第12話

 光を感知するとすぐ暗視モードは解除された。

 電気つくんだ――『コウモリ』との戦いでボロボロになった礼拝堂を見回して驚いた。

 いや。戦いでボロボロになる以前に、元々荒ら家だったのだ。

 闇に隠れていた時以上に不気味さが増してしまった。

 気を取り直す。

 オレは赤の【Enemy】が表示されている方へ向かって言った。

「『イカ』――オレたちにはそれが必要なんだ。返してくれ!」

 御神体のあったであろう台座から、薄白色のメタルボディが姿を見せた。

 HPバーはフルであり、【Lv.3】と表示されている。

 チッ――舌打ちが音を響かせた。

 『イカ』を模している部分にはグレーメタルの斑点があるのが蛍光灯の下で見て取れる。

 槍を持っていない方の手に、《ゴッドピースメイル》が握られていた。

 シャロンが階段のある部屋から出てきた。

「それを返して――」

 『イカ』が捻れた穂先を向けてシャロンの接近を阻んだ。

 無言であった。

 目鼻口がないから表情は出てない。それなのに何か思い悩んでいるのは感じられた。

「あたいはどうなってもいいから、それを――それを返して!」

 悲痛な声は一方通行であった。

 オレはシャロンに歩み寄ると、尚も前に出ようとするその肩を押さえた。

「どうした?」

 シャロンにではなく『イカ』に訊く。

「……姿なんか関係ないって言ってたな」

 『イカ』のその問いにオレは迷わず首肯した。

「こんな醜い姿でも手を握れるっていうのか――」

「もちろん。さっきだって抱き止めたじゃないか」

 『イカ』が顔を上げた。

 頭頂部から流れる六本足を束ねる薄透明なバイザー。それが『イカ』の目だ。

 その彼女の『目』をじっと見返してみたが、分からない。

 悩んでいると察することができても、その内容までは感じ取れない。

「嘘だ」

「何が?」

「うちが言っているのは物理的な接触ではなく、精神的な意味でのことだ。姿の違う者を受け入れられるなんてこと、できるはずがない」

「そういうことか……」

 笑みが浮かぶ。

「なぜ笑う?」

「オレのわからないことを悩まれてたらどうしようと思ってたからさ」

「理解――できるのか?」

「いや。全然」

 胸を張ってはっきりと言った。

 アカシア――さすがにシャロンが呆れた声を上げた。

「からかってるんだな」

「違うよ。他人の悩みを理解できるやつなんているわけないじゃないか」

 『イカ』が怒っているのは、さすがに分かった。

 オレは言葉を重ねて誤解を解くことにする。

「悩みってのは、悩んでいる本人の物なんだ。共有できるはずないさ」

「だけど分かってもらえただけでも、悩みが軽くなることがあるよ」

 ハナは銃を構えながら言った。彼女が会話に割り込んでくるのは珍しい。しかも言葉は続いた。

「あたしは不器用で、何でも全力で当たらなければ人並みにならない。ううん、それでも人より劣ってた。みんなは口では言わないけど迷惑だったはず。庇われたり、慰められたりすると、もっと頑張らなきゃって思うんだけど、頑張れば頑張るほど失敗して――。あたしはそんな自分が嫌だった」

「ハナ――」

「でも、キリくんは――迷惑上等。一途なアホで丁度良い――って言ってくれた。ああ、このままでも良いんだ。解ってくれる人もいるんだって思ったら、道が開けた気がしたよ」

「そんなものか――」

 ハナがオレの視線に今頃気付き、一歩下がった。

 苦笑しながらも『イカ』へ注意を戻した。

 輪に入りたくて一生懸命に失敗する子――ハナを見ていると、『イカ』がそれとは対照的なのが分かる。

 拒絶しておきながら輪に入りたい子――それが『イカ』なのだ。

 そう考えると、彼女の望みが薄っすらと見えてきた。

「お前、人間になりたいんだな」

「そんなバカなこと――」

「自分の姿を醜いと言ってたじゃないか」

「それが何だというのだ」

「何と比べて醜いんだ? 人間に憧れてるから、自分の姿が受け入れられないんだろ」

「そんなことはない」

 彼女の槍を持つ手に力がこもる。

「人間なんて思うほど良いもんじゃないけどな」

「いろいろ大変ですよね」

 な――とオレはハナに笑いかけた。

 シャロンの呆れるようなため息も嫌な感じはしない。

「同じ人間でも理解不能な奴ってのもいるし」

 頭には執行部長の冷たい表情が浮かんだ。少し身震いがした。

「そう思うと、心が引き合えれば良いんだよ。姿じゃなくてな」

「アカシア。それはちょっとクサいぞ」

「……自分でも思った」

 ハナが『なぜ?』という表情を浮かべている。彼女には良い言葉だったようだ。

「だけど、それが本心だ。お前とならその姿でも手を繋げるって、やっぱり思えるよ」

 『イカ』に手を差し出すと、彼女は広げられた手から自分の手の《ゴッドピースメイル》に視線を移した。

 チッ――舌打ちが憎々しげに響いた。

「だまされるとこだったよ。これが目当てだろ」

「そんな――」

「こいつはバカだが、それほどひねくれてないぞ」

 シャロンがさりげなく酷いことを言った。

「きっとこれを渡したら、うちは捨てられるに違いない!」

「捨てるってなんだよ!」

 まるで痴話喧嘩だ。変な考えに思考がぐらつく。

 轟音と硬質な音が間髪無く響いた。何かが弾かれ、崩れた壁向こうに消えていった。

「なにも分かってないくせに、決めつけないで!」

 ハナだ。

 どうやら《トリックシード》を『イカ』に直接撃ったようだ。

 『イカ』はそれを槍で弾き返した。

「うちの何が分かってない……と言うんだ?」

「キリくんがそんな裏表のあるひとな訳ないでしょ!」

 いや。裏表はあるぞ……。

「そのGFM目当てで仲良くしようなんて言う訳ない!」

 ごめん。少しだけ思ってた……。

 イカは無言でハナを見て、オレに視線を動かしてきた。相変わらず、目に当たる部分からは気持ちは読み取れない。ただ逡巡しているのだけは分かる。

「やはり信用できん。そいつも――人間だからだ」

 沈黙を破って『イカ』がそう言った。

「言葉でしか、ひとは分かり合えないもんなんだぞ」

「上っ面の仲良しを求めてるわけじゃない」

「じゃあ、どうしろと――」

「戦って、うちを倒してみせろ」

 どうしてそんな結論になる?

 開いた口が塞がらなかった。仲良くするために戦うという発想は、浜辺で殴り合ってクロスカウンターで倒れて、『やるな、お前』『お前もな』で、分かり合う古い青春ムービーのようなものだ。

「やっぱ、理解できないかも――」

 『イカ』が槍を構えた。

「うちはこのテリトリーから戦わずに出て行くことも出来るんだ。それを考えるんだな」

 確かに『イカ』のHPは今のハナを上回っている。

「アカシア、時間が――」

 シャロンが嘆願の声色を重ねてきた。

 数秒の思考の末に決断した。

「よし。十分だ」

「なに?」

 三人から異口同音の声が上がった。

「うちを十分で倒す? ふざけてるか、バカにしてるか、だな」

「オレたちのタイムリミットだ。それを過ぎたら――」自分に言い聞かせるように語気を強めた。「オレたちは一生後悔する」

「キリくん――」

「アカシア――」

 二人に意図が通じたようだ。

 『イカ』にもオレの決意が伝わったのか、雰囲気が変わった。

「よかろう。十分で倒せなかったら、うちはここから出て、二度とお前たちの前に現れない」

 オレはシャロンを壁脇へ押した。

 『イカ』が槍の切っ先をキリへ向けた。

 問題が一つある。

 表情に出さないように考える。

 残弾がない――。

 これはかなりの問題だ。五発全て手元に無かった。

 十分はテルコを助けるためのギリギリの時間設定だ。そのためには、さっき『コウモリ』を捉えた時よりももっと小さな矩形が必要であった。

 だが、ここは広すぎる。明るくなるとそれが顕著でうんざりした。天井の高さ、壁までの距離。頼りはベンチだがほとんどがさっきの戦いで破壊され、残っているのは端側ばかりで、結局距離がありすぎるのだ。

 細かく削ることを数度成功させれば倒せるだろうが、相手が『イカ』ではそう上手くいく気がしない。

 更に超難題が一つ。

 オレのHPだ。クリーンヒット一発で簡単に吹っ飛ぶほどに限界ギリギリであった。

 どこまで戦えるか――。

 オレは構えた。サルノベ柔術の防御主体のたずだ。長く戦い、少しでも多くのチャンスを得るんだ。

 ――本当にそれで良いネ?

 唐突に響くシレルの声に動揺した。

 ――ここでHPがゼロになっても、キリは死ぬわけじゃないのに、何を怖れるネ?

「失うのが自分の命じゃないから――怖いんだろうが――」

 と小さく言った。

 構えたまま退がる。

 シャロンから離れ、動きやすい場所へ移動する。

 ――あの娘は文句を言わないネ。もしキリの助けが間に合わなくても。

「あの娘――ってテルコ?」

 ――もしシレルが同じ立場だったとしても、怒らないネ。キリが一生懸命やることを知ってるからネ。

「一生懸命やっても死んじゃったらしょうがないだろ」

 ――でも文句は言わない。シレルには分かるネ。

「何でさ」

 ――だって同じ女の子ネ。

 シレルの優しい言葉が心を殴りつけてきた。

 たとえようもない懐かしさだ。

 純粋な響きは静かにそして確実に、心へ届いてくる。

 自然と頬に笑みが掠める。

 オレは戦法を改めた。

 構えを《ひたき》へ変える。これはサルノベ柔術の攻撃系の構えだ。

 『イカ』が歩む足を止めた。

 間合いは『イカ』のものなのに躊躇が見える。

「シレル、ありがとな」

 ――うん。

 シレルの頷きを合図に、オレは一気に間合いを詰めた。

 『イカ』も同時に踏み出し、槍を突き出してきた。

 穂先をギリギリでかわす。首筋を刃先が掠めた。

 柄に沿って『イカ』の内側へ入る。

 前に構えていた右手での肩を掴んだ。同時に引っ張り、力の方向へ倒した。

 崩れたバランスを立て直そうとする『イカ』――それを再び利用する。手首を返して掌を胸へ突いた。

 『イカ』の身体が鮮やかに弧を描いて飛んでいく。長椅子を巻き込んで床へ倒れこんだ。

 チッ――埃の向こうで舌打ちが鳴った。

 留め金の外れた長椅子が、重い音を響かせて床を滑ってくる。

 『イカ』が蹴り飛ばしたのだ。

 オレは椅子の上を走ってやり過ごす。

 着地した床は、跳ね上がった時と同じ位置だ。

 ぶんっと床すれすれを影が走る。

 オレは着地したその足で跳ね上がる。真横に宙返り。頭と床の間で影が交差する。

 『イカ』の槍だ。

 足を払おうとした槍は、そのまま円弧に通り過ぎ、ガンッと硬質な音を立てた。勢い余った柄が、先ほどオレが避けた長椅子の足を叩いたのだ。

 今度は床が強く鳴った。

 『イカ』が低い姿勢から肩を突き出し、飛び掛ってきた。ショルダータックルだ。

 その丸い肩が触れる瞬間、オレはその内側へと入り込んだ。

 腕を抱えて背に『イカ』の身体を乗せ、タックルの力を利用して一気に床へ叩きつけた。

 ベンチを崩壊させ、更に『イカ』の身体は床でバウンドした。

 砕け散ったベンチの破片が宙に舞う。

 自分でも惚れ惚れするほどの一本背負いだ。

 だが、当然ながら『イカ』のHPは微塵も動かない。

 HPを削るには《トリックシード》で囲むしかない。

 より小さな矩形で的確に捉えられれば、一気に倒すことも可能だ。

 『コウモリ』は狭所へ誘い込む事で倒せた。

 『イカ』にその手は通じない。

 広い空間。残弾ゼロ。この状況を打破する手段なんて、思えば思うほど、無茶に思えてならなかった。

「キリくん!」

 ハナの悲鳴に近い声に思考を戻した。視界に迫る光。

 油断した! 槍だ――

 そう思った時には既に槍は胸の位置にあった。

 次に来るであろう衝撃に身構えた。

 ……が、いつまで経ってもその時は訪れなかった。

 槍は認識された位置から変わってなかった。止まっている――否、止められていた。

 すぐ横に露出した女の子の肩が見えた。

 白い背中、そして四本のおさげが揺れている。

 シレルであった。

 細い手が飛んで来た槍の穂先を掴んで止めていた。

 突然現れたシレルに誰もが言葉を失っていた。

 『イカ』でさえも投げた時の姿勢のままで止まっている。

「シレル――大丈夫か?」

 出てきて動きも言葉もないシレルに、怪我でもしたのかとオレは声をかけた。

「キリは……本当にシレルたちヒューマノイドとも仲良くできると思ってるネ?」

「もちろん」

 即答した。返事に迷うようなことでもない。

「……それがどうしたんだ?」

 シレルが肩越しに振り返った。

 翠色の瞳が揺れている。もっと心へ伝える何かを求めているようであった。

 ひと同士なら、同意の一言で納得することも出来たであろう。

 だが、彼女らはヒューマノイドという新人類。ひとを理解したいと思っている者たち。どんな飾った言葉でも届きそうにない距離を、歩み寄ってくれとシレルは願っているのだ。

 それを無視することなんて、オレには出来ない。

 今自分ができる等身大の気持ちを、思うままに表現する。ただそれだけだ。

 オレはそっと手を伸ばした。

 穂先を掴んだままのシレルの手に触れる。

 薄手の柔らかい生地の手袋の下、骨ばった感触が伝わる。指先にいくに従い体温は低くなっているようだ。体温を分けてあげるように両手で包んだ。

「キリ――」

 シレルの声は掠れていた。肩越しに覗く頬が紅潮して見える。

 にいっと笑い掛けると、シレルも漸く笑みを浮かべた。

 と、思った途端、飛びついてきた。二つの球体が顔に押し付けられ、目の前を幸せな闇が包む。

「破廉恥な――」

 小声はシャロンだ。

 ハナは見ずとも、唖然としているに違いない。戦闘中ではなかったら、恥ずかしさに出て行ったかもしれない。

 『イカ』は……と気配を探った。正面。床が一声だけ軋んだ。

 距離を一歩で詰め、シレルの放り出した槍を拾い上げた。

 くっついていたシレルを突き放すと、左右に分かれた二人の間を穂先が行き過ぎた。

 オレは『イカ』の支え足を払った。

 すると、その軽い力だけで『イカ』が前につんのめった。

 ビタンと腹が床を打った。

 今度は倒れた姿勢のまま浮き上がった。

 クモの糸だ。シレルが親指と人差し指だけを伸ばして拳銃のような形を作っている。

 その指先から天井を経て『イカ』の背中までに伸びている糸が、蛍光灯の灯りを細く照り返した。

 釣り人が竿を引き上げる動作で、シレルが右手を振ると、『イカ』の身体は宙へと舞った。

 シレルの頭の遥か上を通って、後方のベンチへ。

 最頂点を下り始めた所で『イカ』は槍を振った。

 糸を切ったようだ。バランスを取りながら落ちていく。

 オレはその着地点を目指して駆けた。上半身を前傾させ、ベンチの背もたれを跳ね渡る。

 『イカ』は座席と座席の間に降り立った。

 彼女が接近に気付かないはずがない。

 片手で槍を大きく横薙ぎった。

 オレは跳ね、水平の姿勢を取った。槍を下にやり過ごすつもりだ。

 にやり――と『イカ』が笑ったようだ。

 見抜いていたように、浮かぶオレへタイミングを合わせてきた。

 しかしオレの身体は重力に逆らい、更にふわりと浮かび上がった。

 種の明かしは、シレルがオレの背中につけた糸だ。天井から吊り下げられていた。

 まるでワイヤーアクションだと、場違いなほどの感動に、思わず笑みが浮かぶ。

 槍はタイミングを外され、空振りの音と共に下を過ぎていった。

 オレは下半身を前へ振った。助走の勢いを無くした分、両脚を突き出すことで力を求めた。

 バランスを崩した『イカ』にその蹴りが拍車をかける。

 もんどりうって、三つ向こうのベンチへ突っ込んだ。

 床の留め金を吹き飛ばし、ベンチごと奥へ吹き飛んだ。

 オレは座席の上に着地した。

 舞い上がる埃の向こうで舌打ちが聞こえた瞬間。倒れたベンチが滑ってきた。それが次のベンチを押し、床から強引に引き剥がし、次のベンチへ。

 『イカ』が押しているのだ。

 次々とベンチが連なり、オレのいるベンチも押されていく。そのまま祭壇の方へ押し滑っていく。

 何を――?

 後ろを振り返って納得。

 シレルだ。彼女をベンチで押しつぶす気だ。

 シレルもそれに気付いたようだが、逃げる動きよりベンチのスピードの方が速い。

 オレはまだ背中についている糸を掴んで引き上げた。

 きゃ――声が天井へ上がっていく。浮かんだシレルの下をベンチが通っていった。

 オレは糸を引っ張りながら、連なるベンチをその場で駆け足でやり過ごす。

 押している『イカ』がすぐそこまで迫る。

 『イカ』はベンチから手を離すと、槍を突き上げてきた。

 穂先をすれすれでかわし、彼女の横面に回し蹴りを叩きつけた。

 ぐらり――と崩れながらも、槍を振り回してきた。

 意図しない動きに、柄の部分がまだ浮かぶオレに当たった。

 視界が数回転し、背中から床へと落ちた。

 ベンチ不在で広くなった板の間で、埃を上げながらバウンドする。

「ひゃあ――」

 シレルの間の抜けた悲鳴が今度は落ちてきた。

 オレは倒れながらも、まだ手に残る糸を引き付けた。

 シレルの身体がベンチの上で止まる。

 『イカ』が軽く回した槍の穂先で糸を切った。

 うひゃ――と、結局シレルはベンチの奥側に落ちたようだ。

 しかし……今のはかなり効いた……

 限界ギリギリのHPバーを横目に、ゆっくりと起き上がる。

 『イカ』が槍を構えながら歩み寄る。

「決したな」

 なぜか残念そうな響きで言った。

 その時、バイザーに変化があった。光点が二つ。

 名前は【イロハ】と【コマチ】だ。場所は【ハナ】のもっと後ろ――入口の方。

 来てくれたのか。

 これがラストチャンスだ。

「諦めてないんだな。援軍が来たところで状況は変わらんぞ」

 『イカ』も気付いているが、それだけで手を読めたと思うのは早計だ。

 オレだってこれからの展開は読めないんだから。

「勝負だ――」

 オレは彼女を正面に片膝で立った。

 『イカ』が槍を片手に構え、頭の横へ振り上げていく。

 古い建物の中、誰一人音を軋ませない。

 『イカ』のモーションが、まるでコマ送りのように見えた。

 自分の呼吸が波形を心に描く。ゆっくりと上り、静かに下がる。

 『イカ』の『突く』という意思が明確に届いた時――

 ふっと息を止めた。

 音も無く鋭角な影が心臓を寸分違わず狙う。

 オレは身体を捻り、紙一重にかわした。同時に前へ。『イカ』の踏み込んだ腿を踏み台に、後方へ宙返り――振り上げた左足が『イカ』の顎の辺りを蹴り飛ばす。

「ぐっ!」

 『イカ』が呼気を洩らし、背中へ反らせた。

 着地するとすぐに槍の柄を踏みつける。力強く床まで押し込むと、倒れ掛かっていた『イカ』の体勢が戻ってきた。

「今だ! 真っ直ぐに撃て!」

 その合図を待っていたかのように、三様の射撃音が響いた。

 『イカ』が失いかけた意識を取り戻したように、吠えて槍を振り上げた。

 足を乗せて押さえていたオレは力負けして放り投げられた。

 だが槍は、飛んで来た《トリックシード》を弾くことは出来なかった。

「こんな広い空間で囲い込めるものか!」

 あくまで勝ちは揺らがないという自信を、床に転がったオレを見下ろし、彼女はぶつけるように言った。

 語尾の余韻が消え入らぬ僅かな刹那――

 その確信は揺らいだ。

 飛んでいったはずの《トリックシード》がいつまで経っても着弾音を立てないからだ。

 『イカ』は後ろを振り向いた。

 驚愕にその背中が震えたようだ。

 《トリックシード》が『イカ』の背後数メートルの位置で宙に浮いて止まっていた。

 オレからは蛍光灯に煌くクモの巣が見える。

 果たして『イカ』はどうか。

 その奥の床で横座りするシレルが、疲れ切った中にも微笑を浮かべた。

 オレも笑みを返す。

 皆の頑張りに応える時だ。

「そこからなら小さくお前を捉えられる」

 《トリックシード》を構えた。

 これは――

 シャロンに渡したもの。『コウモリ』が床から抜き捨てたもの。倒れながらもさっき拾ったもの。オレの本当に最後の《トリックシード》だ。

 『イカ』が漸く攻撃の体勢で向き直った。

「最後の一点はここだ!」

 オレは《トリックシード》を打ち込んだ。

 コマチの撃った点――イロハの撃った点――ハナの撃った点を結び、最後に自分の点を結んだ。

 『イカ』が槍を振ってクモの巣を破こうとしたが、オレの方が速かった。

「セット!」

 腕のクリスタルに触れた。

 ライトマゼンダの三角錐が『イカ』を捉えた。

 より小さく、それでいて彼女の身体を的確に包んでいる。

 クリティカルヒットだ。

 見る見る『イカ』のHPバーが減少していく。

 荒い息と共にオレは腰を落とした。

「やったか――?」

 シャロンが遠くから小さく訊いてきた。

 答えられない。

 怖くて見られないが、自分のHPを数字で意識したら一桁しか残っていないだろう。

 これでダメなら、もう手が無い。

 三角錐が捉えていない部分――胸から上と右腕、あとは両膝下を、『イカ』は必死に動かし、光から逃れようとしていた。

 バーが半分を切った所で大人しくなった。

「諦めたのか?」

「お前らに勝ちを譲りたくないだけだ。これはうち自身の油断による負けだ」

 同じじゃないか。しかし――

「これでオレたちは仲良しになれたってことだよな」

「なぜ、そうなる」

「お前言ったろ。上っ面の仲良しじゃないものを、この勝負に求めてるって。じゃあ、終わった今なら本当の仲良しになれたってことだろ」

「……お前の思考回路が人間のものなら、うちは永遠に理解できんな」

「なんで、そうなるんだよ」

 『イカ』と同じセリフで返した。

 しかし彼女は無言であった。

 彼女が諦めた時から減少スピードが増し、HPゲージはもう十分の一も残っていない。

 『イカ』の視線がシャロンを見て、後ろ――ハナと、入ってきたイロハとコマチを見た。そしてシレルに移された。

 シレルがそれに気付いて、笑顔で手を振った。

 チッ――『イカ』は舌打ちで応えた。

 視線がキリに戻ってきた。

 何かを言おうとし、止めたようだ。それを伝えるための言葉がなかった――というより、声にするのが憚られた。そんな様相であった。

 『イカ』が何かを放り投げてきた。

 受け取ると、ブレスレットであった。テルコの生体エネルギーが入っている《ゴッドピースメイル》だ。これで彼女を救える。

「時間だな」

 落ち着いた声で『イカ』が言った。

 視線を下に向けた佇まいは、まるで達観しているようだ。

「まだ終わってないだろ」

「終わりだよ。お前ら人間とは価値観が違うから、分からんだろうがな」

「そのうち分かるようになるさ」

 その言葉に『イカ』が顔を上げた。

「オレたちの近くにいれば、いやでも分かるようになるさ。いや、オレたちが分かるようになるのか? もしかしたら、互いに分かり合えるかもな」

「そんな夢は見んよ――」

 『イカ』のHPゲージがゼロになる。

「じゃあ後でな」

「な――」

 そこで『イカ』の言葉は切れ、青白い光が溢れた。

 飛び散った光の残滓が彼女のいた所に降りそそいだ。

 まるで雪のように優しく。

 二つ目のクリスタルに色が灯っていた。

 後でな――そこへ向かい、俺はもう一度言った。

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