6 プジャ・シャルマと夕陽の中へ
混乱は、ホテルのチェックインから起こった。
夜九時ジャイプルに到着し、旧市街の城壁を抜ける。インド屈指の観光地だけあって、かつてのマハラジャの街を思わせる宮殿や城壁が暗闇の中でも栄えている。
ホテルはゴプタが勝手に決めた。
「待て、私がファーストチェックする」
ゴプタが先にホテルへ入っていった。高級クラスではないが、一泊七百ルピー(約二五00円)なんてホテルは僕も泊まったことがない。
「OKだ。降りろ」
僕らはフロントでチェックインの手続きをした。
「シングルですか、ダブルですか」
隣に彼女がいるのになぜ聞いてくるんだと思ったら、彼女は荷物を残していなくなっていた。後ろには、韓国人のおばさん四人組がパスポートを握って順番を待っている。
「ダブルだけど」
「お連れ様は?」
「私のワイフ」
「では、マダムの名前はこちらに」
ホテルマンは記入する欄を指したが、僕はボールペンを握ったまま硬直してしまった。彼女の名前が書けない。まだ名前も覚えていなかった。
僕は荷物を取ってくるふりをして、わざとらしくフロントから逃げた。ゴプタに駆け寄ると、彼女の名前を紙に書かせた。
フロントに戻ってカンニングしながら書き込んだのだが、ホテルマンはさらに帳簿の空欄を指差した。
「こちらにマダムの住所を」
僕はたまらずゴプタに助けを求める視線を送ってしまった。
彼女は彼女で、男性用のトイレに入って従業員に注意されている。扉の「GENT」の英語すら読めなかったのだ。彼女はいまもオドオドして目が飛んでいる。田舎娘が場違いのホテルに来た様が僕にもよくわかった。韓国のおばさんたちも露骨に彼女を眺めている。
なんとか手続きが終わった。
ゴプタは明日十時に来ると言って去った。
彼女の名前は、プジャといった。源氏名か本名かどうかわからない。ただ、「プジャ」とは、ヒンディー語で「人の運命を転換される力をもった儀礼」という意味である。
ホテルのレストランが閉まる時間だというので、僕らはすぐ食事をとることになった。
プジャはまたも英語のメニューが読めず、ウエイターがプジャに英語で話しかける。彼女は話しかけられたことすら気付かずに、メニューを睨んでいた。
「ピラフでいいかい?」
と、僕は日本語で聞いた。通じているとは思えないが、プジャはうなずいた。まだ何が何だかわからないようだった。
料理がくるまで、ヒンディー語の教本を頼りに、いくつか簡単な質問をした。
プジャは十九歳、夏に生まれた。自分の誕生日は知らないという。
「もう一度、名前を書いてくれ」
と伝えると、彼女はマネキュアを剥がした跡のある爪で不器用にペンを握り、時間をかけて「プジャ・シャルマ」と書いた。
僕が聞けたことは、これだけだった。
プジャはわずかだが字が読めた。書く方は時間がかかるようだが、なんとか筆談はできるだろう。
部屋に戻ると、僕らは初めて二人きりになった。部屋の静寂がツーンと響く。
僕はこの旅のことをどう伝えて良いのかまだわからず、プジャをまともに見ることもできず、とりあえずミネラルウォーターを指して「いつでも飲んでいいよ」と手振りで伝えた。
プジャはさっそくボトルの蓋を開けた。喉が乾いていたのかと思ったが、蓋を開けただけだった。さっきの手振りが、彼女には蓋を開けろという命令になったらしい。プジャはまだ使用人のように直立していた。
そして僕は汚れ物が溜っている。リックを開けたら部屋の空気が変わってしまった。いまのうちに洗濯しないと明日から着る服がない。
僕はバスタブにお湯をはって、シャツとパンツを洗い始めた。
プジャはまだ立っている。部屋に入ってすぐ洗濯をする金持ち日本人をどう見たのだろう。
僕は「寝てもいいよ」と伝えると、彼女はそのままベッドに潜り込んだ。着替えず、時計も外さず、すぐに寝息を立てて眠っていた。疲れていたのだろう。乱暴に脱ぎ捨てたサンダルが、十九歳の女の子を感じさせた。
翌朝、僕らはゴプタの声で目覚めた。
朝食に向かうとき、プジャは僕の二メートル後ろを歩いてくる。
コミニュケーションは一度だけ、彼女は僕のカップにチャイを注いでくれた。お互い無言だった。
朝食から戻ると、ゴプタは部屋でシャワーを浴びていた。彼は昨日、車の中で寝たらしい。
ゴプタが出てくる前に、僕にはやっておかねばならないことがある。一刻も早く、彼女にこの旅の目的を伝えねばならない。
「すぐ戻る。待っててくれ」
と言って僕は部屋から出た。
昨日のうちにプジャへの手紙を書いておいたのだった。外へ出て、英語のできる男を見つけると、手紙をできるだけ簡単なヒンディー語に翻訳してもらった。走ってホテルに戻ると、イスに座っていたプジャに見せた。
昨晩、眠れない頭でよく練った文章だった。どう伝えてよいのかわからないのはそのままだ。だから、一つだけウソをつくことにした。
あなたは僕の母にとても似ている。
だから僕は、あなたに幸福になってほしい。
僕はあなたに、一週間の休暇をあげたい。
あなたに何も要求しない。
ジキジキもいらない。
ただ一つ、僕に、この国の言葉を教えてほしい。
今日からあなたは、ヒンディー語の先生です。
この旅行を楽しみましょう。
プジャは一語ずつ小さく声をあげて読んでいたが、次の瞬間、ああっと大口を開けて驚いた。口を開けたまま最後まで読み終えると、まともから僕を見て、とっさに右手を掴み、二度大きく振った。ともかく僕らはこうして派手に握手をした。
「シゲキ、朝食は食べたか?」
ゴプタはバスタオルを腰に巻いてバスルームから出てきた。
「ああ、済ましたよ」
「今日はどこへ行くか? ジャイプルの観光か?」
「いや、アジミールだ。すぐ準備する」
僕が歯磨きする間、プジャはまた手紙を広げて読んでいた。
流れが変わったと思った。この先、なんとかなるかもしれない。体が軽くなった気さえする。
僕は顔を洗って荷物をまとめたが、プジャは出発の準備もせず、僕のメガネをかけて鏡を眺めていた。僕に振り返ると、一度かけてみたかったんだという顔で微笑んだ。プジャが笑ったのは、このときが最初だった。
昼食はドライブインのレストランに入り、カレーを食べた。
用事もないのにボーイが寄ってくる。
「こちらは?」
「私のワイフだ」
あからさまに疑いの目を向けられるが、僕らはガツガツ食べていた。
チャイを注ぐボーイはプジャを「マダム」と呼んだが、彼女は気付かない。もう一度マダムと呼ばれたときに、プジャはやっと自分のことだと気付いてププッと吹き出した。
笑うといっぺんに顔が変わるタイプの女の子だった。彼女は愛想笑いなどしない分、表情から嘘のない反応が知れる。
アジミールまで四時間ほどだった。
ハイウェイを走る最中、プジャは不意に短い祈りを捧げた。道路の端にヒンドゥー神の地蔵がある。
田舎道が続いた。電線などない真っ赤な土地が広がり、ときおり村があり、井戸があり、頭上に水瓶を乗せ合う親子を一瞬見ることもあった。
「右だ。右を見ろ」
ゴプタが叫ぶ。遠くで野生のタイガーが、車と競うように駆けている。
アジミールは小さな山に囲まれた人口四十万人のムスリム都市で、この町を選んだのは、ジャイプルから車で行くとなればここしかないからだったが、もう一つ理由があった。
古い書物で見た記憶だが、町の寺院に全宇宙の姿を表した巨大模型があるという。それは曼陀羅よりも緻密で、絶対的なバランスを内包する完璧な立体に見えた。見学できるものかは知らないが、その宇宙をプジャと一緒に見たら面白いと思ったのだ。
アジミールに入って聞き回ったところ、町のジャイナ寺院に行けという。
街の真ん中に寺院はあった。入場料を払って入るところだった。
回廊を抜け、体育館ほどのスペースに無数の船や橋や樹木や円が配置されており、また無数の黄金塔がそびえ立つ。
プジャは初めこそ珍しそうに眺めていたが、数分もすると、僕の後ろから付いてくるだけだった。僕も思ったほど感動はなく、プジャと「まあ、こんなもんね」と向かい合って終わった。
ゴプタは町外れに車を走らせる。
「あの山の向こうに良いホテルがある。ヒンドゥー教の聖湖もあるぞ」
今夜のホテルも、ゴプタが勝手に決めるようだ。
険しい道を抜けて山を一つ越え、プシュカルという町に入った。だんだんと湖が見えてくる。
「ここだ、グッドホテル」
着いたのは町で一番のホテルで、湖に隣接しており、湖畔の景色が一望できた。一泊七五0ルピーだったが、もう金額は気にならなくなっていた。
チェックインして一段落ついてから、僕はプジャの手を取って言った。
「町へ出よう。買い物に行こう」
ゴプタが通訳してくれると思ったのだが、彼は急に監視役の顔になった。
「今日、プジャはホテルから出さない。YOU一人で行け」
「なぜだ?」
「プジャが自由行動できるのは、それぞれ町に滞在する最後の日だけだ。二人で歩けば噂がすぐ広まる。YOUとプジャの安全のためだ」
ゴプタは譲りそうにない。
仕方なく一人で町をぶらついた。
湖の沿岸に沐浴場が続いて、湖の北側のメインロードがバザールになっている。街も比較的きれいで歩きやすい。
町を囲む山と山の間からちょうど良い風が吹き、子ども達は凧揚げに夢中だった。電線に引っ掛かったままの凧がいくつも風に揺れている。
砂漠に行くほど女性の服装は派手になるというが、この町の女もぐんとオシャレだった。赤や橙色の鮮やかな民族衣装をまとい、鼻の片穴に握りこぶしほどのリングを付けて歩いている。彼女らの焦げ茶色の肌に、銀のアクセサリーはよく似合った。
町には欧米人の旅行者が多かったが、しつこい客引きはいないし、土産物屋のオヤジも柔らかだった。欧米人と地元の人々が笑いながら話し込む姿をよく見かけたし、この町に滞在する間、僕はプジャと筆談するためにあちこちの店で翻訳を依頼したのだが、誰一人として報酬を受け取ろうとしなかった。
外国人とうまく折り合っている街だ。新しいヒッピーの聖地となる予感がした。アーグラやヴァラーナスは外国人観光客がダメにした街だが、いずれプシュカルもそうならればいいのだが。
僕は、プジャにささやかなおみやげを買って帰ろうと雑貨屋を回っていた。
ホテルに戻って部屋をノックすると、プジャはホッとした顔でドアを開き、「庭に出たい」と指で示した。外の空気が吸いたいようだ。
庭で一緒におやつを食べたが、僕らはかなり目立った。会話もなく緊張し合っている、二十三歳と十九歳の怪しい夫婦だ。庭で遊ぶ西洋人の子どもも近付こうとしない。
ホテルの宿泊客は外国人ばかりだった。プジャにとってここは外国のようなところで、まだ迷子のように辺りをうかがうか、うつむくかだった。
レストランのボーイは必要以上に寄ってくる。僕は何度も「私のワイフだ」と答えねばならない。ボーイたちはプジャのことをマダムと呼んでも、彼女がこのホテルにふさわしくない階級だといちいち目で示す。
この先どこへ行っても、僕らは好奇心ありありの視線を浴びるだろう。プジャにはかえって辛いことをしたのかもしれない。
それでも、悪いことばかりではないと思っている。
例えばこんな旅を経験したことで、プジャの価値観が変わるかもしれない。それが生きていく希望の足しになることもありうる。そして、いつかちゃんとした時代が来たとき、ささやかな思い出の地としてこの町を訪れてくれたらうれしいのだが。
プジャは僕の右手首を見ている。紅い紐が巻いてあった。
さっき町を歩いて、ホーリーという修業僧に連れられて沐浴場に入ったときだ。ホーリーは祈りを捧げ、湖に花びらを巻き、供物を流し、最後に紅い紐を僕の右手首に結んだ。
この紐のことは、ホテルの従業員が教えてくれた。
「プシュカルパスポート」
これは、プシュカルに来た証だという。
「願い事は何にしたのか?」
「……願い事」
よく覚えていないが、たぶんホーリーが尋ねてきたと思う。「子どもはいるか?」の次に「妻はいるか?」と聞かれ、僕はすんなりうなずいていた。
「では、妻の幸福を祈れ」
とホーリーは言った。そのとき湖に花びらが撒かれた。
庭で何一つ動かない景色を眺めた後、僕はプジャに手紙を渡した。この先の予定と、自分の紹介と、彼女の印象を書いておいた。
ただ今回はやや複雑な単語を使ったせいか、プジャは半分も読めないようで、わからない単語をずっと指で押さえている。
僕はこの一週間、プジャに手紙を書き続けようと決めた。じっと向き合っている時間がもどかしかったせいもあるが、内容はどうであれ毎日手紙を渡していれば、プジャはこれを待ってくれるようになる。
この先も彼女が話しかけてくることはないだろうが、僕はあくまでも言葉で向き合うしかなかった。この一週間は返事の来ない手紙を書き続けることになる。
湖の向こうの山で六時の鐘が鳴った。それに合わせて方々の寺院から祈りの声と太鼓の音が鳴り響く。
もう暗くなっていた。
山の向こうで夕陽が落ちる。
ホテルのレストランはいろいろ面倒が多いので、食べた後はさっさと部屋へ戻った。
寝るまでの時間は、テープレコーダーで音楽を流し、本を頼りに単語だけの会話を交わすこともあったが、僕は洗濯したり日記をつけたりして時間を潰した。
プジャは落花生を摘んだ後、さっき買ってきた爪切りでのんびりと爪を切っていたが、いつの間にか寝ていた。
わざわざムキになって書くことでもないのだが、僕はこの旅行でプジャを抱いてはいないし、必要以上に触れてもいない。彼女が性病とかエイズかもしれないとかそんな理由ではない。もちろん僕だって女の子は好きだし、人並みに性欲はある。だが、これはただの同伴旅行ではない。特別なことは幾つもあった。
最後の日に、僕は彼女の一生を変える相談をしなければならなかった。そのためにプジャには嘘のない言葉で身の上を話してもらう必要があった。
娼婦たちは自分の過去を語りたがらないと聞いた。それでもなお話を聞き出すには、プジャの信頼を得るしかない。もし僕がプジャと関係を持てば、娼婦とお客に戻るだけだ。すべてが無駄になってしまう。
そして、保証人になってくれたサトウィンダーのためにも、彼女と無事デリーに戻らねばならない。うまくプジャの信頼を得られたら、もしポリスと面倒が起きて誘拐か何かの容疑をかけられたとしても、彼女は僕をかばってくれるのではないか。
とにかく大金を注ぎ込んだ計画だった。僕は慎重だった。
朝起きて、目の前にプジャの顔がある。
僕がどれだけ物音を立てようが、彼女はさらに一時間ほど眠り続け、起きた後はこちらに背を向けながらごそごそと荷物を漁る。そのとき髪をとかして口紅を塗った。メイクが終わるとゆっくり振り向いて「はい、できあがり」とでもいうような表情で朝食に出かける。
プジャとの時間は、基本的に気まずく、もどかしいものだった。プジャの方としても、まったく体を求めてこない、そして何かとメモを取る僕を奇妙に思ったことだろう。
けれど、一緒に過ごしていれば二人の間に独特の空気みたいなものが生まれる。まだよく話していないのに、彼女の性格がわかった気もする。プジャは機嫌が悪いと、すぐ目を細くした。
今日はけっこう自由ができた。
昼間、ゴプタのチェックが終わってから、僕らはこっそり外へ出た。昨夜に話した通り、プジャにバッグを買ってあげる約束だった。
ホテルから数分歩けばバザールに入る。
プジャは一番最初のかばん屋で立ち止まった。店の奥を覗こうとせず、店頭にぶらさがった物から数秒で七十五ルピーの布袋を選んだ。
僕は「もっとゆっくり選べば」と伝え、さらに「もっと高くても構わないよ」とも言ったが、プジャは「ほらっ、お金を払って」と手振りで示し、かまわず歩き出した。
じつは後でわかったのだが、ここで買った布袋はゴプタのものになる。といってもプレゼントではない。昨日、車の中で彼女はゴプタのバッグが欲しいと言ったらしく、代わりのものを買っていたのだ。
夜になってからゴプタが部屋にきて、荷物を詰め替えていった。ゴプタのバッグはしっかりした物だが、色もデザインもひどくオジン臭かった。どうして十九歳の女の子がこれを選んだのか理解に苦しんだ僕は「ほんとにこれでいいの? 趣味悪いなあ」みたいなことをわざわざ筆談で伝えたら、プジャは「なによもう、私がいいって言ったらこれでいいの」という具合に少しスネた。でも、バッグを持ったことで、ちょっぴりマダムらしく見えた。明日から買い込んだ土産物をここに詰めるのだ。
この日の外出は、バッグを買って町を歩いただけで終わったが、ホテルに戻る直前、プジャは電話をかけたいと言い出した。
近くの電話屋に入ると、彼女はデリーへの電話のかけ方を管理人に尋ねた。電話をかけるような知り合いがいるのか、というより電話を持っている知人がいるのだろうか。プジャの実家に電話があるとは思えない。
プジャはダイヤルした。番号は暗記していた。僕は電話の相手が誰であるかもわからず、ただ横で待っていた。
つながらない。何度もかけ直したが、結果は同じだった。「後でまた来よう」と言っても、プジャはきかなかった。受話器を握って、暗記した番号を何度も何度も回し続けた。もう二度とチャンスがないといった様子で、この時ばかりはまったく譲ろうとしなかった。
だからこそ、電話がつながった時のプジャの顔は、満面の笑みで溢れた。それは、まだ僕が見たことのない笑顔だった。
電話の会話はヒンディー語だから、僕にはまったく理解できないが、まず最初に「プジャ」と聞き取れた。ただいつまでたっても「プシュカル」とは聞き取れなかった。
プジャは早口でよくしゃべった。いままで筆談ばかりで彼女の声を聞いていないせいもあるが、こんなにしゃべる子だとは意外で、なによりプジャは楽しそうだった。いままでの緊張が一気に解けて、友達と長電話でもしているような雰囲気だった。彼女は十代の女の子にふさわしい、柔らかい笑顔を何度も何度も電話の相手に見せたのだった。
それから別れの直前まで、特に出来事のようなことはない。
プジャは昼も夜もよく眠った。とにかく僕の隣で何度も寝返りを打ちながら眠り続けた。彼女にすれば、静かに寝ていられるだけでも十分価値のある旅であったのだと思う。
顔を会わす時間は筆談で話をしたが、友達との無駄話のような内容ばかりで、
「さっきの料理は値段のわりにはうまくなかった」
とか、
「あたし、朝ごはん作るの上手よ」
とか、
「トイレの水、流せよ」
とか、こんなものである。
僕は翻訳のためにホテルとバザールを往復せねばならず、ささいな会話に時間を費やし、内容よりも意味が通じたことに喜んで一段落ついたりした。
でも、プジャはだんだんと通じるはずのない言葉で話しかけてくるようになったし、二人にしか理解できないような独自の手話も生まれた。もう「ご飯は何時?」くらいのことで翻訳作業に走る必要もなくなった。
プジャの一日は、極めてシンプルだった。この四日間、同じ服を着たままで、まだ一度もシャワーを浴びず、歯も磨かず、時計をはめているのに時間を確認することもない。ただ毎朝遅くに目覚めると、髪をとかして口紅を薄く塗るだけだった。
昼飯はカレーとナーンしか頼まない。夕食のバイキングでは僕がいろいろ皿に盛るのに、自分が食べた経験のあるものしか食べなかった。僕がすすめてもかたくなに拒んだ。
プジャは自分の料理が先にきても、僕が食べ始めるまで手を付けないが、いざ食べ始めると、お茶もジュースも飲まず、肘をつきながら猫背で黙々と口に運んだ。食べ終えると水をグググッと飲み干し、ドンと空のコップを置く。それからイスの上であぐらをかいて僕が食べ終わるのを待つのだった。
四日目の朝食の後、僕は手紙を渡した。最後にはこう書いておいた。
今日は自由に外出していいよ
彼女が買い物を楽しめるように、昨夜のうちに財布を渡した。中には百ルピー札三枚と小銭、それと迷子になった時のためにホテルのカードを入れておいた。
プジャは小さくうなずいてから出ていった。
僕も外で時間を潰そうと部屋を出たのだが、外出したはずのプジャがホテルの前で立っている。視線を送ってくるので、仕方なく筆談で心中を聞いた。
「私は町のことを知らない。一緒に来てくれ」
というわけで、二人でショッピングに行くことになったのだが、結局は僕にお金を払ってもらうためだと後で気付いた。この旅の間、僕はたいして金も持たないのに気前が良かったのだが、プジャは高いものをねだらなかった。僕の二メートル後ろを歩き、欲しいものを見つけると、立ち止まって指を差す。
この日彼女が買った物は、直径三センチの宝石箱四つ、ショール一枚。
ホテルに戻ってから、プジャは宝石箱を一つずつ丁寧にトイレットペーパーで包み、バッグの奥にしまった。
僕が寝転んでいると、プジャは「庭にいる」と言って部屋から出た。そのときテーブルに置いてあった僕の文庫本を持っていった。
これは謎だ。どうしてプジャに日本語の本が必要だったのか。挿し絵の多い本だからずっと眺めるつもりなのか、それとも日本語のできるフリだろうか。表向きには僕らの共通語は日本語になっている。いや、彼女がそんな気を回すはずがない。
僕は気になって昼寝もできず、ついには庭まで見にいったのだが、なんだ、文庫本をコップの上に置いているではないか。ただのハエ対策だったのだ。プジャはまた昼寝している。
僕は改めてこの旅のルールを自分自身に確認した。
僕からはプジャに何も要求しないこと、プジャの要求にはすべて応じること。最後の日までプジャの身の上を聞かないこと。もちろん身請けの話もしない。とにかくギリギリまで旅行を楽しむつもりだった。
ただ、一つだけ要求したことがある。
午後五時半から必ず一緒に夕陽を見ようと決めた。こんなキザなことを言うつもりはなかったが、ホテルの中からできることは他になかった。
とりわけプシュカルで滞在したホテルは、宿泊料の分だけ見晴らしは抜群だった。湖に隣接しており、庭のイスはすべて湖畔の景色に向いている。夕暮れには、水面に反射した夕陽の光がホテル一帯を包んだ。
僕は海外へ行くと、よく夕陽や月を見る。遠くの国に来て得体の知れぬものに囲まれていようが、月と太陽だけは同じだ。いつもアパートの部屋から眺めているものと変わらない。言葉も通じない土地へ飛び込んでいく力が、こうして沸いてくる。
プジャも夕陽に同じことを感じていたのか怪しいが、日暮れが近付くと、言葉もなく庭へ出て僕を探した。たいてい昼寝の後で寝ぼけていた。イスに深く腰掛けポーと空を眺める。僕は寝起きのプジャが一番きれいだと思った。
湖の水面がチラチラ光る。
昨日とまったく同じ夕陽が山の谷間に沈んでいく。
沐浴場沿いの寺院からホーリーたちの読経が聞こえる。太鼓と祈りの声が混ざり合い、あの世への誘いのようなリズムとなって人を酔わせる。
ふと思った。
もし僕が本当に、かつて少女を売り飛ばしていた人間だったのなら、たぶん死の直前にでも、後悔したんだろう。だから、いまがあるんだ。
僕は澄み切った気持ちになっていた。
夜は翻訳作業に出られないから、ほとんどプジャとの会話はない。
僕は日本の歌謡曲のテープを流しながら読書する。
プジャは背を向けて寝ているが、ときどき音楽に合わせてこっそりリズムをとっていた。トントンと指でテーブルを叩く音が聞こえる。
昨日、プジャはレコーダーの使い方を丹念に聞いてきた。そして今日からは、僕が洗濯している間などに、勝手にテープを巻き戻し、好みの曲を選んで聴くようになった。
日本から持参したテープは、僕が時間をかけて編集したもので、高校生の頃からのお気入りを詰め合わせてある。取材時には録音に使ったテープもあるから、唐突に人の声が流れたりするが、たいして気にもならず、こうして寝転びながら聴いていると、まるでテープの中に吹き込まれていたみたいに、当時の記憶がよみがえる。
僕は、クラブ活動もせずチャイムと同時に帰宅する高校生だった。いつも何かにボヤいているくせに、毎日新しいことが起こるような気がして、学校帰りにラーメン屋へ寄ってばかりいた。思い出すのは何故か、その時はまったくパッとしなかった、小さな記憶ばかりだ。
そして今夜、インドの町で当時の音楽を聴きながら、プジャと過ごした時間が新たに吹き込まれていく。
※ ※
プジャの食べ差しを僕が食べ、部屋を出る前、はみでている僕のアンダーシャツをプジャが直してくれたり、もどかしいなりにも心地好い距離感ができて、共通の楽しみのようなものも生まれそうだった。ともかくも少しずつ、順調に仲良くなれる気がした。
ところが、旅の五日目、プジャは一人でデリーに戻ることになり、ここであっさりお別れとなる。もちろん、それは僕もプジャもゴプタも想像しなかった事態だったのだが、いまの彼女の境遇を残酷に示すものに違いなかった。
※ ※
今朝は三人とも寝坊して出発が遅れた。
プシュカルで長居したせいで、残り二日はジャイプルで過ごすしかなく、町に到着したのは午後四時だった。
「ほら見ろ、みんなピンクだぞ」
ゴプタはわざと旧市街を走らせたようだ。昔の王様の趣味で町中をピンクに統一したらしく、商店も作業場もドス黒いピンクの建物である。
ジャイプルはマハラジャの町だから名所も多い。気晴らしに観光してみるのも良かったし、バザールには宝石屋が並んでいる。ジャイプルは宝石で有名な街らしい。僕はこの旅で持ち金を使い切るつもりだから、プジャには飽きるほどショッピングを楽しんでもらう予定だった。
ホテルに入る前に、プジャはまた電話をかけたいと言い出した。
ゴプタも了承し、二人は電話屋へ寄った。僕は車の中で待っていた。
十五分後、プジャは戻ってきたが、泣いていた。プジャは表情を変えないまま涙の粒をポロポロとこぼした。
「おいシゲキ、ホテルはこの前と同じでいいな?」
とゴプタが言う。
「いや、待て! 話せ」
僕は、ゴプタの襟首を掴んで、説明しろと迫った。ゴプタは静かに答えた。
「YOUは昨日、プジャに電話を許したか?」
「そうだ。だが、二日か三日前だ」
「プジャの父親が、病気だった。死んではいない。まだ生きている。よくわからない」
ゴプタもちゃんと把握していないようで、泣いているプジャから聞こうとするが、彼女もうまく返事ができない。
とにかく、こういう訳だった。
一度目プシュカルから電話した相手は、プジャの村の遠い従兄弟で、そのときプジャは、明後日もう一度かけるから電話口に両親を呼んでおいてくれと頼んだのだった。しかし、プジャの父親は重病で動けなかった。プジャはこのことをさっきの電話で初めて知った。いままで知らずに過ごしてきたのだった。
「プジャの父親は、いつから病気だったんだ?」
「そんなこと、わからない」
どうしてデリーに住むプジャが、遠くジャイプルからデリーに電話をかけて、父の危篤を知らねばならないのだろう。
「待ってろ。私がチェックしてくる」
ゴプタはホテルの前で車を止めた。
チェックインして部屋に入ってから、プジャはまた泣き出した。
泣いていたが、すぐに泣きやんだ。ショールで涙をぬぐって、顔を隠した。
ゴプタがプジャに何か尋ねた。
プジャは顔を隠したまま小さくうなずいた。
「プジャは家に帰りたいと言っている。YOUはそれを許すか? プジャはあと二日、YOUの女だ」
「プジャは家に帰れるのか?」
「ノープロブレム。ホリデーはあと二日残っている。私に任せろ」
「じゃあ、すぐ車で戻ろう」
「いや、バスの方が早い。デリーへはデラックスバスが走っている」
「じゃあバス停に行こう」
僕らはまた車に乗り込んだ。
バスターミナルへ向かう車中、プジャは爪を噛んでいた。
客引きを振り払いながらターミナルに入り、時刻表で確認すると二十分後にバスがあった。
ゴプタがチケットを買うために並び、僕はバス代を渡した。それからゴプタがミネラルウォーターを買ってきて、プジャに渡した。バスを捜してくれたのもゴプタだった。
僕はプジャのバッグを持っているだけで、初めて会ったときのように何も話せずにいた。こんなときも客引きがニホンジンデスカと寄ってくる。物乞いの子どもたちが手を差し出してくる。
切符が取れた。プジャは荷物を持ち、バスの方へ歩いていこうとした。
結局、僕はヒンディー語がまったく覚えられず、「さよなら」も「また会おう」も言えない。簡単な別れの言葉をゴプタに通訳してもらっただけだった。
その後プジャは振り向いて、ポツリと二言、三言、僕にしゃべった。順番は合っているのかわからないが、ゴプタはまとめて通訳した。
I miss you(あなたが恋しい)
タクシー代ちょうだい
デリーで会いましょう
プジャは乗客の列に並んだ。
五日間で一度も着替えず、歯も磨かず、腕時計さえ外さず、毎朝ただ髪をとかし口紅を薄く塗るだけで、僕の前から去っていった。かすかに体臭を残し、いまバスに乗り込む。
「シゲキよ、さびしいか?」
ゴプタが僕に尋ねた。僕が返事をする前に、彼は次の質問をしてきた。
「あの娘も、YOUが気に入ったのか?」
「さあ、わからない」
「私は百ルピーでジキジキさせろと言った。だが、プジャはイヤだと言いやがった。二百ルピーやると言っても、あの娘はドント・タッチ・ミーって効かなかった。二百ルピーだぞ。ふざけた女だ」
なんだ、プシュカルで僕が出歩いたとき、ゴプタはプジャと接触していたのだ。なるほど彼女の外出を禁じたのはそのためかもしれない。でもゴプタの思い通りにはいかなかった。このとき僕は少し微笑んでいた。
プジャのバスが出発する。
「シゲキ、これから観光でもしていくか?」
「いいよ、ホテルに戻る」
僕らはバスを見送ってターミナルを出た。
「こっちに乗れ」
ゴプタは助手席のドアを開けた。プジャがいないから、もう後部座席に座る必要がなかった。
ゴプタは車の中でも二百ルピーの話をしつこく持ち出ち、そして偶然か、彼のはからいか知らないが、この先の交差点にあのデラックスバスが見えた。
「おいプジャのバスだぞ」
ゴプタはボロ車をこんなスピードが出たかという勢いで走らせる。
「見ろ。プジャだ!」
「わかってるって!」
あれはたしかにプジャのバスだ。彼女の席はたしか左側の最前列だ。
僕は後部座席に飛び移ると、素早く窓を開け、上半身を乗り出した。
「アクセル踏めゴプタ!」
「OK!」
バスはすぐそばだった。
なんとか横並びになったが、それもほんの一瞬で、しかもバスの窓は日除けのサンガラスだから、こちらからは真っ黒にしか見えなかった。
「シゲキ、どうだった?」
「だめだ。何も見えない。あのガラスのせいだ」
「ノープロブレム。プジャには見えたぞ、ははっ」
ゴプタは歯ぐきを見せて笑った。
車はピンクシティを抜けて、町外れのホテルへ向かっている。商店はどこも閉まっていた。今日は日曜だった。
プジャがいない。
プジャがいない夜、一泊千ルピー(約三六00円)の部屋で、僕の隣に寝ていたのはゴプタだった。
この夜はお互いよくしゃべったが、やはりプジャの話が多かった。
「父親が病気になったのだから、プジャの家はまたマダムから金を借りただろう」
「ほんとうか?」
「八十パーセント」
ちなみに借金に証書など作らないそうだ。告訴しても無視されるし、そもそも字の読めない人には紙切れにすぎない。
次のことは、ゴプタから聞いた話だ。
プジャは両親との三人家族で、ある州の田舎に住んでいた。親は読み書きもできない貧しい農民で、借金もあった。
二、三年前のこと、家族でデリー市郊外の農村に越してから、家族は村の食堂で働くようになった。半年前、父親が病気か事故で片脚を失って働けなくなり、借金返済のためにプジャは娼婦になった。
これが、ゴプタから聞いた彼女の身の上のすべてだ。
その日の夜、ゴプタは真夜中までしゃべり続けた。
彼によるプジャの評価は、愛想のない生意気な娘ということで一貫していた。
そして彼による僕の評価は、ストロングだという。
「ははっ、YOUはチャンピオンだな」
ゴプタが下品に笑って僕の股間を叩いた。
「プジャに聞いたらな、シゲキは毎晩三回もジキジキしたって言ったぞ」
「……はは」
そんな訳はない。
結局、彼女を連れ回しただけのようで、これで良かったのかという思いがずっとつきまとった。
だが、一つ救われた気になった話がある。それもやはり、聞きもしないのにゴプタが話してきたことだ。
翌日、ゴプタはジャイプルの街をガイドしてくれたが、僕は観光気分になれるわけもなく、これ以上お金を使いたくないからもう帰してくれと頼んだ。
「なぜだ、あれが風の宮殿だぞ。ちゃんと写真を撮れ」
「ああ、そうかい」
いやいやカメラを構えると、ゴプタはつぶやいた。
「そういえば、プジャはカメラを欲しいと言っていた」
「プジャがそう言ったのか?」
「イエス」
僕はカメラを持ってきたが、ほとんど使っていない。写真が苦手なせいもあるが、そもそもこの旅で使う余裕などなかった。
だから、プジャを撮ったのは一度きりだ。そのときプジャはお返しに僕を撮ってくれた。ベッドの上でカメラを構えながらキャッキャとはしゃいだのを覚えている。もっとカメラを使わせてあげればよかった。
「プジャがカメラ欲しいって言ったのは、いつだ?」
「アジミールからプシュカルに向かう途中だ。私がYOUに聞いただろ、カメラ持ってるかって。そしたら、プジャが言った」
ゴプタはそのときのやり取りを一人二役で再現してくれた。プジャの性格を考慮した上で日本語訳すると、こんな風になる。
「あ~あ、あたしもカメラ欲しいな」
「なんでカメラなんか欲しいんだ?」
「欲しいったら、欲しいの」
「お前が何を撮るっていうんだ?」
「とにかくなんでも撮りたいの」
僕は一瞬だけ、三脚を担いで世界を飛び回るプジャの姿を想像した。
車はジャイプルを離れ、一面の荒野を抜けていく。
あのハゲ山の向こうは、はるかパキスタンまで広がるタール砂漠だ。
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