第2話

 この感覚をどう表現すれば伝わるだろう。

 高密度な液体に浸る圧迫感と、雲に乗るような浮遊感を同時に感じれる――これが近いけど、伝わらないよな。

 要は、相反する気持ち悪さで目を覚ましたのだ。

 どこだ、ここ?

 そもそも寝ていたことに驚いた。

 すぐに五感が現状を補完していく。

 硬いベッドと白い視界。それに鼻をくすぐる消毒液――寝たままで理解した。

 病院だ。

 その割に静かであった。

 しん……と、空気そのものが押し黙っているようだ。

 聴覚がやられているのかとも思ったが、身じろぎにベッドが軋んだ。

「耳は大丈夫ってことか――」

 声に出してみて耳の無事を確認するが、相変わらず他の音は聞こえてこない。

 病院にいる理由……『カブト』に負けたのだ。

 思い出して、途端に腹が立った。

 オレはベッドから下りた。

 要は、勝負に負けて病院送りになったってことだ。

 見事な《こげら》だった。勝ち急いだオレの焦りを見越しての技だったのだ。

 先読みも技量もオレより上だった。

 見事としか言いようがない。

 だけど悔しいものは悔しいのだ。

 じいちゃんが帰ってきたら同門が他にいないか問い詰めてやる。

 カブトムシの姿を持った人が知り合いかどうかもだ。

 ……どうかしてる。いるはずがないな。

 じゃあ、あれは誰なんだ?

 部屋を見回してみる。

 パーテーションは開け広げられている。

 誰もいないことも一目瞭然だ。

 ベッドは三つ、その横には生体情報モニターが置かれている。治療器具も無造作に置かれ、その雑多さに切迫感があるように思えた。

 救急外来処置室かな?

 患者を放っておくなんて、どんな病院だ。

 待てよ……?

 ここは果たして本当に病院かどうかが不安になる。

 気を失った主人公が目覚めると、脱出不可能な場所に閉じ込められ、デスゲームを繰り広げる――そんなサイコスリラーな映画が重なった。

 もっともそういうジャンルは観たことがない。

 映画ならアクション一辺倒。ホラーやスプラッターは痛いから嫌いだ。

 アクションのスタントも痛そうであるが、痛みの種類が違う。時計台から落下するシーンは直視できても、針が目に突き刺さるシーンには我慢ができない。

 ここがそんな痛い世界だとしたらどうしよう?

 ドアへ向かうと、真鍮の取っ手を掴んだ。

 ぐっと力を込めると、引き戸はゆっくりと向こう側を繋いだ。

 床が見えた。すぐ向こうに壁。

 廊下だ。

 照度の落ちた青っぽい視界には音がない。

 声を潜めた沈黙というより、幽玄な静寂が満ちているようだ。

 思い切って廊下へ頭を出してみる。

 ①頭を殴られる。 ②斧が落ちてくる。 ③銃を突きつけられる。

 そんなことがあるかもと想像はしてみたが、気配は全く無いので心配はしていなかった。

 何もなかったから、そのまま廊下へ出る。

 右手奥は救急患者搬入口。左側はスイングドア。ドアの窓から更に廊下が続いているのが見えた。

 処置室の引き戸が半自動で閉じていく。ゆっくりとした動きにかかわらず、その音は妙に響いた。

 誰もいないが廃墟というわけではない。

 一時間前に巨大生物が現れ、全員避難しました――という方が納得だ。

 そんな妄想は嫌いではないが、シャレになっていない。

 外へ出るか。

 廊下を進むか。

 考えあぐねていると、横を人影が通り過ぎた。

「え――?」

 振り向くと、その人は既にスイングドアを押していた。

 黒髪を揺らしながら向こうの廊下を歩いている。

 この状況下で初めて会えた人だ。

 その背中を追った。

 スイングドアを抜けると、渡り廊下であった。別病棟へ繋がっている。

 黒髪はその建物へ入る所であった。

「ちょっと――」

 やっとその人が止まった。

 ゆっくりと振り向く間に、警戒されない程度の早足で距離を詰める。

 気が動転していたようだ。

 後姿からでも判断がつきそうなのだが、女の子であった。

 表情が幼い。年齢の想像がつかない。それほど背が高くないオレよりも頭一つ小さい。

 一つなぎのセーラー服は見覚えのない制服だ。

 大きく落ち着きのある黒い瞳がオレを見ている。

 やばい、ぼうっとしてた。

 かけるべき言葉を探していると、

「お久しぶりです、イナギ」

 彼女の方が先に言葉を発した。

 思った以上に落ち着きのある、柔らかい声質であった。

「久しぶり? 会ったことないよね」

 彼女は小首を傾げた。柔らかい髪もさわっと落ちた。

「あなたはアカシア・イナギでしょ?」

「オレはアカシア・キリ。苗字は合ってるけど――」

 ――イナギ?

 オレの頭にじいちゃんの顔が浮かんだ。

「じいちゃんと知り合いなのか?」

「何を言ってるのか、分からないわ」

「オレも分からない」

「イナギはいつもそうやってわたしをいじめる」

 彼女はそう言うと身を翻し、向こうの病棟へと入っていった。

 色々遺憾な言葉で終わったが、置いていかれるのも勘弁だ。

 オレも後に続く。

 受付のある待合ホールだ。かなり広い。総合病院のようだが、カウンターの奥にも、数多いベンチにも、人影は一切なかった。

 彼女は迷いもなく進んでいく。目的地が決まっているような足取りであった。

「どこへ行くのさ」

 キリの呼び掛けに黒髪が止まった。

「友達の所――」

 言いながら小さい手が上がって、細い指先が一点をさした。

 視線をその先に合わせる。

 吹き抜けのエントランスロビーがある。

 待合ホールとは、扉の無い出入り口で繋がっている。

 指は更に奥を差している。

 エントランスを通り過ぎると、入院棟へ続くようだ。

 吹き抜けだから、ここからでも二階が見える。

 友達って……入院でもしてるのか?

 二階のガラスフェンスに人影が見えた――と思った瞬間、一気にガラスを突き破って宙へ躍り出た。そのまま一回転して床に背中から落ちた。

 金属音を高らかに響かせ、身体が大きくバウンドした。

「なんだ――?」

 黒髪の少女が再び歩き始めた。そのロビーの方へ。

 オレは彼女の手を掴んで引き止め、柱の影へと連れて行った。

 椅子と椅子の隙間からかろうじてロビーの様子が見える位置で屈む。

 少女も素直に従った。

「あれはナツ」

「誰?」

 まあ愚問だ。

 彼女が友達と呼び、近付こうとしたのはあの白い影だ。

 つまり、あれが《ナツ》なのだ。

 ナツが起き上がった。

 よく見ると、金属系の白い鎧を着ている。いや、鎧という表現は適当じゃない。どちらかというと、パワードスーツのようなものだ。

 顔は痛みに顔を歪めた少女である。少しだけ気が強そうに見える。

 頭の両脇には、ツインテールのようなランサーが付いている。彼女の動きに合わせて上下左右に動き回っている。レーダーのようなものか。

 ナツは手に何かを握った。

 ナイフではないようだ。刃が無い。円筒形で、大きい針のようだ。

 ナツが顔を上げ、つられるようにオレの視点も移動した。

 フェンスの壊れた部分から影が飛び出してきた。

 今度は黒い。

 ナツが手の物を投げ放ったが、黒い影を全く掠めない方向へ飛んでいった。

 黒い影もそれに気を留めずにやり過ごすと、驚いたことにそのまま宙に留まった。

 硬質な音がロビーに響く。ナツの投げた『針』が壁に当たったのだ。

 黒い影が頭を下に宙へ浮き、逆さでナツと対峙した。

 ナツも入り口近くまで退がって、距離を開けている。

 彼女の肩越しに見える影は、異形の姿をしていた。

 人の体型はしているが、背中には二対、計四本の細長い脚が飛び出ている。人型の方の手足を合わせると八本、頭部にも八つの目。宙吊りの姿から黒い影は、蜘蛛の性質を持っていることが想像ついた。

「あれはヒューマノイド。イナギが戦う相手」

 少女が唐突に言った。

 自分なりに解釈してみた。なるほど。

「イナギはオレ? だとすると、オレに戦えと?」

「がんばって」

 返事に迷いが無い。

 無理を言うな。無理を。

 そんな詮無い会話をしているうちに、ナツが二撃目を『クモ』へと投げつけた。

 またあさっての方向に飛んでいく。ところがクモが身体を振って、遠心力でそれを追った。

 なんでそんなことを?

 追いついた『クモ』が、腕でそれを叩き返した。

 弾かれた物がオレ横の椅子へと突き刺さる。

 何とか驚きの声は呑み込んだ。

 腰掛けに刺さっているのは長さ二十センチメートルほどの鉄製の棒であった。

 『針』でもないようだ。クライミングで使うハーケンにも似ているが、大きな『鉛筆』という印象の方が強い。

 横で少女が立ち上がった。

「これは《トリックシード》。ゴッドピースメイルの武器。ヒューマノイドをキャプチャーできる道具」

 さすがに、もう理解の範疇を超えている。固有名詞が多くてよく分からないが、あの異形の『クモ』と戦って倒すにはこれが必要なのは分かった。

 オレは彼女が歩き出そうとしたのを止めた。

「さすがに、これ一本で戦える気はしないんだけど……」

 ちらっと『鉛筆』……いや、《トリックシード》か。それを手にしておこうと視線を動かしたが、消えていた。

「あれ?」

 目を離したのはほんの数秒だ。無くなるものか?

 空気がひんやりする。

 少女が柱の影から出ていた。

 ロビーの二人の視線が彼女に向いている。

 見つかった?!

「テルコ――」

 ナツの口から漏れたのはこの子の名前か。

 ぶらさがっている八つの目も、黒髪の少女――テルコを見つけている。

 つまり、やばい!

 『クモ』が身体を揺らし、跳ねるように待合室へと跳んできた。

「嘘でしょ」

 オレはテルコの手を引いた。ここから逃げようとした。

 だが、背の低い少女は動こうとしなかった。

 『クモ』が体勢低く走ってくる。

 ナツも追随しているが、『クモ』がテルコへ接触する方が早い。

 くそ!

 オレはテルコの前に飛び出ると、『クモ』へ向かって走った。

 向こうはオレがいるのを知っていたのか、それほどの動揺が見られない。

 これでは奇襲にはならない。

 『クモ』の速度は全く変わらない。

 ならば真っ向勝負だ!

 強く踏み込むと宙へ飛んだ。

 右足を突き出した飛び蹴りを、『クモ』はその丸みのある胸で受け止めた。

 直撃――だが止まらない。

 オレを飛び蹴りの姿勢のまま宙で受け止め、押し込んでいく。

 テルコまで近い。

 オレは左足を突き出した。代わりに右足を引く。『クモ』の胸を踏み台にして身体を回転させる。

 突いた左足は、相手のバランスを奥へ傾ける役目もしている。

 少しスピードが落ちた。

 だが狙いはそれではない。

 オレは回転の勢いに乗せ、右足を『クモ』の後頭部へ引っ掛けた。同時に左足を顎の下へ入れる。

 『クモ』が崩れたバランスを戻そうとする力を利用し、頭部を両足で挟んで前へ――というより、真下の床へと叩き付けた。

 モルタルが金属を弾く音が響く。

 サルノベ柔術てっけいだ。

 オレは技が決まった瞬間に『クモ』から離れた。

 床に手をついて後方宙返りで勢いを相殺したが、テルコを通り過ぎてやっと止まった。

 ぐいっと『クモ』が立ち上がった。

「ノーダメージかよ」

 その後ろにナツが走ってきた。

 『クモ』の視線がオレに向いている。八つの目は、ぼうっと立っているテルコを通り過ぎている。

 テルコを狙ってたんじゃないのか?

 不思議と敵意は感じない。

 ナツが追いついた――途端、ぶっ飛んだ。

「なっ?!」

 『クモ』が予備動作も無く、後方へ足を振ったのだ。

 横回転からの蹴りはローリングソバットである。

 足底ではなく、鞭のように振った脚の後ろ部分全体が、ナツを弾き飛ばしたのだ。

 待合席の方へ放られながらも、ナツは手にしていた《トリックシード》を投げた。

 ただ、『クモ』からは大きく外れ、天井と柱の境目へ突き刺さった。

 ナツ本人は、後方三列目辺りの椅子へぶち当たり、勢い止まらず、二列分の椅子を崩壊させながら滑っていった。

 医療関係のポスターが並ぶ壁へぶつかって、やっと止まった。

 『クモ』がゆっくりとナツの方へと歩みだす。

 人型ではあるが、腰部は本物の蜘蛛同様に大きく膨らんでいる。

 それでも、あんな鋭い蹴りが繰り出せるとは、只者じゃない。

 まあ、ひとでもない。

 《てっけい》は頭部を地面へ叩きつける技で、危険すぎて人間に使えるものではない。それを手加減なしで放ったにも関わらず効かないのだ。他の技でも望みは薄い。

 ナツに頼るしかないのか。

 『クモ』は音も立てずに、椅子の背もたれの上を器用に渡っていく。

 ナツはまだ起き上がれていない。

「気をつけろ! やつが行くぞ!」

 ナツが顔を上げた。鼻筋通った細面がオレへ向いた。

「君、どうしてここにいるのさ?!」

「それはオレが訊きたいよ」

「とにかく……その子を連れて逃げて」

 ナツは痛みを堪えるような声で言い放つと、立ち上がった。

 その根性は賞賛に値する。

 オレがあの蹴りを喰らってたら、いろんな世界からリタイアする自信がある。

 『クモ』が床へ降り立った。

 やっとナツも攻撃態勢を取った。腰アーマーに手を伸ばすと、クリスタル部分から《トリックシード》がにょきりと頭を出した。両手に一本ずつ構える。

 『クモ』の速度は変わらない。まるで近くのコンビニに行くような気軽そうな足取りだ。

 ナツが先に動いた。両手を大きく振って、《トリックシード》を背後と上へ投げつけた。

 壁の掲示板と天井に突き刺さった。

 さっきから何をしてるんだ?

 自問が答えに至る前に、ナツと『クモ』が交差した。

 『クモ』の三本の左腕が横に弧を描いた。

 ナツは転がってその下を転がりながら掻い潜り、もう一本の《トリックシード》を床に突き刺した。

 起き上がるや振り返り、片膝の姿勢で指を突き出した。宙で動かすと、《トリックシード》が反応している。

 掲示板と、天井と、そして床で、その尻部が光った。

「セット!」

 ナツはそう叫ぶと、左腕のクリスタルを押した。

 《トリックシード》の尻部から光が伸び、三本が繋がる。三点を頂点にピンク色をした光学の膜が広がり、三角形を作った。

 『クモ』は逃げ切れず、その膜に捕まった。斜めの三角面に左半身が触れている。金属質の肌面が波打った。

 表情のないメカ蜘蛛顔が苦しんでいる。

 膜から必死に身体を外そうと右側へ引いていく。

「やった?」

 ナツは立ち上がったが、表情は険しい。

 クモの尻部から糸が上へ吐き出された。ぴと――と天井へ貼り付いた。まだ三角面に捉われたまま、下半身が糸に引き上げられていく。

 ナツからは見えない位置だ。

 『クモ』はまだ諦めてない。

 三角面が消えた。

 戒めが無くなった途端、『クモ』は糸を張っていた方――つまり右側へ大きく振られた。

 奥側の壁へ手をつくと、今度は掲示板がある壁の方へ、天井の糸を基点に移動をする。

 そのスピードは増している。

 オレは『クモ』の意図を察した。

「ナツ、逃げろ!」

「君に名前で呼ばれる覚えはない!」

「言ってる場合か!」

 ナツは身体を動かそうとしているが、その場から微動だにしない。

 限界だったようだ。

 逆さに天井で吊られていた『クモ』が、掲示板のある壁を蹴った。

 ナツとの距離が一瞬で詰まった。

 振り子のように『クモ』がナツとぶつかった。

 当たる直前で、『クモ』は両足を揃えて突き出した。

 短い悲鳴を残し、ナツはオレとテルコの目の前を通り過ぎた。受付横の壁まで一直線に突き飛ばされ、上部へとぶつかると、モルタルを崩しながらバウンドした。

 宙でナツの身体が発光した。

 いや、身体というより、強化服が閃光を放っている。

 それも一瞬。ふっと光が消えると、ナツという少女と、ブレスレットに分かれた。

 ナツ自身は、テルコと同じ制服をなびかせながら、椅子の向こう側へ落ちた。

 オレはナツに駆け寄ろうとしたが、宙に浮かんだままのブレスレットに気を取られた。

 ぱきり――と小気味良い音を立て、ブレスレットからクリスルタルの部分が外れた。

「何だ……?」

 クリスタルは宙で溶け、そのまま気体になった。紫色の靄は意思を持つかのように、『クモ』の方へ流れていった。

 全てが『クモ』に吸い込まれると、ブレスレットは床へ落ちた。

 乾いた音を立て、玄関ロビーへ滑っていく。

 予測不能の現象だらけで、オレはどこに何をしに行けば――……

 混乱はするが、パニックになるほどじゃない。

 修行の一環であるボードゲーム勝負で、じいちゃんが予測を超える手を打ってきた時、簡単に前後不覚になって思考を投げ出さないことを身に付けてきたのだ。

 まあ、そうなった場合、たいていじいちゃんが勝つのだが。

 でも諦めたりはしない。

 まずはナツだ。

 オレは彼女が落ちたであろう場所へ走った。

 だが姿はなかった。

 消えた? 世界の人々みたいに?

 ふと現状の異常さを思い出してしまった。

 あいつらに殺されると、世界から消えるのか? じゃあ、オレが気を失っている間に、全人類がやられてしまったということか?

 視界に『クモ』の姿が入ってきた。

 逃げた方が良いのか?

「オ前、何デ、アイツヲ助ケタネ?」

 電子音が組み合わさったような声で『クモ』が訊いてきた。

 手を考える時間稼ぎのためにも答えようと思ったが、『あいつ』って誰だ?

 《クモ》がゆっくりと歩み寄ってくる。

「助ケテ、何カ得ガアルネ?」

「もちろん、色々あるさ。感謝されたり、上手くいけばムフフの状態になるんだ」

「何ヲ言ッテルカ、サッパリネ」

「すまん。オレも分からん」

 『クモ』の前進に合わせ、オレもゆっくりと退がる。

 逃げるための算段のため、話を長引かせよう。

「何で語尾が『ネ』なんだよ」

 どうでもいいことを訊いてしまった。

「何デ語尾ガ『ね』?」

「繰り返すなよ」

 『クモ』の動きが止まった。

 八つの目を配した金属の頭が傾いだ。

 オレも同じ方向に傾げてみる。

 何だ?

「喋ッテルネ――喋ラレテルネ――」

 『クモ』が喜んだ。表情は見えないが、たぶんそうだ。

「今まで、話せなかったのかよ」

「ごっどふりーめいるヲ倒セバ、人間ニ近ヅク。情報ノ通リネ」

「何――?」

「ナラバ、アノ女ヲ殺セバ、手ッ取リ早ク人間ニナレル。コノ噂モ信用デキルネ!」

 『クモ』はオレの後ろを指さした。

 恐らく『アノ女』とはテルコのことであろう。

 そんな価値のある女の子だとは思えない。普通の子だよ。

「アレ――?」

 クモの指が行き場なく彷徨っている。

 振り向いてみると、テルコがいなかった。

 『クモ』が辺りを見回している。そこからでは見えないのだ。

 テルコは玄関ロビーにいた。何かを拾っている。

 逃げるなら今だ。

 『クモ』の標的はテルコに変わった。

 彼女を囮にすれば逃げられる――……

「ソッチネ!」

 『クモ』が気配を察したのか、玄関ロビーへ身体を向けた。

 椅子の背を足場に跳ねてくる。

 放っておけるはずがないだろ!

 一列目の椅子に掛けた『クモ』の足を払い飛ばした。

 バランスを崩し、『クモ』がお腹から倒れてくる。

 オレはその下に飛び込んだ。

 落ちてきた『クモ』を上げた両足で受け止める――同時に蹴り上げた。

 カウンターを狙ったのだが、思った以上に重かった。

 突き上げた足は『クモ』を三列目へ弾き戻しただけであった。

 ついでにオレも床へ背中から落ちた。

「――!」

 椅子の下に大きなカエルがいた。

 ひとの半分ほどの大きさだが、大きなカエルだ。

 睫毛を蓄えた大きな目がオレを認めると、そそくさと椅子の下を這って、向こうへ消えていった。

「もう大抵の事には動じない自信があったんだけどな……」

 頭をかいている場合じゃない。

 『クモ』が起き上がろうとしている。

 オレは飛び起きると、テルコの方へ走った。

「さあ、逃げるよ!」

 テルコの手を引くが、彼女は全く動かなかった。

「一体何なの?!」

「大丈夫。イナギならやれるよ」

 テルコがオレの右手首にブレスレットをはめた。

 さっきナツが落としたもの?

「でもこれ壊れてるよ」

 クリスタルの部分がすっぽり抜けている。

 『クモ』が待合席から抜け出てきた。

 さっきまでオレがいた位置に立っている。

 さすがに怒っているようだ。

 二人で生き残る道は無い。

 なら、キングを逃がすために駒を犠牲にするしかない。

「あいつはオレが食い止めるから、君は逃げるんだ」

「わたしは逃げないよ。イナギが守ってくれるでしょ」

「だから、これは壊れてるからムリだって」

 『クモ』が体勢を低くした。

「宝玉の代わりになる物をイナギは持ってるよ」

「そんなもの、持ってない――よ……?」

 素直にポケットをまさぐると、制服のポケットに覚えのない感触があった。

 取り出すと、それは小さなガラス玉であった。

 掌に収まる程の大きさだ。

 ビー玉にも見えるが、表面に走る血管のようなものが気持ち悪い。これ以上持っていたくない気もするが、今オレを巻き込んでいるこの世界に属する玉であるのは間違いない。

 あいつが入れたのか……。

 『カブト』だ。

 気を失う直前に、そんな記憶が残っている。

 テルコが言う『宝玉』とは、『クモ』に吸収されたクリスタルだとすれば、この『生きたビー玉』はその代わりになるということだ。

「なら、やるしかないな」

 オレはテルコの前へ進み出た。

 『クモ』と対峙する。

 もしこれが使えれば、確かに生き残る可能性は高くなる。

 オレは玉を右腕のブレスレットへ合わせた。

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