第3話

 その日の朝は変わりなく、あのお方を送り出したのですが、お迎え時、あの駅でどんなに待っていてもあのお方のお姿はありませんでした。

 あの出張と称したものだったのだろうか? けれど、そういった特別な装いはなかった。

 何かあったのだろうか。ずいぶん待ったが、今日はお戻りになられないのだと仕方なく家に戻りましたら、家の様子が一変しております。

 驚きながらも、わたしにはそれがどういうことなのか、よくわかりませんでした。ただ、そこにはむせび泣く奥様や、多くの方々がおられた、ということだけです。

 目の前には大きな長い木箱があり、あのお方の移り香が、うっすらと漂っておりました。

 何かがおかしい。何かが違う。そう思っても、わたしに為す術は、何もございませんでした。あのお方がおられない。暗く沈んだこの気配に、食事も喉を通らなくなり、わたしはあのお方の香りのする大きな箱のそばで、静かに目を閉じました。その箱がなくなると、今度は移り香のするお召し物にすがるようにそばを離れることができませんでした。


 程なくして、何もかもが変わっていきました。

 わかっていたことは、あの家にはもう住むことができないということ。奥様に連れていかれ、よその家へ預けられるということ。あのお方のお姿はどこにもなく、送り迎えをすることも許されない状況になってしまったということ。

 食事の量も減らされ、毎日食べることはできなくなりました。

 何より一番つらかったことは、あのお方を駅で待つことができない——、ということでした。

 ああ、あのお方が駅に到着されたとき、わたしの姿がないということを、あのお方が駅で知ってしまったら、どんなにがっかりされるだろうか。そう思うと、いてもたってもいられません。

 わたしは隙をみては何度もその家を脱走し、あのお方が帰ってこられる駅へ向かいました。が、いくら待っても、お姿は見えませんでした。これは何かやむを得ないお仕事での事情に違いないと思っても、いいようのない孤独感が日を追うごとに膨らみます。 

 きっと明日こそはと脱走を繰り返すうち、今度は面識のある、別の方の家へ引き取られることになりました。そこでは、お迎えにあがることは容認されましたが、家にじっとしていることができず日中も出歩き、ほとんど放浪者のようになっていったのです。ようやく自由になったとて、お姿の見えない現実が顕在化していきました。


 これまでも出張と称したものはあった。あのお方はよんどころない事情が済んだら、必ずお戻りになる。あの駅でわたしを見るやいなや、待っていたことを手放しに喜んでくださるに違いない。それがいつになるであろうと、お戻りになるときにわたしがあの場にいなくてはならない。のしかかるこの気持ちは取り越し苦労で空足ではなかったのだと、そう信じて欠かさず駅へ出向いたのです。


 それからは、いろいろなことがございました。

 うろつくことは不穏もはらみ、見知らぬ人につかまって、あのお方からいただいた身にまとっていたものをはぎ取られることもございました。石を投げつけられたり、店先などに近づけば、じゃまだと水をかけられ、おなかがすいて畑のものを無断で食べたときは、農家の人は血相をかえて駆け寄り、思いきり腹を蹴られました。

 疎まれ、怒鳴られ、たいそう嫌われておりましたが、わたしは、ひとえにあのお方がお帰りになることをひたすらにお待ち申し上げる。突然にお戻りになられるだろうその瞬間ときを支えに生きておりました。

 かくして、あのお方を待ち続けてからいつの間にか長い年月が過ぎ、気がつくと、すでに十年という歳月になりました。

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