第2話
期せずしてそのお方は、右も左もわからぬわたくしを、目に入れても痛くないほどかわいがってくださいました。まるで愛児と見紛うように、寝るときさえ床の中へ入れてくださったのです。
おなかが弱かったわたしは、よく腹を壊しました。
あるとき、夜中に苦しむわたしをこともあろうか、あのお方はわたしを抱きかかえて医者へ連れて行ってくださり、そのときはさすがに奥様も目を丸くいたしておりました。
食事もおなかに良いものをとご配慮をいただいたおかげで、みるみるうちに丈夫なからだになりました。
風呂へもよく一緒に入れてくださり、ときにはご自分の失敗談の話をされては、豪快に笑い飛ばされたり、わたしだけに、こっそりと内緒話もしておりました。庭で遊んだあとは、決まって縁側に座られ、ゆっくりとお茶を口にしているお姿など、あのお方との思い出は、陽だまりに囲まれた楽しい思い出しかございません。
時折、出張と称してしばらくお留守のときは、身を切られるほどに寂しく、声をあげてしまうほどでございました。それを目にした奥様は、この想いを伝えてくださり、あのお方は通勤する駅まで、わたしに袂を連ねることを許されたのでございます。
それからは、お出かけになる時間とお帰りになる時間、ご自宅から駅までは、わたしとあのお方だけの絆を深める、大切な日課となりました。
毎朝、決まった時間にお出かけになられ、衆目を集めながら駅へ向かいます。
「じゃあ、行ってくるからな。ちゃんと家に帰るんだぞ」
駅に着いて笑顔でわたくしに言い聞かせると、吸い込まれるように駅に向かわれます。改札口を通られる前には、こちらを振り向いて、手を振ってくださいました。
わたしはしばらくして、あのお方が引き返してくることがないことをしっかりと確認すると、ゆっくりと歩き出します。このように毎日送り迎えをするわたしを、周りの人は
電車が停車し、人が出てくるたび、浮きたつこころを鎮めるように背筋をピンと伸ばしてかまえます。目を凝らしていてもお姿がない。ああ、この電車には乗っていらっしゃらなかった。
よし、次の電車だ。そうこうしてしばらくすると、次の電車が駅に停まる。きっとこれに違いない。そう思いながら、あのお方の姿を心待ちにします。また違った。身動きもせず、ひたすらに改札口から出てくる人の姿をじっと待つわたしを、駅員さんたちは
今度こそ、この電車か。いや、まだだ。
この繰り返しの思いを無表情で交差していると、そのときは突然やってきます。
改札口を出てきたあのお方が、わたしの方向へまっすぐと向かって歩いてこられるのです。
「ただいまぁ」
口髭をはやし、蝶ネクタイを結び、帽子をかぶったあのお方の雰囲気は一気に破顔となり、両手を大きく広げます。わたしも全身で喜びをあらわし、駆け寄って抱きつきます。そのあと、あのお方はわたしの目線まで腰を落とすと地面にかばんを置き、わたしの頭と頬をなで、抱きしめてくださいます。
「待たせたな。きょうもいい子にしていたか。うん、そうか、そうか。寂しかったか」
待っていたわたしの姿をみて喜んでくださるあのお方の姿をみることは、わたしにとって、もっとも満ち足りた瞬間でございました。
————そうしてある日、突如としてそのしあわせな日は、来なくなります。
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