7 メリークリスマス
デリーに戻ってからしばらくは、失恋に似た虚脱感を引きづりながら、客引きの真似事をやった。
切り詰めて生活していたが、帰国まであと七日で一文無しとなった。サトウィンダーは「帰国まで家に泊まれ。必要なだけ金を貸す」と言ってくれたが、せめて出国税くらいは自分で稼ぐことにした。
とりあえずカメラや時計やテレコなどを売るしかないのだが、メインバザールでは買い叩かれるのがオチだ。
そこで、人通りの少ない路上にビニールを敷いて商品を並べてみた。まさかインドで露店をするとは思わなかった。隣では髭剃り屋が営業している。
営業反応は早かったが、初めて寄ってきた人は「FOR SELL」のスペルミスを指摘してくれた(正しくはSALE)。
しめて九百ルピーで売れて余分な金もできたので、日本の友人に手紙を書くことにしたのだが、金券ショップのような店で大量に切手を買ったら、それは古切手だった。どうりで安かったわけだ。僕はここまで惨めな旅行者をまだ知らない。
コンノートを歩き回るうち、十二月二十四日になった。
日本ではクリスマスムード一色のはずだが、ニューデリーも今日になってやっとクリスマスがやってきた。
ケーキ屋に行列が出来ている。チンドン屋が消えて、代わりに「メリークリチュマス」と言うインド訛りのサンタが歩いている。
広場の一角に人だかりができた。今日は大道芸人の空中浮遊ショーではない。
物乞いの少年がテクノダンスをやっている。聞くところによると、少年は電機屋の店頭テレビでダンスを覚えたという。
裏通りには、こじきの休憩所みたいな一角があった。
こじきたちはボロ布をまとい、ゴミを燃やして暖を取っている。僕もそこでよく休ませてもらった。始めは金持ち日本人という目でしか見られなかったが、ずっといると、通じない言葉で話しかけられたりもした。
焚き火の横で、二才くらいの男の子が小便している。小便の垂れるすぐ横で、老男がパンを囓っていた。インドでは出すも入れるも同じようなものだ。
盲目の女が地面にへばりついて移動してくる。麻袋からおもむろに櫛を取り出して髪をとく。
この日、僕は親からの送金を受け取ることができた。為替送金は時間がかかるので、普通の封筒に現金を入れて送ってもらったのだが、うまく届いた。こんな形で大金を送ってくる親もあっぱれだ。
僕はこの金で再び、サトウィンダーにプジャのことを頼んだ。また長い交渉が始まることになる。
今後、僕はプジャに会わないこと(情が移るのを恐れたため)、もし彼女が望むのであれば《ソーシャルワーク》の用意があることを話した。サトウィンダーは明日か明後日にもマダムに会うと言ってくれた。
しかし、インドでも年末はなにかと決算の時期である。この時期にサトウィンダーと過ごしたことで、僕は彼の弱さと強さをしっかり見て帰ることになる。
日が暮れてオフィスに戻ったら、サトウィンダーがうつむいていた。昨夜も深夜まで仕事だったから、居眠りしているのかと思ったが、ビルの副オーナーもいて、彼が去り際に言った。
「彼の面倒を見てくれ」
なんのことだがわからなかったが、子分たちに聞いたところ、事態は深刻だった。オフィスの家賃が払えなくてこの旅行社が潰れるというのだ。サトウィンダーはまだ顔を上げない。
社のワゴンが出払っているので、今夜はオートリキシャで帰った。
家に着いてから、サトウィンダーはやっぱり僕の部屋にきた。泣きそうな顔をしていた。特別な用事もないのに部屋へ来るのは初めてだった。
僕は何も聞かないことにしていたが、やがて彼の方から語り出した。
「今日はバッドラックの日だった。年末の支払いが間に合わない」
その後、まさか話さないだろうということまで、旅行社の内情を吐露していた。
「あのオフィスを開いたのは一年前だ。今日まで借金してやってきた。だが、もうダメかもしれない」
そして冷静にすさまじく細かい数字を言い出す。
「毎月まで借金が六万五千ルピー。妻のジュエリー十四個を売った。あと五万ルピーを父から借りようとしたら、家から出ていけと言われた」
ひょっこり現れた二歳の娘には父親の目を向け、うまく追い出してから、話のつなぎを忘れもせずに吐き出し続けた。
「……これで、融資の宛てもない。オフィスの家賃が払えなかった。今日、ビルから出ていってくれと言われた。すべてはこういう訳だ」
僕は家賃の額も子分への給料も知っているから、赤字のことも検討がついていた。ハイシーズンの稼ぎ時だというのにお客は日に一組か二組、多少ぼったくったところで、子分の給料にもならない。ただ、サトウィンダーも子分たちも今日まで関係ないのように笑っていたから、会社が潰れるとは想像もしなかった。
このとき改めて彼らのすごさを知った気がした。みんなギリギリまで陽気に生きていたのだ。たとえ潰れたとしても、この徹底した楽観主義がいままで彼らを支えてきたはずだ。
僕らは、向かい合っていた。
しばらくして、サトウィンダーが言った。
「さっきのことは、まだ家族に話していない。黙っててくれ。だが、明日話す」
「わかった。誰にも言わない。安心してくれ」
この夜、サトウィンダーは家族にも話せないことを抱えて、一人になる場所が欲しかったのだろう。僕の居候が、彼にとって少しは足しになったのかもしれない。サトウィンダーは僕の部屋にいることで、一人にはなれないにしても、こうしてぼんやり宙を見ていられる。
ただ、借金を抱えた金持ちは、乞食より悲惨かもしれない。今夜の帰り道、サトウィンダーはしつこく付きまとう乞食男に怒鳴り散らした。普段は決してそんなことをしない。そして、その男がニヤッと笑ったのを僕は見た。
「明日は、クリスマスだな」
サトウィンダーは不意につぶやいた。
「明日は家でパーティーだから、今夜が二人で最後のディナーだな」
サトウィンダーは立ち上がると、使用人のようにテキパキ動いて晩御飯のカレーを運んできた。
「来年も、インドに来てくれ。私はこの家に必ずいる」
「ああ、来る。もちろん」
それにしてもサトウィンダーは、あの日僕が積み上げた札束をどんな思いで見ていたのだろう。
翌日の出勤は、いつもより二時間遅かった。
サトウィンダーは遅れた言い訳を軽いジョークにした。
「すまん、ターバンの巻き過ぎだ」
僕らはリキシャのたまり場まで歩いた。
サトウィンダーが家から持って出るのは携帯電話だけだ。今日は、それを誇らしげに見せてきた。
「これは昼に売る。もうつながらんぞ」
携帯電話はインド人ビジネスマンのステータスである。それを手放すというのに、サトウィンダーはニコっと笑った。二歳の娘と同じ笑い方で、僕にはその横顔が確実に眩しかった。
オフィスに入ったが、とうとう今日はサトウィンダーと僕の二人になってしまった。子分たちはいない。昼になっても出勤してこなかった。
僕が外へ出るとき、サトウィンダーはいつもの「ビックフィシュ頼むぞ」とは言わず、「何時に帰る?」とだけ聞いてきた。
子分たちは今日だけ来ないのか、見切りをつけてやめていったのかは確かめられなかった。
サトウィンダー家のクリスマスパーティーは、ずいぶん前から計画されていて「クリスマスは楽しみだなあ」というのが家族の口癖だった。
といっても、それらしい飾り付けもなく、近所の顔見知りが集まってホームパーティーという感じだ。彼らの故郷のパンジャビ料理が並べられ、子どもたちはケーキに興奮して走り回っている。
僕のフライトは今夜の十一時だった。
お客がみんな帰った後、サトウィンダーはさりげなく言った。
「YOUとのワークで、私の知らないことがまだまだ多いことを知った。これを知っているのと知らないのとでは、今後の生き方が変わるものだった」
「僕も変わったことがある。女性の好みが、インド人になった」
「それはワンダフル」
僕らは最後の握手をした。
サトウィンダーの家族とは仲良くなったのかどうかはっきりしないが、別れのあいさつをすると、誰も今日でお別れだと知らなくて、
「えっ、もう帰るの?」
とか言われ、さらに、
「今度はいつデリーに来るんだ」
「どうせすぐ来るんでしょ」
「そうそう、またすぐにやってきそうだ、あんたは」
などと笑われた。サトウィンダーの奥さんは、
「それで、あなたがインドに来た目的は何?」
と今頃聞いてくれた。ともかく理由も聞かずに泊めてくれた家族に、もっとお礼を言わねばならない。
サトウィンダーが空港まで送ってくれる予定だったが、こんなときに限って車がない。サトウィンダーのお父さんが車でシーク寺院に行ったらしい。
「ノープロブレム。まだ時間はある。待ってろ」
「……ああ」
この一ヶ月、僕はなんでもよく待ったつもりだが、この時が一番焦った。
「父はすぐ戻る。ファイブミニッツだ」
サトウィンダーはまた同じことを言う。
「まあまあテレビ観ろ。ノープロブレムだから」
そして、お父さんが戻ったときには、チョックインに間に合うのか怪しい時間になっていた。
「ノープロブレム。急いで空港へ向かう。信号無視だ」
すぐに出発したが、車はオンボロのアンバサダーでスピードが出ない。バイクに抜かれるくらいだから、急いでいるのは気分だけだ。
「サトウィンダーよ、チェックインに間に合うのか?」
僕はタクシーを拾うつもりでいた。
「なんだ、間に合わないと思っているのか。OK、賭けをしよう。YOUはどっちだ?」
そうだった。いつだってサトウィンダーはギリギリのところまで余裕の男なのだ。
だから僕は答えた。
「間に合わない方に賭ける」
「じゃあ、私もそっちだ。よし」
サトウィンダーはクラクションを鳴らした。
車はスカンスカンと鈍い音を立てながら、真っ暗の道路を抜けていく。
プジャ・シャルマと夕陽の中へ インド売春地帯取材記 シゲゾーン・シゲキ @shigezone
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