第2話 Fall in Love


 


 鳥飼さんとの出逢いは、実に一年と一か月前にまで遡る。

 地獄のように過酷な浪人生活の末に手にした志望校への切符を片手に、恋焦がれた大学の門をくぐった僕は、それはもう目も当てられないほど有頂天であった。

 親元を離れ人生初の一人暮らしということで、親の監視を逃れたことをいいことに、夜な夜なありとあらゆる新勧コンパに足を運んでは、飲み食いに明け暮れ、実に健全な大学生らしい生活を謳歌していた──そんなある日のことである。


 その日の僕も、例にもれずサークルの新歓コンパに参加していた。

 サークル名を『ふくろう』、本の虫が集う読書サークルの新歓コンパであった。

 僕は生粋の理系人ということもあり、学生浪人生時代ともに現古漢には随分と手を焼かされたものだが、読書という行為自体はそれほど嫌いでもなかった。

 というのも、両親がかなりの読書家ということもあり、実家にはジャンルを問わず多種多様な本が置かれており、そんな本に囲まれた環境で育った結果、僕も敬虔な読書家に育ったというわけである(好きと得意は別である)。

 

 同志たちと大いに語らい夜を明かそうそと、意気揚々と読書サークル『梟』の新歓コンパに乗り込んだわけなのが、その日こそが──その晩こそが、僕の今後一生の運命を左右するターニングポイントとなるのであった。

 新歓コンパが始まる前、今回の会場である、とある居酒屋の店頭にて、一足お先に新入生間で軽い自己紹介が行われていた時のことだった。

 僕を含め集まった新入生は五人で、男、僕、男、男という順番で軽い自己紹介が適当に進み、最後の一人もどうせ男なのだろうと、耳だけを傾けていた僕の予想はものの見事に外れたのだった。もちろん良い意味で、だ。


 彼女を一目見た瞬間、僕の時が止まった。


 気が付いたら、新歓コンパはスタートしていた。しかし僕にとって、今はそれどころの話ではなかった。威勢の良い店員の掛け声は鼓膜を響かせず、微かに漂う煙草の匂いは鼻腔をくすぐらず、目に映る景色はある一点を除いてすべてが虚ろで、とにかく鳥飼彩音とりかいあやねという少女の存在に全神経を研ぎ澄ましていた。


 艶やかな濡れ羽色の髪に、陶磁器のようにきめ細やかな白い肌、スラリと細く長い手足に綺麗な手、全方位を無意識のうちに魅了するその天女のごとし笑顔に、僕は蚊トンボのごとく見事に堕とされたわけである。


 不肖私め柊冬木、生まれてからこの方、女友達はおろか彼女もおらず、まともな恋愛すらしたことがなかったにも関わらず、僕は僕が、鳥飼さんに恋をしていることを明確に自覚することができた。彼女と出会うあの日までの人生において、恋愛という行為を意味嫌い嘲笑の対象にしていたあの僕が、である。

 それからというものの、何度か鳥飼さんと言葉を交わす機会があったのだがその内容までは記憶にない。当時の僕は、とにかく鳥飼さんに悪印象を与えないよう努めるのにとにかく必死だったのだ。酒に煽られて悪ノリ悪呑みを封印し終始良い子ちゃんに徹していた──はずだ。彼女に出会って初めて僕は、全人類の人間たちが色恋沙汰に人生を左右される理由を真の意味で理解し、人というものは、恋に墜ちるとここまでも歯車がズレてしまうものなのだと、その身をもって思い知った。


 平常心を取り戻したのは、新歓コンパを終え帰宅してからのことであった。

 興奮冷めやまぬうちにすぐさま『梟』の代表に入会の意思を告げると、鳥飼さんと過ごす薔薇色のサークルライフルに思いを馳せながら静かに眠りについたのだった。今思えば、鳥飼さんが読書サークル『梟』に入会する確証もなしに、独りでに入会を決断した僕の考えの浅さに呆れを覚える。しかし結果だけ見てみれば、鳥飼さんも読書サークル『梟』に入会を果たしたこととなる。

 しかし現実とは、夢のようにうまくいかないから現実なのであった。

 サークル活動が始まってみたはいいものの、主な活動は週に一度だけで、その内容も内容であった──サークルの特徴も知らずに入会した僕が悪いのだが……。

 呼吸音ですら罪と思えてしまうほどの静寂に包まれたと、罵詈雑言が飛び交い時には殴り合いにまで発展するという、二つの会が週替わりで行われているため、鳥飼さんと関係を深めるどころか、時には愛しの鳥飼さんと泣く子も黙るようなバチバチの討論を交わす、そんな間柄になってしまっていたわけである。

 誠に不本意ながら。

 鳥飼さんはおとなしそうな見た目をしていて、その実は、とてつもなく鋭利でよくキレる舌を持っており、並み居る敵をばっさばっさと薙ぎ払っていくその美しいい出立ちは、さながら戦場に舞い降りたワルキューレのようであった。


 そんなこんなで、鳥飼さんとのファーストコンタクトを果たしてから実に一年と一か月経過したわけであるけれど、進展するどころか後退しているかもしれない、この儚い現実に打ちひしがれる日々に辟易している最中での──ツケの取り立てである。

 つい数時間前までその右手に握られていた万札の感触は今ではもうない。

 吸い込むばかりで吐き出さない確率機械に誘拐されてしまったのだった。


「……負けた」


 僕はどこかに寄り道することもなく、まっすぐ帰路についた。

 負けた日の帰り道ほどやるせなさが湧き上がってくることはない。

 今回はなけなしの金での一世一代の大勝負であっただけになおさらである。

 未来永劫続くのではないかと思われた帰路にもやはり終わりがあり、ようやく下宿先に到着した。おんぼろな引き戸を開け少し進むとすぐ二階へと続く階段、ぎしぎしと頭に響く不快な音を立てながら登り、二階の踊り場を右折、三つの扉が並ぶ埃っぽい廊下の突き当りが──僕の寝城であった。

 部屋の前に到着したところで、僕は異変に気が付く。

 施錠して外出したにもかかわらず、鍵は開けられ扉が少し開いていた。

 しかしさっきの負けで正常な判断力を失っている僕は、『こんなおんぼろアパートに盗みに入るような物好きはいないはずだから、大方のところ、この防犯機能皆無な木製扉にガタが来たのだろう』と、実にご都合的な解釈をし、扉を開けたところでやはり僕の思考はその一切を停止した。一切を停止させられた。


 狭っ苦しい廊下を抜けたその先には見慣れた六畳間がある──はずが。

 散らかった六畳一間の片隅で。

 僕が人知れず恋心を寄せる鳥飼彩音が眠っていた。

 しかしそこで眠る鳥飼さんの姿は。

 僕の良く知るものではなかった。


「──鳥飼さんですよね?」


 確認せずにはいられなかった。

 鳥飼さんのあの血色のよい透き通るような白い肌が。

 まるで存在自体を吸い取られたかのように。

 まるで色その物を抜き取られたかのように。

 うっかり存在を忘れてしまうほど朧げになっていた。


──が、僕の布団で眠っていたのである。


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