第3話
正直言うと、オレはわくわくしていた。
不謹慎とは思うが、しょうがない。
ナツと『クモ』の戦いを見て、傍観者でしかないもどかしさは耐えがたかった。
満を持してテルコの前に出た。
ヒーローみたいだ。
最近の特撮にはマーシャルアーツも取り入れられ、派手なバトルシーンも多いため、研究の意味で鑑賞している。香港映画のようなアクションを見ると、ニヤリとしてしまう。
変身ポーズのストックなんかは、同年代の子達に比べれば結構ある方だ。
「ここは格好よく決めたいところだな」
まず《玉》をブレスレットにはめ――た……?
合わねえっ?!
ポーズどころじゃなかった。
クリスタルが抜けた跡は長方形。当然ビー玉は球だ。はまるはずがない。
がっかりだ。
『クモ』が首を傾げてる。
そこまでオレがへこんで見えるのだろうか。いや、見えるだろう。
なんせ、希望が掻き消えた瞬間だ。
と、その時――
玉を乗せたブレスレットが発光した。玉自体も光りだし、やがて溶けだした。液体状になって、空いた長方形を埋めていく。
今度は全身が朧な光で包まれた。
「きたきた!」
光がオレの身体で形を成していく。
フルアーマー、フルフェイスのヒーローを想像し、ウキウキと待っていたが、光は一向に全身を覆わなかった。
すぐに光は収束した。
自動ドアのガラスに姿が映っている。
両の前腕部と下腿部、それと左にだけ肩当てがある。他は制服のままだ。
脚の方はごついブーツにしか見えない。
頼りないほど弱々しい。ナツの着用していた物と比べると数段、いや、完全に貧弱すぎる。
四半世紀前のRPGで勇者がしていたような兜を、頭に冠っている。
ヘッドセッドなのだろう。右目にバイザーがある。
フルフェイスではなかった。
いや。この格好じゃフルフェイスの方が変だ――と、むりやり納得した。
バイザーには色々な数値や図が表示されている。
赤い【Warning】の文字が点滅している。三角がしきりに注意を促しているのは『クモ』であろう。
やはり『クモ』は攻撃態勢を解いて、オレを見ている。
緊張感のない奴だ。
『クモ』を視界に収めると、【Lv.2】の表示と横棒グラフのようなバーが表示された。
これは『クモ』のHPであろう。半分を切っている。
オレのは……と探すと、一番目立つ所にあった。
やはりバーで表現されているが、こちらは具体的に数値も表示されている。
【119】――それが多いのか少ないのか分からないが、これが自分の持分。
持分と言えば、針のようなグラフィックと数値【5】。
これがきっと《トリックシード》だ。
数字は残弾だとして、やはり多いのか少ないのか分からない。
これらの表示は視界に入り込んできているのに、どういうシステムかは分からないが、邪魔にはなっていない。
ところで、その《トリックシード》はどうやって出すんだ?
ナツは腰アーマーのクリスタルから出していたが、オレに腰アーマーはない。
クリスタルなら両腕のアーマーについている。
右腕は変身時に使った長方形のクリスタル。左腕のはそれより小さい長方形が五つ、腕時計をしているように連なって並んでいる。
これか? いや、違うな。
ナツはさっき――セット――と言って、腕のクリスタルを押していた。
それがこの五つだとしたら、《トリックシード》がここから出るとは思えない。
ためつすがめつしていると、左腕の手首側がカブトムシの腹部のようになっている。平らな右腕に比べると、段々に重なり合った形状をしているが、これは多分関係ない。
そういえば。ナツは腰アーマーに手を伸ばしただけで《トリックシード》を出していた。
何かしらのアクションが必要なのかもしれない。
と、色々な動きを試してみたが、全く反応しなかった。
「どうすればいいんだ……」
思わずつぶやいてしまった。
「失敗ネ?」
電子声で『クモ』が訊いてきた。
表情は一切出ていないくせに、同情心が見える。
「失敗シタノネ?」
「ご心配なく」
「失敗ね」
後ろでテルコもつぶやいた。
「本当に?」
「何が?」
振り返って訊いたが、テルコはサラサラの髪を揺らして小首を傾げただけだ。
「分かって言ってないのかよ」
崩れ落ちそうになった。
「オ前、大丈夫ネ」
「……ご心配なく」
先ほどと同じ言葉だが、『強がり』が欠落し、『情けなさ』が前面に出ていた。
「オ前、気ニ入ッタカラ、助ケルネ」
「どういう意味だ?」
「ソノ女ヲ置イテイケバ、オ前ダケハ助ケル――ッテコトネ」
『クモ』は待合室側で、『褒めて』と言わんばかりに胸を反らせている。
だけど気持ちはもう決まっている。
「せっかくだけど、この子を犠牲にするつもりはない」
オレは軽く腰を落とした。
「敗ケルコトニ、ドンナ得ガアルノネ?」
「得があるかどうかは分からんが、敗けるつもりはない」
「言ウネ」
『クモ』も体勢を低くしていく。両腕が床につくほど。
「益々気ニ入ッタ。オ前が敗ケタラ子分ニシテヤル。得ガ出来タネ」
「ご冗談でしょ」
「本気ネ――」
『クモ』が動いた。
しかし、距離をつめたのはオレだ。後ろにテルコがいて戦えないという理由だけだが、あっという間に『クモ』が眼前にいた。こんな貧弱な装備でも、身体能力は上がっているようだ。
前のめりになっていた『クモ』を膝が捉えた。
『クモ』が吹っ飛んでいく様を思い描いたが、自分も弾き戻された。
『クモ』は数歩
踏み込んで右足を基点に、『クモ』が身体を回した。
左脚が大きく弧を描いてくる。
その体型で本当によくやる。
オレは逃げずに一歩前に出た。勢いが乗る前にの大腿部を抱えるように受け止めた。そのまま軸の右足を蹴り上げ、浮いた『クモ』を後方へと投げた。
『クモ』は軽々と椅子の背もたれに着地した。
それは想定内。
オレは既に宙に跳んでいた。揃えた両足で『クモ』を蹴り飛ばす。
『クモ』は鈍い音を残して椅子の後ろへ落ちた。
クリーンヒットだ。
だが、『クモ』のHPバーは微塵も動いていない。
どういうことか。
ナツの戦い方を思い起こしてみる。
『クモ』にダメージを与えてるな――と思えたのは、ピンクの三角形で捉えた時だ。あれが『クモ』のHPを半分に減らしたのだとすると、必要なのは《トリックシード》なのだ。
しかも、ナツは『クモ』の攻撃でパワードスーツを失ったのだから、こちらのHPは普通に減るということだ。
なんてクリア難度の高いゲームだ。
『クモ』を示す赤三角が迫る。
身構えたが、目の前にいない。三角の先は――。
「上か!」
座席を蹴り、それを足場に後方宙返りで逃げた。
オレがいた位置へ『クモ』が落ちてきた。
踵がプラスチック製の椅子を粉々にした。
飛び散るプラスチック片の中、『クモ』が前へと出てくるのが見えた。
まだオレは宙返り中だ。着地している暇はない!
脚を引き付け、体勢を小さくして回転した。
踏み出してきた『クモ』へ両足を突き出す。
二度目の両足蹴りはカウンターで決まった。
『クモ』は席の後ろへと弾け飛んでいった。
蹴ったオレも床へ落ち、反発する力で受付の台まで滑っていった。
映画なら数台のカメラで撮って、角度を変えて映し出したいほど奇麗な攻撃であったが、《クモ》のHPバーはやはり変わらなかった。
代わりにオレのHPの数字が【-13】の表示後に減り、バーも数ドット削れた。
床へ落ちたダメージ判定らしい。
レフェリーもいない不公平な戦い。
それがこの挑んでいる戦いの全てなのだ。
受付の台に手を添えてゆっくりと立ち上がった。
ロビーの方にテルコが見える。
彼女は、緑色の三角で【Irregular】と表記されている。
『クモ』を表す赤の【Enemy】はまだ待合席の向こう。
あれ?
もう一色ある。灰色の【Unknown】。
近いが、どこにも見えない。
更に二点の光点。
これはただの点だが、一列目の椅子と天井と壁の間辺りで点滅している。
これって、もしかして……。
「どうして《トリックシード》を使わないのだ」
唐突に後ろから声がした。
振り返ると、受付の中に『カエル』がいた。
さっき椅子の下にいたやつだ。
紫のアイラインが入った目がキリリと見ている。
灰色の三角形が『カエル』を指していた。
しかし、こいつはでかい。
普段なら大声を上げて脱兎の如く逃げる自信があるが、どうやら『カエル』は何かを知っていそうだ。
「《ヒューマノイド》にダメージを与えるには、《エレメンタルテリトリー》内で《トリックシード》を使うしかないのだ。点と点を繋いであいつらを囲い込む。より狭い範囲で取り込めば大ダメージを与えられる」
『カエル』が早口で説明した。
なるほど。なんとなく理解していたことに確証を得た。
しかし問題はそこではない。
『クモ』が起き上がった。
「じゃあ、頑張って――」
と、『カエル』が台の向こうへ屈もうとした。
「もう少し助けてくれよ」
オレは台へ身を乗り出し、『カエル』を両腕で掴んで止めた。
ひんやりとししながら温かく、程よい弾力と柔らかさが手の平に伝わった。
一言で言うと『気持ちいい』だ。
「何すんだ、スケベ!」
「スケベ――ってカエルだろ?」
「カエルでもレディーだ!」
よく見ると確かに、身体の緑と同系色の髪の毛が頭頂部から長く後ろに流れている。ワンピース型の水着の胸元もわずかに膨らんで見える。
でも『カエル』だろ。
「バトルはあんたの役目だ!」
「戦うけどさ、分からないことがあるんだ。教えてくれよ」
「巻き込まれたくないんだ」
背後に『クモ』が近付く気配。
オレは受付台から身体を起こすと同時に、手に持ったものを『クモ』に投げつけた。
細い悲鳴が『クモ』へ飛んでいった。
意表を突かれたのか、『クモ』は椅子の背もたれに立ったまま、その悲鳴をお腹で受けた。
『クモ』が屈み、悲鳴が跳ね返ってきた。
オレも既に前へ出ていた。
悲鳴の主である『カエル』を抱き止め、更に踏み込んで、九の字に折れた『クモ』の頭部を蹴り上げた。
『クモ』は宙へひっくり返った。
半円を描いて腹から床へと落ちた。
バウンドしたところまで見届けると、『カエル』を抱えたまま柱の陰へ身を隠した。
柱を背に呼吸を整える。
モルタルのひんやりさが背中に心地良い。
と、小さい拳が頬を叩いた。
『カエル』だ。
ダメージ判定【-3】。
「何すんだ?!」
「こっちのセリフだ! 君はバカか!」
『カエル』がもがいて、オレの腕から逃げた。
緑色の頬が紅潮している。
投げられた怒りより、抱えられたことへの羞恥心が先に立っているらしい。
ああ、女の子なんだ。
それは置いておき、話題を本題に戻す。
「教えてくれって」
「何をよ」
「《トリックシード》の出し方を」
『カエル』がその大きな口を――え?――の形で止めた。
丸まっている舌が見える。
うんうんと頷いた。
納得したようで一歩引いた。
オレを、というより装甲部を凝視してから言った。
「君の《ゴッドピースメイル》には飛び道具がついていない。つまり《トリックシード》を手で投げるタイプってことだ」
「へえ――」
分からない単語があったが、大事なのはそこではないのでスルーした。
「飛び道具があれば弾は自動で装填されるが、手で投げる《ゴッドピースメイル》は必要な時に呼び出さなければならないので、タイミングが難しいタイプだ。初心者向きではない」
『カエル』は心配そうにオレを見た。
そこは詮無いので方法を教えてほしい。
『カエル』が察してくれたようで、意を決して口を開いた。
「手を広げて《トリックシード》と念じれば出てくるはずだ」
「それだけで良いのか――」
オレは左手を広げた。
《トリックシード》――と呼ぶと手に細長い『鉛筆』が具現化された。
「本当だ」
「声に出さなくても――」
もう一度呪文のように唱えると、空いた右手に二本目が現れた。
右目の表示が【5】から【3】になっていた。
「なるほど。やはり総数は五本ってことか」
「五本? 五本じゃ勝てないぞ!」
「まかせておけ、『カエル』」
オレは立ち上がった。
「シャロン」
『カエル』が視線を上げながら言った。
「シャロン――それがあたいの名前」
「オレはアカシア・キリだ。よろしくな」
シャロンは薄く笑ったようだ。見た目はカエルだが、妙に人間臭い。
オレも笑顔で返してから、柱の陰を離れた。
『クモ』が受付の前に立っている。どうやら奥を覗き込んで探していたようだ。
オレは《トリックシード》の先を『クモ』へ向けた。
「オ前、ソレヲ手ニ入レタネ」
「弾数は五本だ」
「言わなくても……」
小さい声は柱の向こうからのツッコミだ。
「これでお前を倒す」
「面白イ。オ前、ヤッパリ面白イネ」
二本の《トリックシード》を短剣のように逆手に持って構える。
『クモ』も腰を落とした。
その肩越し――玄関ロビーに立ち、テルコがこっちを見ている。
視線はもう一つ――柱の陰のシャロンだ。
意識を集中する。
『クモ』の一挙一動を見逃さない。
ここで勝負が決まる。
『クモ』の背後に緊張が走った。糸が勢い良く飛び出す。左右両方の壁へ伸び、ピンと張られた。
これはあれだ。
『クモ』は数歩後ろへ
弓矢の弦のイメージだ。
放たれた矢のように『クモ』が飛んでくる。
しかし避けられない速度ではない。オレは余裕で椅子側へ跳んだ。
弾道は真っ直ぐ右横を通り過ぎ――――なかった。
糸が『クモ』の尻についたままであった。
糸が伸びきった状態で、オレの斜め後ろの位置で止まっていた。
『クモ』はオレが避けた方の糸を残し、右側の糸を外した。戒めを解かれ、鋭くオレへ向かってきた。
オレは《トリックシード》を投げつけた。
『クモ』の横を掠めた。
「直接当てててもダメだぞ!」
柱の陰からアドバイス。
だよね。分かってる!
『クモ』が脚を突き出した。
鏃のような攻撃に触れるわけにはいかん。
椅子と椅子の間に倒れこむようにかわした。
上を『クモ』が行き過ぎたのを確認して立ち上がる。
近くの座席へ《トリックシード》を突き刺すのも忘れない。
「――!」
すぐそこに『クモ』がいた。
通り過ぎていなかった。
『クモ』の尻から、もう二本の糸が伸びていた。天井と床だ。それが急制動をかけたのだ。
引っ張る壁の糸と、止める天井と床の糸。合計三本の糸が、テンションマックスになっている。
五メートルほど上で止まった『クモ』が顔だけ振り向いている。
ニヤリ――表情は出ていないのに分かった。
『クモ』が戻ってきた。
速度がさっきの比ではない。回し蹴りにその勢いが乗る。
避けられない!
オレは跳ねた。
脚を持ち上げ、『クモ』の蹴りに足を乗せる。
相手の蹴りに合わせ、力の方向へ飛んだ。
「《トリックシード》!」
両手に二本。
回転で勢いを相殺しつつ、《トリックシード》の一本を天井へ投げた。
ダメージ判定は【-29】。
数字を横目に床へ着地したが、勢いは止まらず、着地の姿勢で受付前まで滑った。
止まると同時にもう一本を床へと投げつけた。
まだ浮いている『クモ』の真下だ。
これで三点――。
座席――天井――床――を右の指で結んだ。
「セット!」
ナツがやっていたように左腕のスイッチを押すと、《トリックシード》の先を光が渡り、ライトマゼンタの三角面が浮かび上がった。
しかし、そこに『クモ』の姿はなかった。
バイザーの敵表示は――右だ!
クロスした両手を右側へ向けた。
天井からぶら下がった『クモ』が、鉄球のようにぶつかってきた。
両脚蹴りがガードを打ち叩く。
直撃は避けたが、オレは跳ね飛ばされた。
床へ背中から落ちる。
「アカシア――」
悲鳴に似た声が奥の柱の陰から聞こえた。
HPが半分を切った。
だけど、まだ悲観したもんじゃない。
ゆっくりと身体を起こした。
「……《トリックシード》」
最後の一本だ。
『クモ』は全く警戒していない。勝利を確信したように、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。
「いいのか? まだオレは敗けてないぞ」
手には最後の《トリックシード》が握られている。
『クモ』が足を止めた。頭を巡らせ、背後の《トリックシード》に気付いた。
壁と床の境目に刺さっているのは、最初の攻撃をかわした時に投げたものだ。
「二本デハ、面ハ作レナイネ――」
「それはどうかな?」
最後の一本を自分の横の床に刺した。
それと最初に投げたトリックシードを結ぶ。
次は腰掛け。
そして最後に指は、天井と柱の間へ向かった。
選択した四本が、
「セット!」
の声に反応し、線を走らせた。
線はライトマゼンタの三角錐を形作った。
『クモ』はその中心にいた。
「何デ、二本ダケジャナイネ?」
「ナツが残したのを利用したのさ」
『クモ』が弾いて腰掛けに刺さった一本と、ローリングソバットを受けて投げそこなった一本だ。
立方体で囲むと効果が倍増するようだ。HPゲージがみるみる下がっていく。
身動きも出来ないまま、十秒で『クモ』のHPはゼロとなった。
青白い光に包まれ、その姿はかき消えた。
代わりに左腕のクリスタルの色が濃い藍へと変わった。
辺りがしんと静まり返った。
「終わった……のか?」
足がへなへなとなって座り込んでしまった。そのまま倒れこみ、床へ大の字に転がった。
背中が冷たくて気持ち良い。
肺が息を求め、口がせわしなくそれに応じている。
ふと気付くと、すぐ横に人の気配が座り込んだ。
テルコであった。
少女然とした顔つきで、大きな瞳がオレを見つめた。
テルコはオレの右手を掴むと持ち上げた。
当然、その仕種の後には、感謝やねぎらいの言葉がある――オレはそう期待した。
ところが――。
「《エレメンタルテリトリー》解除」
静かな声で、右腕のスイッチを押した。
緩やかに景色が歪んでゆく。
オレとテルコを残して、待合室の壁や天井、床が、揺れ幅を大きくしながら掻き消えていく。
昔のSFドラマのワープシーンみたいだ。
なんて思っていると、バイザーに敵表示――赤の三角が見えた。
歪む玄関ロビーの向こうだ。ナツや『クモ』が降りてきた二階に影が立っている。
長い得物を持った白い姿だ。
しかし、見えたと認識した時には既にいなくなっていた。
何だ……?
景色の揺れ幅が細かくなっていくと、振動の向こうに同じロビーと待合室が現れた。
そこには人がいた。
え――何で?
思っている間に、テルコは再び右腕のスイッチを押した。
「《ゴッドピースメイル》解除」
貧弱なパワードスーツが消え、ブレスレットのみとなった。
同時に会話のざわめきや、カウンターからの呼び出し放送、設置されたテレビの音が、耳に聞こえた。
すぐ近くの席に座っているおばあさんと目が合った。
「……転んじゃった」
訊かれてもないのに言い訳してしまった。
照れ笑いと共に立ち上がった。
が、しゃがんだテルコが右腕を持っているのでバランスを崩した。
ちょっ――
倒れ掛かった身体を支えてくれた人がいた。
「ありがとう――」
礼を言ったが、返事はなかった。
振り向いてみると、テルコと同じ制服の少女が身体で受け止めてくれていた。
青みを帯びた黒髪ツインテールは見覚えがある。
ナツだ。
だが、彼女の細い眉毛はVの字を描いている。
どうやら怒っているようだ。
ナツは無言でテルコに手を添えて立たせると、玄関ロビーへと歩き出した。
怒りの対象はオレ? 全く身に覚えは無いけど。
「お――おい――」
脅えながらも声を掛けると、ナツが足を止めた。戻ってきて、オレの右手からブレスレットを外した。
「これは君が持っていて良いもんじゃない」
そう言い放つと、再びテルコの手を取って玄関へ向かった。
もう、何が何だか……。
辺りを見回すと、普通の病院だ。夜間ではあるが、まだ外来患者の数は多い。
玄関ロビーから入ってきて目当ての診療科へ向かう人。待合室でテレビを見る人。本を読む人。会話をする人。病院の職員と看護士達。
さっきの戦いの跡は一切無い。ナツがぶつかった壁も、『クモ』が壊した椅子も元通りだ。
まるで夢の世界だったように痕跡が残らない。
あれが《エレメンタルテリトリー》か。
ギリギリの戦いはイヤじゃなかった。
素直に言えば、楽しかった。
「イナギ――」
ロビーが見えるギリギリの所でテルコが呼んだ。
「でかしました。さすがイナギです」
そう言うと、手を引かれ、視界から消えた。
「キリだってば――」
さすがに名前を間違えられたままだと褒められた気がせず、天井を仰いでしまった。
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