇー、誰!? 誰誰誰!? やっぱり侑子様!?」


 「違います。侑子様じゃないです」


 第一侑子様は結弦さんの奥さんである。それは決して有り得ない。

 蛍さんは俺の肩に手を置くと鬱陶しく囁く。


 「ほら、誰が好きなのか蛍お姉ちゃんに言ってみたら? ほれほれ〜」


 「ウザい……」


 ──通りすがりの超絶美少女。

 最近聞き馴染みのある超絶天才美少女様ではない。

 ゴリちゃんの強襲で全て吹っ飛んでしまったが、超絶美少女とやらは何者なのか。

 超絶美少女と自称する自意識過剰な人物な辺り、普通の人物であると断言は出来ないが、それでも俺を変えた恩人でもある。

 彼女は桜の木の下で──。


 『私ね、私……そう、アイ。奈河哀なかわあい


 「アイ……そうだ、ナカワ、アイです」


 「……えぇ、誰それ知らないよ」


 肩透かしな反応を返す蛍さん。

 ですよね、心当たりはないようですね。


 「その……アイちゃんとやらは、学校の友人なの?」


 「違います」


 「比良坂市ひらさかしの時の幼馴染?」


 「違います」


 「えぇー!? じゃあ何者なの!? その何ちゃらアイちゃんは!?」


 それが生憎俺自身も存じていないんですよね。

 手掛かりは中学1年の時の出来事というだけ。というか、それ以前も以降も会っていないはず。

 そんな一度会っただけの謎の人物を愛する俺は、お嬢並みの一途な人物であると証明される。


 「もし仮に、そのアイちゃんが男だとしたら……?」


 実は男性、その線は考えたことはなかった。

 いや彼女……彼? は、明らかに女子の制服を着こなし声色も女性だった。それは有り得ないだろう。


 「もし仮に、そのアイちゃんに既に恋人がいたとしたら……?」


 実は恋人がいる。その線も考えたことがなかった。

 自身を超絶美少女と謳う程である。あれほどの前向きさと顔立ちの良さがあれば、恋人がいてもおかしくはない。

 そうなれば俺の恋は始まる前から既に撃沈していたことになる。


 「もし仮に、そのアイちゃんが同性愛者だとしたら……?」


 実は同性愛者である。その発想も浮かばなかった。

 彼女が女性のみを愛する性的指向ならば、男性である俺は必然的に敗北となる。

 待てよ? 男性説が一致していれば、その恋が叶う確率は上昇する。そうなれば俺も同性愛者となってしまうのだが……。


 「というか、人の恋の粗探しをしているようにしか見えないんですけど」


 「エェー!? き、気のせいじゃないかなァー!?」


 部が悪そうに俺から顔を背ける蛍さんだったが、やがて開き直って俺に問い詰める。


 「でもね、あーくん! その謎の男性同性愛者恋人持ちのアイちゃんとやらの面影に縋るよりも、やっぱり自分に近い存在に目を向けた方がいいと思うの。もちろん、あーくんの恋心は大事だよ? 尊重はします。けれども、よく知らない人にその感情を向けるって、それは本当に恋と呼べるのかな?」


 属性が多すぎませんか。

 蛍さんの発言に頷く部分がある。俺自身、これが本当に好きとやらの感情を抱いているのか分からない。

 これが恋なのではないかと自覚したのが、つい最近に雪姫菜に脅迫された時のことだ。


 「あーくんのそれは、美人な芸能人を好きということと一緒なんじゃないかな? それは恋じゃなくて、一種の憧れなんじゃ?」


 憧れ説。その説にも至れなかった。

 恋の自覚がなかった俺だ。見る目線が変われば憧れとも捉えられるはず。

 となると、好きとは一体何なのだろう。


 「蛍さんは好きになった人と何かしたいとかありますか」


 「それ私に聞く? えぇとそうだなぁ……エッチ、とか……?」


 「……はぁ」


 「いやいやいや、普通でしょ! それが人間としての感性でしょ! だから人間は繁栄するの!」


 いや別に引いたわけでは……。なるほどと納得しただけで。

 俺は健全な男子高校生であるため、そうした知識に疎いと興味がない勃起不全者なわけではない。

 そうなると、俺に好意を抱くお嬢は、そのような行為を望んでいると──?


 「ヴッ(出血)」


 「どしたの、あーくん! ティッシュ!」


 鼻血の出血を蛍さんがティッシュで抑える。

 何故だろうか、お嬢とのそうした絡れを想像すると──謎の抵抗感と恐怖心に襲われるのは。

 もう止そう、この話題は。生命の危機に関わる問題なのだ。


 「それより吾妻さん遅いですね」


 「見事な話題のすり替え……! 逆にあーくんは何したいとかあるの!? ほぉら、蛍お姉ちゃんに言ってみて!? 大丈夫、思春期の男の子だもの。何を言っても引かないから!」


 恋人と何がしたい──それも考えたことがなかった。今日の俺は新たな発見ばかりである。

 蛍さんの仰る通り性行為……を致したいというわけでもない。愛を育む行為なのだ、何も異常ではない。

 そうだな、そうだなぁ──、


 「暖かい日差しを浴びて……日光浴に興じたいですね」


 「年配の夫婦か!」


 「草毟りをして毟り終えた後の更地を見て、お互いに達成感を味わいたい、とか」


 「それはあーくんだけだよ!」


 俺のやりたい事リストに不満垂れ垂れの蛍さん。

 熟年夫婦と捉えられても致し方ないが、一体何がご不満なのか。


 「もっとこう……手を繋ぎたい、とか? キスしたい……ハグしたい、そんな欲望はないの?」


 「全部肉欲じゃないですか」


 「それが恋人同士の営みとして普通なの!」


 分からないこともないが最優先かと問われれば、俺としては別なのである。

 そうなると俺と手を繋ぐ、膝枕に精を成すお嬢の方が正常で、逆に俺は異常なのだろうか?


 「重症だね、これは……! お嬢も浮かばれないよ……!」


 「俺を異端者みたいに見做さないでください」


 「1万人の男子高校生にそれを訊ねて、あーくんと同じ回答をする一人は誰一人いないと思うよ……!」


 「異例の存在イレギュラーで格好良いですよね」


 「そういう感性は普通の高校生なのね……」


 ともあれと、俺は蛍さんに告げる。


 「俺が異常者の異例の存在であるのは別に構いませんが、鼻血を出したこととナカワアイのことは他言無用でお願いします」


 「鼻血は分からないけれど……そうだよね、お嬢に漏れたら殺される危険性があるし」


 お嬢の危険度を熟知している方は、話が通じるのが楽で助かる。


 「それと私の方も内緒にしてね?」


 蛍さんの件を内緒……? 何かお嬢に漏れると厄介な話はあったか? あぁ恋人とやりたい事か、お嬢でなくとも他人に知られれば恥ずかしいか。


 「うぃっす」


 「絶対分かってない返事だよね……。訂正、やっぱり朴念仁だね」


 どこが朴念仁なのか自覚がない俺は探っていると、煙草を吸いに出ていた吾妻さんが戻る。


 「すまん遅くなった。茜、調子はどうだ?」


 遅いと小言を交える蛍さんに続いて、問題ありませんと返答する。

 時刻を確認すると侑子様の飛行機が着陸する時間に迫っていた。

 支度をするかと立ち上がると、蛍さんは小声で囁く。


 「何が内緒か──分かるように教えてあげようか?」


 そんな吐息のような一言に思わず身が震えてしまった。

 

 

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